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翌朝。
日が伸びてきたとはいえ、まだ朝は薄暗い。あともうちょっとウトウトしていたい、と和葉が寝返りを打つと、佐々本の家から大きな音が鳴り響いてきた。
「ケケケケケケケ」
「ケケケケケケケ」
「ケケケケケケケ」
「ケケケケケケケ」
「ケケケケケケケ」
和葉はびっくりして起き上がった。
「えっなに!?佐々本さん!?」
笑い声は何重にも響いているようだ。和葉はパジャマのままコートを羽織って佐々本の家へ向かった。
「佐々本さん、佐々本さん、大丈夫ですか?」
ドアを遠慮がちにノックする。
和葉!こっちだ!というくーちゃんの声がして、ドアがばんと開いた。
びっくりした和葉だが、失礼しますーとそっと中に入ると、佐々本がベッドで苦しそうに悶えていた。佐々本の体には、顔、腕、脚、スウェットから覗いたお腹にまで、例の顔が大量に浮かび上がり、その一つ一つが笑っているようだ。
うわあ、これは…さすがに気持ち悪い。
「佐々本さん、大丈夫ですか?痛い?」
動揺を押し殺し、和葉は投げ捨てられた布団を避けてベッドに近づくと、佐々本の目を覗き込んだ。
わっ、目の中にまで顔がある。佐々本さん見えてるのかな?
後ろからくーちゃんが和葉、と話しかける。
「タイムリミットだ。」
「タイムリミット?」
「こいつの呪い。今日本格始動するようになってんだよ。日付けが変わって朝までもったからがんばったほうだな。」
「呪い!タイムリミットなんてあるの!?だったらもっと真剣に考えたのに!」
佐々本さんがいつも笑ってたから、なんとなく大丈夫なんじゃないかって思ってた。まだ時間はあるんじゃないかって。もしかして痛いのずっと我慢してたのかな。なんでもっと真剣に話を聞いてあげなかったんだろう。
和葉は悔しげに唇を噛む。
…ごはんに夢中だったからですね、私たちの話題はほとんどごはんだったからなあ。
和葉は遠い目になる。
「あー、タイムリミットのこと言うのも禁止事項に入ってたからな。」
くーちゃんが和葉の肩に乗った。
佐々本はぐぐぐぐと苦しそうだ。息が乱れ、汗が額から流れている。
和葉は佐々本の手を握って声をかけた。
「佐々本さん!」
「…和葉?出ていけ!危ないから!」
佐々本が顔が浮かんだ目を和葉の方に向けて叫んだ。
…和葉?なんて呼ばれたの初めて…胸がぎゅっとする。いや、それどころじゃなくて。
「でも!私が解けるんでしょう?」
「解きたいか?和葉。こいつの家はな、魔女一家でやっかいだぞ。しかもこいつヘタレ呪われ野郎だぞ。」
くーちゃんが和葉の肩でやれやれと肩をすくめた。
「おい!」
這いつくばりながら佐々本が抗議する。
「ヘタレじゃないよ!佐々本さんは優しいもん。いい人だと思う!」
「魔女は執念深くてすぐ呪うし、突拍子のないことをしだすぞ。」
やめとけやめとけ、とくーちゃんが短い手をひらひらさせる。
「でも佐々本さんは魔女じゃないでしょう?」
「コイツにもその資質は受け継がれてるし、コイツの子供を産んだら魔女が生まれるかも知れないぞ。」
「こっこども!?そっそれは考えてなかったけど。いや、今それどころじゃ。」
和葉は顔を赤らめる。
「和葉と俺の子供なら可愛いに決まってるだろ!」
目が見えていない佐々本は明後日の方向を見ながら叫んだ。
「佐々本さん!」
和葉は恥ずかしくて火を吹きそうだ。
「うーーーーーん…」
くーちゃんがビミョーな顔をする。
ギリギリ合格ラインかな、とつぶやいたくーちゃんはため息をつくと、
「和葉、チョコ持ってこい。寝室に隠してるだろ。」
「もーくーちゃん!またお菓子漁ったでしょ!」
イケメンから買ったチョコレートは食器棚から寝室に移した。佐々本と一緒に料理をするようになってから、目につくところにチョコレートがあるのがちょっと恥ずかしかったからだ。
「チョコどうするの?」
「いいから!」
和葉は急いで家に帰ると、寝室からチョコレートを持ってきた。
「口に放り込め。」
くーちゃんが腕を組んで言った。
「え?佐々本さんの?」
「あーん、だ。」
「えええ。でも佐々本さんチョコ食べないでしょ?」
『ケケケケケケケ』という笑い声は相変わらず続いている。
「早くしないと飲み込まれるぞ、顔に。」
分かった、と和葉は佐々本の肩を叩く。
「佐々本さん、起きて、佐々本さん。」
ベッドにうずくまっていた佐々本だが、和葉の声に反応してのろのろと顔を上げる。
和葉は佐々本の頭を支えると、
「あ、あーん…」
と佐々本の口にチョコレートを押し入れた。
はっ恥ずかしい…
唇に溶けたチョコが少しついているのが妙に生々しい。
もぐもぐ、ごっくん。
佐々本がチョコレートを飲み込むと、だんだんと笑い声は小さくなり、身体中に出ていた顔も薄くなってきた。佐々本が呼吸を落ち着かせる頃には、何事もなかったかのように収まった。
「よかった!治ったんだね!」
和葉はほっと息をはいた。
佐々本の目にも力が戻ってくる。よかったよかった、と和葉が立ち上がろうとしたたころで、和葉は自分の体がふっと浮かんだのを感じた。
え?え?
目の前には佐々本の顔、チラリと横を見ればシーツが目に入り、起きあがろうとしても体が動かない。
え?え?ええ?
和葉の手首は佐々本の手に掴まれ、ベッドに押し倒されている。和葉がびっくりして佐々本を見ようとすると、鼻が触れそうな位置に佐々本の顔があった。潤んだ目、熱い吐息、掴まれた手首。身体はぴったりとくっついている。
えええええ!?ちょっと!
驚きすぎて声も出ない和葉に、佐々本の顔がもっと近づいてくる。
「和葉、かずは、す…」
スパーーーーン!
佐々本の頭に何かがぶつかり、そのまま壁にぶつかった。
「ぐえっ」
「えっ?」
くーちゃんがビジネスバッグで佐々本の頭を殴ったらしい。佐々本は壁にぶつかったまま、くたりとしている。
バカが、くーちゃんはビジネスバッグを投げ捨てながら言った。
「佐々本さん大丈夫?」
「大丈夫だ、気を失ってるだけだから。」
「えええ。」
結構いい音したよね?
一応佐々本の脈を取ってみた和葉だが、
「それより、いいのか、仕事は?」
というくーちゃんの声にはっとして、急いで家に戻った。
くーちゃんあとよろしくね!とお願いはしておいたから大丈夫…だと思う。




