21 ごめんね
俺の胸の中で震えていた彼女は、しばらく泣きやまなかった。俺は静かに、彼女の背中をさする。少しずつ小さくなる震えと、嗚咽。泣きやんだかと思えばまた泣き始める、を彼女は何度か繰り返した。
俺はもう、何も言わなかった。言葉は邪魔だと、思ったから。
やがて彼女は、
「わ……」
しゃくりをあげながらも、何か言おうとした。そんな彼女に、俺は囁くように言う。
「大丈夫。ゆっくりでいい」
「……私の言うとおりに……して、ほしい」
とぎれとぎれの、彼女の言葉。
「なんですか?」
彼女は俺の胸の中で大きくため息をつくと、ゆっくりと俺から離れた。俺は彼女の顔を見る。赤く充血した目と、涙で濡れた睫毛。泣き顔ですら、彼女は綺麗だった。
彼女は鼻をすすると、下を向いたまま話はじめた。
「今日、家に帰ったら急いで荷物をまとめて。それで、この町から出てほしい。もう2度と、今住んでる家には戻らないで。……使ってる携帯は壊して。ホテルに泊まるときは、偽名を使って」
いっぺんに色んなことを言われて、俺は首をかしげる。
「どういうことですか」
「…………」
彼女は黙ったままだ。透明な雫が彼女の目からこぼれおちて、ジーンズにシミを作った。俺は右手をのばして、彼女の頬に流れている涙をぬぐう。
「お願い、だから」
彼女はそう言うと、ぼろぼろと涙をこぼした。それを見て、俺はやっと気づく。
彼女が頻繁に俺のバイト先に来ていた理由を。俺に近づいた、その理由を。
「……あなたはどうするんですか」
俺の声も、かすかに震えた。彼女の気持ちに気付いてやれなかった自分に対する怒りと、彼女を失うかもしれない恐怖で。
「組織に、戻るわ」
「そしたら、あなただってどうなるか……」
不安を隠しきれない俺の声を聞いた彼女が、わずかに上を向く。俺が気付いたことに、彼女も気付いた。
「私は大丈夫よ」
ほほ笑んだ彼女の目尻から、涙がこぼれおちる。俺はそれを見て、覚悟を決めた。
「あなたも一緒に逃げましょう」
「……だめ」
「どうして」
「私は、」
そこまで言って、言うのをためらう。泣きやもうとしているのか、しばらく浅い呼吸を繰り返してから、彼女は笑った。
「私といたら、あなたがだめになるから」
「誰がそんなこと決めたんですか」
「…………」
彼女は口を閉じると、しばらく何かを考えていた。目の前の水槽を、小さなサメがゆっくりと横切っていく。
「あなたは、俺のこと嫌いですか」
「そんなこと、」
反論しかけて、また黙りこんだ。
「だったら一緒にいてください。一人で逃亡生活なんて、俺はいやですよ」
俺が笑うと、彼女もゆっくりほほ笑んだ。彼女の綺麗な笑顔が、滲んで見えた。
小さな声で話をしながら、水族館を出る。それから無言で、駅へと向かった。
同じ水族館から出てきた人は、みんな笑顔だ。あの魚が可愛かったとか、カワウソのショーが良かったとか。……とても楽しそうに見える。
俺たちは、どうだろう。無言で、無表情で、けれど手を繋いで。世界の終わりみたいな顔をしてるかもしれない。けど、終わりじゃなくて始まるんだ。俺は彼女の手を、きつく握った。彼女は無言で、無表情で、それでも握り返してきた。それだけで、よかった。
「俺はとりあえず家に帰って、荷物をまとめてきます。――2時間後に、ここでまた」
俺が笑うと、彼女は頷いた。繋いでいた手を、ゆっくりと離す。それと同時に彼女が俯くのを見て、
「絶対に、ここにいてくださいよ」
俺はくぎを刺した。そう言っておかないと、彼女はどこかに行ってしまうような気がした。彼女はしばらく黙っていたが、やがて顔をあげた。泣き腫らした眼だった。
「優」
彼女の唇が、俺の名前を紡ぐ。そういえば、名前を呼ばれるのは久しぶりだ。
「ん?」
「あ……」
少しの沈黙。蝉の鳴き声と、周囲から聞こえる楽しげな笑い声。彼女は自分の口を両手で覆った。それから目をつぶり、振り絞るような小さな声で
「好き。……ごめんね」
「ごめんね、はいらない」
俺は笑って彼女の頭を撫でて、手を振った。