第12話:氷の令嬢の独占欲
昨夜の展望台での騒動は、世界中に「天霧迅」という存在を改めて知らしめる結果となった。
登校するなり、学園の掲示板や各生徒の端末には、迅が恋火と氷華の腰を抱き寄せ、守るように滑り込んだあの瞬間の画像が伝説のワンシーンとして拡散されている。
「――ですから! 昨夜の事後報告書に不備があります、迅様!」
放課後、校舎裏の廊下。迅の行く手を阻むように現れた鳳凰寺氷華は、顔を林檎のように真っ赤にしながら、軍用端末のホログラムを激しく明滅させていた。
「事後報告? 昨日のあれは学園長が仕組んだ茶番だ。報告など必要ないはずだ」
「規律上、必要です! 迅様が……その、あのように破廉恥な……いえ、密接な距離で、不知火恋火に接触したことの妥当性を、私が精査しなければなりません!」
氷華の主張は支離滅裂だった。規律局長としての義務を装っているが、その瞳には自分以外の女に触れたことへの猛烈な嫉妬が渦巻いている。
「ちょっと! そこでアンタたちが何してようが、アタシ様には関係ないわよ。迅、今日はアタシ様の修練に付き合ってもらうんだから!」
廊下の曲がり角から、これまた不機嫌そうな恋火が現れ、迅の右腕を強引に掴み取った。
「なっ……離しなさい、不知火恋火! 迅様は今、規律局の管理下にあります!」
「うるさーい! 規律だなんだって、アンタが迅を独り占めしたいだけでしょ!」
氷華も負けじと迅の左腕を掴む。
両側から引っ張られ、身動きが取れなくなる迅。最強の剣士も、恋する少女たちの物理的な情熱の前では、成すすべなく立ち尽くすしかなかった。
「……放せ。腕が抜ける」
「「嫌!!」」
声が重なる。
その喜劇的な光景がドローンで中継され、支持率が急速に上昇し始めた、その時だった。
迅の耳が、喧騒の奥から不規則な空気の震えを捉えた。
「――蛇を出すまでもないか」
迅の声のトーンが、一瞬で戦士のものへと切り替わる。
校舎の屋上、および中庭の死角から、光学迷彩を纏った三つの人影が、一切の音もなく迅の腰元――そこにある『黒鉄』を目掛けて、黒いワイヤーを射出した。
「下がってろ!」
迅は掴まれていた両腕を、関節の遊びを利用した独特の脱力で引き抜き、氷華と恋火を背後の壁へと突き飛ばした。
直後、彼が居た場所を黒いワイヤーが網のように通り過ぎる。それは捕縛のためのものではない。ワイヤーの表面には、物質を腐食させる黒いフォトンが循環しており、狙いは一点。
迅の「刀」を、物理的に粉砕することだった。
「――ッ!?」
突き飛ばされた氷華と恋火が状況を把握するより早く、迅の周囲は黒いワイヤーの檻に包囲されていた。
三人の刺客は、光学迷彩を解くことなく、空間を縫い合わせるように移動する。彼らの放つ黒いフォトンは、触れるものすべてを炭化させる分解の波動を帯びていた。
「ターゲットの四肢は問わん。――『黒鉄』を、折れ」
無機質な命令と共に、ワイヤーが四方から一斉に収束する。
迅は抜刀しない。今この場で鋼を晒せば、腐食のフォトンに刀身を侵される。
「……身の程を知れ」
迅は、網の目のようなワイヤーの隙間を、骨格をずらすような異様な柔軟さで潜り抜けた。
フォトンに頼らず、純粋な視覚と気配察知のみで、数ミリ単位の安全圏を見極める。
「――天霧流・撥・羽がえし」
迅は、鞘に収まったままの『黒鉄』の鍔を使い、迫り来るワイヤーの結び目だけを的確に弾いた。
金属音が連続して響く。鋼の刀身ではなく、より強固な複合材で作られた鞘と鍔で、腐食の波動を最小限の接触で受け流していく。
「馬鹿な……アークシェルも展開せずに、この密度を捌いているのか!?」
刺客の一人が驚愕に声を漏らす。
通常、この世界の戦闘は出力のぶつけ合いだ。だが、迅の戦いは効率の極致。敵の力を利用し、最小の動きで最大の効果を得る古流の理。
しかし、刺客たちも精鋭だった。二人が迅を足止めする隙に、最後の一人が死角から、フォトンを極限まで硬質化した大鎌を振り下ろす。
「迅様、危ないっ!」
氷華がレイピアを引き抜こうとしたが、迅の方が早かった。
迅はあえて大鎌の軌道上へと踏み込み、自らの肩でその斬撃を受けた。
――ガキィィィィィィンッ!!
肉を断つ音ではなく、金属が激突する音が響く。
迅は軍服の肩に仕込まれた厚い防弾プレートに衝撃を逃がし、大鎌が食い込んだ瞬間、相手の懐へと滑り込んだ。
「……得物が大きすぎたな。懐が空いているぞ」
迅の左拳が、刺客の顎を垂直に打ち抜いた。
脳を揺らされた刺客が崩れ落ちる。
「くそっ、化け物め! 総員、最大出力で『黒鉄』を狙え!」
残る二人が、自らの全フォトンをデバイスに注ぎ込み、廊下全体を埋め尽くすほどの黒い棘を射出しようとした、その時。
迅の纏う空気が、一変した。
彼の背後で、氷華が流した一筋の涙。彼女の迅様を守りたいという執念にも似た祈りが、無意識のうちに迅の心拍と呼応し始める。
「――消えろ」
迅の冷徹な一言と共に、廊下の空気が爆ぜた。
無数に迫る黒いフォトン・ニードルの嵐。迅は両腕で氷華と恋火を背後に庇い、あえて一歩前へと踏み出す。
「――天霧流・撥・蛇絡」
鞘のままの『黒鉄』が、迅の周囲で螺旋の軌道を描く。
それは単なる防御ではない。刀身の表面に流れる微かな空気の層を操り、飛来する黒い棘の指向性を根こそぎ奪い、絡め取る。
キキキキッ! と火花を散らし、黒い棘はすべて迅の剣筋に吸い込まれるようにして軌道を捻じ曲げられ、床へと叩きつけられた。
「……ありえない。シェルの介在なしで、私の出力を完璧に無力化するなんて……!」
刺客が絶望に顔を歪ませた瞬間、迅は地を蹴った。
最短距離。一閃。
鞘の先端が、光学迷彩に守られた刺客の喉元を正確に貫く。衝撃で男は壁まで吹き飛び、廊下に沈黙が訪れた。
「……ふぅ」
迅が短く息を吐き、鞘を構え直す。
その肩の軍服は裂け、そこから覗く素肌には大鎌の衝撃による鋭い打撲痕が刻まれていた。だが、迅は苦痛を表に出すことなく、ただ静かに氷華と恋火を振り返る。
「……怪我はないか」
「迅……っ! あんた、自分の肩が!」
恋火が駆け寄り、迅の傷口に手を伸ばそうとする。だが、それよりも早く、氷華が迅の前に立ち塞がった。
「――お下がりなさい、不知火恋火」
氷華の声は、これまで聞いたことがないほど冷たく、そして狂おしいほど情熱を帯びていた。彼女は自身のマントを脱ぎ捨て、それを迅の傷ついた肩に優しく、しかし強制的に羽織らせる。
「これ以上の迅様の露出は、規律局長として、そして鳳凰寺氷華として禁じます。……迅様、この刺客たちは私が責任を持って『処理』します。二度と、貴方の髪一本にすら触れさせません」
氷華は倒れた刺客たちを見下ろした。その瞳には、規律を司る者としての正義ではなく、自らの聖域を侵された者特有の、暗く沈んだ独占欲が宿っている。
「……迅様を傷つけた罪。……私の目の前で、迅様の柔肌を晒させた罪。万死に値します」
氷華がレイピアを地面に突き立てると、廊下全体が一瞬で氷結した。刺客たちは拘束されるというより、もはや標本のように氷の中に封じ込められていく。
「ちょっ……氷女、あんた怖いわよ!」
「……不知火恋火。貴女もです。迅様をこのような危険に晒し、腕を強引に掴むなど……。次からは規律違反として、私が厳重に『監視』させていただきます」
氷華は迅の腕を再び掴んだ。今度は、昨日のような迷いはない。
「もう誰にも渡さない」という意思が、彼女のフォトンを通じて迅に伝わってくるかのようだった。
「……おい、鳳凰寺。腕が痛いんだが」
「……離しません。迅様が、私のものだと世界が理解するまで」
夕暮れの廊下。
氷に閉ざされた空間で、迅を巡る二人の少女の執着は、もはや制御不能なボルテージへと達しようとしていた。




