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無銘の神童と有銘の乙女~無能と呼ばれる俺を、最強の少女たちが独占したがる理由~  作者: まめだいふく
第2章:摩耶島合同合宿・三強激突編

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第26話:銀世界の規律


「……貴女、今、何と仰いましたの?」


 鳳凰寺氷華の声は、もはや人間のそれとは思えないほどに低く、そして澄み切っていた。


 それは、周囲の風すらも恐縮して止まってしまうような、絶対的な凍土の静寂。茶室『紫雲庵(しうんあん)』の空気は、彼女が放つ一言ごとに物理的な重さを増し、居合わせた者たちの肺腑を鋭く突き刺していく。


 氷華の視線の先には、桐生葵に支えられながら、迅に顎を掴まれた感触を指先でなぞり、頬を不浄な赤みに染めて「蹂躙して」と呟く西園寺撫子の姿があった。かつて鳳凰寺家と並び立ち、気高くあるべきとされた西園寺家の令嬢が、たった数分の間に迅という男の毒に当てられ、自ら泥の中に身を投げ出すような醜態。


 それが、氷華の中で「規律」という名の導火線に火をつけた。


「迅様を……蹂躙しろ、と? 貴女のような敗北者が、その穢れた口で……迅様に、何を強請ねだりましたの?」



 氷華が一歩、踏み出す。


 畳が瞬時に白く結晶化し、飾られた茶器がパキパキと音を立てて微細な塵へと崩壊していく。



「な、撫子様……しっかりしてください! 鳳凰寺氷華、貴女に言われる筋合いはありませんっ!」


 桐生葵が必死に撫子を庇い、鋭い視線で氷華を睨みつける。だが、その視線すら氷華の肌に触れる前に凍りついた。


「迅様は、この世界の規律。……誰も触れてはならない、高潔な光。それを……その、泥棒猫が……っ!!」



 氷華が、咆哮と共にレイピアを床へと突き立てた。



「――雪月花(せつげつか)・一の型 『銀世界(ぎんせかい)』!!」


 


 茶室が、物理的に内側から爆ぜた。


 一瞬にして屋根が吹き飛び、四方の壁は巨大な氷の結晶へと置換される。


 庭園の木々も、断崖の岩肌も、吹き抜ける海風すらも一瞬で「銀」に飲み込まれ、ただの冷たい物質の塊へと成り果てていく。



 数秒後。


 摩耶島の北端には、天を突くほどに巨大な氷の要塞が、傲然とそびえ立っていた。


 月光を乱反射させ、虹色に輝く美しくも残酷な牢獄。それは、外部から迅を完全に隔絶し、自分だけのものにしようとする氷華の執念が作り上げた「神殿」だった。


「……あ、……ぁ……」


 葵が、凍てつく大気に呼吸を奪われ、撫子を抱えたまま氷の床に膝をつく。


 周囲では、氷の粒子から顕現した数百の『氷の騎士団』が、無機質な動作で槍を構え、中心に立つ迅を包囲していた。


 猛烈な吹雪の中、氷華は空中に生成された氷の階段を、狂気的な優雅さで降りてくる。


「迅様……さあ、こちらへ。この城の奥、誰の温もりも届かない場所で、私と二人きりで……。もう、二度と貴方を、あんな女たちに触れさせはしませんわ」



 氷華の手が、迅の頬へとゆっくりと伸びる。


 それは愛する者を、色褪せぬまま永久に保存しようとする、冷徹な剥製師の指先だった。




 氷華の指先が、迅の頬に触れるまで、あと数ミリ。


 絶対零度の冷気を纏った彼女の肌は、触れれば魂ごと凍てつかせる死の抱擁そのものだった。氷の城に吹き荒れる風が、獲物を閉じ込めた悦びに震える。



 だが、その指先が届くことはなかった。


 ガシィッ、と。


 氷華の細い手首を、迅の大きな掌が、無造作に、そして暴力的に掴み取った。


「ッ……!? 迅、様……?」


 氷華の瞳が驚愕に揺れる。


 この空間は彼女の領域。すべての分子が動きを止め、生者の熱など瞬時に奪われるはずの『銀世界』。その極寒の中で、迅の手首からは、岩をも溶かすような凄まじい「熱」と、鋼のような硬質さが放たれていた。


「……規律を乱しているのは、どっちだ。氷華」


 迅の声音は、嵐の中でもはっきりと、彼女の脳髄へと直接突き刺さった。


 迅は掴んだ手首を強引に引き寄せ、氷華の華奢な身体を、背後にそびえ立つ巨大な氷柱へと叩きつけた。



 

 衝撃で氷柱に深い亀裂が走り、砕け散った破片が火花のように二人の周囲を舞う。


 逃げ場のない「壁ドン」の構図。


 迅の至近距離にある漆黒の瞳。そこには、彼女が夢見たかつての救済など欠片もなく、ただ己の規律を乱す者を「蹂躙」しようとする捕食者の光だけが宿っていた。


「……っ、あ……ぁ……」


 氷華の唇から、震える吐息が漏れる。


 恐怖。絶望。……そして、それらをすべて塗り潰すほどの、狂おしいまでの恍惚。自分を力でねじ伏せ、その魂を強引に引き剥がそうとする迅の「熱」に、彼女の心臓は爆発せんばかりに脈打つ。


「規律局長ともあろう者が、私情で島一つを凍らせる。……そんな不器用な真似をして、俺を閉じ込めたつもりか?」

「……っ、迅様……私は、ただ……! また貴方が私の前から、消えてしまうのが怖くて……っ!」


 氷華の瞳から溢れ出した涙は、頬を伝うそばから真珠のような氷の粒へと変わり、床に落ちて虚しく砕け散った。


 彼女の脳裏に、あの日、迅が胸に付けていた『星辰(せいしん)双剣(そうけん)大綬章(だいじゅしょう)』の、冷たくも美しい輝きがフラッシュバックする。


「あの日、貴方は私を助けてくださった……! 瓦礫の中で、あの銀色の光だけが、私の世界だった……! なのに、貴方はなぜ、今の私を……その濁った瞳で見るのですか……!また……また、私を捨てるのですか」


 氷華の叫び。それは救いを求める少女の悲鳴であり、神に裏切られた信徒の呪詛だった。


「……あの日、俺がお前に教えたのは、システムに従う不自由さではない。……己の意志を貫くための、鋼の強さだと言ったはずだ」


 迅は、氷華の喉元を強引に掌で押し込み、彼女の瞳の奥に宿る「過去の自分」を、言葉一つで斬り捨てた。


「……救いなど、とうの昔に戦場に捨ててきた」


 迅は氷華の手を乱暴に振り払い、包囲していた数百の『氷の騎士団』へと向き直る。



 彼はまだ、『黒鉄(くろがね)』を抜いていない。


 ただ一歩。


 大地を、そして世界の理を穿つような、重厚な一歩を踏み出した。



「――天霧流(あまぎりりゅう)(ばち)震天(しんてん)

 



 衝撃波ではない。


 迅の足元から放たれたのは、物質の結合そのものを強制的に解除する、極小かつ超高速の「物理振動」。

 

 フォトンの加護など無関係。


 絶対零度の硬度など無意味。


 迅を中心とした全方位において、氷華が心血を注いだ騎士団が一瞬にして粉砕され、ただの微細な塵へと還元された。氷の城が、迅のたった一歩の「重み」に耐えかね、断末魔のような軋み声を上げる。


「……っ、一撃で、私の……規律が……っ!?」


 膝をつき、震える指先で砕けた氷の残骸をなぞる氷華。


 彼女が拠り所としていた最強の術式を、迅は「ただの振動」で踏みにじった。


「……フォトンの加護に溺れ、物質の真理すら見失ったか。お前の規律とは、この程度の振動で壊れるほど脆いものだったのか」


 舞い散る氷の粉塵を浴びながら、迅は氷華を冷徹に見下ろした。


 その光景は、もはや現代の摩耶島ではなく、凄惨な戦場の断片を孕み始めていた。



「……ああ、……あぁあ……っ!」


 氷華は、砕け散った騎士団の残骸――ただの冷たい氷の粉塵に指を立て、血が滲むほどに床を掻きむしった。


 自分の誇り、自分が積み上げた規律、そして迅への唯一の繋がりだと信じていた術式が、彼の「ただの振動」によって文字通り粉砕された。その事実は、彼女の魂をこれ以上ないほどに蹂躙し、絶望の深淵へと突き落とす。


 舞い散るダイヤモンドダストが月光に煌めく中、迅は無造作に、跪く彼女の顎をすくい上げた。

 

「……見ろ、氷華。これが、お前がしがみついている『銀色の記憶』の成れ果てだ」

「迅……様……」


 上目遣いに見上げる彼女の瞳には、かつて瓦礫の街で見た少女の幼さが、未だに色濃く残っている。それが迅の不快感をさらに煽った。

 

「お前は、あの日俺が救い出した『光』に恋をしている。だが、その光を握り潰したのは、他でもない俺自身だ。お前が崇める神など、もうこの世のどこにもいやしない」


 迅の声は、氷華の胸を貫くどんな氷の槍よりも鋭く、残酷にその存在理由を否定する。


 迅は懐から、一つの「物体」を取り出した。


 それは、酷く歪み、(すす)け、半分以上が欠損した、鈍色の金属の塊。


 かつて迅が胸に付けていた、最高栄誉の証――『星辰(せいしん)双剣(そうけん)大綬章(だいじゅしょう)』の無惨な成れ果て。


「ッ…………!」


 氷華の瞳が、その金属の塊に釘付けになる。


 彼女の脳裏にあるのは、あの日、自分を抱き上げた少年の胸元で、太陽よりも眩しく輝いていた「神童」の象徴。だが今、彼女の目の前にあるのは、光を失い、泥と血に汚れたまま放置された「ただの鉄屑」だった。


「捨てたと言ったはずだ。……光も、栄光も、お前との約束も」


 迅はその勲章の破片を、氷華の瞳のすぐ前に突き付けた。


 鈍い鉄の冷たさが、彼女の視神経を麻痺させる。


「お前が見ているのは、俺の抜け殻だ。……本当の『天霧迅』が死んだ場所を、その眼に焼き付けておけ」


 迅が放つ威圧感は、もはや絶対零度の冷気すらも焼き尽くし、周囲の空間そのものを物理的に歪ませていた。


 氷華の視界が、急激に揺らぎ始める。


 目の前に立つ漆黒のシャツの男の背後に、ありもしない硝煙の匂いと、大勢の人間の断末魔が立ち込める。



 そして。

 


 迅の背負う「闇」が、氷華の作り上げた「銀世界」を、内側から黒く塗り潰していった。

 

「……いいだろう。お前がそこまで『あの日』の光に縋るなら。……俺が、その光を自らの手でどのように焼き切ったのか。真実を知りたければ、その記憶に溺れろ」


 迅の低い声が、白銀の城の天井を突き抜け、摩耶島全体の空気を震わせた。


 その言葉が引き金となり、猛吹雪の音は、激しい砲火と降りしきる雨の音へと完全に塗り替えられていく。


 氷華の瞳に映るのは、もはや現代の合宿所ではない。



 数年前、すべてが終わり、すべてが始まった――。

 

 空を覆う黒煙。


 積み上げられた瓦礫と、命を失った兵士たちの亡骸。



 そして、その中心で返り血を浴びながら、絶望的なまでに美しく微笑んでいた「銀色の軍服の少年」の姿。


 現代の意識が遠のき、二人の魂は、数年前の凄惨な戦場――「地獄」へと、強制的に同期していった。


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