第22話:電脳の瞳
摩耶島の空を、夜明けの群青色が塗り替えていく。
翠嵐閣の「王様サイズのベッド」の上では、昨夜の嵐のような喧騒が嘘のように、奇妙な静寂が支配していた。中央に横たわる迅を囲むように、氷華、恋火、そして静の三人が、まるで吸い寄せられる磁石のように密着したまま眠りに落ちていた。
迅が放った一喝――「威圧」による支配。
それは彼女たちにとって、抗いようのない恐怖であると同時に、愛する男に完全に「屈服させられた」という至上の悦楽であった。その余韻に当てられた彼女たちは、今もなお迅の腕や胸、背中にしがみついたまま、満足げな、しかしどこか熱に浮かされたような寝息を立てている。
「……いつまで寝ている。離れろ」
迅の低い声が静寂を切り裂いた。
その瞬間、三人の乙女たちの身体が跳ねるように震え、同時に目を見開いた。
「っ!? ……あ、あ、朝ですの!? ああ、迅様! 申し訳ありません、規律局長たる私が、職務を忘れて貴方の左腕を独占したまま、あられもない寝顔を世界に……っ!」
「う、うう……。迅の背中、あったかかった……。って、なによ氷華! 先に迅の腕を枕にしてたのはアンタでしょ!」
「……計算通りだよ。迅くんの睡眠時のフォトン波形、完璧に記録させてもらった。……おはよう、僕の特異点」
目覚めた瞬間から、三つ巴の舌戦が再開される。
だが、静だけは、その眼鏡の奥の瞳を妖しく光らせ、手元のタブレットを操作していた。
「……さて。氷華さんと恋火さんは、これから千早理事長主催の『朝の合同演武』に出席しなきゃいけないんだよね。……支持率を維持するために、ファンへの挨拶も兼ねて。……残念だね、迅くんとはここで一旦お別れだ」
「な、なんですって!? 迅様は一緒ではないのですか!?」
「迅くんは、僕のラボで『精密生体データ測定』を受ける義務がある。……昨夜の異常なバイタル変動、そしてアークシェルなしであの威圧を放ったメカニズム……。これを解明しない限り、合宿の安全は保証できない。……これは理事長の直命だよ」
静が提示した「理事長の承認済み」というホログラム。
これには規律局長の氷華も、規約を盾にされると反論できない。恋火も「汚いわよ、八咫の狐!」と叫びながらも、強制的な配信スケジュールに引きずられるようにして部屋を後にした。
嵐が去った後の静寂。
迅と静、二人だけが残された翠嵐閣の一室。静は、白緑色のサイドポニーを指先で弄びながら、獲物を追い詰めた肉食獣のような笑みを浮かべた。
「……さあ、迅くん。場所を移そうか。……僕のラボなら、ドローンの監視すらも僕のさじ加減一つで遮断できる。……誰にも邪魔されない、僕と君だけの『解析』の始まりだ」
連れてこられたのは、摩耶島の地下深くに位置する『第三電脳ラボ』。
厚さ数メートルに及ぶ特殊合金の防音扉が重厚な音を立てて閉まり、外光を完全に遮断した空間に、無機質な青白いLEDが灯った。
そこは、御剣学園の規律も、八坂女学院の情熱も届かない、静が支配する「理」の領域だ。
「精密データ測定と言っていたな。……何をすればいい。あまり時間はかけさせないぞ。あの二人が嗅ぎつければ、ここもただでは済まん」
迅が短く、拒絶に近い声音で告げると、静はくすりと艶やかに笑った。彼女は手元のコンソールを操作し、部屋の照明を落とす。代わりに、迅の足元から青白いスキャナーの光が立ち上がり、彼のシルエットを妖しく縁取った。
「ふふ、わかっているよ。……でもね、迅くん。君の体内のデータは、通常のスキャナーじゃ『ノイズ』が多すぎて読み取れないんだ。……だから、僕が直接、君の細胞一つ一つに問いかけなきゃいけない。……まず、軍服を脱いで。……君の、剥き出しの真実を、僕に触れさせて」
迅は無言のまま、軍服の上着を脱ぎ捨てた。
照明の落ちたラボの中で、鍛え上げられた迅の上半身が、青いスキャナーの光を浴びて彫刻のように浮かび上がる。そこには、アークシェルという補助輪なしで、数多の戦場を潜り抜けてきた「本物の武」が刻まれていた。
静は息を呑み、眼鏡を指で押し上げた。その頬は、興奮を隠しきれず桃色に染まっている。
「……素晴らしい。……アークシェルの強化介入なしで、筋肉の密度がここまで最適化されているなんて。……ああ、迅くん。もっと近くに来て。……理亜、計測の準備を。……直接接触による、深度スキャンを開始する」
「了解しました、マスター。……迅様の表面温度、上昇中。……私の冷却機能が必要なほどの熱を感知しています」
背後の闇から、無機質な歩調で各務理亜が歩み寄る。
彼女の淡い瑠璃色の髪が、ラボの計器類が発する光を反射して、冷たい宝石のように輝いている。理亜は迅の背後へと回り込み、その冷たい指先を、迅の肩甲骨のあたりにそっと添えた。
正面からは静の、狂気を孕んだ探究心。
背面からは理亜の、機械的でありながらどこか執着を感じさせる冷徹なスキャン。
密閉されたラボの中、迅の圧倒的な男性的色香と、二人の乙女の「解析」という名の情念が混ざり合い、濃厚な沈黙が空間を支配した。
「……ねえ、迅くん。君のこの鼓動……。ただの心拍じゃないね。……まるで、体内のフォトンを物理的に『練』り上げているような……。君は、自分の身体そのものを『刀』にしているのかい?」
静の指先が、迅の鎖骨をなぞり、そのまま逞しい胸筋へと滑り落ちる。
彼女は自身の髪を、筆のように迅の首筋へと絡ませた。
「……ああっ、熱い。……理亜、見てよ。……迅くんの神経信号が、僕のアンダースーツを通して、僕の脳に直接流れ込んでくる……。これは、もう……ただの検査じゃない。……魂の、上書きだよ……っ!」
静の理性が、科学という大義名分の下で、音を立てて崩れ始めていた。
ラボ内の空気は、静の荒い呼気と、迅の身体から立ち昇る圧倒的な熱量によって、一瞬で飽和状態に達した。
静は、自身の眼鏡を指先で少しずらし、潤んだ瞳で迅の剥き出しの肉体を見つめた。彼女の指先は、迅の胸筋から腹筋の険しい溝へと、まるで精密機械が迷路を辿るように、しかし確かな愛撫の熱を持って滑り落ちていく。
「……信じられない。迅くん、君の筋肉繊維の一本一本が、周囲のフォトンを吸着し、物理的な磁場を形成している。……アークシェルなしでこれを維持するなんて、人体という規格を完全に無視しているよ。……ああっ、もっと……もっと近くで、君の『数理』を暴かせて……」
静はそう囁くと、自身のトレードマークである白緑色のサイドポニーを、まるで意志を持つ生き物のように迅の首筋へと絡ませた。
彼女の髪の毛には、ナノレベルの感圧センサーが特殊なコーティングとして施されている。それは普段、空気中のフォトンの揺らぎを感知するためのものだが、今、それは迅の「素肌」という禁忌の領域をなぞり、情報を吸い上げるための、最も繊細で、最も不潔な触覚へと変貌していた。
「……っ……。静、冷たいな。それがお前の言う『測定』か」
迅が短く呟く。
静の髪先が、鎖骨から肩口にかけて、氷のような冷たさと、静電気のような微かな痺れを伴って這い回る。それは指で触れるよりもさらに微細な感覚を、静の脳内へと直接投影していた。髪の毛一本一本が迅の毛穴の開き、汗の一滴、皮膚の微小な震えを逃さず捉え、彼女のニューロンへと快楽に近い衝撃として叩き込んでいく。
「冷たい? ……ふふ、それは僕の脳がフル回転して、排熱を抑制しているからだよ。……でもね、君に触れているこの髪先からは、君の細胞が放つ『昂揚』が、濁流のように流れ込んできているんだ。……ああ、迅くん。君のこの肩口……ここから放たれるエネルギーの指向性が、僕のアンダースーツの演算限界を、一瞬で焼き切っていく……っ!」
静は陶酔したように、自身の髪を迅の腕にさらに強く巻き付けた。
彼女はもはや、自身の指先だけでは足りず、身体のあらゆる感覚素子を迅に密着させようと、その薄い身体を迅の逞しい胸板へと押し当てていく。アンダースーツ越しに、彼女の柔らかな胸の鼓動が迅の肌にダイレクトに伝わる。
「……静。やりすぎだと言ったはずだ。計測を終えるなら今にしろ。これ以上は……お前の手に負える領域ではなくなるぞ」
迅の声が、警告の重みを増す。
しかし、その重厚な低音の振動さえも、静にとっては最上の報酬であった。彼女は迅の首筋に鼻先を埋め、その肌の匂いと、血管を流れる猛烈な血液の拍動を、自身の粘膜で直接感じ取ろうとする。
「……嫌だよ。……ここを離れたら、またあの二人が君を奪いに来る。……氷華さんの『規律』や、恋火さんの『本能』……そんな曖昧な言葉で、君を定義させたくない。……君を、僕の脳内にある『唯一の正解』として、完全に解体し、再構築したいんだ……。僕だけの理論で、君を塗りつぶしたいんだ……っ!」
静の吐息が、迅の肌の上で熱く爆ぜる。
彼女の手は、ついに迅のベルトのバックルに指をかけ、その冷たい金属の感触を確かめるように指先を震わせた。
一方で、迅の背後を固める理亜もまた、静の暴走に呼応するかのように、自身の淡い瑠璃色の髪を迅の背中に広げていた。
「マスター。……迅様の心拍数、さらに上昇。……それと同期するように、私のメイン・プロセッサに、未定義の『情動』が蓄積されています。……迅様のこの背中の熱……私の人工皮膚が、融解しそうです。……これは、解析、ではありません。……私という個体が、迅様に『上書き』される予兆です。……マスター、これ以上の接触は……私の回路が、耐えられません……」
理亜の声もまた、いつもの冷徹さを失い、微かな熱を帯びて震えていた。
二色の髪。白緑色と、淡い瑠璃色。
その髪の触手が、迅という名の絶対的な『核』を、科学という名の大義名分で縛り上げ、その奥深くに隠された真実を貪り食おうと、その執着を深めていく。
「……ねえ、迅くん。……君が、アークシェルを拒む理由。……それは、君自身が『シェル』以上の存在だからなんだろう? ……君のこの、硬く、熱い肉体の内側に、どれほどの……どれほどの『暴力』が詰まっているのか……僕に、全部見せてよ……っ!」
静の理性が、完全にシャットダウンされた。
彼女は迅の膝の間に自身の身体を割り込ませ、跪いた姿勢のまま、迅を仰ぎ見る。その瞳に映っているのは、もはや数値データではない。
自分を、このラボを、この島のシステム全てを、その圧倒的な武威で破壊してほしいと願う、一人の「女」としての剥き出しの渇望だった。
「……支持率? ……そんな数値、どうでもいいよ。……今、この瞬間の、君の細胞の震えだけが、僕にとっての真理なんだ……っ!」
静の指が、ついにベルトを解き放とうと力を込めた。
密閉された空間。二人の乙女の長い髪が迅を包み込み、外界から隔絶された「肉体と科学の泥沼」が、その深みを増していく――。
「……見つけた。ここが、君の『熱』の源泉だね……」
静の震える指先が、迅のベルトを解き、その内側の禁忌へと滑り込もうとした、その時だった。
ラボ内のセンサーアンダースーツ越しに、静の脳内へ直接流れ込んでいたバイタルデータが、突如として真っ赤なエラーログで埋め尽くされた。それは迅の異常ではなく、外部からの「暴力的」な干渉を告げる警告だった。
ラボ全体を揺るがす、凄まじい爆発音。
八咫工科が誇る特殊合金製の防音・防壁扉が、内側からではなく、外側からの圧倒的な熱量と絶対零度の冷気によって、紙細工のように「爆裂」した。
「――そこまでです、このドロボウ猫ッ!!」
「八咫のキツネ! アタシ様の迅に何させてんのよぉぉぉッ!!」
もうもうと立ち込める白煙の中から、怒髪天を突く勢いで二人の乙女が現れた。
一人は、白銀のロングヘアを逆立て、周囲の空気を瞬時に凍り付かせた御剣学園規律局長、鳳凰寺氷華。彼女が手にする軍刀からは、絶対零度の冷気が溢れ出し、ラボの精密機器を次々と霜で覆い尽くしていく。
もう一人は、紅蓮の髪を激しくなびかせ、背中に朱雀の翼を顕現させた八坂女学院の至宝、不知火恋火。彼女が踏み出すたびに、ラボの床は超高温で溶け、マグマのような光を放っていた。
「ひょ、氷華さん!? 恋火さん!? どうしてここに……『朝の合同演武』は!?」
静が驚愕に目を見開き、慌てて迅から離れようとする。
しかし、あまりにも執拗に、そして複雑に迅の腕や首筋に絡みつけていた彼女の髪が、焦りによってあちこちで縺れ、迅の肉体に彼女を繋ぎ止めてしまう。
「あ、あれ!? 解けない!? 迅くん、ちょっと待って、今解くから……っ!」
「往往々生際が悪いですよ、静さん! 迅様のバイタルが『不浄な昂揚』を示した瞬間に、演武など放り出して駆けつけました! 規律局長として、このような破廉恥極まる『実験』、断じて許可できませんッ!!」
氷華の瞳には、嫉妬と怒りが入り混じった「極北の炎」が宿っている。彼女は迅の剥き出しの上半身、そしてそこに絡みつく静の長い髪を見て、理性の糸がプツリと切れる音を聞いた。
「なによその格好! 迅を裸にして、自分もそんなエロいスーツ着て……! アンタ、解析なんて嘘でしょ!? ただ迅を独り占めして、あんなことやこんなことしようとしてたんでしょぉぉぉっ!!」
恋火が絶叫し、その手から放たれた爆炎が静のすぐ脇を掠め、サーバーを一つ爆破した。
「マスター……。支持率、計測不能。……外部からの物理的干渉により、ラボの構造維持率が15%まで低下。……避難を推奨します」
迅の背後にいた理亜が、自身の髪を迅の背中から離しつつ、淡々と、しかしどこか名残惜しげに告げる。彼女の瞳にも、静とは違う種類の「未練」が宿っていた。
「……五月蝿いぞ、お前たち」
迅が、地の底から響くような声で一喝した。
その瞬間、氷華の冷気も、恋火の爆炎も、静の狂乱も、まるで巨大な重力に押し潰されたかのように霧散した。
迅は無造作に、自身の腕に縺れついていた静のサイドポニーを、力任せに引き剥がした。
「あうっ!? い、痛いよ、迅くん……っ」
涙目で床にへたり込む静を一瞥もせず、迅は足元に落ちていた軍服の上着を拾い上げ、肩に羽織る。
「……検査は終わりだ。支持率だか何だか知らんが、俺をこれ以上、この薄暗い部屋に閉じめるな。……腹が減った。飯だ」
迅の圧倒的な覇気を前に、先ほどまで殺し合わんばかりだった乙女たちが、一瞬にして借りてきた猫のように大人しくなった。
「……は、はい。迅様。規律に基づいた最高の栄養食を、私が責任を持って毒味……いえ、調理いたします」
「アタシが作る! 迅、アタシ様の特製スタミナ料理、食べたいわよね!?」
「……待って。迅くんの筋肉修復に最適なアミノ酸配合は、僕が……っ」
結局、半壊したラボを後にし、一行は厨房へと向かうことになった。
迅の背中を追う四人の乙女たち。その瞳には、先ほどの「密着」の余韻と、次なる「独占」への新たな火種が、さらに激しく燃え上がっていた。




