私はお菓子を食べながら修羅場を眺めていただけなのに……
たくさんの料理が並ぶその夜会で私が気に入ったのは、掌ほどの大きさをした名前も知らない丸い焼き菓子だった。
表面はこんがりと焼けていて、ふっくらした生地の中には豆を甘く煮た粒餡が詰まっている。王都の夜会に並ぶ菓子にしては随分と素朴だけれど、こういうもののほうが馴染みがあって好きだ。
一つ目は会場に到着してすぐに、二つ目は挨拶回りを終えたところで平らげた。そして今、三つ目を皿へ載せたところで隣から呆れた声が飛んできた。
「おい、メイシー。気に入ったのは分かったが食べ過ぎじゃないか? いくら昔から病気知らずだからって、あとで胸焼けしても知らないぞ」
「三つくらいで大袈裟ね。イースだってさっきから葡萄酒ばかり飲んでいるじゃない」
「俺はゆっくり飲んでる。お前は見つけるたびに取ってるだろ」
幼馴染のイースはグラスを片手に肩を竦めてみせる。代々神殿に仕える家の出で、今は騎士として働いている彼とは物心ついたころからの付き合いだ。だからお互いに気を遣わず、好き勝手言い合っている。
もっとも、年頃ともなれば交わす話の内容まで昔のままとはいかない。
「……それで。俺との婚約はどうするつもりなんだよ」
「またその話? お断りだって言ってるでしょ?」
「返事が早いな。もう少し考える素振りくらい見せろよ」
「考えるも何も、親たちが勝手に盛り上がってるだけじゃない」
私たちの両親は学生時代からの友人で、家族ぐるみでの付き合いも長い。だから酒の席になると悪乗りで「いっそ末っ子同士を結婚させよう」なんて話を進めるのだ。ちょうどさっき、別のテーブルで勝手に盛り上がっていたみたいに。
そのくせ翌朝になれば揃って「相手は自分で選びなさい」と言い出すのだから適当にも程がある。
「どうせ今回も素面になったら撤回するに決まってるんだから、振り回されるだけ馬鹿を見るって話よ」
「……お前、本当にそういうところだぞ」
「何が?」
「いや、もういい」
妙に疲れたような息を吐くイースを横目に、私は三つ目の菓子を齧った。
別にイースのことが嫌いなわけじゃない。むしろ幼いころからあまりにも近くにいたせいで、今さら婚約だの結婚だのと言われても気恥ずかしさのほうが勝るのだ。
そんな私たちが学園を卒業した今でも、華やかな夜会ですることは昔とさほど変わらない。必要な挨拶を済ませてしまえば壁際で料理を楽しむだけだった。
——宴もたけなわではあるが、そろそろお暇する時間だろう。
最後にもうひとつと大皿へ手を伸ばしたところで、入口のほうがにわかに騒がしくなった。
「ホメロス様!」
甲高い声に振り向けば、人波を掻き分けるようにして一人の令嬢が広間へ飛び込んできた。何度かお見かけしたことのあるあの方は、確か——ロザリンド様だ。
頬を紅潮させた彼女は周囲の視線など目に入っていない様子で、そのまま真っ直ぐに最近家督を継いだホメロス様のもとへ駆け寄った。
「あなたが婚約の解消をお考えだと父から聞きました……! そんなの嘘ですわよね?!」
「……ロザリンド。まだ正式に決まったわけではないし、こんな場所でする話ではない」
「そんな……! いったい私の何が悪かったというのですか!」
楽団の演奏が心なしか控えめになった。誰も露骨に近寄りはしないものの、先ほどまで談笑していた人々の輪がじわじわと縮まっていく。
ロザリンド様は縋るようにホメロス様の腕を掴んだ。
「理由についても、後ほど別室で——」
「もしかして、アルマン様と何度かお会いしていたことですか?」
ざわりと会場が揺れた。
私もお菓子を口へ運びかけていた手を止める。
「それなら以前にもお話ししたでしょう? あなたがお忙しくて寂しかっただけですし、もう二度と会わないとお約束しましたわ!」
「……その件ではない。あれはもう許したではないか」
許したんだ。
私だったら浮気なんて絶対に許さないけれど、なんとも懐の深い御方である。
「では、宝飾品を売ってアルマン様へお金を渡したことですか? あれだってお母様の薬代が必要だと聞いて——」
「それも知っている。僕が買い戻しただろう」
「でしたら……慈善院のお金を少しお借りしたこと?」
「それもだ。補填はこちらで内々に済ませている」
「私だってちゃんと返すつもりでしたのよ!」
「確かにそう言っていたな。だからそれも許したではないか」
それも許したんだ。
というかロザリンド様、いくらなんでも好き勝手やりすぎてはないかしら。
「……ずいぶんと理解のある男なんだな」
イースが呆れたように呟く。私も心の中で大きく頷いた。
「どちらも違うというのなら……」
そこで初めてロザリンド様の勢いが鈍った。視線を落とし、先ほどまでよりずっと小さな声で続ける。ちょうど演奏が途切れたところで——。
「……春先に産んだ、あの子のことですか?」
広間から物音が消えた。
もう聞いていていい話なのかも分からない。さすがにいたたまれなくなって、気がつけば私はイースの服の裾をぎゅっと握っていた。
「……それも知っていた。今はアルマンの親族に預けられていることもな」
「だったら……! だったら何がいけなかったというのですか! あなたは今まで全部許してくださったではありませんか!」
「ああ。金などまた得ればいい。君が他の男に心を寄せたのなら自分にも至らないところがあったからだ。あの子のことだって、君があの子を育てたいというのなら僕も受け入れるつもりだった」
そこでホメロス様は一度言葉を切って、まっすぐにロザリンド様を見つめた。
「僕は君を愛していたから……全部、許すことにしたんだ」
——隠し子まで許しちゃうんだ。
胸を打つ言葉のはずなのに、なぜだか背筋が寒くなった。
「……あそこまで行くと美談にはできないな。最初の一件で両家に話して、然るべき対応を取るべきだっただろう」
「良かった。あなたまで『愛って素晴らしいな』なんて感動していたら、今後の付き合いを考えるところだったわ」
「好きな女が横領まで始めたら、普通は愛を語る前に止めるだろ」
まったくもってその通りだ。この世界の倫理観がおかしいわけじゃなくて良かった。
「それならどうして婚約を解消するなどとおっしゃるのです?! 今までのことではないのなら、わたくしに何が——」
「……君が先日の我が家の祭祀で、聖女への御供物を『聖輪焼き』と呼んだからだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
どうやらロザリンド様も同じだったらしい。ぽかんと口を開いたまま目を瞬かせている。
「……そんなことで?」
「僕は二度、『月鏡焼き』だと訂正した。それでも君は『同じものなのだから、どちらでも構わないでしょう』と言ったね。しかも僕の親族の前で」
声音は落ち着いている。けれど、ロザリンド様を見る目には先ほどまでなかった冷たさがあった。
「確かに君の家と僕の家では宗派が違う。でも婚姻後は僕の家の祭祀に倣うと言ってくれたし、何よりも君を愛していたから君の全てを受け入れてきたのに……本当に残念だよ」
宗派という言葉を聞いて、眠気と戦いながら受けた歴史の授業をどうにか思い出す。
——この国には過去に何人もの異世界の聖女が現れ、各地にはそれぞれの聖女を篤く信奉する文化が根付いている。祭礼や祈りの作法だけでなく御供物の呼び名まで違い、その代表が二代目聖女派の『月鏡焼き』と三代目聖女派の『聖輪焼き』だった。
もっとも私の領地は特定の聖女だけを信奉せず、歴代すべての聖女へまとめて感謝を捧げるような土地だったから、どちらも教本で名前を知っているだけで実物を見たことはなかった。
「それって、婚約を解消するほどのことなの?」
私が小声で尋ねると、イースは呆れたように眉を寄せた。
「お前なぁ……。ホメロスの家は代々二代目聖女を信奉してるんだぞ。しかも呼び名を巡って過去には聖戦まで起きてる。軽んじていい話じゃない」
「お菓子の名前で聖戦?」
「御供物は宗派の象徴なんだよ。それに婚約するときに二代目式の祭祀に従うと約束してるなら、『どちらでもいい』はまずいだろ。ま、互いの家のことをもっと知るべきだったな」
なるほど。相手の家が大切にしているものを承知のうえで軽んじたとなれば、婚約解消もやむなしなのかもしれない。
感心したように何度か頷いていると、イースの呆れた視線が飛んできた。
「まったく……歴史の授業中に寝てばかりいたと思ったらこれだ。お前も気をつけろよ」
「そうね。つい適当に言っちゃいそうだから気をつけるわ」
「ちなみに俺のところなら宗派にこだわりはない。ただし御供物に使う餡子はこし餡だ」
「それは残念。やっぱりあなたには嫁げそうにないわ」
粒餡のないところに嫁ぐなんてお断りである。
歴史の授業で寝てばかりいたのは事実だけれど、私が聖女にまつわるものをどこか遠ざけていたのには理由があった。
——私自身、歴代聖女と同じ日本で一度生きた記憶を持っているからだ。
もちろん前世のことは誰にも話していない。なにせ私は彼女たちのようにこちらへ召喚されたわけではなく、この世界に生まれ直しただけだ。だからまあ、転生者ではあっても聖女ではないはずである。
万が一そうだったとしても、歴代の聖女たちは病人が出れば呼ばれ、魔物が出れば頼られ、そのうえ国同士が揉めても担ぎ出されてきたという。今の平穏な生活を手放して、聖女としてあちこちに駆り出されるなんてまっぴらごめんだった。
やがて両家の身内が現れ、ホメロス様とロザリンド様は別室へ連れていかれた。
楽団の奏でる調べが大広間に再び満ちていく。
「……なんだか疲れたわ。せっかくのお菓子の味がほとんどしなかったもの」
人々が散り始めたところで料理卓へ戻ると、イースも空になったグラスを片手に後ろからついてきた。
「価値観の違いってのは恐ろしいな。まあ、お前にとってはいい勉強になったんじゃないか?」
「学べるところなんてほとんどなかったわよ。強いて言うなら、損切りは早いほうがいいってことくらいね」
デザートの卓を見渡せば、同じ菓子がまだ大皿に残っていたので新しいものを一つ取る。
うん。やっぱり粒餡に限る。
「よくそんなに食えるな。そこまで気に入ったなら帰りに料理人へ作り方でも聞いておけばいい。月鏡焼きなら王都じゃ珍しくもないだろ」
「え? これが月鏡焼きなの?」
思わず手元へ視線を落とすと、今度はイースが怪訝な顔をした。
「お前、さっきから何を食ってるつもりだったんだよ」
「だって実物を見るのは初めてなんだもの。本にも『豆餡を生地で包み焼いた御供物』くらいしか書いてなかったし、こんな普通のお菓子だなんて思わないでしょう」
餡を包んだお菓子なんていくらでもあるからぴんとこなかったけれど、ようやく合点がいった。
「なぁんだ。ベイクドモチョモチョのことだったのね」
まさかこの世界でも名前を巡る論争が起きているなんて。つい笑ってしまうと、イースも盛大に噴き出した。
「何だよ、その間の抜けた名前」
「失礼ね。私の周りでは普通にそう呼んでいたわよ」
「一体どこの宗派だよ。お前、俺の知らないところで変な付き合いしてないだろうな?」
しまった、自分から墓穴を掘った。慌てて口を噤むと、イースは意地の悪い表情を浮かべた。
「ほら、吐いたら楽になるぞ。誰がお前にベイクドモチョモチョなんて教えたんだ?」
「しつこいわね。昔のことなんだから覚えて——」
「——今、なんとおっしゃいました?」
突然背後から声を掛けられて、私たちは揃って肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこに立っていたのは白髪の老神官だった。先ほどまで夜会の主催者と話していた人物で、胸元に下げられた聖印からしても相当高位の御方だと思われる。
その人がなぜか、幽霊でも見たような顔でこちらを見ている。
「ええと……何がでしょう?」
「その御供物です。あなた方は今、それをなんとお呼びになりました?」
嫌な予感がした。
それはもう、盛大に嫌な予感が。
隣では笑うのをやめたイースが何事かと神官を見ている。一度聞かれている以上、誤魔化すのは難しいだろう。
私は覚悟を決めて視線を床へ落としたまま小さく呟いた。
「……ベイクドモチョモチョ、と」
老神官が目を見開いた。それだけならまだしも、震える手で胸元の聖印まで握り締めたものだから、私の予感は一気に確信へ近づいていく。
「その名称をどこでお知りになったのです」
「さぁ、どこでしたかしら。ずっと昔なのでよく覚えておりません」
「書物でご覧になったのでしょうか」
「——ええ、そうだったと思います! あれは確か、聖女記の一節に」
「それはおかしいですね。一般に流通する聖女記には記されておりません」
チッ、カマをかけてくれたわねこの爺。
「ベイクドモチョモチョとは、初代聖女様が故郷の菓子を指して用いた呼び名です。後世の月鏡焼きや聖輪焼きによく似たものだったとされていますが、その名が残されているのはご本人の手記と神殿最奥の古文書のみ。一般に知り得る言葉ではありません。……なぜ、あなたがその言葉を?」
そんなこと、答えられるはずがないじゃない……!
誰か、この窮地を救ってくれる人はいないだろうか。それか隕石でも局地的に降ってはくれないだろうか。
周囲を見渡すと、隣にいたイースとばっちり目が合った。
「メイシー。そういやお前は昔から妙に怪我の治りが早かったよな」
「そう? 子どもって治りが早いもんじゃない?」
「お前が拾った瀕死の鳥も翌日飛んでったし、伯母さんが育てても枯れる花をお前だけ毎年咲かせてた」
「偶然よ。日頃の行いの賜物ね」
「今思うと、偶然にしては多くないか?」
余計なことを……! 老神官の目が一言ごとに大きくなっているじゃないの!
「……この件については、後ほど神殿から改めてご連絡いたします」
そう言い残した老神官は足早に夜会の主催者たちのもとへ向かっていった。その先に王族の姿まであるのを見て、私はもうこれ以上逃げ隠れすることは難しいのだと悟った。
あああ……せっかく平穏に暮らしていたのに。
まさか焼き菓子ひとつで人生を狂わされるなんて……。
「……ところでメイシー。俺の家が昔、聖女の騎士役を務めたこともあるって覚えてるか?」
「だから何よ。まさか私が本当に聖女だったら護衛でもしてくれるってわけ?」
「そりゃ当然するけどよ、俺が聞きたいのは別の話だ」
振り向けば、イースは先ほどまでと変わらない顔で笑っていた。
「さっきの求婚。もう一度考えてくれないか?」
「……この状況で?」
「明日になって『聖女と知って求婚した』なんて言われるのも癪だからな。先に言っとくが、これは最初から俺の意志だ」
思わず瞬きをする。
「……あれ、本気だったの?」
「だから何度も聞いてただろ」
そんなの、親たちの悪乗りに付き合っていただけだと思っていたのに。
「それに俺と結婚しておけば三食昼寝付きだぞ。衣食住は保証するし、神殿との面倒な話は俺が引き受けてやる」
「それは……求婚というより好条件の求人ね。ちょっとときめいちゃったじゃない」
「ちょっとかよ。それなら次は花でも持って、もう少しときめかせてやる。ついでに月鏡焼きも用意してやるよ」
「こし餡ならいらないわよ」
「悪いがそこだけは譲れないな」
……なるほど、これが宗派の違いというやつか。
それでも今度はさっきみたいに「嫌よ」と即答することはできなかった。
ちなみに作者は関東民なので、「今川焼」派です。




