7
トイレで用を済ませた後に瑞樹は洗面台で手を洗っていた。
ガンッ
後ろから何かに叩きつけたれた瑞樹は、鏡にしたたかに額をぶつけた。
「いって!」
「目が覚めたか、ヘタレが。」
「悪魔!お前こんなとこで何やってんだよ!誰かに見られたらどうするんだよ!」
主に俺が。困るから。
「うるさい。よく聞け。今日は和葉を迎えに行け。」
「和葉に何かあったのか?」
「知らないのはお前だけだ、ヘタレ。」
「なっ」
なにがーーと言いかけた時にはすでに悪魔は消えていた。
『和葉。何かあった?」
瑞樹はすぐに和葉にメッセージを送った。
既読はすぐについた。だが返信がない。
やっぱり何かあったんじゃ、早退してーー
『何にもないよ。どうかした?』
うさぎが首を傾げているスタンプが押されている。
『いや、何も。今日帰り迎えに行くよ、会社』
『え、いいよ。瑞樹お仕事忙しいでしょう?』
『大丈夫。定時で上がるから。ちょっと待たせちゃうけどいい?』
オッケーとうさぎの耳が丸になっているスタンプが来た。
「瑞樹!」
和葉は嬉しそうに瑞樹に駆け寄った。日が段々と伸びてきたとはいえ、すでに日は落ちている。
「和葉。お疲れ様。遅くなってごめんな。」
「ううん、ちょうどよかったよ。」
二人は歩き出した。えへへ、と和葉が笑う。
「こうやってスーツの瑞樹と歩くの初めてだね。」
うっそれは…二人で出かけていないからで。瑞樹は心が痛んだ。
「ほんとごめん。デートしてないよな。」
「えっいいの、いいの!そういうつもりじゃなくて…」
少し気まずい空気が流れる。
「どうする?どっかでご飯食べにーー」
重くなりそうな空気を払うように明るい声を出した瑞樹に声がかぶさった。
「清水和葉さん。」
和葉と瑞樹の前に、知らない男が立ち塞がっていた。
「受け取ってください。」
男は瑞樹を睨めるように見ながら、和葉に封筒を差し出した。
「えっと、その…」
「どちら様ですか?俺の彼女に何か?」
瑞樹は和葉を背中に隠すと、男に対峙する。
「彼氏がいらしたんですか、清水さん。」
男は瑞樹を無視すると、瑞樹の後ろにいる和葉を覗き込んだ。
「用件なら私が伺いますが。」
瑞樹が一歩進んで言った。
チッと男は舌打ちすると、何も言わずに去っていった。
「…誰、あれ?」
「えっと…よく知らないんだけど手紙をくれて…」
「手紙?」
「うん…」
「なんでーー」
瑞樹は和葉を追求しようとしたが、周りの注目を集めていることに気づいた。
「家で話そう。」
今夜もデートはなしになりそうだ。
和葉の家に着くと、二人でソファーに座る。
「それで…」
瑞樹が声を出すと、和葉はびくっと肩を震わせた。
「ごめん、和葉に怒っているわけじゃないんだ。和葉、ちゃんとに話そう。」
瑞樹はなるべく優しく話しかけた。
「あの男は前にも和葉のところに来たことがあるのか?」
「うん、何度か手紙をくれて。その都度お断りはしてるんだけど、全然引いてくれなくて。」
瑞樹はぐっと奥歯を噛み締めた。なんで、俺に言ってくれない。
「その手紙はまだ持ってる?」
「うん、取ってくる。」
和葉はリビングの戸棚の引き出しから手紙を出した。その後ろ姿を見ていた瑞樹は、こっそりと息を吐いた。
落ち着け、落ち着け。和葉に当たってはいけない。
「これ…」
瑞樹は手紙を受け取ると、封を開けた。手紙の内容自体は大したことないものだった。天気が暖かくなってきたとか、水仙が咲いたとか、日常の話だった。名前も書いてある。もちろんだが、知らない名前だ。
「…いつから?」
「えっと、2月の真ん中くらいかな?お花もらったり。あっそれは違う人だった。」
「花?違う人?」
瑞樹は自分の声が低くなっているのを感じたが、どうにかできるものでもない。
「えっと、あー…その、ゆうちゃんにも彼氏に言えって言われてるんだけど…」
瑞樹は和葉の両手を握ると、口角だけを上げて和葉に言った。目が全く笑っていないのは自覚している。
「全部、最初から、聞かせて?」
和葉は少し涙目になっていたが、容赦するつもりはなかった。
和葉が話終わると、はあーと瑞樹は大きなため息をついた。はらわたが煮え切るとはこういうことを言うのか。ふつふつと怒りが湧いてくる。
「それで、和葉は、俺には言う必要がないと思ってたんだな?」
「いや、そういうわけじゃないよ!ただそんなに害もなかったし、バレンタインの後って会社の男の人も少し優しいんだよね。毎年女の子たちとチョコレート配ってるから。義理でももらったら嬉しいみたいだから。その感じなのかなって。春って変な人も多いって言うし。」
「…会社でもなんかあるってこと?」
「最近何人かの男の人が愛想いい。」
「それは食事に誘われたりとか?」
「えっうん、そうだね。なんか仕事がんばってくれてありがとう的な?」
それはーーと瑞樹は言いかけて、またため息をつく。
この危機感のなさ。今までこの子はどうやって生きてきたんだろう。おかしいだろう。普通にこんなに可愛い子がノーマークなんて。
瑞樹が初めての彼氏だとは聞いている。嬉しく思ったし、大事にすると誓った。今まで何もなかったの?と聞いたら、周りの友達もみんなこんな感じだから特に気にしてなかった、結婚する子はちらほらいたけどね〜とぽやぽやした返事が返ってきた。
そんなもんか?女って20代後半から猛烈に婚活とかするもんじゃないのか?
それに、と和葉は続けた。瑞樹以外の人と付き合うとか想像もできないよ、と。
頬を染めた和葉を見た瑞樹は、浮かれてそれ以上のことは考えられなかったのだ。
「ほんと気をつけろよ。」
瑞樹は少し強めに言った。それにムッとしたのは和葉だ。
「私だって気をつけてるし。そんな子供に言い聞かせるみたいに言わないでくれる。」
「でも変なの引っ掛けてるじゃないか。」
「引っ掛けてるって!私だって今まで仕事して社会人として普通に生きてきたんだから。どこぞの箱入り娘でもないんだから放っておいてよ。」
和葉は突き放すように言った。
「っ。ごめん。言葉が悪かった。和葉はしっかりしてるよ。とにかく、気をつけてほしい。俺も都合がつく限り迎えに行くし。朝もできるだけ一緒に行こう。俺が心配なんだ。お願い。」
和葉はしぶしぶ頷いた。別に喧嘩がしたかったわけではない。
その日は気まずいまま夕食を食べて別れた。




