第29話:【過去編】無能の誕生
地下駅が崩落し、もうもうと立ち込める土砂のカーテンが、鳳凰寺氷華の背中を完全に視界から遮断した。
彼女の足音が瓦礫の向こう側へと消え、完全に静寂が戻ったのを確認して、天霧迅は張り詰めていた糸を自ら切るように、その場に膝を突いた。
「……ガハッ……ッ、ハァ、ハァ……ッ!」
肺の奥底からせり上がった鮮血が、無機質なコンクリートの床を鮮やかに染め上げる。
極限状態での連戦。フォトンの保護という、適格者にとっての「鎧」を自ら脱ぎ捨て、己の筋繊維と骨を削って振るった「ただの鉄」の反動は、迅の肉体を内側から無残に食い破っていた。
特に、粉砕された左手首から先は、もはや自分の意思では指一本動かすことができない。骨が砕け、肉が裂け、血管が千切れたその腕は、戦場の冷気にさらされて急速に感覚を失っていく。
「……これで、いい……。あいつは……逃げ切れる……」
独り言を呟く唇から、再び血が滴る。
だが、異変はその直後に起きた。
通常、フォトンの適格者が限界を超えてエネルギーを消費すれば、体内回路が過負荷を起こし、光り輝く爆発と共に命を散らす。それが「星導術師」としての美しき最期のはずだった。
しかし、今の迅に起きたのは、その正反対の現象――「負への反転」だった。
「……なんだ、これは……?」
迅の全身の毛穴から、見たこともない「黒い霧」のようなものが滲み出し始めた。
それはフォトンの輝きとは対極に位置する、光を、音を、そして存在感そのものを削り取っていく「欠落」の奔流。迅の体を中心に、半径数メートルの空間から、色が、温度が、そして情報が吸い取られていく。
『警告。個体識別:天霧迅。フォトン波形、急激な減衰を確認。……適格値、計測不能域へ……99%……40%……5%……』
脳内デバイスが、壊れた蓄音機のようにノイズ混じりの声を上げる。
迅が触れている地面が、その「虚無」に当てられたかのように、分子構造を維持できず砂へと還っていく。彼自身が、世界の情報を際限なく飲み込み続ける「ブラックホール」へと変質した瞬間だった。
ドクン、ドクンと、心臓が重々しく鼓動を打つたびに、迅の存在感は希薄になっていく。
物理的にはそこに倒れているのに、世界が彼という存在を認識することを拒んでいるかのような、奇妙な疎外感。
その時、頭上の崩落した隙間から、軍の自律型ドローンが数機、赤いサーチライトを走らせながら侵入してきた。
「天霧迅を捕捉しろ。重要検体の奪還を最優先――」
ドローンのスピーカーから漏れる兵士の声。だが、サーチライトの光は迅の体を真っ向から照らし出しながらも、センサーは彼を「生命体」として検知しなかった。
ドローンたちは迅の数センチ横を、まるでそこにはただの石ころしか転がっていないかのように通り過ぎていく。
情報の網から滑り落ちた幽霊。
英雄としての死すら許されず、世界から「認識」という権利を剥奪された孤独な怪物の誕生。
迅は、煤に汚れ、もはや光を失った『星辰双剣大綬章』を震える右手で握りしめた。
その勲章の金属さえも、彼の「虚無」に触れて、じわじわと鈍色に曇っていく。
「……クク、ハハハ……」
喉の奥から乾いた笑いが漏れる。
これでいい。誰にも見つからず、誰にも期待されず、誰の心にも触れない。
それが、一人の少女を救うために世界を裏切った、「神童」と呼ばれた男の末路だ。
迅の意識は、底なしの暗闇へと沈んでいった。
崩落した天井から覗く、凍てつくような冬の星座だけが、彼の最期を見届けているかのように冷たく輝いていた。
深い闇の中、迅は自分がどこまでが肉体で、どこからが外の世界なのか、その境界すら曖昧になっていくのを感じていた。
体内に固定された「負の特異点」は、周囲に漂う微細なフォトンの粒子を際限なく吸い込み続け、彼の存在を情報の海の底へと沈めていく。
「……おやおや。人類の至宝が、これほどまでに完璧な『無』になるとはね。私の計算でも、ここまでの変質は予想外だったわ」
すべてを吸い込む無音の空間に、凛とした、しかしどこか愉悦を含んだ声が響いた。
迅が鉛のように重い瞼を持ち上げると、そこには瓦礫の山の上に腰掛け、月光を背に優雅に足を組む少女――若き日の一ノ瀬千早がいた。
彼女は、軍の最新鋭ドローンさえも素通りした迅の存在を、その冷徹な観察眼で正確に捉えていた。
「……誰、だ……。軍の……回し者か……?」
「いいえ、私はただの観測者。あるいは、あなたの『死後』を管理する執行人かしら」
千早は瓦礫を降り、迅の目の前で膝を突いた。彼女が纏う高級な香水の匂いさえも、迅の周囲の「虚無」に吸い込まれて消えていく。彼女は迅の粉砕された左手首を、まるで貴重な古美術品のひび割れを愛でるように、そっと指先でなぞった。
「天霧迅。今のあなたは、情報のブラックホール。あらゆる感情、エネルギー、注目を吸い込み、無に帰す。……このまま放っておけば、あなたという個体そのものが内側から崩壊して消滅するわよ。それでもいいのかしら?」
「……構わ、ない……。氷華が……救われるなら……」
「健気ね。でも、それでは面白くないわ。……提案があるの。その暴走する『ブラックホール』を、私が制御してあげましょう。代わりに、あなたは私の管理下に入り、数年の沈黙を経て……ある『舞台』へ上がってもらう」
千早の瞳が、獲物を見つけた猛獣のように妖しく光った。
彼女が取り出したのは、漆黒の極小チップ――『因果遮断回路』。
「これをあなたの心臓の横に埋め込むわ。そうすれば、あなたの『吸い込む力』は一点に凝縮され、世界に対して『0.00%』という絶対的な無能の数字を偽装し続ける。ヘイトも、嘲笑も、愛でさえも……すべてをあなたが飲み込み、誰の心にも触れさせない。……それが、あなたが鳳凰寺氷華を守るために選ぶ『盾』よ」
千早は躊躇なく、迅の胸元にチップを押し当てた。
ドクン!!
迅の全身を、冷たい電流が駆け抜ける。
それまで周囲を無差別に食い荒らしていた虚無が、チップの干渉によって迅の体内に封じ込められ、彼の存在は「観測史上初の完全なる無」として固定された。
「……あ、あぁ……ッ……」
「さあ、仕上げよ」
千早は瓦礫の中から、迅が最後まで握りしめていた「血塗られた鉄の棒」を拾い上げた。
それは迅の虚無を浴び続けたことで、フォトンの伝導率が死に絶え、代わりに「触れたエネルギーを吸い込み、粉砕する」という特異な性質を宿していた。
「これを打ち直してあげましょう。あなたの『絶望』と『沈黙』を形にした、一振りの刀に。……フォトンで輝くこの世界を、その重みだけで叩き潰すための、杖を」
数ヶ月後。
千早が手配した隠れ家的な工房で、その鉄の棒は一振りの鈍色の刀へと生まれ変わった。
最新のアークブレードのような軽量化も出力補助も一切ない。
重く、冷たく、ただひたすらに光を拒絶する鉄塊。
「……重いな」
迅はその柄を、感覚の死んだ左手で支えるように握った。
この重さこそが、彼が彼女を救うために捨てた「期待」の質量。
この刃こそが、二度と「神」には戻らないという、彼自身の決別。
「名は――『黒鉄』。……この子の、新しい名前よ」
迅は煤けた勲章を首から下げた鎖の奥、心臓の鼓動が響く場所に隠した。
英雄・天霧迅は死に、情報の淵を漂う「バグ」が完成した瞬間だった。
それから、三年の月日が流れた。
国立御剣学園の喧騒。
空中を浮遊する巨大なホログラムには、煌びやかな軍服を纏い、極光の翼を広げる「至宝」たちの勇姿が映し出されている。
生徒たちは最新の『情動チャネル』を輝かせ、誰がより美しく、誰がより支持される戦い方をするかに心血を注いでいる。
迅は、そんな喧騒を他人事のように聞き流しながら、チャコールグレーのマントの裾を揺らして回廊を歩いていた。
千早との黙約、そして彼の体質により、迅は今や「誰の心にも触れない」幽霊となっていた。
演習場での佐竹との衝突で見せた、圧倒的な「圧力」。だが、それが過ぎ去れば、周囲の嘲笑さえも彼のブラックホールに吸い込まれ、霧散する。
(……これで、いいんだ)
迅は、人気のない旧校舎裏の並木道へと辿り着いた。
腰にある『黒鉄』の重みが、かつて自分が背負っていた世界の重さを、微かな痛みと共に思い出させてくれる。
独り言のように呟いた。
「……変わらねえな。ここは」
その時だった。
「天霧迅……。やはり、貴方なのね」
背後から響いた、凍てつくような冷気と、それとは裏腹に微かに震える熱波を孕んだ声。
迅の足が、止まる。
振り返る必要はなかった。その声の主が纏うフォトンが、かつて誰よりも近くで感じていたあの日の輝きを宿していたからだ。
迅はゆっくりと振り返り、並木道の入り口に立つ少女を見つめた。
そこにいたのは、御剣学園規律局局長――鳳凰寺氷華。
あの日、戦場の地下で自分が血反吐を吐いて守り抜き、そして「道具だ」と嘘を吐いて切り捨てた、幼馴染。
彼女の純白のロングコート型軍服は、一糸乱れぬ規律の象徴だ。だが、彼女の胸元にある『情動チャネル』は、システムの定義にない、複雑な色に明滅している。
それは「拒絶」でも「好意」でもない、解析不能のノイズ。彼女の抱く殺意に近い執着が、迅の「虚無」に吸い込まれ、行き場を失っている証拠だった。
「……待ちなさい、迅」
氷華の制止の声を背に、迅は再び歩き出した。
かつては「迅様」と自分を呼んでいた少女。その呼び方が、今の冷たい「迅」へと変わった。
その断絶こそが、あの日彼が吐いた「さよならの嘘」が、彼女の心の中で完結したことを物語っていた。
(……憎め、氷華。お前が俺を軽蔑し、俺を無能だと罵ることで、お前は軍の『部品』にならずに済む)
迅は『黒鉄』の柄を強く握りしめた。
左手首の古傷が、雨の日の前兆のように鈍く疼く。
学園のメインタワーの頂上では、千早が愉悦の笑みを浮かべて、この「支持率0.00%」という特異点を観測し続けているだろう。
誰も知らない。
この無能な編入生が、かつて世界中から称賛された「神童」であったことを。
そして、今もなお、彼女の憎しみをすべて飲み込みながら、その自由を守り続けていることを。
「……明日からか」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、夕焼けの空に吸い込まれ、誰の記憶にも残ることなく消えていった。
過去編、完結。
物語の歯車は、あの日粉砕された手首の痛みと共に、再び現在へと動き出す。
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