届いてほしくて
あっという間に時は過ぎ去る。置いていった過去ももう見えなくなるほどに。
雫さんが仕事に戻ってから一カ月、否定できないほどの喪失感も去ろうとしていた。
楽しかった記憶も一旦しまい込み、本格的に過去問などを解き始めている。大体は8、9割。割といい感じだ。先生も、この調子でいけば合格できるだろうと言ってくれた。
確かな自信と、あの時感じた憧れだけを胸にひたすら文字と向き合っていた。
戻ってきた、いつもと変わらない毎日。
すっかり冷え切った空気を追いかけるように空を見る。
白い空はまだ、遠く光っている。
『宇宙は、あなたが思っているような場所じゃない』
突然、そんな言葉が響く。正直、まだ忘れられてはいない。
私の期待と違ったらどうしよう。全てが無駄になったらどうしよう。
それは全て覚悟で頑張ってきたつもりだった。
怖くなってきたのだ、今更。
期待外れ、ならまだいいかもしれない。
途中で気が変わってしまったら?私に向いていなかったら?
そんなありもしない不安がどんどんと湧き出てくる。
そもそも進学できる確証すらない。なのに、どうして。私が追いかけていたものは、あの空なの?
それとも、雫さんなの?
脳裏に浮かぶ笑顔。明るくて、眩しくて。まるであの空みたいだなと思えた。
もし、彼女が私の事をなんとも思っていなかったら。
彼女が絶対に届かない存在だったら。
掴めない夢も、憧れも。全部、間違っていたら。
「う、うぅ……」
胸の奥が苦しくなる。締め付けられるような感覚。今にも吐き出しそうで、苦しい。視界が揺らぐ。
「あ……れ?」
私、なにがしたいんだっけ。
――
視界に飛び込んでくる無機質な白い天井。窓から差し込む光は冬の温度を含んでいた。
「青木さん、起きた?」
「あ……ここ……」
「先生、青木さん起きましたよ。」
部屋に響く聞き慣れない声。微かな薬品の香り。
少し軋むベッドの上で、私は目を覚ましたようだ。
胸の苦しみが少し残る。震える呼吸を飲み込み、辺りを見渡す。
そっと開かれる扉、入ってきたのは廣瀬だった。
「青木、大丈夫か……!?途中の道で倒れてるって聞いて、慌てて行ったんだぞ……」
「ああ、大……丈夫。ごめん……なさい、迷惑かけちゃって。」
はあ、と安心したのか、ため息を漏らす。
「寝不足、ですかね。隈もすごいですし。」
「はあ、そうですか。ありがとうございます。お前、夜遅くまで勉強してんのか。」
夜遅く……考えてみれば確かにそうかもしれない。昨日寝たのも何時かは憶えていないが、少なくとも二時は回っていたと思う。
「……頑張るのもいいけどな、無理のし過ぎもよくないぞ。ちゃんと寝ないと、睡眠は生物の基本だからな。」
無理をしている、という感覚はなかったが、知らぬ間に体に負担をかけてしまっていたらしい。
「うん、ごめん」
重い身体を起こす。
「授業、受けられるか?辛かったら今日は帰っても」
授業、受けなきゃ。それくらいはわかってた。
でもどうしてか身体は動かず、ただ見えない笑顔を浮かべることしかできなかった。
「ごめん、今日は帰る」
それだけ言ってふらつく足で立ち上がる。
「えっと、ありがとうございました。」
回らない頭で喉の奥から声をひねり出す。それが、今の私にできる精一杯だった。
ずっと、何かが詰まっているような感覚。その何かでいっぱいになった重い頭で帰路につく。
家にはきっと、誰もいない。親に連絡がいくだろうか。心配させちゃうかな。
溢れそうになる涙を堪えながら歩く。
でも結局、ベッドに横たわった瞬間、せき止められていたものが全部流れ出してしまった。
何も、何もわからない。自分が何をしたかったのか。何を目指していたのか。ずっと目指していたあの空は、私にとって何だったのだろう。ずっと追いかけていた雫さんは、私のなんだったのだろう。
『憧れだけじゃ続かない。』
また彼女の声が響く。きっと、彼女もどこか諦めていたのかもしれない。
彼女は、雫さんは。私を否定していたわけではなかった。
でも、今の私が、私を否定してしまっている。
何にも確信が持てないまま、何もできないまま。ただ、時間だけが過ぎていった。
――
それは、不意に見えたネットのニュースだった。
『ISEAのパイロット、任務中に負傷』
「ISEAのパイロットが宇宙での任務中爆発事故に巻き込まれ……」
「一人が重症……」
文字を流し見しながら声に出してみる。何か嫌な予感がして、しばらく何も読んでいなかった私の頭にもスラスラと入ってきた。
「重症を受けすぐに地球本部の病院に運ばれたのは……」
「杠……雫さん……」
信じられなかった。信じたくなかった。
血の気が引く、とはこういう感覚なのだろう。体中の感覚が一瞬で無くなったし、その数秒間、私は思考すら放棄してしまっていた。
そんなことも気にできないくらいの衝撃。静まり返った部屋は、私の体温をさらに下げる。
「なんで?どうして?」
そんな言葉は出なかった。
何を考える暇もなく、すぐに着替え荷物を持つ。理由なんていらない。場所はわかっている。
彼女に会いたいと、ただそれだけの感情を胸に、久しぶりの外へと足を踏み出した。
酷く北風の吹き荒れる空はどこかくすんでいた。私の記憶に似つかわしくない、そんな灰色の空。
未だあの時の涙は目の奥にいる。
でも今はそれ以上に、彼女に会いたいと、そう思っていた。
最後なんて言いたくない。考えたくない。何も考えずにただ走る。
近くの駅、幸運にも電車は三十分ほどでやってきた。待つ人は私一人だけ。
先ほどから感じる酷い孤独感に耐えながら、肌寒い空気の中、電車を待った。
どれだけ経っただろうか、もう辺りはすっかり暗くなった。時計を見ると夜の二時。この時間まで起きているのは久々だ。それでも、あの時とは感覚が違う。
いつか見ていたあの空じゃない、と、雫さんに向かってただ足を速める。
それは、やがて電車がなくなった後も続いた。
病院に向かって、ただひたすら夜の街を歩く。寝静まらない光の中、慣れない喧騒さえ大した障害ではなかった。
不意に足の痛みが私を引き留める。また、知らない間に無理をしていた。
思えば、朝から何も食べていない。お腹もすいてきた。どこかで一休みした方がいいだろう。
でも、私は止まれなかった。止まるわけにはいかなかった。
すぐあそこで、雫さんが待っている。手を伸ばす。届かないそれに。
「雫さん!」
力に任せてドアを開ける。
真っ白な病室、朝焼け。光に包まれたそこには、雫さんがいた。
「梨奈ちゃん……!?どうして、わかったの?」
「ニュース見て、来た」
「遠かったでしょ……!……ごめんね。」
暗く淀んだ彼女は、私をそっと見つめる。
「事故でね、爆発に巻き込まれちゃって。それで……」
聞けば、下半身が動かないらしい。もう、宇宙へ行くことも。
「ごめんね、こんなんになっちゃって……」
彼女は、無理をして笑ってみせる。今にも泣きだしそうなのは、わかっていた。
「梨奈ちゃんも、何か苦しそう。」
どうしてわかるんだろう。
どうして、私の心配なんかをしてくれるのだろう。
「ね、梨奈ちゃん。」
向こうから手を伸ばしてくる。私も迷わずに、目の前の彼女に手を伸ばした。
「雫……さん……」
彼女の上半身を抱きしめる。強く。あの時の熱は感じなかった。
ただ悲しげな、冷たさだけが残っていた。
涙を流す彼女。つられてせき止められていた涙が溢れてしまう。
「私、ずっと憧れてて……、空に、雫さんに。隣で歩けるようになるって、思ってて」
今まで無視していた言葉も溢れてくる。止まることを知らず。
「でも。わかんなくなって。自分の気持ちが、将来が」
「全部間違えてたらどうしよう、って思ったんだよね。」
まるで心を読んだように彼女が言う。
「わかる、わかるよ。私も同じ気持ちだったから。ずっと、自分が信じられなくて。」
抱きしめる力が強くなる。まるで、お互いの心の距離を縮めるように。
「私もね、憧れてたの。あなた……梨奈ちゃんに。」
震える声が聞こえる。何にも邪魔されずに、ただ私の耳に入ってくる。
「ただ純粋に夢を、憧れを追うあなたが羨ましくて。」
喉の奥から言葉を出す。苦しそうに、それでも言葉を連ねる。
「夢を追いかけるあなたは輝いてて、楽しそうで、あなたの隣で笑っていたいって」
「だから、追いかけてくれるあなたのために、もっと頑張ろうって思えたのに」
ひとつ、またひとつ。お互いの感情を伝え合う。
きっと、最初からそうだった。
「ごめんね、ごめんね。」
謝らないで。
最初から、こういえ言えばよかったのに。
あの夏、気づけば傍にいて。私の憧れでいてくれた彼女に。私に憧れていた彼女に。
「好きです、雫さん。」
気付けば口にしていた。ずっと閉じ込めていた本心。
溢れ出す感情。息も震える、静寂の中。微かに彼女の手が温かくなった気がした。
そっと、手を重ねる。
「こうしてると、あったかくて安心……しますよね。」
そう微笑み、彼女の顔を見つめる。
涙の止まらないその顔はあの時のように優しく微笑み、手を握り返す。
「うん。あったかい。」
お互いの温度を感じ合う、その最中。
「私も、好きだよ。」
ようやく、心の底から彼女に触れられた気がした。




