覚めぬ熱
憧れ、とは一体なんなんだろうな。かつて見たぼやけた憧憬、空への羨望。
もちろんその対象は人にもなりうる。
憧れの人、と言っても色々あるだろう。目指している職業の業界で名を馳せている人だとか、それとも単純に好きな人だとか。
恐らく前者であろう、私は似たような感情を彼女……杠雫に感じていた。それも、夢の果てに絶望した彼女を見て落胆したわけではなかった。
話を聞けばどんどんと彼女のことがわかる。
高校大学共に成績は上位、ISEAに入った後もスーツ操縦の実技で好成績を取ったり、チームリーダーになったり。
超人、と言えば聞こえは良くなりすぎてしまうが、それでもそう呼びたくなるくらいにはすごい人だった。
こんなにすごい人が私と関わっているのだと、そんな事実さえ受け入れられなくなるほどに。
だからこそ私は彼女の隣にいる自分に違和感を覚えないように、同じくらいの人間になりたいと思うようになっていった。
夢とは違う憧れ、目標と呼べばいいだろうか。そんな物を、彼女の中に見ていた。
「ここが水族館……!魚、がいっぱいいるんだよね!」
気分が高揚しているのか、目を輝かせる。
「学生のときとかは忙しくて遊ぶ暇がなかったから、こういうの初めてで。ごめんね、無理言って連れてきてもらっちゃって。」
「いえ、私もあまり来たことはないので。楽しみです。」
過去の彼女は知らない。話を聞く限りは、ずっと勉強に明け暮れていたようだ。
こうやって出かけたりすることもなかったのだろう。かといって別に私も遊ぶ友達がいるわけでもないし、こういうのは慣れていない。
虚勢を張っているうちは私のほうが優位に立てる。そんなことを考えていた。
青く広がる大水槽。あの海とも違う幻想的な様相が広がる。
この限られた空間、水槽という場所に囚われた彼らは海という自由を知っているのだろうか。
飛び出してみたいとは思わないのだろうか。彼らはきっと知らない。海も、宇宙も。
「ね、あれエイだよね」
どこか自分を水槽の中の生き物たちに重ねていた私の意識は、その声によって現実へと引き戻される。
「前に行った星でね、おっきいエイみたいな生き物が空を飛んでたんだ。」
大きなエイが空を飛ぶのを想像する。
こんな景色が空の向こうにあるのかと、ますます興味がわいてくる。
一層、憧れだけでは終わらせられなくなってしまった。見てみたい。知らない世界を。
「梨奈ちゃん、聞いてる?」
「あっ、ごめんなさい」
つい色々と考えてしまう。気付けばこうやって、自分の世界に浸ってしまっている。
「梨奈ちゃん、あんまり楽しくない?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんですけど……。やっぱり、色々考えてしまって……」
「ん~、そうだね、わかるよ。」
彼女の温かさが私の手に触れる。
「え、ちょ、ちょっと!?」
突然手を握られ体が跳ねてしまう。
「ほら、こうしてるとあったかくて安心するでしょ?」
確かに、私の手は冷えていた。
こんな真夏の真下なのに、冷房のせいだろうか。
「あ、ええ……まあ、はい。」
困惑する私をよそに、彼女はそう続ける。青い光に照らされる横顔をそっと眺める。それはまるで、あの時の空色を見つめるように。
「お腹、すいてきちゃったね。どこかご飯食べられるとこあるかな。」
その瞬間、離される手。どうしてか少し寂しい。
もっと熱を感じていたかったなんて、馬鹿みたいだ。そんなありもしない感情を奥にしまい込む。
そうやって段々と、気付けば彼女に惹かれていた。
最初は愛想笑い混じりに笑っていた私も、いつしか彼女の隣で普通に笑えるようになっていた。まるで友達みたいに。
あのときの緊張も、完全に解けていた。
――
いつの間にかめくれて消えたカレンダーの乗った机と向き合う昼。
明かりのない薄暗い部屋の中、今日も分厚い本を睨む。
少し止まった手に隙を見たように、大きな音が割って入ってくる。外に響く破裂音。聞きなじみのある音だ。
「花火、か……。」
夏の代名詞と言えるのかもしれない、夜空に咲く花が頭を過る。
もう数百年も前からずっと続いているらしいこの時期の花火は、胸に強く響く音と鮮やかな光で空を彩る。
軌道エレベーターができるよりも昔は日本中で花火が打ち上げられていたらしいが、年々その文化は失われて、今はここと他に数か所しかやっていないらしい。だから、この時期になると多くの人々が遠くから来るのだ。
そのせいでお祭りはかなり混むし、正直花火なんてゆっくり見ている余裕はないと思うが。
今年は特別見に行く予定もなかった。ずっと部屋で勉強しようと思っていたのだが、ある考えに邪魔されてしまう。
突然で迷惑にはならないだろうか、とかは考えだしたがそのときには既にメッセージの本文を書いていた。
「『今度の花火大会一緒に行きませんか』っと……これでいいかな……」
『近くの山に花火が綺麗に見える神社があるんですけど』という文章は打ち終わったところで消した。
こんな詳細な情報は書かなくてもいいんじゃないか。そうしたらまるで、私が全部プランを考えてるみたいな、どうしても行きたいと言っているみたいだ。
少し悩んだ末に、思い切って送信ボタンをタップする。何を悩んでいるんだ私は。
素直に一緒に行きましょうとだけ言えばいいはずなのに、断られたらどうしようとか感じたこともない怖さを感じる。
私のスマホから放たれたその文章が電子の海を伝う間に、手に持ったそれをベッドへ放り投げる。
そして再び机と向き合い、ペンを握った。
時間を刻んでいく電子時計、無音の中ペン先を滑らせる。
「……」
気になる。スマホの通知が。集中しなければいけないのに、どうしても気になる。
どんな返事が返ってくるだろうか。
きっと了承してくれるだろうことは想像がつく。じゃあそれでいいじゃん、と納得することはなぜかできなかった。
いつの間にか縮まっていた距離。そのほんの少しの間を埋めていくように、一歩ずつ彼女へ近づいていく。今はその過程にいるだけ。
私も、いつか彼女の隣に立てるような人間になれるだろうか。
「……よし」
思い切ってスマホの電源を切る。
完全な静寂が約束された部屋、あの空への憧れにも似た、彼女への微かな空色の感情を胸にペンを握った。
――
「梨奈ちゃん、かわいい!すごく似合ってるよ!」
「ありがとうございます。雫さんも、とても似合ってますよ。」
着慣れない浴衣を夏風に靡かせる、午後六時半。海岸線に沈む夕景は空を赫く染め上げる。
まだ微かに明るい空の下、お祭りの匂い漂う屋台の間を二人で歩いていた。
橙の灯はもうすぐそこまで迫っている。
「すごい、いろいろお店があるね。わたしあんまりお祭りとかも行ったことなかったから、梨奈ちゃんと来られて嬉しいよ。」
がやがやと多くの人で溢れかえる中、ピンク色に染まる頬で笑う彼女から目が離せなくなってしまう。喧騒の中、彼女の声だけが鮮明に聞こえるほどに。
「じゃあ、行こっか。いろいろ食べたいなぁ……」
そう言って駆け出す背中を見る。
からあげやたこ焼きなんて書かれた屋台を次々と回る。全部ありがちなものだ。まあ、それがいいのだが。
ところで、別の場所に同じものが売っていたりするが同じくらい売れるのだろうか。それともどこかに差があるのか。
なんて関係ないことを考えてしまう。貨幣音が鳴る小さな鞄を抱え、また人込みへと踏み出す。
「あれ?」
そのとき、雫さんがいないのに気付いた。さっきまでずっと側にいたのに、いつの間に離れてしまっていたらしい。
早く探さなければ。辺りを見渡す。不意に私は、早まる焦燥感を抱いているのに気付いた。
先ほどよりも増えた人込みの中、そう簡単に見つかるわけはない。
楽しかったはずの熱が、匂いが、徐々に不快に体を巡る。
足が重くなるような感覚。何かを手放したわけでもないのに、落ちていく。離れていく。
「や……やだ……」
手を伸ばす。
『空へ、』
あの時の、私の声が聞こえる。それは、遠くて届かないもの。いくら手を伸ばしても、追いつけないもの。
それでも失ってしまいたくなくて、離れたくなくて。
「梨奈ちゃん、いた!」
そっと、手を掴まれる。そこには、見知った顔がいた。
「気づいたら離れちゃってて……って、なんか泣いてる……?」
「……泣いてません」
感じずにいた喪失感をその言葉でなぞる。
温かく握られたその手は、あの時のように安心感をくれた。
安堵のため息をつく。吹いた風に飛ばされそうなほど、浮かんでいた気持ちを鎮める。
「離れないように、離さないでね。」
強く握られた手、熱を帯びたそれに、次第に汗が滲む。
そんなことも気にせず、握ったまま歩き出した。何故だか、心臓の音が少し早くなる。
隣はまだ歩けない。でもこうして手を引かれ着いていくだけで幸せだった。何かとても苦しくて、それでも楽しかった。
「こんなに綺麗に見える場所があるんだ、よく知ってたね。」
近くの山の中腹、木々の間から露出したその神社は、花火を見るには絶好の場所。
ずっと前におばあちゃんに教えてもらったこの場所は、私たち以外には人はいない。
誰にも邪魔されずに、この時間に浸れる。まさに秘密基地みたいだ、なんてずっと思っている。
そこに辿り着いた頃、まるで私たちを見ていたかのように光が空に灯る。
連鎖する破裂音と共に空に咲く花。赤、緑、紫とカラフルに彩られるその空は、まるで夢の景色のようだった。
「わあ……これが、花火。こんなに大きな音なんだね。」
重く響くその音は私の、私たちの胸に強く響く。
「花火って、宇宙からは見えたりしないんですか?」
不意に疑問に思ったことを口にする。
「んー、わかんないなあ。そもそもあんまり知らなかったから……」
「でもこんなに綺麗なら、きっと見えると思うな。」
そう微笑んで返す。まだ手は握られていた。
真っ暗で、何も見えない空に咲く花たち。胸を打つその音に、光に、見惚れていた。
そんな彼女の手を、ぎゅっと握りしめた。
「ねえ、梨奈ちゃん。」
いつもとは違う、どこか苦しそうな張り詰めた声を漏らす。
そんな彼女の様子に、どこか身構えてしまっている自分がいた。
「……やっぱり、なんでもない。」
「なんですか、急に。」
なんでもないなんて、そんなことないのはわかっていた。でも、それ以上余計に深入りするのはやめた。きっと、そのほうがいい。
「……梨奈ちゃんは、憧れを追いかけ続けて。きっと、叶えられるから。」
どこか諦めたような顔で、そう呟く。
「はい。頑張って、雫さんの隣に並んで歩けるようになります。」
きっと言いたいことはこれじゃない。そうわかっていながらも、何もなく言葉を返した。
「ふふ、なにそれ。」
笑い合う二人、花火が終わっても、手は握り続けた。
木々の隙間を、夏夜の風が通り過ぎた。




