第27話:【過去編】約束の庭、焦土の再会
その光景は、いつだって鳳凰寺氷華の夢の中にあった。
天霧家の広い庭園。舞い散る桜の下で、木刀を振るう少年の背中。
「迅様、見てください! 私、お花冠作ったんです!」
幼い氷華が駆け寄ると、少年――迅は少しだけ困ったように笑い、彼女の頭を優しく撫でてくれた。
「……似合っているよ、氷華。お前は、ずっとそうやって笑っていればいい」
それが、彼女の知る「天霧迅」のすべてだった。
優しくて、誰よりも強くて、自分だけの騎士様。
けれど、時代は残酷だった。世界中に現れた未知の脅威。フォトンの適格者として見出された迅は、まだ幼い身でありながら「人類の盾」として、平和な日常から引き摺り出されていった。
「待ってください、迅様! 行かないで……っ!」
泣きじゃくる氷華を置いて、軍用ヘリが飛び立つ。
それが、二人の長い別れの始まり。
……そして数年後。氷華は、彼を連れ戻したい一心で、軍の医療班として最前線へと志願した。
だが、再会した『星辰の墓標』で彼女が見たのは、かつての優しい少年ではなかった。
崩落する地下研究所。
瓦礫の中で、絶望的な数の機械兵に囲まれた氷華の前に、空から「銀色の雷撃」が落ちた。
爆炎の中から現れたのは、銀色の軍服を纏い、感情の消えた瞳で刀を振るう、若き日の迅だった。
一閃。
たった一撃で、機械兵たちがスクラップの山と化す。
「……迅、様……?」
血の匂いと、冷たいフォトンを纏ったその姿に、氷華は言葉を失う。
迅は、倒れ込む氷華を一瞥し、低く、掠れた声で呟いた。
「……なぜ、こんなところにいる。鳳凰寺」
かつてのように「氷華」とは呼ばない。
その拒絶に似た響きに、彼女の胸は張り裂けそうになる。だが、迅の胸元で鈍く輝く『星辰双剣大綬章』だけは、かつて彼女が「かっこいいお守り」だと言って笑った、あの日のままだった。
「迅様を探しに……っ、迅様を、連れ戻しに来たんです!」
「……連れ戻す? どこへだ。俺にはもう、帰る場所なんてない」
迅は、怪我をした氷華を乱暴に抱き上げると、背後の瓦礫をフォトンの防壁で粉砕した。
その瞬間、彼の脳内に、軍の上層部からの非情な通信が響き渡る。
『迅、再確認だ。その区域に生存者はいない。残存する施設ごと、広域殲滅術式を起動しろ。そこに誰がいようとな』
迅の腕の中で、氷華が震えている。
軍は、ここにいる氷華ごと、すべてを「証拠隠滅」しようとしているのだ。
「……迅様、どうしたんですか……?」
不安げに見上げる氷華の瞳。
迅は、自分の胸元の勲章を強く握りしめた。煤に汚れ、歪んだ鉄の塊。
「……鳳凰寺。いいか、絶対に俺から離れるな」
それが、迅が「神童」であることを辞め、一人の少女のために世界を敵に回すことを決めた、運命の分岐点だった。
研究所の崩壊は、もはや止める術がなかった。
天井から降り注ぐ瓦礫を、迅は目にも留まらぬ抜刀で切り裂き、氷華を抱いたまま中央通路を疾走する。
「迅様……あ、足が、熱いです……っ!」
氷華が悲鳴を上げる。
通路の至る所に設置された排熱ダクトから、行き場を失った高濃度のフォトンが火炎となって噴き出していた。
迅は無言で、自分の軍服の外套を脱ぎ捨て、それを氷華の体に巻き付けた。銀色の布地が彼女を包む。それは、かつて庭園で彼が貸してくれた羽織の温もりを思い出させた。
「我慢しろ。……今、ここを焼き払う」
迅が足を止め、白銀の刀『アロンダイト零式』を正眼に構える。
その瞬間、彼の脳内の通信デバイスが、耳を劈くような警告音を発した。
『警告。適格者・天霧迅。術式起動の承認が下りていない。現在、当該区域には軍の機密保持のため「焦土作戦」が発令された。対象を即座に放棄し、退避しろ』
「……機密、か」
迅の口元が、冷たく歪んだ。
軍にとって、迅の幼馴染である氷華は、救うべき対象ではない。迅という「兵器」の精神を不安定にさせる、排除すべき「バグ」に過ぎないのだ。
『繰り返す。対象を放棄しろ。拒否すれば、お前を「反逆者」と見なし、遠隔でデバイスを凍結させる』
「やってみろ。……そんな紙切れ一枚の命令で、俺がこいつを離すとでも思ったか」
迅は通信を物理的に引きちぎり、脳内の接続を強制遮断した。
鼻から赤い鮮血が滴り落ちる。神経系を直接焼き切るような苦痛が迅を襲うが、彼は止まらない。
「迅様、鼻血が……! 私のせい、私のせいで迅様が……っ!」
「……黙っていろと言ったはずだ、お前は、俺の言うことだけを聞いていればいい」
迅の全身から、凄まじい密度のフォトンの粒子が溢れ出す。
それは本来、敵軍の基地を一度に消し飛ばすための「戦略級」のエネルギーだ。それを、彼はただ「目の前の障害物を取り除く」ためだけに、贅沢に、そして傲慢に解放した。
「――『震天』」
研究所の分厚い隔壁が、まるで内側から爆発するように粉砕された。
爆風の中、迅は氷華を抱え上げ、炎の渦巻く地上へと跳躍する。
そこは、黒い雨が降り注ぐ廃墟の街だった。
空を見上げれば、軍の監視ドローンが無数に滞空し、その赤色灯が「裏切り者」を捉えようと蠢いている。
「迅様、あそこ……私たちの軍の旗が……」
氷華が指差した先。
瓦礫の山の上に、かつて迅を称えたはずの「星導連邦」の軍旗が立っていた。
だが、その下に集結していたのは、救助部隊ではない。
実弾銃とフォトンの術式を構えた、迅の「元同僚」たちの狙撃班だった。
「……あいつら、本気か」
迅が自嘲気味に呟く。
『神童』という偶像を守るために、軍は迅を殺してでも、その「欠点」を消し去ることを選んだのだ。
「いいだろう。……世界中を敵に回してでも、俺がお前を連れ出してやる」
迅は、煤けた勲章が刻まれた胸元を強く叩いた。
その感触は、今も摩耶島の地下で彼が持ち歩いているあの鉄屑と同じ、重く、苦い誓いの重みだった。
「目を閉じていろ。……これから起こることは、お前が見るべきものじゃない」
迅の瞳が、黄金色のフォトンの輝きから、徐々にどす黒い「虚無」へと染まっていく。
救世主が、初めて自らの意志で、自らの軍に牙を剥く。
雨音を切り裂いて、一発の銃声が響いた。
それが、二人の平穏な日々への、最後の一撃だった。
放たれたのは、対フォトン適格者用の「徹甲弾」だった。
迅は、腕の中の氷華にその衝撃が伝わらないよう、自身の肉体を盾にして背中で弾丸を受けた。
ドシュッ、と肉の焼ける嫌な音が響く。
「……ぁ、迅様……っ!? 今、撃たれた……! 血が、迅様の背中から……っ」
「……かすり傷だ。案ずるな」
迅は平然と答えたが、その瞳の奥には、氷のような冷徹な怒りが灯っていた。
かつて自分が命を懸けて守ってきたはずの軍。自分を称え、勲章を授けたはずの連邦が、今この瞬間、自分と、そして何の罪もないこの少女に銃口を向けている。
『適格者・天霧迅。最終警告だ。対象を即座に引き渡せ。さもなくば、お前を「特級の脅威」と認定し、全火力をもって抹殺する』
監視ドローンのスピーカーから、上官の冷え切った声が漏れる。
「……特級の脅威、か。皮肉なものだな」
迅は、煤に汚れた『星辰双剣大綬章』に、自身の返り血を塗りつけた。
彼がこれまで守ってきたのは、平和などではなかった。ただ、軍という名の巨大な「虚飾」を守るための、都合の良い盾に過ぎなかったのだ。
「いいだろう。……お前たちがそれを望むなら、俺は喜んで、その期待に応えてやる」
迅が、白銀の刀『アロンダイト零式』の柄を握り直す。
その瞬間、彼の周囲に展開されていたフォトンの輝きが、一変した。
眩い黄金色は掻き消え、代わりに、あらゆる光を飲み込むような「黒い揺らぎ」が迅の全身を包み込み始める。
そして、迅が踏み出した一歩は、物理法則を無視した「跳躍」だった。
爆発的な加速と共に、迅は前方へ展開していた狙撃班のど真ん中へと突っ込んだ。
斬撃ではない。ただの通過。
だが、彼が通り過ぎた後には、フォトンの術式が強制崩壊した狙撃兵たちが、自らの武器の暴走に巻き込まれて吹き飛んでいた。
「……迅様、すご……い……」
氷華は、彼の腕の中でその光景を呆然と見守るしかなかった。
自分の知っている「優しい迅様」が、今、自分を守るために「死神」へと変わっていく。その残酷な美しさに、恐怖よりも、抗いようのない「悦び」が氷華の胸を焦がした。
この人は、私のために世界を壊している。
この人には、私しかいない。
廃都の出口。
包囲網を突破した迅は、降りしきる黒い雨の中、一瞬だけ足を止めて振り返った。
そこには、かつて自分が忠誠を誓った軍の基地が、今や自分を殺そうとする敵陣として、不気味に赤く光り続けている。
「……鳳凰寺。ここから先は、地獄だ」
迅は、腕の中の少女をより強く抱きしめた。
その手首には、過負荷による細かな亀裂が走り、血が混じったフォトンが漏れ出している。後の「0.00%」という異常な数値の真実へと続く、最初の一歩。
「迅様と一緒なら……地獄でも、どこでもいい。私、迅様がいてくれるなら、何も怖くありません」
氷華のその無垢な、しかし病的なまでに深い言葉を聞いた時、迅は初めて、小さく唇を噛んだ。
自分が彼女を救うことが、彼女にとって本当の幸せなのか。
それとも、自分という「呪い」に巻き込むだけの悲劇なのか。
迅は、自分の胸元で煤けた勲章を、ぎゅっと握りしめた。
「……行くぞ。お前だけは、俺が死んでも守り抜く」
二人は、雨の帳の向こう側へと姿を消した。
『神童』の失踪。そして、一人の少女を略奪した「反逆者」の誕生。
だが、この逃避行の果てに、迅がなぜ彼女に「別れの嘘」を吐かなければならなかったのか。
本当の地獄は、ここから始まろうとしていた。




