04 ひとり
ドアを開けると、古い畳のにおいがした。雨の日はこのにおいが強くなる気がする。そして俺は、このにおいが嫌いじゃない。
6畳一間の風呂付ボロアパートは、一人暮らしの俺にとっては十分だった。線路沿いという立地の悪さのおかげで、家賃は格別に安い。親からの仕送りがなくても、特に不自由なことはなかった。
「……ただいま」
返事はかえってこないと知っているが、帰宅するたびにこの言葉を言うのが癖になっていた。返事は待たずに靴を脱ぐ。玄関も部屋の一部みたいになっていて、はじめてこの家に来たときは玄関がないんじゃないかとさえ思った。
家具などは必要最低限しか揃えていない。冷蔵庫も、小さいツードアタイプ。料理しない俺にとってはそれで十分だった。ちなみに冷蔵庫の中は飲み物ばかり。
部屋に入ると、古い畳がきしんだ。ガラスがガタガタ鳴る音。すぐそばを通る電車の音。もう、どれもこれも聞きなれた音だ。
俺は万年床にどさりと倒れこんで、ぼんやりと彼女のことを思い出した。
駅まで一緒に歩いた俺と彼女は、はたから見たら相当不釣り合いなカップルだっただろう。彼女は綺麗すぎる。そして俺は普通すぎる。年齢=彼女いない歴の俺が、あんな美人と歩くなんて誰が想像しただろうか。
俺は背格好も、顔も、極めて普通だった。普通すぎて特徴がない。高校時代の同級生で、俺のことを覚えてる奴なんてほとんどいないだろうと思う。学生時代、誰とも話さなかったわけではなく、むしろいろんな人間と話した。ただ、特定の誰かと仲良くすることはなかった。わざと、親しい人間を作らないようにしたからだ。
誰の記憶にも、残らないように。
――彼女は、と考える。彼女はいったいどんな人間なのだろうか。
「一人じゃない感じがするから」
彼女がそう答えたとき、俺は彼女に何を訊いたのか、頭の中で思いだそうとした。俺は確か、
「なんで毎晩うちの店に来るんですか」
と、訊いたはずだ。この質問の前には、歌うのが好きなんですかと訊いた。答えは案の定、ノーだった。やはり彼女は歌っていなかったんだ。
一人じゃない感じがするから。それが、カラオケ店に来る理由。
俺は分からなくて、思わず首をかしげた。そんな俺の様子を見て、彼女は眼を細めて笑った。そして続けた。
「いろんな人の歌が、声が、聞こえるでしょう。それに、悲しそうな声よりも、楽しくてうれしそうな声の方が多いわ。だから気に入っているのよ」
「やかましくはありませんか」
「まあ、子守唄にするには少し大きいわね。でもいいのよ」
彼女は言葉を切ってから、小さな声で呟いた。
「一人じゃない感じがするから」
いつも一人でうちの店を訪れる彼女は、孤独を恐れているんだろうか。そんな風にはちっとも見えないし、彼女がその気になれば彼氏になりたい男なんてそれこそいくらでもいるはずだ。いや、すでにいるのかもしれない。あの美貌なのだから。
俺はここで思考を止めて、立ち上がった。のそのそと風呂場へ向かい、体育座りしないと入れないような小さな浴槽に熱い湯を張る。狭い浴室は、あっという間に視界が白くなった。
脱いだ服を洗濯かごの中に乱暴に放り投げ、脱衣所にある鏡の中を覗いた。
そこにはいつも通りの、俺の姿があった。俺はその姿に言い聞かす。毎日、毎日。
俺は、独りで、いいよ。