02 常連客
2010年 8月
早く、辞めたい。
フロントから玄関の方を見つめながら、ぽつりとそんなことを思った。思っただけで、辞めるつもりはない。少なくとも、今は。
24時間営業がウリのこのカラオケ店は、仕事が楽な割に時給がよかった。特に深夜時給は、他のカラオケ店よりもかなりいいと思う。なのに深夜に来る客は少なく、暇を持て余せるという素晴らしさだ。今日だって、入ってるのはたった3組。この店はそのうち潰れるんじゃないかと、かれこれ3年近く思っているが今のところ潰れる様子はない。
あともう少しの間、潰れなければ助かる。俺が辞めるまで潰れなければ。そのあとは別にどうなってもいい。このカラオケ店に、そこまでの愛着はなかった。
ピンポーン
誰かが玄関マットを踏んだ音が鳴る。誰かが、というかお客様が。ドアが開いたせいで、湿気の強い生ぬるい風が俺の頬に当たった。冷房の効いている店内にいると分からないが、やはり今晩も暑いのだろう。そんなことを思いながらも俺は急いで営業スマイルを作り、客の方を向いた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてから、あっ、と思う。見慣れた顔。つまり、常連だった。
「おひとりさま、8時間、ドリンクバー付きでよろしいですか」
彼女がいつも言う注文を、彼女が注文する前に言ってみた。彼女はいつも深夜1時ごろにここにきて、朝の9時頃に出ていく。ここ2週間ほど毎日、これを繰り返していた。
「ええ、それでいいわ」
「この紙にご記入お願いします」
書いてもらわなくても、彼女の名前はもう覚えてるんだけど。
彼女が初めてここに来たときも、接客したのは俺だった。彼女が読みやすい走り書きで名簿に「野良」と書いたとき、俺は間違えて「やら」と読んだ。多分、高校時代の同級生の「屋良」のことを思い出したんだろう。
「えっと……やら様、ですね」
「のら」
言いなおされてそこでようやく、「野良」は「のら」と読むのだと気付いた。
名簿には年齢を書く欄もあり、そこには「23」と書かれていた。思わず、彼女の顔を見る。年相応にも見えたし、それよりもっと若く、あるいは逆にも見えた。この人の顔は、いつ見ても何歳なのか分からない。本当に23歳なのかどうかも分からなかった。
顔はすごく整っていて、いわゆる美人だった。いや、超美人だった。きれいな白い肌、長いまつげの目立つ大きな目。高い鼻、形のいい唇。街を歩いたら、色んな男から声かけられるだろう。あるいは恐れ多すぎて、よっぽどの男じゃないと声なんてかけられないかもしれない。少し癖のあるふわふわした髪の毛は、腰の高さまである。スタイルはモデル並みで、出てるところは出てるし、脚は俺の倍はあるんじゃないかと思うほど長い。
長袖のパーカーにジーンズという露出度の低い服装をしている今でも、そのプロポーションは目立っていた。身長は俺の方が少しだけ勝ってるけど、彼女が少しでも高いヒールを履いたら抜かされるだろう。ちなみに俺の身長は172cm、高くも低くもなく普通だ。
「突き当たりの21番ルームです」
マイクとおしぼりの入ったカゴを渡すと、彼女は慣れた手つきでそれを受け取り、21番ルームへと消えていった。
彼女の部屋から音楽が聞こえたことはない。ミュージック音量をものすごく小さくして歌っているか、あるいは全く歌っていないかのどちらかだと思う。歌っていないのだとしたら、彼女は何のためにここに来ているんだろう。
宿にするならうるさいカラオケ店よりも、マンガ喫茶やネットカフェの方がまだ、寝心地はよさそうなのに。