09 名前
その日は、俺にとっては貴重な休日だった。なのに、俺はバイト先のカラオケ店に来ている。もちろん、仕事をするためではない。
俺は外装のはがれかけている外壁にもたれかかって、彼女のことを待った。薮蚊が俺のまわりをしつこく飛び回る。俺はそれに耐えながら、彼女が来店するのを今か今かと待っていた。
彼女と話がしたかった。もちろん事件のことも訊きたいが、それを訊くのは彼女の弱みを握ってると言っているようで気が引けた。
どうしても、彼女のことが知りたかった。彼女の独特の空気に、俺は共鳴してるのかもしれない。あるいは――
「野良さん!」
彼女の姿を見た瞬間、反射的に名前を叫んでいた。思ったよりも大きな声が出てしまい、内心で焦る。彼女は驚いた顔でこちらを見た。
「……三宅君、だっけ」
彼女が俺の名前を覚えてくれていたことが、何となくうれしかった。「だっけ」は聞こえなかったことにする。
「ここで何してるの? バイトは?」
紺色のTシャツに色あせたジーパンという私服姿の俺を見ながら、特に興味なさそうな声で彼女はそう言った。しかしその疑問はもっともだ。これは、下手すればストーカーと言えなくもない。ここにきて俺は、ここに立っている言い訳を考えていなかったことに気付いた。慌てて「今日は休みなんです」と素直に言ってしまったあとで、しまったと思う。今ちょうど仕事あがりなんです、と言えばまだ自然だったのに。
そんな俺を見ながら、彼女は何かを考えているようだった。ふうっと、ため息のように息を吐いて、それから笑っているような、なのに悲しそうな顔をして言った。
「殺人事件の、ことでしょう」
彼女の発言に、息をのんだ。彼女は悲しそうな顔で、続ける。
「彼と私が歩いてるの、あなた見てたでしょう? 気付いてないと思ってた?」
気付かれてないと思っていた。俺は馬鹿じゃないのか。これじゃ本当にストーカーで、殺人事件をダシにして強請りにきたみたいじゃないか。
しかし彼女は、俺の沈黙を別の意味でとらえたらしい。
「口封じのために、あなたを殺すつもりなんてないわ。……あの事件は、『自殺』として片付けられるだろうしね」
彼女は何を言ってるんだろうか。俺が警察に彼女のことを通報したら、彼女は重要参考人として調べられるだろう。それに、他殺の線が強くなる。なのになんで、そんなことを。
彼女はもう一度ため息をつくと、いつも通りの透き通ったアルトで囁いた。
「ここじゃ暑いわ。中で話さない?」
「中って……」
それはやはり間違いなく、俺のバイト先のカラオケ店のことだった。
よりにもよって、フロントにいたのは店長だった。俺の顔と彼女の顔を交互に見て、ぎょっとしたような、あっけにとられたような、そんな顔をする。店長ももちろん、この「超美人の常連客」のことは知っていた。あんな女と付き合える男は幸せだよなあ…と、いつも言っていた。店長の頭の中で、俺は彼女の彼氏になったのかもしれない。店長は憮然とした態度で、名簿を突き出してきた。
彼女が何もしようとしないので、俺は名簿に自分の名前を書く。
「8時間、ドリンクバー付き……で、いいですよね」
彼女は答えない。気まずい空気の中、マイクの入ったカゴを受け取る。
ああ。後日、店長から根掘り葉掘り聞き出されるだろう。その時なんて言い訳をしよう。
ルームに入ると、彼女はいつものように足を組んでソファに座った。俺はその向かいに、少し縮こまった姿勢で座る。見慣れたカラオケルームが、なぜかものすごく狭く、そして空気が薄いように感じられた。
彼女が、慣れた手つきでドリンクメニューを取り出す。
「何か頼む?」
緊張のせいか、喉がカラカラだった。コーラ、と俺が言うと、彼女は壁に備え付けられている受話器を持ちあげて、コーラとホットコーヒー、それから山盛りポテトを注文した。
内線を切ると、彼女はちらりとこちらを見た。それから
「煙草吸っていい?」
「あ、どうぞ」
ライターと煙草を取り出して、吸い始めた。俺は自分のそばにあった、くすんだ銀色の灰皿を彼女の前へと置く。
「ありがと。……で、何から聞きたい?」
何からと訊かれても、訊きたいことが多すぎて絞れない。それに、そんなに簡単にいろんなことを話してもらっていいのだろうか。
「……野良さんは、」
「それ、本名だと思ってる?」
意を決して訊こうとしたら訊き返されてしまい、肩透かしを食らった。しかし、それも訊きたかったことの一つだ。
「本名じゃないんですか?」
「本名だと言えば本名だし、違うと言えば違うわ」
訳が分からない。彼女は言葉遊びでもして、すべてをはぐらかす気なんだろうか。
「ないのよ」
困惑顔の俺に、彼女はほほ笑みながらはっきりと言った。そして、煙草に口をつける。煙を吐く。その流れに、言葉を乗せた。
「私にはね。名前が、ないの」