10 告白
私には、名前がない。
彼女がそう言ったところで、部屋のドアがやや乱暴にノックされた。入ってきたのはやはり店長で、コーラを俺の前に、コーヒーを彼女の前に、ポテトをテーブルの真ん中に置いてから、怖い顔で俺の方を睨んだ。それから笑顔で彼女の方を向き、やっぱり釈然としない顔で部屋から出て行った。
「……何か、勘違いされてるみたいね」
何でもないような声で彼女は言った。
彼女は砂糖もミルクも入れずに、コーヒーを一口飲んだ。それからカップをソーサーに戻して、「どこまで話したっけ」と呟いた。
「名前が、ないって」
俺はそこまで言って、自分のコーラに手を伸ばす。店長が嫌がらせに、何か変なものを混ぜてるかもしれないと思ったが、普通のコーラだった。安心して、半分以上一気に飲み干す。
「ああ。そうだったわね」
彼女は2本目の煙草に火をつけ、ポテトに手を伸ばしながら言った。
「私には名前がない。戸籍もね。この世には存在しないことになってる」
一気にいろんな情報が流れ込んできて、飲んでいたコーラが喉に詰まったような感じがした。名前がない。戸籍も? それって、どういう……
「私はね、クローン人間なのよ。そして仕事は、ヒトを殺すこと」
この言葉を聴いて、俺の頭は完全にフリーズした。クローン人間で、人を殺す事が、仕事?
必殺仕事人、という場違いなようなそうでもないような単語が頭に浮かんだ。
彼女は自分の手のひらを、こちらに向けた。
「ここに特殊な電流が流れてる。そして、この手で頭に触れられた人間は、死ぬ。自殺するの。……原理は私にもよく分からないけど」
彼女とホテルに入っていった男の顔と、死亡という文字が頭に浮かぶ。
「まあ自殺といっても、私が殺すようなものだけど」
思わず、彼女の手のひらから離れるように後ろにのけぞった。
夢を見てるみたいだった。いや、夢の話を聞いているみたいだった。彼女とこうやってカラオケルームの個室に二人きりでいることは夢のようだが、話している内容はまるで非現実だ。
名前がない? 戸籍がない? クローン? 人を殺す事が仕事?
彼女の話した内容を何度も反芻してみるが、それはまるでちっとも混ざらないココアの粉のように、俺の頭の中をぐるぐるとめぐるだけだった。
彼女はと言えば、そんな俺のことはどうでもいいと言わんばかりに、ポテトに夢中である。うちの店のポテトはもちろん冷凍だが、おいしいと評判だ。某ハンバーガーチェーン店を思わせる細長いフォルム、サクッとした食感、程よい塩加減。まあ、塩は店内で店員が振っているのだが。
「――科学者に作られたクローン人間なのよ、私」
指についた塩をなめながら、彼女は話し始めた。
「それでその科学者は金目当てで、私と、私を作る方法をとある犯罪組織に売り飛ばした。私はその組織から、ヒトを殺すことを命じられる。それをこなせば、お金がもらえる。殺す方法は簡単で、ターゲットの頭に触れるだけ。そうすればあとは勝手に、ターゲットが自殺してくれる」
平然とホットコーヒーを飲む彼女とは対照的に、俺は動揺を隠しきれていなかった。話に全く付いていけてないし、どこで突っ込めばいいのか分からない。隣の部屋から流れるアップテンポの曲の方が、非現実な気さえしてくる。
気付けば、ストローをくわえたままだった。慌てて口を放し、ほとんど中身のなくなったグラスを机に置く。
「頭に触れただけで人を殺せる存在、なんて誰も考えないでしょう? 結果、ただの自殺として事件は片付けられる」
彼女はどこまでも無機質に、まるで国語の時間の音読のようにすらすらと、棒読みで語った。表情も、声のトーンも変わる様子はない。
「……どうしてその組織は、あなたに名前を付けなかったんですか」
気付けば変な質問をしていた。しかし普通、名前くらいつけるじゃないか。
「名前を付けてしまえば、それに愛着がわいてしまうからよ。組織にとって私は、どこまでもただの殺人道具なの」
彼女が自嘲気味に笑った。その顔は、やはり綺麗だった。
「簡単よ。すこし甘い言葉で男を黙らせて、頭をなでるだけ。それだけで、みーんな死んでいく」
無言のまま考えこんでいる俺の方を見て、彼女はほほ笑んだ。
「さて、何か質問ある?」
何も思い浮かばない。俺は必死になって頭を回しながら、ポテトに手を伸ばした。自慢のポテトはすっかり冷めて、ぐんにゃりとしている。
「……どうして、」
途中から思っていたことを、口にした。
「どうして俺に、そこまで教えてくれるんですか」
頭の隅で警鐘が鳴っていた。もしかしたら俺は、このまま殺されるかもしれない。俺の身体は明日の朝には、切り刻まれているかもしれない。しかも、自分の手で。
6畳一間のアパートのことを思い浮かべた。大して片付いていないあの部屋が、俺の部屋としての最後の風景になるかもしれないんだ、と。
彼女は頬杖をついた。笑っているような、困っているような表情で囁いた。
「怖い?」
俺は一瞬驚いて、だけど即答で
「いいえ」
怖さなんてものはなかった。だって俺は、
「だから、よ。あなたさ、死ぬ気でしょう?」
雷に打たれたようなショックに、いや、実際に打たれたことはないけど、とにかく俺は眼を見開いたまま固まってしまった。隣の部屋から、数年前にヒットしたアイドルグループの曲を大合唱する声が聞こえる。場違いも甚だしいと思ったが、隣の部屋とこちらの部屋、どちらが場違いなのか。
「私にはね、分かるの。あなたとは最初に会ったときからそうだろうと思ったわ」
彼女は冷めてぐんにゃりとしたポテトに手を伸ばしてそれを食べ、残念そうな顔をしながら言った。
「いくら笑っててもね、目が死んでるの」