第二章:慈愛の媼、夫を完封す
さあ、物語を続けましょう。
黄金の赤子を抱えた翁が、鼻歌交じりに山を下りてきたところでしたね。
ですが、自宅の庵が見えてくるにつれ、あんなに威勢の良かった翁の足取りが、目に見えて重くなっていったのでございます。
「……まてよ。勝手に赤子を連れ帰ったと知れたら、婆さんは何と言うか。いや、説明すれば分かってくれるはずだ。俺は一家の主、讃岐の造なのだからな!」
独り言で自分を鼓舞する翁。ですが、その顔は心なしか引きつっております。
何を隠そう、この天下無双の翁がこの世で唯一、本気で「勝てない」と悟っている相手……それこそが、長年連れ添った最愛の妻、媼だったのです。
「婆さん! 今戻ったぞ! 見てくれ、今日はとてつもない――」
翁が扉を開けた瞬間、言葉が喉に詰まりました。 部屋の真ん中。媼が静かにお茶を淹れて座っておりました。
彼女は一言も発しません。ただ、お盆の上に置かれた茶托が、翁の一歩に合わせて「カタッ」と、わずか一ミリだけ跳ねたのです。
「……あら、おかえりなさい。あなた、その腕の中のものは、どこのお屋敷の宝物ですの?」
声は鈴を転がすように穏やか。ですが、翁の背中を冷や汗が伝わります。
媼の瞳がスッと細められた瞬間、翁は反射的に、「ハッ!」と、赤子を抱えたまま完璧な直立不動の姿勢を取りました。
「ち、違うのだ婆さん! これは拾ったのだ。竹の中から、こう、パカッと……!」
「嘘をおっしゃい。そんなおとぎ話、三歳の子供でも信じませんわ。……正直に言いなさい。そのお子、攫ってきたのでしょう?」
「滅相もない! 俺がそんな卑怯な真似をすると――」
「お黙りなさい」
媼が、手に持っていた茶碗の蓋を、指先で「トン」と弾きました。
するとどうでしょう! 弾かれた蓋が目にも留まらぬ速さで空を飛び、翁の耳元をかすめて背後の柱に深々と突き刺さったではありませんか!
「ひ、ひぃっ! 婆さん、危ないじゃないか! 命にかかわるぞ!」
「あら、避ける隙を与えて差し上げたつもりですけれど? ……あなた、近頃お外で少しばかりお名前が売れているからといって、調子に乗っていらっしゃいませんか?」
媼がしずしずと立ち上がります。
翁は慌てて赤子を座布団の上に置くと、「わ、分かった! ならば実力行使だ! 俺の言葉が信じられぬというなら、拳で語るまでよ!」
そう言って、翁は庭へ飛び出しました。
巨大な戦斧を構え、筋骨隆々の肉体を誇示するように吠えます。
「さあ来い、婆さん! 俺もたまには一家の主らしいところを見せねばならんからな!」
ですが、これはいけません。翁の足がわずかに出口で震えております。
媼は溜息をつき、庭に落ちていた「竹の枝」を一本、優雅に拾い上げました。
「よろしい。少し筋肉を解して差し上げますわ」
翁が猛然と斧を振り下ろしました!
空気が爆ぜ、地面が割れる一撃! しかし、媼はその場から一歩も動きません。竹の枝をスッと差し出し、斧の平に「ぺちん」と触れただけ。
それだけで、翁の全力の一撃は、まるで意志を失ったように軌道を変え、自分の足元の地面を粉砕しました。
「あだだだだ!? 手、手が痺れる! 何だ今の技は!」
「無駄な力が入りすぎなのです。愛が足りませんわね」
媼が竹枝で空中をなぞると、突風が巻き起こり、翁の巨体が木の葉のように舞い上がりました。
「わあああ! 婆さん、待て! 降参だ! 降参するから、庭の池にだけは落とさないでくれー!」
ドッパァァァン!!
願いも虚しく、翁は池の主のような派手な音を立てて水中に没しました。
水浸しになって這い上がってきた翁は、シュンと肩を落とし、まるで叱られた子犬のように媼の前に正座いたしました。
「……すまん。俺が悪かった。でも婆さん、本当に竹から出てきたんだ……信じてくれ……」
情けなく鼻をすする翁。
その時でございます。庭の隅で、二人の戦いをじっと見ていた赤子が、「きゃらきゃら」と鈴のような声で笑い声を上げました。
「……あら?」
媼の表情が和らぎました。
赤子は、池に落ちた翁を見て、馬鹿にしているのではなく、まるで「いい芸を見た」とばかりに喜んでいるのです。
「……ふふ、この子。あなたの無様な姿を見て喜ぶなんて、なかなか胆が据わっていますわね」
「そ、そうだろう!? 俺が体を張って笑わせたのだ!」
翁がここぞとばかりに胸を張りますが、媼の鋭い視線に、すぐにまた「あ、はい……」と萎縮いたしました。 媼は赤子を抱き上げ、その頬を優しく撫でます。
「……いいでしょう。この子の笑顔、そしてこの底知れぬ気配。竹の精霊の申し子という話、信じて差し上げます。ですがあなた、これからこの子を育てるにあたって、変な筋肉の付け方を教えたりしたら……分かっていますわね?」
「も、もちろんだ! 婆さんの言う通りにする! 何でもする!」
翁は、びしょ濡れのまま深々と頭を下げました。
外では鬼神のごとき翁も、家の中では最愛の妻に一分の隙もなく完封される。
そんな奇妙で、それでいて深い愛に満ちた最強夫婦のもとで、かぐや姫の「英才教育」が始まろうとしていたのでございます。
……あ、私ですか? 私はその時、翁が池に落ちた衝撃で飛んできた魚を、こっそり夕飯のおかずにいただこうとして……いえいえ、何でもございません。
さあ、次は、この「媼に絶対服従」の翁と、最強の媼が、かぐや姫をどう育て上げるのか。
それはまた、次のお話で。




