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小人の肩に乗って  作者: 入江晶
3.遠い暗闇
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3-4.命の形

 足の裏に、薄い芝生越しの、冷たく湿った土の感触を受けながら、僕は歩いた。間近に迫っても暗闇は暗い闇のままだった。僕がそこに踏み出して歩いていくと、今度は違うものが足に触れた。芝生よりもずっと長い草の堅さ、枝や石の刺すような痛み、得体の知れないまとわりつくような生暖かい柔らかさ、降り積もった葉っぱに足を落とせばどこまでも沈んでいった。足だけではなかった。垂れる枝が僕の頬や腕をひっかき、葉っぱが顔をくすぐり、わずかな糸が顔に引っかかったように感じたのは、蜘蛛の巣だか糸だかを通り過ぎてしまったからだろう。腕を控えめにちくちくと刺しながらゆっくりと這い回っているのは、家を失った家主が、僕に抗議しようとしているのかもしれなかった。そんな感触も、やがて消える。次々に感覚が入れ替わる。しかし何も見えはしなかった。聞こえるのは、葉っぱを踏む僕の足音と息づかいだけだった。

 僕は延々と歩き続けた。どれだけの時間そうしたのかも分からないし、どこに行こうとしているのかも分からない。周りが明るくなって、また暗くなったような気もするし、何かの光が一瞬閃いただけのことだったような気もする。そしてそんなことが繰り返されていたようでもあったし、一度も起きていないようでもあった。僕は暗闇の中を歩き続けていた。

 僕がなぜ歩いていたのかは分からない。ただ思ったのは、もしこのまま歩き続ければ僕は死ぬだろうし、死ぬことになる場所にたどり着くだろうし、ここでそうするというのは、自然なこと、成り行きに違いないという確信だった。

 歩いている間、ずっと弟のことを考えていた。それは僕が八年間一緒に生きていたあの弟、僕がついこの間ぶん殴ったあの弟でもあったし、記憶の中の日常や特別な旅行を共にした弟でもあったし、あの写真に写っていた弟でもあったし、病院で僕の隣に寝かされている弟でもあったし、うずくまっている様子を、母さんのお腹に耳を当てながら想像した弟でもあったし、テレビで見たまだ半透明で不完全でちっぽけな姿を当てはめた弟でもあったし、目に見えないほど小さい細胞とかいうものが結びついて分裂していく弟でもあったし、そんな姿のまま、ガラスの容器の中からどこかに捨てられる弟でもあった。それは全部同じ弟であり、別の弟であり、一つを除いて全て僕が殺した弟でもあった。

 僕は、自分の考えが間違っていると分かっている。ごく簡単に反論できるのだから。例えば、殺すというのは生きているものの命を奪うということだろうけれど、では、「生きている」とはどういう状態のことなのだろうか? そういう状態に達していないのであれば、それは「殺す」などとは言えないのではないのか?

 きっとそうだ。でも僕はこう思う。母さんのお腹の外に出ることを「生まれる」と言う。ではその前、生まれる一時間前にお腹の中にいる時には生きていないのだろうか? もちろん違うだろう。じゃあ、いつから「生きている」ということになるんだろう? 一ヶ月前は? 半年前は? 初めて二つの細胞が結びついたときは?(実際のところ、僕はそれがどういう行為の結果なのかをまだ知らなかったから、そのときの具体的な様子は想像もできなかったのだけれど)あるいは、ついこの間まで母さんのお腹の中にいて、何かの検査で期待外れだったと分かったときには? その前の、育つ資格を得て、人間になろうとし始めたときには?

 僕がどう考えようと、疑問に思おうと、今も僕が生きているのは弟のおかげであって、弟はそのために選別の末に生まれたということは確かだった。僕がなぜそうなったのか、その過程にどういう病気や手術があったのかを僕は知らないし、理解もできない。しかしそんなことはどうでも良かった。僕の弟に対する、そして自分の命に対する認識が、世界の認識を巻き込んで、全然違うものに変わってしまったということは、揺らぎようがなかったのだから。

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