第10話:剥離した過去の影
パァン! ――その乾いた音が響いた瞬間、迅の思考よりも先に肉体が動いていた。
「……ッ!」
迅は、自分の前にいた氷華と恋火の首根っこを掴むと、強引に床へとねじ伏せた。
コンマ数秒後、迅が先ほどまで頭を置いていた位置の背後――購買部の厚いコンクリート柱が激しく爆ぜ、火花と共に抉れた破片が周囲に降り注ぐ。
「な……実弾!? 演習用のペイント弾じゃない……本物よ!」
床に這いつくばったまま、氷華が戦慄の声を上げる。
「あはは、最高にイカれてるわね! どこのどいつよ、アタシ様の獲物を横から撃とうなんて奴は!」
恋火が憤怒と共に大剣を引き抜こうとするのを、迅の冷徹な声が制した。
「動くな。……相手はプロだ。俺を『狙い撃ち』にしている」
迅の瞳には、日常の気怠さは微塵もなかった。
彼は翻したマントを囮にして反対側へ転がると、一気に校舎の影へと姿を消した。狙撃手は一人。だが、この美しくない一撃こそが、学園のシステムとは無関係な外格の刺客が動き出した合図だった。
(狙撃は陽動だ。奴らの本命は――俺の部屋か)
迅は風を切り、自室のある寮へと疾走する。
辿り着いた部屋のドアは、すでに何者かによって抉り取られていた。室内は徹底的に荒らされ、ベッドの下の隠し床までが暴かれている。
部屋の中央には、学園の制服ではない黒い戦闘服を纏った男が立っていた。その手には、迅が封印していた黒い小箱が握られている。
「……それを置け」
迅の殺気が、室内の温度を凍りつかせた。
「ほう。やはりこれか。支持率0%、フォトンなしの『無能』の正体が、この小さな箱の中に詰まっているわけだ」
男が不敵に笑い、箱の蓋を強引にこじ開けた。
その瞬間、後を追ってきた氷華と恋火、そして最悪なことに、無数の撮影ドローンが室内へとなだれ込んできた。
開かれた箱の中から、夕闇を拒絶するような銀色の輝きが溢れ出す。
「それは……嘘……嘘でしょう……?」
氷華の足が、ガクガクと震え始める。
そこに鎮座していたのは、現代のフォトン技術では再現不可能なほど純度の高い、銀色の勲章。
――『星辰双剣大綬章』。
かつて、一人の少年にのみ授けられた伝説の勲章を見た瞬間、氷華の脳裏に、炎に包まれた幼き日の記憶が奔流となって蘇った。
「……迅……様。本当に……本当に、貴方だったのね……っ!」
規律局長としての仮面が、音を立てて崩れ去った。
氷華の瞳から溢れ出したのは、数年間の孤独と憧憬が混ざり合った、熱い涙だった。
「……迅様。ああ、迅様……っ!」
氷華の叫びは、もはや規律局長のものではなく、ただ一人の少女の、魂の底からの慟哭だった。
あの日、フォトンの光が絶え、絶望だけが支配していた瓦礫の街。自分を抱き上げ、出口まで導いてくれた、銀色の輝きを纏った少年。彼が胸に付けていたものと同じ勲章が、今、迅の目の前で冷たく光を放っている。
「旧連邦の『神童』、天霧迅。数年前、戦場のど真ん中で忽然と姿を消した『光の頂点』が、まさかこんな掃き溜めで隠居していたとはな」
男の言葉と同時に、ドローンがその勲章をクローズアップで捉えた。
解析班たちが瞬時に特定を開始し、学園中の全モニターに、かつて銀色の軍服を纏い、数多の敵軍を一人で壊滅させていた幼き日の迅の姿がオーバーレイされる。
「……その名で呼ぶなと言ったはずだ、氷華」
迅の声は、地を這うようなプレッシャーを孕んでいた。
彼はゆっくりと歩みを進める。その一歩ごとに、室内の空気が物理的に軋み、男が手に持っていたフォトンの警棒が、回路の悲鳴のような異音を立て始めた。
「な、なんだ……この圧は!? 貴様、フォトンは使えないはずだろう……!」
「フォトン? あんな不確かなものに頼らなくても、お前を殺す手段なら、俺は一万通りは知っている」
迅の瞳から、光が消えた。
代わりに出現したのは、数多の戦場を潜り抜けた者だけが持つ、純粋な死の気配。
男が耐えきれず、絶叫と共に警棒を振り下ろす。
だが、迅の動きは、男が指に力を込めるよりも遥かに早かった。
「――お前たちの『光』は、眩しすぎて隙だらけだ」
抜刀すらしなかった。
迅は一歩踏み込むと、男の視界から消えるような超高速の『浸透勁』を、その鳩尾へと叩き込んだ。
ゴフッ、という鈍い音と共に、男の体がくの字に折れ、壁まで吹き飛ぶ。手から離れた勲章の箱を、迅は空中で無造作に掴み取った。
「あはは! 凄い、凄すぎるわよ迅! アンタ、ただの『強い奴』じゃなかったのね。かつての『最強』が、光を捨てて影に潜んでた……。これ以上の『獲物』が、この世にいるわけないじゃない!」
恋火が興奮で全身から火花を散らし、熱狂的な笑みを浮かべる。
しかし、迅はその熱を拒絶するように、勲章をポケットへ乱暴にねじ込んだ。
「……迅様、どうして……。どうして、あんなに美しかった『光』を捨ててしまったのですか? 貴方は、あの日の『救世主』だったはずなのに……」
氷華が、震える指先で迅の袖を掴もうとする。
迅は、その手を静かに、しかし冷酷に振り払った。
「美しかった、だと? ……あれは、呪いだ」
迅の言葉と共に、彼の脳裏に、勲章を授与された瞬間の記憶がフラッシュバックする。
喝采を送る民衆の背後で、自分が救いきれなかった仲間の遺体が、ゴミのように積み上げられていたあの戦場。フォトンという過剰な力が、人間をいかに効率よく資源として消費していくか――その惨劇を、彼は誰よりも間近で見てきた。
「俺は、俺自身を救ういために光を捨てたんだ。……二度と、あの場所に俺を戻そうとするな」
迅の告白を嘲笑うかのように、スピーカーから、学園長・千早の狂喜に満ちた声が響き渡った。
『――素晴らしいわ! 伝説の神童の帰還! これで弧光の祭典は、単なる学生の行事を超えた神話になる!』
学園中に響き渡る千早の笑い声。
千早の操作により、迅の個人ページには伝説の神童というタグが強制的に付与され、彼の過去の戦果データが、まるで新作映画のプロモーション映像のように世界中へストリーミング配信され始めた。
「迅様……そんな、これでは……」
氷華は膝をついたまま、呆然とモニターを見上げていた。
彼女が守りたかった平穏な迅はもういない。世界は、彼を再び戦いの渦中へと引きずり出したのだ。それも、かつてのような救世主としてではなく、最高額の投げ銭を稼ぎ出す最高のコンテンツとして。
「あはは! 決まりね! アンタが逃げるって言うなら、アタシ様が力ずくで捕まえてあげる。アンタのその『影』、アタシ様の炎で全部焼き尽くして、アタシ様だけの『光』に変えてあげるわ!」
恋火が不敵に笑い、大剣を担ぎ直す。
しかし、迅はその熱狂を冷めた目で見つめ、低く告げた。
「……勝手なことを言うな。俺は、誰の『光』にもなるつもりはない」
迅は、割れた窓から吹き込む夜風に吹かれながら、ポケットの中で勲章を握りしめた。
隠していた過去。捨てたはずの栄光。
それが暴かれ、世界中の好奇心の対象となった今、彼に残された道は二つ。
学園を去るか、あるいは、この狂ったシステムそのものを内側から叩き潰すか。
「迅……。これ、もう逃げ場はねえぞ」
親友の蓮が、タブレットの画面を見せながら駆け寄ってくる。
「見てみろ、注目度のグラフがオーバーフローしてる。学園の全生徒が、お前の『次の一手』を金に換えようと狙ってるぞ。……そして、学園長から追加の命令が来てる」
蓮が提示したホログラムには、千早からの特別任務が記されていた。
『天霧迅。君の注目度を維持するため、明日の放課後、不知火恋火との「公開親睦会」を命じる。拒否すれば、君を学園の反逆者として指名手配し、即刻排除する』
「……親睦会だと?」
迅の眉が深く寄る。
「デート!? 迅とアタシ様が!? やったあああ! 氷女、聞こえた!? アタシ様と迅のデートが公式任務になったのよ!」
「な……ななな……認めません! 破廉恥です! 私が、私が監視として同行します!」
再び火花を散らし始める二人の少女。
迅は、自分の意志を置き去りにして加速していく物語に、深いため息をついた。
「……平穏なんて、最初からなかったんだな」
かつての神童が沈黙を破り、再び表舞台へと引きずり出される。
それは、御剣学園を揺るがす巨大な波乱の幕開けに過ぎなかった。




