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和葉が思いにふけっていると、佐々本が声をかける。
「あっ清水さん、ビール飲みますか?」
「ビールは大丈夫です。ありがとうございます。」
「お酒あんまり飲みませんか?」
「いや、お酒はほどほどに飲むんですけど…」
寒い時にビールはちょっと。
「そうですか…あっ!ワインがありますよ。姉の結婚式の引き出物なんですけど。」
佐々本は立ち上がってワインを持ってくる。
「いやいやいや、そんな貴重なワインはいただけません。」
「いいんですよー。離婚してるんで。飲んでくれたほうがコイツの供養になります。」
佐々本はワインを軽く叩くと、ワインオープナーをコルクに刺して回す。
「ケケケケケケケ」
…なんの音?
「いやー、コルクが変な音しますね!ささ、どうぞ!」
佐々本は大きな声で言う。
「ケケケケケケケ」
「…なんか声しませんか?」
「気のせいです!ささ、ぐいっと!」
「ケケケケケケケ」
なんだろう?佐々本さんの腕のあたりから聞こえる気がするんだけど。
和葉は佐々本の腕をじっと見つめる。
「和葉!こいつ呪われてるんだぜ!」
手のひらサイズの黒い塊がいきなり現れて、佐々本のシャツの袖をぐいっと引きちぎった。
「おまっ!なにすんだよ!」
佐々本は露になった自分の左腕を右手で押さえた。
「俺がやったんだぜ!絵描いたのはこいつのねーちゃんな!」
黒い塊――背中にコウモリのような羽が生え、口の端からは牙がはみ出て、目は吊り目、お腹はぽっこり、手足は短めな生き物――は破った佐々本のシャツの袖を持ってふんぞり返る。
「あの…」
和葉は遠慮がちに声をかける。
「違うんです!こいつは!なんていうか動くぬいぐるみっていうか!」
佐々本は必死に捕まえようとするが、塊はヒラヒラと宙を舞って逃げる。
「…くーちゃん?ダメじゃない、人様のお家で。」
和葉は塊をあっさり捕まえると、胸の中に抱き込んだ。
「清水さんこいつのこと知ってるんですか!?」
「ときどきうちにご飯食べに来ますよ。ねー。」
和葉は塊――もとい『くーちゃん』――ににっこりと笑いかける。
「…こいつ…こいつ悪魔ですよ?」
佐々本は引き気味に聞いた。
「はあ。初めて会ったときにそう聞きました。」
和葉はきょとんと佐々本を見る。
「悪魔!悪魔ですよ、清水さん!触っちゃだめですって!」
和葉はそれに気を止めず、
「佐々本さんと知り合いなの?」
とくーちゃんに聞いた。
「こいつは俺のしもべだっ!」
くーちゃんは胸を張って答える。
「ちがーう!お前はねーちゃんの使い魔だろうが!俺は関係ない!」
「そっかあ。佐々本さん家の子なのね。だからうちにも来てたんだ。」
「あの…こいつそんなにしょっちゅうお宅へ行ってたんでしょうか?」
佐々本はおそるおそる聞く。
「いやー、しょっちゅうというほどでも。美味しいスイーツがあるときにはだいたい来ますけど。」
「お前!ほんとになにやってんだよ!真里はなにしてんだ!あいつんとこへ帰れ!」
「真里のおつかいで来てやってるんだろうが。いいのか、呪い?」
くーちゃんは冷めた目で佐々本を見る。
「あっ…」
佐々本は自分の腕を見る。つられて和葉も見る。
佐々本の左腕の内側には、笑った人の顔のような模様が描かれていた。肘から下にかけてで、大きさはちょうど佐々本の手のひらくらいだ。
「ケケケケケケケ」
「これが笑ってたんですねー。」
「いや、はい、その…清水さん気持ち悪くないですか?」
「はあ。まあ害はなさそうですし。」
「和葉、人ごとだな!」
お世辞にもかわいいとは言えないけど。どこから声出してるんだろう?
和葉はじっと顔を見つめる。
顔は糸目で口がぱっかりと開いている。
「ケケケケケケケ」
あっ、ちゃんとに口のところから声が出てるんだ。
「なんかオペラ座の怪人みたいですねえ。」
「ケケケケケケケ」
「和葉、こいつの呪いを解けるのは和葉だけだぞ。」
くーちゃんがうししと笑う。
「えっ私⁉︎」
私はただの隣人です。
佐々本はくーちゃんをひったくると
「気にしないでください。」
と言った。
「なんだよー、俺がせっかく助言してやってるのに。呪い解けねーぞ。」
「いいからっ!」
「あの、私は何をすれば。」
「いえ!いいんです!ただのお隣さんに頼むことではないですから!」
なんだろう、この焦りっぷり。ただのお隣さんではできないこと…?こういうのって漫画だとだいたい…
和葉はさっと血の気が引いた。
隣人とはいえ、よく知りもしない男の人の家で私ったら何をしてるんだろう。
「あの、私そろそろ」
和葉は携帯を掴むと急いで立ち上がった。
「待ってください!誤解です!なに考えてるのかだいたい分かりますが違います!」
佐々本は腕を上げるが和葉を掴むことはない。
「体の接触は一切必要ありません。血も、その他もろもろも、必要ありません。」
佐々本はゆっくりと言った。
体も体液も必要ない…じゃあ…
「…お布施?」
金かな。
「いや!金もかかりません!ちょっとなら、10円、いや、20円あれば足ります!」
「にじゅうえん…」
「まあ安くつくか高くなるかはケースバイケースだな。ニンゲンの欲望は限りないから。」
やれやれ、とくーちゃんが肩をすくめる。
…ますます意味が分からない。
「和葉、こいつ自分から呪いのことは話せないんだよ。真里がそう定義したんだ。」
「そうなの。うーん、困ったね。普通におしゃべりする分には構わないの?」
「はい、呪い以外のことなら話せます。すみません、変なことに巻き込んで。」
佐々本は正座で頭を下げる。
和葉はうーんと考える。
さっきなんかいいアイデアが思いついたような。
「あっ佐々本さん、よかったら時々うちのご飯食べませんか?」
「はい?」
「さっき一人暮らしだと作りすぎちゃうって話したでしょう。で、ときどきお裾分けしたらどうかなと思って。」
「はあ。俺はありがたいですけど…」
「よかった!じゃあときどき持ってきますね!呪いのことはぼちぼち考えましょう。」
ヒントが少ないんじゃ分かるものも分からない。とりあえず佐々本さんを知っていくことが一番の近道な気がする。
それだと清水さんの負担になってしまうので、外食にも行きましょう。その時は俺が出しますよ。ということで話は落ち着いた。