14 提案
彼女の『それ』を、全て埋めることは俺にはできない。それでも、少しくらいは塞いであげられないだろうか。
彼女が俺の『それ』に、ハンカチを差し伸べてくれたように。
10分もしないうちに、彼女は部屋へと帰ってきた。そのまま席には座らず、自分のたばことライターを手に取る。
「……まあ、あなたとこうやって話ができて、良かったとは思ってるわ」
そう言われて、自分の腕時計で時刻を確認した。いつの間にか、朝の8時半を過ぎている。9時にはここを出なくてはならない。
「ありがとね」
その声を聞いて、俺は腕時計から顔をあげた。彼女は笑っているのに、さみしそうな顔に見える。
俺は考えた。考えたと言っても一瞬で、それはほとんど勢いだった。
「1日、俺にください」
「え?」
「あなたの今日を、俺に下さい。俺と付き合ってください。……今日だけ」
彼女は訝しげな顔で、俺の方を見た。けれど、あくまでも俺は真剣だった。
教えたかった。彼女が俺に教えてくれたみたいに。あなたも孤独じゃないんだってことを。感情があるんだってことを。
人間だってことを、伝えたかった。
「正気なの? 私は人殺しなのよ?」
「俺だって人殺しです」
「それとこれとはわけが違うでしょう。それに、あなたのは人殺しって言わないわ」
「どうだっていいです」
彼女は呆れた顔で俺を見た。それから、ふっと笑った。
「とりあえず出ましょう。店長さんに怪しまれるわ。お会計は私が持つから」
いや俺が、と言う前に、彼女はさっさと部屋のドアに手をかけて、笑った。
「次はあなたが御馳走してね」
こうして俺と彼女は、1日だけ付き合うことになった。
会計を済ませた後、店長に今日はバイトを休みたいと伝えた。もちろん渋られたが、実家の父親が危篤なのだと説明したら、すんなりと承諾してくれた。さっきの俺の泣き顔の意味が、店長の中では別の意味に変化したらしい。「1日と言わずにもっと休んでいい」と言われたが、それはさすがに断った。俺は、ずる休みがあまり好きではなかった。
店を出ると、朝の澄んだ、けれども生ぬるい空気が体中に当たった。目覚まし時計の代わりになりそうな、蝉の大合唱。一瞬だけ意識がはっきりしたような気がしたが、すぐに眠気が襲ってくる。そういえば、世間が活動している時間帯は、俺にとっては眠るための時間だった。
しかし、時間がない。なにせ1日限定のデートなのだ。今から早速どこかに行こう、と彼女に声をかけた。
「どこに?」
と訊かれてたちまち困る。全くのノープランだった。デートすることだって、ついさっき決まったところなんだから。
「野良さんは、」
と言いかけて、逡巡する。彼女のことを野良さんと呼ぶのは、なんとなく気が引けた。しかし、猫さんと呼ぶのもおかしい。
「野良でいいわよ」
察したのか、彼女は苦笑いした。
「野良さんは、どこか行きたいところとかありますか」
「水族館」
即答。デートとしてはベタなところを選択されて、俺は笑った。
「魚が好きなんですか?」
「ううん、涼しい所がいいなと思っただけ。ただでさえ暑いのに、外は嫌」
なるほど。俺は彼女の考え方に少しだけ笑いながら、ここから一番近い水族館を提案した。
「じゃ、そこで」
彼女は迷うことなくさっさと、駅に向かって歩きだす。俺は慌てて、その後ろを歩き始めた。