彗星の軌線
本小説は2005年6月に出版され絶版となったものです。偶然発見された原稿を投稿しました。
第一章
四谷から真田掘りに沿って土手を歩いた。ソメイヨシノが咲き乱れ、学生達が酒盛りをしていた。入学式に、その回廊のような花盛りをみて以来、速水理一は毎年の花見を欠かさずにいた。仲間達と桜色に染まりながら酒をのみ、そして語り合った。
蓮山美夏と真綿のように咲き乱れた花篭の下で、ある感慨を胸に抱き合ったときの光景が、捉えどころのない哀愁とともに鮮麗に蘇った。理一が美夏に初めて会ったのは予備校の教室だった。いつも洒落たワンピースを着て、如何にも裕福な家庭の子女といった雰囲気を漂わせていた。その瞬間、彼はそれから二人が描こうとしていた軌線のあらましを予感していたような気がした。美夏は底のないような審美的な女だった。加えて理智的な女であった。その美しさは、母性的なものではなく、娼妓的なもののように理一には映った。
よくいっしょに飯を喰った。そのときの微笑を湛えた表情だけがいつまでも理一の脳裏から離れることはなかった。美夏をはじめて抱いたときの記憶も、マンションに連れ込んでは夜中まで語り合った記憶もほとんどない。ただひとつあの微笑んだ表情だけが、いつも理一をしみったれた心持ちにした。
花時であった。卒業を間近に控え、土手沿いを逍遥した。二月が温暖だったためか、花はおよそ満開であった。美夏の思い出もこの桜の中に舞っていた。はじめて心底惚れた女・・・舞って行方を失った女。桜が舞い散るのは次々に枝から離れた花が落ちていくせいだ。よくよく観察すると、とても健康な精神では捕らえきれない複雑な法則にしたがって、舞って、そして地面に落ちる。ただ不思議な思い出だけが、確実に、この空間を覆い尽くさんばかりの花の中に存在していた。
速水理一が蓮山美夏とつきあいはじめたのは、大学一年の小春のことだった。理一は予備校の同じクラスに在籍していた美夏と会うために、一年間の仮面浪人をほとんど受験に集中し通した。美夏には早稲田に入った高校の同級の恋人のあることを知っていたが、そんなことはどうでもよかった。いつか抱いてやる。その頃の理一は、恒に勝つことしか考えていなかった。
そんな心地よい、十一月のある日のことだった。前日の夜更かしのためか、理一は黒板の数式が次第にぼんやりとしてくるのを予備校の机に体をもたせながら、感じていた。ふと、我に返り、またぼんやりとする。ゆっくりと、数式の羅列から理一は離脱していった。どれくらい眠っていたのだろうか。Tシャツの上から、見知らぬ感触が理一を夢から覚ました。すうっと、目が冴え、横を見ると美夏が微笑んだ。理一は、少し調子の悪い表情を浮かべ、ルーズリーフに“Thanks a lot, 授業は嫌いだ”と走り書き、美夏に渡した。
授業が終わると、すかさず礼を言った。
「ありがとう。起こしてくれて。」
「先生が見てたわよ。こんなに前の席で居眠りするなんて。数学、嫌いなら、授業にでなきゃいいじやない。」
「嫌いだけど、数学の授業のことは大概理解できているんだ。」
「変な人。いつもまえに座っているのに内職ばっかりしてるし。わたしのこと変な眼でみるし・・・」
「変な眼ってどういう眼?犯すような眼?」
「気持ち悪いこと言うのね。もう近くにすわらないで。」
「数学だったら、いつでも教えてやるよ。薬学部志望だろ。俺医学部志望だから。起こしてくれたお礼だよ。じゃ・・・」
背中に美夏の視線を感じながら、理一は予備校を後にした。
翌日、理一は少し冷えた小春の朝の中を、昨夜夢でみた、星空に長い軌線を抱く大きな彗星を思い出しながら颯爽とした気分で下北沢駅へと向っていた。小田急線に乗り込むといつものように全く身動きが取れないほどの込みようだった。南新宿駅に電車が止まった。理一は脱兎のような勢いで予備校に向ってまっしぐらに走った。
一時限目の授業は英語だった。始まりの鐘と同時に理一は教室に飛び込んだ。何十もの視線を一編に浴びながら、美夏の隣に座った。
「これ読んどいて。」と理一は徹夜で書き上げた拙い恋文を机の上に差し出し、真っ赤な顔をした美夏に微笑を与え、講師と入れ替わりに教室から走り去った。
予備校を出ると、振幅の大きな鼓動が全身を周期的に揺さぶった。それは理一の精神までをも揺さぶった。美夏は、果たして来るのだろうか?美夏は自由が丘の自宅から代々木まで通っていた。乗り換えの渋谷で待ち合わせることを書き留めた。もし来れば、下北沢のマンションに連れ込む。シナリオは単純だった。単純こそ成功の鍵だと妄信した。今日一日どうやって過ごそうか・・・理一は考えた。考えれば考えるほど因循姑息な計画は発散していった。大学に行くのは週一回の必修だけに限っていた。それは仮面浪人の掟であり、彼の憲法の一つだった。仕方なく原宿をぶらつき、代々木公園まで歩を進めると、公園には、バドミントンをするカップルやサッカーをする高校生、フリスビーをする集団が数多くいた。その光景を見ながら、理一は思った。何も浪人することを卑下する必要はないのだと。いずれ人間は自らの力だけで生活をしなければならない時期が来る。そのために様々な場所に属し、準備をしているのだ。この公園にいる多くの人間達と何のかわりもないのだ。そう考えると、理一は予備校の教壇に立って演説してやりたい気分になった。予備校生とは、人間の多くの属性のたった一つに過ぎない。消化不良の人生なんて何の意味がある・・・そのために、郷里の静岡の短大に進学した同級生と別れ、受験勉強に専心することに決めたのではないか。理一の意思は一層強固なものとなり、深い芝生を伝播していった。
代々木公園を横切り、渋谷へと向う途中、公園通りにある楽器屋のショウルームのピアノがふと眼にとまった。理一はかねてからマンションの部屋にアップライトを置きたかった。ショウルームに入りピアノを眺めていると、きちんとした身なりをした、二十代前半の年恰好の女性店員が近づいてきた。
「何かお探しですか?」
「ええ、小さ目のアップライトを。」
「あちらの試弾用のものが比較的小さめになりますが。」
「そうですか。ちょっと鳴らしてみていいですか。」
「構いません。どうぞ。」
理一はショパンのロ短調のワルツを弾いた。切ないパッセージをゆっくり目のテンポで弾いた。転調する直前で鍵盤から手を離すと、
「いい音ですね。意外に響くんですね。」理一は鍵盤の真上にある音の抜ける溝を見ながら店員に言った。
「このピアノは響板がしっかりしているんです。」女の店員はそういうと、ピアノの後ろに周って、響板の裏側に斜めに渡された支持材について熱心に説明してくれた。
「家にあるものは二十年以上も前のものなんです。ちょっと予算オーバーなんですが検討させてください。」
「はい。よろしくおねがいします。こちらがカタログです。グランドピアノもいれておきますので。」よくみると、その店員は色の白く上品な顔立ちをしていた。そして、名刺とともにカタログを封筒に入れ、丁寧に渡してくれた。
ショウルームの外に出ると、理一はなんだか申し訳のないような気持ちになった。あんなに綺麗な人でも一生懸命仕事をしている。半日もぶらりと過ごそうとしている自分に対し、後ろめたさが急に湧き上がってきた。が、それにも増して、さっきの指の感触が、ピアノの残響とともに、過去の匂い、いや女の匂いを思い起こさせた。
ハンバーガー屋に入ると、コーヒーを飲みながら胃の腑を満たした。ショパンのワルツのスコアが目に浮かんだ。高校時代つき合っていた、柳瀬恭子によく聞かせた曲だった。恭子は理一が属していたサッカー部のマネージャーだった。いつしか何のきっかけもなく理一と付き合うようになった。理一が女を知ったのは恭子であり、恭子にとっても同じだった。が、理一が大学に入学して以来、連絡を絶っている。堕落しないために・・・理一が上京するとき、新幹線のホームで恭子は泣いた。その涙が理一の頬に未だ感触を残しているが、年齢にしては情に疎いこの男は、女の本当のやさしさというものを全く理解していなかった。
ふと我に返ると、恭子の記憶を掻き消すかのように、理一は数学の問題集に一心不乱に立ち向かった。理一は集中と弛緩のはっきりとした体質の男だった。
渋谷駅を東側に通り抜けると、理一は心を沈め、青山方面へとゆっくりと足を進めた。待ち合わせの場所は、金王坂の歩道橋だった。約束の午後三時は十分後に迫っていた。計算が正しければ、美夏の乗った山手線は原宿駅を通過した頃だ。歩道橋から見渡す街並みはやわらかい小春の陽を浴びて、単調に存在していた。空を見上げると、都心とは思えないほど澄んだ空が青一色に透明だった。
歩道橋は案外に通行人が多かった。理一は、群集の向こうからはやくも、向日葵のような濃い黄のワンピースを着た、髪をポニーテールに上げた長身の女を認めていた。美夏だった。
「来てくれたんだ。ありがとう。」理一は感動して言った。
「うーん。しょうがないわね。あの手紙のせいで全然授業に集中できなかったわ。あんな悪文、よくもだらだらと書けるわね。」
「蓮山美夏さんだよね。俺、速水理一。よろしく。」
「名前は知ってたわ。意外と成績はいいのね。」
「とにかく来てくれて有難う。とりあえずお茶でもしようよ。予備校の話はなしでいこう。」
「何処行くの?」
「青山。」
「私時間がないの。」
「何の時間?」
「勉強の時間に決まってるでしょ。」
「ちょっと休憩しよう。勉強ばかりじゃ、疲れちゃうよ。」
「だめよ。わたし絶対に大学にいくの。後悔はしたくないの。」
「俺だって同じだよ。でも一日ぐらいいいじゃない。お茶だけだから、付き合ってよ。」
「そうね、お茶だけね。それから、手紙に書いてあった約束の数学、絶対教えて頂戴ね。そのために来たんだから。」美夏はつっけんどんに答えた。
二人は、青山通りを表参道方面に歩き出した。途中渋谷方面に帰っていく賑やかな青山学院の学生達と多くすれ違った。けれども、この学生たちにしたところで、共通の属性を持つ一集団にすぎない・・・理一は現在を強引に将来へと跳躍させた。
美夏はむすっとした顔をしてついて来た。やがて、青山通りを右に折れ、骨董通りの小さな喫茶店に入った。そこは彼の行きつけの場所であり、読書の場でもあった。
「俺、アイスアールグレイ。ここのお茶旨いんだ。」
「そう。じゃあ、私も同じのにするわ。」
店の奥には、マホガニーの古いスタンウェイが調度品のように置かれ、ルイ・ヴィトンの使い古されたスーツケースやフランスのものと思われる洋書が無造作にいれられた本棚が横たわっていた。まるで、失ったものをとりもどそうとするかのような、そんな力がこの店には沈潜していた。店員に注文をすると、美夏が重い口をあけた。
「素敵なお店ね。この曲どこかで聴いたことあるな。」
「ラフマニノフのピアノコンチェルト。」
「そうだったかしら。素敵な曲だわ。もしかしてピアノ好きなの?」
「うん。小さい頃、妹と一緒に習ってたから。」
「そう。あなたってなんだか予備校生らしくないのね。」
「どうして?」
「だって、私達こんなとこで暇つぶしする身分じゃないわ。」
「そんなにストイックになったって、大勢に影響はないさ。」
「医学部目指してる人ってみんなガリ勉してるけど。あなた何処受けるつもりなの?」
「地方の国立大学か私立の医学部なら受かるだろうけど。地方にいく気はないな。」
「じゃ。猛勉強しなきゃ。」
「俺のポットはほぼ満タンだよ。君は何処受けるの?」
「どこだっていいでしょ。」会話はぷっつりと切れた。
理一は曲に合わせてテーブルの上で指を動かした。
アイスアールグレイが運ばれてきた。二人は黙ってストローを吸った。
「あー。おいしい。とてもいい香り。なんか心が落ち着くわ。」
「フォルテッシモの連続じゃ。もたないよ。俺は今日はピアニッシモと決めてるんだ。」
「あなた、焦らないの?人生があと三ヶ月ちょっとで決まるのよ。」
「それがどうした。俺は静岡の田舎からでてきて一人暮らしをしている。大学にも通っている。そして、君と一緒の予備校にも通っている。」
「そんなの嘘よ。学生証みせてみなさいよ。」
理一はパスケースから学生証を取り出し、テーブルに置いた。
「うっそー、何で予備校なんか来るの。仮面浪人?からかってんの?」美夏の顔は紅潮した。
「大学は、週に一度行くだけだ。それもあと三ヶ月ちょっとでおさらばだ。立場は君と一緒だ。どう、飲みにでも行かないか?家は下北沢なんだ。」
「飲みに行こうなんて、頭がどうかしてるわ。」
「美夏は東京人だから、高校の友達もいっぱいいるんじゃない?たまには飲みに行ったりしないの?」
「呼び捨てしないで。大学受験で高校の友達がそばにいたっていなくたって同じでしょ。少なくとも私は飲みに行ったりはしないわ。言っておくけど、あなたみたいに飲みに行く余裕はないの。あなたも東京の国立の医学部に入りたいなら猛勉強しなさいよ。」美夏の凛とした顔が一層と引き締まった。
「そうだな。勉強するときはするよ。でも紅茶飲むときはゆっくりするよ。それが人間だよ。」
「大人みたいなこと言って、どうせまじめに受験しようなんて考えてないんでしょ。」
「もしそうなら、普通に大学に通ってるよ。予備校には行かないさ。美夏と一緒に合格したいんだ。一緒にだ。」
美夏は、落ち着かない調子でストローを使いコップの氷をかき回した。理一は落ち着いていた。ラフマニノフの咽ぶような哀愁が、彼をどこまでも冷静にした。
「合理的にものを考えようよ。君が予備校の講師に教わっているように、何だって他人から教わるのが一番早いんだ。ピアノだって先生に教わるだろう。教わらなきゃソステヌートペダルなんか使えないじゃない。」
「私、いろんなこと、一遍に考えちゃうと、収集がつかなくなるの。」
明らかに美夏は混乱していた。けれども、この混乱が予備校生に、そして女に特有なものであることを理一は知っていた。
「何も収集を付けなくたっていいじゃない。時間はあるんだから散らかしっぱなしでいいじゃない。」
「今日はご馳走様でした。」突然、そう告げると、美夏は紅茶を飲み干し、屹立した。
ラフマニノフがスタンウェイのコンサートグランドから混じりけのない金属的な和音を響かせながら、きらびやかなカデンツァを奏でていた。
第二章
翌日、教室に入ると美夏がいかにも寝不足といった顔で理一をみた。
「おはよう。美夏。」理一は爽やかに囁きながら、いつものように隣の席に座った。
「しつこいわね。」美夏は理一を無視し、黒板を見た。
朝一番からの基礎解析は睡眠不足の人間にとっての即効的な睡眠薬だった。授業開始から十分も経たないうちに後ろの席の生徒の半分は寝ていた。
途中、三角関数の積分の問題で、美夏はいらだった調子で何度もノートを消しゴムでこすった。かなり難解な問題だったが、超一流大学の受験問題としては出題例の多いものだった。理一は解法に用いる定理と積分範囲を図示したルーズリーフを美夏に差し出した。美夏はじっくりと目を凝らし、納得した顔をした。小さい声で「ありがとう。」と囁いた。
模範解答の講釈をひととおり垂れた講師は、黒板に演習問題をずらりと書き、教室中の生徒に解かせた。教室中が一斉に黒板に書かれた問題に向かった。
複雑な関数を区分的に微分するものだった。ルーズリーフに描いてみると、関数は意外な点で発散していた。周りの様子から、みんな苦戦しているのが分かった。美夏もその例に漏れない様子だった。解析は関数を自らの脳髄の座標上に描く能力が必要とされる。美夏の横顔に苦渋の色が浮かんだ。これはあるチャンスだった。講師はちょうど二十分立ったところで、
「出来た者は?」と大きな声で教室全体に呼びかけた。
理一を含め五人ほどが挙手をした。
講師は、「きみ。」と人差し指で理一を指した。僥倖であった。
教壇に上がるとルーズリーフを一枚手に取り、黒板に回答を書き連ねた。できるだけ丁寧に。そして美夏が理解できるように。方括弧を使ったり、“then”や“otherwise”を用いて、できるだけ賢くスマートに解いた。
講師は、黒板を一通り眺めると、「よろしいが、きちんと日本語を使いなさい。」と大きな声を出しながら、苦い顔で理一を見詰めた。
それから、理一の解法に従って、ピンク色のチョークで説明を追加していった。如何にも自分のおつむのほうの出来がいいといわんばかりに。
授業が終わると、美夏が言った。
「速水君って、頭はいいけど変な人ね。ここは大学じゃないのよ。その紙貸して頂戴。」
「プレゼント・フォー・ユー」そういって、ルーズリーフを渡した。ちゃっかりした奴だと理一は思った。デイパックから参考書を取り出し、類似した問題の解法を美夏に見せた。
「こんな難しいのやってんの。当然か。理科三類?」
「理科二類かな。」
「医学部には二類からは、進振りで十人しかいけないわよ。」
「ふーん。そうなんだ。そんなことより、写せよ。」
「コピーとってくるから貸して頂戴?」
「明日もってくれば、それでいいよ。ところで俺のどかかわいたから、外出ない?」
美夏は頷いて、理一についてきた。
「満タンだろう、今日の解析で。次の古文は得意科目なんじゃない。給水しよう。」
二人でベンチに座り、オレンジジュースをのんだ。
美夏は明らかに予備校生であることに疲れていた。予備校とは一般的には身分のない者の集まる場所だ。そのことが如何に心に堪えることか。理一は中途半端な身分であったが、大学生であることに満足はぜず、さりとて予備校生であることに不満なわけでもなかった。
「美夏。一緒に合格しよう。いまはただそれだけだ。それ以外のことは受かってからだ。」理一は遠まわしに今すぐに告白という彼の最大の才能を示すことのないことを約束した。
「私、彼がいるの。早稲田の一年なの。」
「そう。何か問題あるの?」
「夏休みにね、よく飲みに行こうって誘われたの。速水君から誘われたようにね。でも、私いかなかったの。そしたら、そのうち誘われなくなったわ。会ってもサークルの飲み会の話ばっかするし。ファンがいるとか、いないとか・・・」
「振られるのが、不安なんだろ。」
美夏は黙って、オレンジジュースを飲んだ。少し寂しげな顔をしていた。理一にはその顔が愛らしかった。
「そんな顔すんなよ。一緒に東大受かろうぜ。」
「そうね。速水君は受かるかもしれないけど、私は無理よ。数学が限界なの。」
「化学と生物は大丈夫なの?」
「化学は心配。速水君は物理と化学?」
「そうだよ。化学は有機に費やす時間がない。」
「私は暗記型だから有機は得意よ。」
「全然違うもんだな。同じ大学目指してるのに。」
「数理系進む人と生化学系進む人は頭脳構造が違うわ。」
「本当に優秀な奴は、どちらにしろ遥か彼方だ。この世の中には、悲しい事実だが天才がいる。数学と化学なら教えてやるよ。自由に使える家庭教師だと思ってくれて構わない。あの手紙に書いたように。代償は大学に入ってから、そのとき未だ美夏のことが好きだったら、告白する権利を保有すること。美夏の拒否権あり。」
「私、そんな悪い人間にはなれないな。」
「もう拒否権か。まあいいよ。毎週土曜の午後に大学の図書館で夕方まで数学やらないか。約束だ。」
「分かったわ。でも彼がいなかったら考えたけど。お友達でもいいの?」
「彼がいたって、弟がいたって、関係ないよ。友達か?便利な日本語だな。」理一はベンチの下に転がっているストローを見詰めながら小さく呼吸をした。
「じゃ、あさっては大学の図書館でじっくり数学をさらおう。次の理科は別だな。それじゃまた。」
そういい残して、理一は代々木駅へと向った。
駅前のハンバーガー屋で、軽い朝飯を摂りながら、英文を読んだ。大学の入学時に英語の授業で指定されたサマーセット・モームの「月と六ペンス」をひたすら訳した。知らない単語にマークし、前後の文脈から意味を読みとり、論述する力を養った。そして文庫本の日本語訳を読み、訳者がどう意訳しているかを確認する。それは現代国語の授業より余程日本語の論述のためにもなった。
予備校の三時限目は、英語のリーダーだった。美夏は必死に講師の説明をノートに取っていた。赤子がミルクを吸うように・・・。理一は、ハンバーガー屋の続きを黙々とていた。区切りのいいところで一気にマークした単語を辞書でひく。そして例文を読み、辞書に載っている全ての語彙から本質的な意味を把握する。
例えば、“インフォームド・コンセント”の“inform”の他動詞は、“告げる”とか“密告する”という意味があるが、もともとは、“形づくる”、“形成する”という意味だ。体の中で“form”を作るというというところからきている。そうすると、性格や特徴について、“みなぎっている“”浸透している“という語彙も見えてくる。また、”consent”は同意とか承諾という意味で用いられるが、本来は“感情が一致する“”満場一致“という語彙だ。その点で”agree“の”賛同“と語感を異にする。
さらに、形容詞や副詞のあるものは一緒に覚えた。理一は集中しだすと何事があっても止まらなくなる性分だった。その性分は、時として吉と出、時として凶とでた。
授業が終わると美夏が無邪気に話しかけた。
「速水君、いつも英語の授業中何やってんの?」
「リーダーだよ。」
「もしかして大学の内職でもしてるの?そんな立派な辞書使って。」
「予備校は義務じゃない。自分に有益なところだけを吸収すればいいんだ。俺は受けてみて分かったんだ。東大は、どの類だろうが圧倒的な論述力が全ての科目において要求される。そのための勉強をしなきゃだめなんだ。」
「私はこの予備校を信用しているの。みんなここでがんばって受かってるじゃない。」
「俺と美夏の接点は数学と化学だけのようだ。それでも接点がないよりはましだ。次の社会は別の教室だな。午後は数学の特別講義か。」理一は勢い余って持論を展開したことを少しばかり後悔した。そして、
「どう、昼飯でもいっしょにくわない?本屋で待ってるから。」と冷静な調子で言った。
「うーん。わかったわ。本屋さんね。」
美夏は少し考えたあと、品格のある表情をして答えた。世界史の教室へと向う、その後姿には少しの揺らぎもなかった。
予備校の書店は参考書や赤本でいっぱいだったが、雑誌や文庫本も置いてあった。全てが商業主義だ。理一はよく新刊書や文庫本を立ち読みした。父は勉強に飽きたら本を読めといった。仕送りとは別に書籍代といって月に三万円送ってくれた。けれども理一はほとんどを大学の図書館で借りた。優れた文学は理一のこころをやさしく、そして豊かにした。二時間もあれば、一冊を斜め読みした。そして気に入ったものは、父の善意と思って迷わずに買った。今日も無心で耽美主義の大家の告白体で綴られた自伝的小説を読んだ。「異端者の悲しみ」・・・この作家の原点はここにあったのか。理一は自らの現在の境遇とこの文豪の成功を照らし合わせた。そして夢をみた。
やがて、チャイムが遠くから聞えた。五分ほど経ったであろうか、ふと横を見ると、いつのまにか美夏が隣に立っていた。
「お待ちどうさま。随分熱心なのね。」
理一は本を元の場所に戻した。
「ちょうどよかったよ。俺がたまに行くスパゲッティ屋でいい?」
「いいけど。どのへんなの?」
「南新宿駅の近く。」
「そう、いいわ。行きましょ。」
書店を出ると多くの予備校生が不規則に行き交う巷を掻い潜りながら二人は歩いた。
二人並んであるくと、傍目には、恋人同士のようにみえた。百八十センチ近くある理一は、青いオックスフォード地のボタンダウンのシャツにホワイトジーンズをはいて闊歩し、ハイヒールを履くと百七十センチはある美夏は、白とラピスラズリのストライプのワンピースにタータングリーンのカーディガンを羽織っていた。
「ワンピース好きなんだね。」
「うーん、割とよく着るかな。速水君はいつもボタンダウンなのね。ピンクや黄色の着てるわよね。」
「ああ、高校のときからずっとボタンダウン。彼氏着てない?」
「なんか、白と黒って感じだったわ。」
「イタリアンなんたらってやつか。大学にもいるよ。ジャケットはおってんだろ。」
「そうね。好きみたい、イタリアンカジュアル?・・・」
「美夏にはトラディショナルなワンピースがよく似合うよ。今度、いっしょに買いに行こうよ、代官山。土曜は勉強だから、日曜日。」
「私は余り行かないな。いつも近所のお店。」
「家は何処だっけ?」
「自由が丘。」
「いいとこ住んでんな。羨ましいよ。俺もそんなところに実家があったらパラサイトして・・・」
「私は一人暮らしがしたい。」美夏は理一をさえぎりながら謹厳な調子でいった。その言葉が何故だか理一には重たく感じられた。
しばらく歩くと南新宿駅がみえた。
「ああ、ここ、ここ、入ろう。」理一と美夏は、駅前の通りに面したシックなスパゲッティ屋に入った。
「ここ。シーフードがうまいんだ。カルボナーラもまあまあかな。」
店のドアをくぐると、奥の窓際の席に案内された。
美夏はカタカナとイタリア語で書かれたメニューをじっと見つめた。まるで英語の授業の眼差しだった。
「今日は俺、ぺスカトーレにしようかな。」
「じゃ私は、ボンゴレ・ビアンコにしよう。」美夏は楽しそうだった。
「すいませーん。」と理一が手を上げるとウェイトレスが慌てて水を持ってきた。
「ボンゴレ・ビアンコとぺスカトーレ、セットで、ひとつはミルクティー、もうひとつは?・・・」
「私もミルクティで。」美夏の顔にはほんのりとした桃色の微笑が浮かんだ。理一にはその表情が一番美しいものに感じられた。
「ボンゴレ・ビアンコとぺスカトーレがセットで、ミルクティーをお二つ。」ウェイトレスは復唱した。
「いつもこういうとこ来るの?」
「そうだな。昼飯ぐらいゆっくりしたいから。」
「アルバイトでもしてるの?」
「うん。家庭教師。月曜と金曜の週二回、中学生の。」
「大学は何曜日?」
「金曜日。必ず出なきゃならない科目があるんだ。道徳の授業みたいなもん。」
「明日じゃない。」
「そうだな。でも、午後からは予備校行くし・・・あさっての午後は手紙の約束どおり美夏と一緒に図書館で数学だ。」
「大学生で、家庭教師して、予備校生もやって、でも何だかまじめに見えるのよね。英語の授業のときなんか、わき目も振らず辞書引いたり、ずっと何かを書いてたり。数学だって、相当勉強してるってかんじするし・・・不思議な人。彼なんかは遊んでばっかりよ。でもね、私は大学入っても勉強しようと思っているの。薬剤師になりたいんだ。」
「そう。薬学部か。じゃ理科二類だな。いっしょだ。がんばろうよ。」理一は始めて聞いたふりをした。そして笑顔を作った。
「二類なんか無理よ。模試の成績みれば分かるでしょ。それに二類から薬学部行っても薬剤師という職業に就く人はあまりいないんじゃないかな。みんな研究者になるのよ。」
美夏は世間というもの、いや職業というものを了解していた。けれども理一はそんなものは結果にすぎないと信じていた。それは、覚えたての箴言に人生を映し出す夢見がちな青年にありがちな考え方であった。
「いずれにしろ二次試験勝負さ。センター試験なんて足切りをのがれればいいんだから。」
「速水君はそれでいいかもしれないけど・・・」
「私立は東京理科大?」
「そうね。理科大だってどうだか分からないわ。」
「じゃ絶対理科大は受かろう。そして国立を滑り止めにするんだ。そうすれば負担が減って気も楽になる。」
理一が美夏の立場なら、その選択をしていた。ベストの選択だ。
「すべり止めの国立なんて無いわ。」美夏の顔から微笑が消えていた。
「そういう気持ちで考えれば、気持ちのポットが満タンにならないってことだよ。」
理一は自らが味わったプレッシャーを反芻した。そして今年もその怪物と美夏とともに格闘することになる。そんなことを考えていると、ウェイトレスが、ボンゴレビアンコとぺスカトーレをサラダとともに運んできた。
「さあ喰おう。おなかすいちゃったよ。」
「わたしもよ。じゃ、いただきます。」
美夏はサラダのトマトを食べると、一つ頷き、フォークでパスタを絡め、真正面から口に運んだ。欧米人のする上品な食べ方だった。
「うん。おいしいわ。フェディリーニ使ってるのね。アサリもあまり熱を通し過ぎていないし、とてもおいしいわ。」
「美夏は料理好きなんだな。はじめてみたときなんとなくそんな感じがしたよ。」
「速水君こそ・・・もしかして自炊してるの。」
「晩飯だけかな。それより、この海老旨いな。」理一はぺスカトーレの海老をほおばりながら、そういった。
「美味しそう。いいお店ね。こんなとこにもあるんだ。」
「いろんなとこにあるよ。どこでも連れてくからいっしょにいこうよ。」
「速水君といると。なんだか勉強のこと忘れちゃうな。」
「それでいいんだよ。これで気持ちのポットは半分になったな。腹八分で完了だよ。」
二人は微笑んだ。奥におかれたJBLから流れてくるビル・エバンス、壁に飾られたユトリロの白い教会のリトグラフ、全ては予備校の閉塞した雰囲気とは無縁の、不思議な国を創り出していた。
既に、一時の授業に間に合わないのは確実だった。二人ともその話題には触れずに、ミルクティーを飲んだ。
「これセイロンね。おいしいわ。ミルクティーにとてもあうわ。」
理一は思った。美夏はかなりのハイレベルな生活をしているのだと。紅茶の講釈をする薬学部志望の予備校生。経済学部に一応は在籍している、仮面浪人の予備校生。今がチャンスだ。たゆたうような弛緩した感覚。このときこそ、一気呵成に抱きしめるしかない。体質的な迎合がもたらす雰囲気の調和を理一は嘗て経験し、知悉していた。
「ねえ。下北沢いってみないか。」理一はつとめて他意のない調子で言った。
「唐突ね。一体何を言い出すの。五時間目はサボってもいいけど六時間目は出るつもりよ。」
「シモキタで数学やろうよ。二次試験のために解析の典型的な解法を五十くらいに分類してある。過去問を十年間遡った。きっとためになる。」
美夏は真面目な顔で考えていた。けれども理一には考えている振りをしているようにもみえた。
「いいわ。速水君のこと信用してみるわ。このままじゃ数学はこれ以上のびないって自分でもわかるの。」美夏は、理一の理性に訴えるように明確に答えた。
二人は店を出ると南新宿駅へとむかった。
「約束して頂戴。数学のためだけよ。私、彼を裏切れないの。」
「約束するよ。全ては合格したあとだ。」
ランチがもたらしたほのかな余韻を引きずりながら、理一は、極めて人間的で芳潤な予感とともに歩を進めた。
南新宿に着くと、すぐに普通電車がホームに入ってきた。
ガラガラにすいた電車の中で美夏はうつむき加減に窓の外を見ていた。
「予備校に束縛されたり、授業に束縛されたり、そんなのは俺たちのように夢見ることの多い若輩者にとっては辛いことだ。大学だって束縛されるものじゃない。はいってみると分かる。大学生って言うとえらそうだけど、本当に勉強したいことが大学でできなきゃ何の意味もない。」
「そうね。速水君は経済だもんね。お医者さんとは全然方向が違うよ。」
「正直に言うと、医者になりたいわけじゃないんだ。教養で専攻したい学問を見つけてそれに打ち込みたいんだ。」
「学者にでもなりたいの。」
「ちがうな。でもサラリーマンよりはいいかな。本音をいうと第一志望は指揮者かな・・・」
美夏は笑った。声を出して笑った。
「おかしいか?」
「だって音大うけないんでしょ。数学や物理や化学を勉強してるんでしょ。経済学部に通いながら・・・全く支離滅裂じゃない。」
「そうだ。支離滅裂だ。そういう人生なんだろ。」
美夏の言うとおりだった。理一は生活というものを極端に嫌悪していた。サラリーマンの家庭に育つということは、芸術家になる素質を十分に備えた理一にとっては生活の本質を知ることであった。それは晦渋なことだった。
やがて、電車は下北沢に着いた。南口に下りると様々な店が拉ぎあう商店街をゆっくりと歩いた。
「ここが俺の住んでいる街だ。」
「はじめて来たわ。私の住んでる街とはちょっと違う感じ。なんか、おもしろそうなところね。いろんなお店が沢山あって・・・」
「田舎者の集う街、かな?飲みにいくと、俺も静岡っていうやつ結構いるよ。」
「お酒は飲めないな。大学はいってもきっと飲まないな。」
「そうか、それはそれでいいじゃん。俺も量はあまり飲まない。」
二人は通り過ぎていく街並みを振り返りながら、精神的な均衡の稜線を歩いていた。
やがてインド風のカレー屋の角を左に折れ、しばらく歩いた。理一のマンションは、有名な劇場の通りの道沿いにあった。
「ここの二階なんだ。あがってよ。」
美夏は、理一の大きな背中をみながら一歩一歩階段を登った。
部屋のキーを回すと、カシャッという音がした。その音は、未来への扉が開かれる合図のように響いた。
「綺麗にしてるのね。」美夏は部屋を注意深く見回しながら、理一に言った。
「今日は特別に片付けておいたんだ。」
美夏は、本棚の中身をしげしげとみながら、
「難しそうな本読んでるのね。ところで、このポスター誰なの?」と本棚の横に貼り付けてある演奏家のポスターを見ながらつぶやいた。
「アルトゥーロ・ベネディティ・ミケランジェリ。」
「どういう人なの?」
「大好きなピアニスト。」
「ほんとにピアノ好きなのね。」
「最近は聞くほうばっかだけど。」
「私はクラシックなんて聞きもしないわ。」
「そうか、まあかけなよ。」理一は美夏と向かい合ってテーブルに座った。
テーブルの上の林檎をつつきながら美夏は理一の瞳の奥を見た。
「じゃ早速、数学の解法借りようかな。」
「ちょっと待てよ。コーヒーでも入れるから。」
「どうぞ、お構いなく。」
「事務的なやつだな。」理一は、CDラックからミケランジェリのショパンを取り出し、プレーヤーにかけた。
マズルカの響きがショパンらしい陰影を部屋中に漂わせた。
「これショパンよね。ポロネーズ?」
「マズルカ。似たようなもんだな。ポーランド的っていうか。東欧的っていうか。独特のテンポだよね。」そういいながら、コーヒーを入れた。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
理一は机の上から分厚いルーズリーフの束をもってきて、おもむろにコーヒーをすすった。
「これ貸すからコピーとりなよ。解析の過去問だけじゃなく、代数の類似問題もカテゴリーに分けてまとめてある。それから、回答が複数あるものは、後ろのほうにつけてある。」
美夏は一枚一枚めくってはじっと見入り、まるで品定めでもするように黙ってみていた。しばらくして、小さな声でいった。
「凄いよ。これ全部速水君がつくったの。」
「半年かけて。自分で解いてみてはじめて分かった。大学の理系の一年でやるような微分積分や線形代数をある程度知らなければ、天才でない限り東大にはうからないよ。」
「ありがとう。私にはかなり重い内容だけど、やってみるわ。」
ミケランジェリがバラードの一番を奏ではじめた。ショパンらしいピアニスティックな曲だ。
「素敵な曲ね。私も小学校まで習ってたんだけど、辞めちゃったの。」
「おれはも、ツェルニーやってソナチネアルバムやって、ソナタの途中でやめたよ。部活が忙しくて練習続けられなかったんだ。」
「わたしはなまけちゃった。おさらいについていけなかったの。速水君、部活なにやってたの?」
「サッカーやってた。静岡だから。」
「ふーん。そうか・・・サッカーか。」
「美夏は?」
「わたしはバスケット。今でも夏なんかはTシャツとバスパンよ。」
「似合いそうだな。タッパあるもんな。大学入ったら好きなだけできるさ。」
「そうね。なんか運動したいなあー・・・」美夏は再び部屋の中を何気なく見渡した。
「コーヒーとか紅茶とかたくさんあるのね。食器なんかも・・・男の人の部屋って感じしないわ。」
「紅茶は美夏といった青山のあの店で買うんだ。」
「そう、結構いい暮らししてるんじゃん。」
美夏は安心していた。ショパンとコーヒーがもたらす安堵で満たされた空気が二人を少しだけ本源的な自然へと近づけた。
理一は、おもむろに本棚から微分積分の教科書をとり、「これ参考書。かなり難解だけど・・・」そういいながら、美夏に差し出した。美夏が伸ばした手を理一はやさしくにぎりしめ、静かに、真綿の上に落下するかのように、ふんわりと抱きしめた。
それは昔、彗星の軌線をみたときの感覚と同じだった。
理一は小さいころ、父親と富士山の中腹でみた、裾を引くおおきな彗星とともに記憶にさまよっていた。そして、今腕の中にある美夏とともにあのときに見た彗星になろうと思った。二人は星空に浮かぶ大きな彗星の描く美しい軌線を、手をつなぎながら果敢に横断した。
理一は、薄らいでいく意識の中に、父の言った言葉を思い出した。
『理一、ほうき星の通った跡が見えるか。見えないなら見えるまでじっと観るんだ。それは彗星の足跡だ。おまえがあの彗星になりたいのなら、その足跡をじっとみるんだ。そしてそれを横切るんだ。』
理一はその彗星の軌跡が頭に浮かんだ。細長い楕円の軌道が・・・そして、彗星が引きずっている軌線をはっきりと星空の中に観た。ここは新しい共和国だ。なにもかもが理一の知っている世俗も、何の徳目もない全く新しい共和国であった。
美夏は理一の腕の中に眠っていた。理一は美夏のポニーテールのほどけた柔らかく長い髪に顔をうずめ、微動のない時間を漂流していた。理一は半覚醒の中で女の影を見た。だんだんとその影の輪郭が表れてきた。恭子がぼんやりとみえた。けれどもその影は次第に焦点が遠のき、明確に輪郭を認めないままに落下していった。
どれくらいたったのだろうか。やわらかい重さを感じた。
「わかったでしょ。」美夏はけだるそうな声を理一に向けた。
理一は、ハッとして覚醒した。
「うーん、なにが?」
「わたしのこと、わかったでしょ。」美夏は、理一の腕をきつく掴んだ。
理一は数瞬にして、ある知覚した温もりを思いだした。
「そんなこと、どうだっていいよ。弟がいたってどうだっていいのとおなじだ。」
「私、悪い女ね。予備校生の癖に。」
「いい女だよ。じゃなきゃここまで好きになれないよ。」
「それなら私より、綺麗な女の人がいたら、どうするの?」
「意地悪なこというなよ。」
理一は、美夏という女を知った。少なくともその精神は知ったつもりだった。
薄い午睡の中で、理一は再び夢をみた。どこまでも続く一面の向日葵畑・・・地平線が曖昧な遥かなる世界。理一は風に揺れる向日葵の美しい黄色い海をぼんやりと見ていた。いくらかの時が過ぎた。
「シャワー借りるわよ。」美夏は、当たり前の調子で理一を夢から現実に戻した。
「ああ、トイレと一緒。バスタオル出しとくよ。」
「ありがとう。」
少しのあと、遠くからシャワーの音が聞えた。理一には、その音が何故か不快に響いた。ついさっき味わった、たゆたいの散漫さと同じように・・・
理一は、屹然と立ち上がり、ロ短調のワルツをかけた。そして自らの心の擾乱を静めた。
第三章
大学へ行くといつも、世間とは、こうも異なった趣きを呈するものかと理一は思った。
この場所には、予備校のような日陰はなかった。皆がそれぞれに夢に描く独自の彗星になろうとしていた。そして、その美しい彗星の軌線のどこかを歩いていた。そこには夢見ることの多い季節の風が吹いていた。
とまれ学生になろうとして大学に入った人間が如何に多い事か。けれども、理一は違った。学問をすることが第一義であった。好奇心というものが、如何なる力よりも大きく理一をして学問を憧憬する力を与えた。
必修の一般教養課目は経済学部のクラス単位の授業だった。
「よう。仮面浪人。受かりそうか、文科二類?」同じクラスの日比野が言った。
「どうだかな。文科だか理科だか何類だか、近頃自分の意志が判然としなくなったよ。ところで、日比野、あいかわらず、テニス学科か?」
「皮肉、言うなよ。結構楽しいぜ。おまえもたまにはテニスでもしないか。充電、充電。」
日比野は、アルファベット順の学生番号が、HayamiとHibinoの順で理一と並んでいた。入学式のとき、はじめて話しかけられたのが、隣に座っていた日比野だった。彼は勉強する気なぞほとんどなく、いつも学食でテニスサークルの仲間とたむろっていた。
「日比野、わるいが、このレポート出しといてくれないか。」
「まあ、そのうち十倍返ししてもらうよ。兎に角頑張れよな。」
理一は、昨夜、美夏の残り香の中で書いた、嘗ての日本の大陸における植民地支配に関する反省めいたレポートを日比野に託し教室を後にした。
キャンパスは様々な緑の木々に覆われ、木の葉から漏れる緑色の秋の日差しがやわらかく、理一の弛緩した精神を引き締めた。
これから予備校に行く。それは決意であった。理一はこの決意をばねにして、彼のみる彗星に挑んでいた。美夏を思い、駅へと向って歩いた。途中、カトリックの教会の鐘がなった。それは、ちょうど正午を知らせていた。
午後一番の化学の教室に鐘と同時に滑り込んだ。理一は美夏の姿を見つけると、口を尖らせ、片目をつぶりながら、おちゃらけた調子で隣に座った。
美夏は、ジーンズに紺のニットを纏い、長い髪は大人っぽくおろされていた。
「イメチェン?」
「ノーチェンジ。」
小さな囁きに微かな囁きが返ってきた。
それっきり二人は授業に熱中した。
理一は、黒板に書かれた亀の子たわしを必死に写した。美夏といえば、参考書をみながらメモをとっているだけだった。
理一の最大の弱点である有機化学を美夏はこともなげに体得していた。しかし、理一はあせることを知らなかった。知っているのは・・・暗記科目は時間が解決する。畢竟、時間が解決しない科目こそが勝を制す黄金の鍵だと。
二人は授業中一言も話さなかった。特に気まずい思いもないままに、それぞれが自分の目標に向って走っていた。
授業が終わると、理一はルーズリーフを宝物のようにバインダーに閉じ、美夏に伝えた。
「あした図書館で会おう。予備校には寄らないよ。一時に四谷駅改札。百年でも待ってるよ。」
「そう。わかったわ。百年待たすかもしれないけど・・・」
「了解。」
理一は充実していた。美夏とは何事もなかったかのように一緒に授業を受けた。そして昨日よりもひときわ美しいその横顔を見ながら化学に集中し通した。そして、ほんの少しだけ心を予備校に残しながら、家庭教師の家へと向かった。
* * *
土曜の朝があけた。理一は眠りつづけた。昨夜、月と六ペンスの読解を夜中まで続け、さらに数学の過去問と格闘した後、朝方まで亀の子たわしを義務のように脳髄に刷り込んだ。薬学や化学志望ならモチベーションもあるだろうが、理一には辛い仕事だった。
ようやく目がさめると十二時を過ぎていた。ハッとした。慌てて身支度をすると駅まで駆けた。
電車が途中、駅に止まる度に理一はいらだった。いらだつ必要のない状況にもかかわらずいらだった。美夏を抱いた。しかし、美夏の心まで抱き寄せたという確信は持てなかった。その懐疑を増長するかのように電車は止まった。
新宿で乗り換えると四谷までは一駅五分だ。中央線に乗ったとたん不思議と理一は落ち着いた。既に見慣れた景色が飛行機雲の漂うどこまでも透き通った空とともに理一に映った。もうすぐあえる。美夏の香りが、理一を受験という束縛から徐々に引き離していった。
四谷駅の改札を抜けると、既に美夏が待っていた。約束から三分送れていた。
「ごめん。ごめん。寝坊しちゃったよ。」
「百年待ったわよ。お返ししてね。」
「うん。俺飯食ってないんだ。ちょっと買ってきていい?」
「何やってたの?飲み会にでもいったんでしょ。」
「亀の子たわし・・・やってたんだ。教えてくれよ。ケトン基だかカルボキシル基だかわかんないけどさ。」
美夏はあきれた顔をした。
「ご飯買ってきなさいよ。」
「分かった。ちょっと待っててよ。すぐだから。」
理一は、駅ビルに駆け込み、ハンバーガーとウーロン茶を二つずつ買った。
「買ってきたよ。一緒に食おう。」
「私早めにお昼食べちゃったの。」
「そうか。いっしょに食えばよかったな。」
「寝坊したくせに、何いってんの?」
「わかったよ。まあ、行こう。」
駅の長い階段を登ると教会の向こうに、大学の背の高い建物が見えた。
交差点を渡り、真田堀の土手を歩いた。グラウンドではテニス部やラグビー部が練習していた。
「みんな青春してるのね。なんか羨ましいわ。」美夏はいつになく感傷的な調子で言った。
「あとちょっとだ。がんばろうぜ。」
ベンチに腰掛けると、美夏は黙ってテニス部の練習を見ていた。
青山の双子のビルが大きな緑地の向こうに調和していた。正面のベルサイユ宮殿を模した館が世俗から少しだけ二人を遊離させた。
「ウーロン茶飲まない?」
「ありがとう。でもいいわ。」
美香の視線は黄色いテニスボールに向いていた。
「彼ね。テニスサークルなの。」
「そう。俺のクラスにもいるよ。テニス学科だよ、あれは。」
「彼も似たようなものよ。浮かれてばかりいて・・・」
「でも好きなんだろ。」
「本当に好きだったら、ここにいないわ。今日だって誘われたのよ。」
「そうか。じゃ断った分だけ勉強しよう。約束は約束だ。」
「そんなこといいの。勉強は真面目にしましょ。でも約束とかそんなんじゃないの。」
理一は自分が美夏に入り込んでしまったことを後悔はしていなかった。ただ、漠然と彼女の切なさが身にしみた。その情念をかき消そうとするようにハンバーガーを食べ尽くし、ウーロン茶を一気に飲み干した。
「行こうか。図書館。」
「うん。」
桜並木の土手を降り、二人は大学の正門をくぐった。
「素敵なところね。」
「いいとこだけど、ちょっとせまいな。」
美夏は忘れ物でもしたように、理一の顔を見た。
「思い出したわ、理一の部屋にあったカメラ、あれライカっていうんでしょ。」
「よく知ってるな。カメラのことなんて。」
「父がいろいろ持っているの。家族で旅行に行くときなんか、理一と同じカメラよく使ってたの。」
「そうか。CLって言う機種なんだ。コンパクト・アンド・ライトだよ。スマートなことはいいことだ。」
「私はスマートじゃなくたっていい。泥臭くたっていいの。理一は形に拘りすぎるわ。連れてってくれるお店も。お部屋も。まるでブランドカタログよ。」
「男はカメラやオーディオに拘る生き物なんだ。」
「そうね、父も同じかもね。私思うんだけど、理一にはこんな素敵な午後が過ごせるところがあるのに、受験勉強してるなんて、やっぱり変わってる。」
「もう一度、自分を試したいんだ。それだけだ。不完全燃焼は嫌いなんだ。受験勉強も楽しんでやれればいいと思ってる。俺は未だに本当には楽しめないけど。」
メインストリートと呼ばれる十字状の大きな通りを右手に曲がると、キャンパスの大きさに似合わない大きな図書館があった。
中に入ると比較的空いている二階に上がり、パーティションで仕切られた二人並んで座れる机に腰をかけた。
「よしやろう。解析。昨日京大の過去問やったんだ。最初の二問は何とか解ける。ところが三問目の極大極小問題はかなりひねってあって普通じゃ解けない。おれの例題集にも類例がない問題が出ている。」
「解答をみながら、段階を追ってやっていこう。」
二人は、模範解答を参照しながら、ポイントごとに数式を確認し、指摘し合い、完璧な解答を完成させていった。
模範解答の別解は、二人とも大きな発見があった。
「こんな解きかた思いつきっこないわ。」
美夏は茫然とした表情をして続けた。
「みた瞬間全然解けそうにないもの。」美夏はそれでも真摯な眼をしていた。
「ここを思いつくかどうかが経験なんじゃなかな?有名私立高校の奴等はこんなの日常的にやってるよ。オリンピックか全日本選手権か国体予選か。きっと勝負のレベルの問題なんだよ。現実だ。」
「そうなのかもしれないわね。私、国立と私立の組み合わせ迷っちゃうな。」
「そうだよな。科目数の多い国立を本命にするか滑り止めにするかは難しいよ。それでも気楽に受ければいいんじゃないかな。受けること自体が経験になるよ。この問題を体験したように。」
「そうね。もうそろそろ志望校きめなきゃね。」
「美夏は薬学部に入りたいんじゃなくて、薬剤師になりたいんだろ。なら、大学に拘ることないんじゃない。理科大第一志望で、あと二校ぐらい受けとけば。俺も医者になりたいんなら、地方でもどこでもいくよ。残念だけど、俺にはなりたいものが見つからないんだ。」
「よくそれで、もう一度東大受ける気になったわね。」
理一は自己矛盾をこれ以上説明する気にはなれなかった。
「さあ、今度は薬学部の問題やろうよ。出題傾向わかるんじゃない。」
二人は、京大の入試問題に向かっていった。共通認識をもつということは、絶対の安心感を生み出すものだ。美夏は一つ一つの問題を解いては、理一ともに数学に対する共通認識を深めていった。そして、理一と学ぶことに、窮屈な自らの心に安心を見出した。
図書館の窓から差す日差しは次第次第に赤く傾き、キャンパスを歩く学生もまばらになってきた。
「よし。今日はここまでにしよう。また、ルーチンにもどって、来週の土曜にここで今日の続きをやろう。」
「そうね。ここは、特別教室みたいなものね。今日はありがとう。きてよかったわ。」
二人は図書館を後にし、四谷駅へと向かった。
キャンパスを歩いていると、グラウンドから泥まみれで帰ってくる体育会の学生とすれ違った。
「ねえ美夏。あした、代官山いこうよ。」
「いきたいのは山々だけど、日曜はあんまり外出できないの。」
「ご両親厳しいの?」
「父がね。彼ともあんまりあえなかったし。」
「過去形だけど・・・」
「別れましょって、言っちゃった。」
「そうか。」
理一はそれ以上を聞く気はなかった。夕日に浮かぶ美夏の陰影の濃い横顔があまりに美しかった。
第四章
次の週の日曜日、二人は鎌倉へ行った。
自由が丘駅のホームは混雑していた。その混雑からジーンズにスニーカーをはいた美夏が抜け出した。オレンジ色のジャージにスタジアムジャンパーを着て、髪はいつものポニーテールだった。
「よう。スタイリッシュ・ガール。」
「ただの悪い予備校生よ。」美夏は照れる様子もなく囁いた。
調度、横浜行きの電車がホームに入ってきた。二人は社内が比較的好いていたので並んで座れた。
「鎌倉って一回しか行ったことないよ。俺は何かって言うと伊豆だからな。」
「私もニ、三回いっただけよ。」
「八幡様に合格祈願しようよ。」
「そうね。有名な銀杏の木があるのよね。」
「ああ、実朝がやられた銀杏か。誰か隠れてたりして。」
「きっと私の父よ。」
「そりゃ、こわぇーな。」
「やっぱりそういうもんなんだ。お父さんねぇー。理一にも怖ものあるんだ。」
美夏は笑った。理一は、窓の外の雑然とした街並みを眺めながら、ゆっくりとした調子で語りかけた。
「怖いという気持ちの中には、ちょっとだけ申し訳ないっていう気持ちが含まれているんだ。お父さんにとって、美夏はかわいい娘だよ。美夏なら一層そう思うに違いないさ。何か後ろめたい気持ちがするんだ。」
「ふーん。じゃあ母はどう思っているのかな?」
「わかんないな。少なくとも、いいとこに嫁にやりたいぐらいには思ってるんだろうけど。」
「そうかしら女は自分で考えるんだよ。」
「男だって、自分のことは自分で考えるさ。」
「男の人って、子供のことあんまりかんがえないでしょ。」理一は『子供』という言葉にドキリとした。
「結婚して子供が出来たら考えるんじゃない。それも随分先の話だよ。」
「そうね。」美夏はそう答えて話題を終端した。
二人は、横浜駅で横須賀線に乗り換え、鎌倉駅でおりた。
小町通は多くの人でにぎわい、二人並んで歩くのも困難な程だった。外国からの観光客、お宮参りの人々、それぞれがこの古都がかもしだす深い歴史に身を浸しながら、全てが落ち着き払った地面を歩いていた。
煎餅屋で大きなしょうゆ煎餅を買い、美夏とともにかじりながら北鎌倉方面にゆっくりとした歩調で進んだ。八幡様は、多くの参拝客で賑わっていた。銀杏の実の出店があった。理一は銀杏が好物だった。小さい頃、よく母と一緒に三島の銀杏並木で銀杏を拾った。きっといいことがある、銀杏は縁起のいいものだった。本堂につくと、二人それぞれに祈願した。
美夏は合格を、理一は・・・美夏を。
祈願を済ませると二人は境内をぶらぶらした。睡蓮のある池があった。池に掛けられた橋で立ち止まると、理一は思いだしたかのように、池に映った美夏に向っていった。
「海行こうよ。由比ガ浜。」
「うん。理一に任せるわ。」
二人は踵を返して、段かずらを鎌倉駅の方向に戻った。
理一は、日比野が教えてくれた、由比ガ浜の国道沿いにあるイタリア料理屋に入った。
「素敵なとこね。」美夏は店内を見回してポツリと言った。
「友達に聞いたんだ。」
「そう。由比ガ浜って小さい頃泳ぎにきたわ。」
「サーフィンやってるやつはいるけどな。」理一は季節の位相が九十度ずれていることを思った。
海は美しかった。もし美夏が予備校生でなかったら・・・受験をやめてもいい。理一は今、目の前にいる女のことをいつしか第一義に考えるようになっていた。こういうふうに考えるようになったのは何故だろうか?理一は自問した。
あくまでも東大に入るために、それだけのために理一はあらゆる犠牲をはらったつもりだった。あれだけ愛してくれた恭子と別れた。一方的に会うことを拒絶した。それは理一自身が今この空間にいることと明らかに矛盾していた。自分をもう一度試すという名目で仮面浪人し、美夏と戯れていた。それは理一の考える堕落ではないか。
「ねえ、難しい顔して何を考え込んでるの?」
「ああ、ごめんごめん。あんまり海が綺麗だから。」
理一は、ビールを一口のみ、タコのカルパッチョを口にした。
「飲む?」
「少しね。」そう言って、理一が注いだビールを美夏は茶でもすするように飲んだ。
「飲めるんじゃん。」
「家では少しのむこともあるわ。でも外では飲まないの。」
理一は涼しい顔を見せながらも、深い喜びを感じた。
「たまにはいいんじゃない。弛緩するときは徹底的にするんだよ。電池ってさ。充電できる奴、あれって、ショートさせて完全に電荷をなくすれば長持ちするんだよ。」
「そうね。電気化学だっけ。化学反応の問題でやったわ。」
「人間も同じだよ。前にも言ったと思うけど、いっぱい充電しといて、一気に放電するんだよ。」
「はいはい。じゃ帰ったら勉強して、十二月の模試に備えるわ。」
「そうだね。」
ほのかに染まった美夏は妖艶であった。パスタを食べながら理一はフォークを見つめた。このフォークで美夏の何もかもをからめとってしまいたい。理一は刹那に『勝利』の二文字を思い描いた。
海風に吹かれながら、二人は由比ガ浜駅から江ノ電にのった。逗子マリーナが遠くに見えた。材木座から由比ガ浜にかけ、白く砕ける波が幾十にも重ね合わされ、不思議な調和を作り出していた。やがて稲村ヶ崎に電車は止まった。そこは高校三年の夏休みに、恭子ときた場所だった。カレーがうまい店で海を見ながら水平線に卒業後の幸福な日々を夢見た。恭子も同じだった。その時恭子は確かに言った。理一の子供が欲しいと・・・
「なあ、美夏。さっき東横線で、子供のことを考えるとか、どうとか言ったよな。」
「うん、特に意味があっていったんじゃないの。」美夏の頬は未だ仄かに朱色を残していた。
「そうか・・・」
江ノ島が霞んでみえた。江ノ電は海沿いをゆっくりと走った。理一にはその速度が風景と調和した丁度いいもののように感じられた。
「ねえ、江ノ島へ行ってみない?私、あの橋を渡ったことないの。」流れ行く風景の中で、積極的の気配とともに、突然に美夏はそう言った。
「うん。児玉神社があるな。児玉源太郎を祀ってある。日露戦争か、世界史にはあまり出題されないな。」
「神社が好きなのね。」
「願をかけるのは嫌いじゃない。神社には魂があるよ。物理でも化学でも絶対に分からないことだ。」
「理一って、意外に古風なのね。はちゃめちゃなことやっているようにみえるけど。」
次第に江ノ島が大きくなった。江ノ島駅は観光客で混雑していた。駅でポップコーンを買い、二人で頬張りながら橋を渡った。波涛に挑むサーファーが湾曲した相模湾の果てに峻厳と聳える雪を頂いた富士をよぎった。実際に歩いてみると、橋はかなり長かった。ようやく島にたどり着くと、さざえのつぼ焼きや焼き蛤の匂いがした。そして長くつづく石段の脇にはお土産屋が軒を連ねていた。
児玉神社まで登ると、理一は祈った。
「児玉源太郎様。どうか二百三高地を落とした、幾万の日本人の魂を私に与えてください。」
美夏はからからと笑った。
「何がおかしい?」
「だって、日本人の魂って、理一にだけ配分してくれるわけないでしょ。それは生きているものよ。」
「確かに生きてるものだよ。人間は、何事も一生懸命やれば絶対報われるんだ。唯、時として運が味方するときとそうでないときがある。合否ライン上にあるとしたら、それはほとんど運で決まる。」
「やっぱ、今日は理一らしくないよ。ハードルは余裕を持って越すんじゃないの?だから大学で使う教科書まで目を通してるんじゃないの?」
「理屈じゃないんだ。信じることだ。そういうふうに俺はいつも考えてるよ。」
「じゃあ。私もお願いしよう。」美夏は柏手を打ち、目をつぶり祈った。
「何お願いしたの?」
「秘密・・・」
二人は神社を後にして、石段を降りた。理一には、美夏が『秘密』といった祈りが気にかかった。曖昧な概念ほど人間を当惑させるものはない。曖昧になればなるほど、それは唯唯大きく膨らんでいくばかりであった。理一は女の多弁が嫌いだった。けれども、時として、その多くの言葉尻から心の中を読むことが出来た。彼はそのことを女の無智と思った。美夏は多くを語らない女であった。彼はそれを理智と思う男であった。
言うまでもなく、彼は自分自身の無智に関心がなかった。多くの男がそうであるように。
片瀬江ノ島駅から小田急線に乗り、東海道線を乗り継いで横浜で降りた。
東横線へと歩きながら、ふと思いついたように美夏が尋ねた。
「ねえ。家によって行かない。父はゴルフでいないから、母だけよ。」
「でも、もう四時だし・・・」
「ご飯でも食べて行けばいいじゃない。ろくなもの食べてないんでしょ。」
「うん。でも俺どんな顔してお母さんに会えばいいかな?」
「ラブレターだしたのは私ですって顔なんかどう?」
「意地悪だな。」
「ほんとはね。理一にピアノを弾かせてあげたいの。」
「そうか。じゃ。ピアノ弾きにきましたって顔で会えばいいな。」
二人は笑った。
横浜で自由が丘までの切符を買い、電車に乗った。理一は考えた。何を弾こうか?暗譜している曲はそう多くはなかった。ショパンのワルツか?モーツァルトのソナタか?
「何考えてんの?もう顔は決めたんでしょ。」
「曲を考えてるんだ。」理一は頭を掻いた。
「数学に迷いはなくても。こういうことには迷うんだ。」
美夏の落ち着きが理一の逡巡に勝を制した。
理一は思った。美夏は理一より遥かに大人であると。半歩だけだが、美夏の方が自ら思い描く彗星に近づいていた。
美夏の家は自由が丘駅から駒沢公園へと続く道から都立大学方面に折れたところにあった。理一は途中の洒落たパティシェリでケーキをかった。こんなとき女はよく、「あっちの店がおいしい」とか、「こっちの店は甘い」とか、そういう口吻を漏らす生き物だと彼は心得ていたが、美夏は違った。しばらく歩くと煉瓦色の瀟洒な作りの家が周囲からぽつんと浮き出ていた。
「ここよ。どうぞ」美夏は門を開け、玄関に案内した。
「あら、お友達なの?いらっしゃい。」美夏の母はおっとりとした感じの、上品なひとだった。
「はじめまして、速水と申します。美夏さんとは予備校の同級生で・・・」
「速水理一君。予備校の同じクラスなの。でも大学にも籍をおいていらっしゃるの。」美夏は屹然と言った。
「土曜日にいっしょにお勉強をしてらっしゃるかたね。どうぞおあがりください。」笑いかけながら、美夏の母は大きな居間に案内した。その空間は、安井曽太郎の静物画が何気なく飾られ、全てが落ち着き払った印象だった。
「これ速水君から。」
「どうもお気遣いいただいてすみません。お紅茶でよいかしら。」
「はい。どうぞ、お構いなく。」
「私着替えてくるから、ピアノでも弾いてて。」そういうなり美夏は二階へと階段を登っていった。キッチンから、ほんのりと洋食の香りがした。
「ピアノをお習いなんですか?」美夏の母は紅茶をポットに入れながら、落ち着いた調子で理一に語りかけた。
「小さいころ習ってただけなんです。」
「あら、そうですか。うちの子は中学でバスケットをはじめましてね。そうしたらお稽古が続かなくなりましたの。それからは、毎年調律はしてるんですけれども、誰も弾かないんです。ご遠慮なさらずにお弾きになってください。」
奥を見るとそう大きくはないが、マホガニーのグランドピアノがおいてあった。この上品な部屋に調度品としてきっちりと収まっていた。
美夏が、着替えを済ませ二階から降りてきた。
「頂いたケーキ食べようよ。」美夏は母に友達のように語りかけた。
「はいはい。今入ったところよ。」
トレーに、リチャード・ジノリのティーポットとカップを載せて、美夏の母はテーブルに紅茶を運んできた。
紅茶が注がれている間に、
「速水君。どれにする?」と美夏は何のてらいもなく聞いた。
「どうぞ、お母さんから・・・」理一は少し硬くなっていた。
「じゃあ、わたしこれいただこっかな。」美夏は、シングルショートを選んだ。
「お母さん。どれにする?」
「あら、折角だから、ブルーベリーのタルトですか?それをいただこうかしら。」
「速水君は?」
「俺、レアチーズにするよ。」
「じゃ残りのはお父さんに。」
そう言うと、美夏は冷蔵庫にケーキをしまった。
「いつも数学を教えていただいてるんでしょ。」美夏の母は、全てを知っているかのように話し出した。
「教えてるっていうほどのもんじゃないんです。ただ志が同じようですので、同じ勉強をしているだけなんです。」
美夏は黙って、ショートケーキを食べていた。
「うちの子は、薬学部にいきたいようなんですけれど、数学が苦手でねえ。いっしょに勉強してお互いに学力がつくことはとてもよいことだと思っておりますの。」
「速水君、理科二類受けるのよ。」
「あらそう。じゃ、とてもおできになるのね。」
「うちのクラスでも数学と理科はトップのほうなの。」
「そうですか。合格なさるといいですね。」美香の母はほんのりと笑いながら、「このタルトとても美味しいわ。」と言って紅茶をすすった。美夏の母はよく見ると随分若かった。理一が家庭教師をしている中学生の母より若いくらいであった。まだ四十の坂を超えたばかりであろうか。
「この紅茶とても美味しいです。」理一は思い出したように言った。
「速水君、紅茶もいいけど、ピアノが聞きたいな。」
「じゃ。折角ですので。」理一は静かに席を立ち、ゆっくりとピアノに向かって歩いた。
椅子を調整し、鍵盤の蓋をあけると白と黒の四オクターブの音色が鮮やかにみえた。
ニ短調の和音をゆったりとしたアルペッジョで鳴らすと頭の中にスコアが彷彿とした。
アレグレットで弾き出した。ベートーベンのテンペスト第三楽章を。決して誇張した演奏はぜず、一音一音、このピアノのもつ響きを最大限に引き出すようにインテンポでしっかりと弾いた。途中、エモーショナルになったが、スコアに忠実に虚心坦懐に指を動かした。七分ほど弾いたであろうか。最後の和音を叩くと。二人の聴衆は柔らかな拍手をしてくれた。
「久しぶりに弾きました。とてもいい音でした。」理一は少し上気した顔で感激を隠さなかった。
「ベートーベンか、絶対ショパン弾くと思ってたわ。」
「どうして?とてもお上手だったわよ。」
「速水君いつもショパンのCD聞いてるの。」
「ええ。ワルツが好きなんです。ロ短調のワルツが。」
「私はあまりわからないんですが、ショパンはどれでも好きですよ。ワルツもノクターンも。」
「意外に構成感あったな。速水君のテンペスト。」美夏は評論家のようだった。
「あら、あなた失礼じゃない。」
「いいんです。誉めてもらったようなもんですから。それに下宿なんでめったに弾くことはないんです。」
「ご実家はどちらですの?」
「三島です。」
「あらとてもいいところじゃない。伊豆が近くて。」
「そうですね。でも近い割にはなかなか帰らないんです。家にはアップライトしかありませんし、今日はグランドピアノで弾けて本当に気分がいいです。」
「もうすぐ夕飯ができますから。お弾きになっててください。」
「いえ、お茶を頂いたら失礼します。」理一は恐縮してそう言ったが、美夏の母は台所で夕飯の支度をした。
「美夏、悪いよ。」
「いいの。今日は母と二人なんだから。」
「ねえ、理一、ショパンのワルツ弾いてよ。」
「ああ。」理一は再びピアノに向かうと、美夏もあとをついてきた。
「スコアあるわよ。はいワルツ集。」
理一は色の変わった古いスコアを受け取ると、ショパンのロ短調ワルツを弾きはじめた・・・美夏が理一のマンションでシャワーを浴びていたときに聞いた曲だ。あのときの響きを美夏は覚えているのだろうか・・・
ショパンは思いっきりロマンチックに弾いた。そして、不健康なまでにほの暗く。美夏はスコアをめくってくれた。理一の情感は一気に高まった・・・そして最後の和音をゆっくりと沈めた。
「凄い。こういう風に弾くんだ。スコアの指示は無視ね。」
「ちょっと気張っちゃったかな。ベートーベンの音楽は女には絶対に作れない。ショパンなら、あるいはシューマンなら、女でも作れると思う。不思議なのは幾世紀を通じてこの世に高名な女の作曲家が登場しないことだよ。」
「脳の構造の違いかな。それとも生活上の役割の違いの反映かな?どちらかは私にもわからないけど、理一が弾いたようなショパンは、私には絶対に弾けないことは確かよ。」
美夏はテーブルへと足を向けた。
理一は帰ろうと思った。これ以上、情感を高揚させてはいけない、いつもの冷静な自分に戻らなくてはいけない・・・美夏がもし人生の陥穽だとしたら、理一はいままさに、その中に落下しようとしていた。
「すいません。折角なんですが、約束を思い出しまして、今日は失礼させていただきます。」
「あら、もうすぐできますのよ。」美夏の母はオーブンからローストした高級そうな肉を取り出しながら言った。
「いいじゃない。もうできたのよ。」
「それでは、お持ちになってください。」
そういうと、美夏の母はアルミフォイルとラップで包んでくれたローストした肉を有名なデパートの袋に入れて渡してくれた。
「なんだかすいません。」理一は本当に申し訳なく思った。
「こちらこそご馳走様でした。また遊びにいらしてくださいね。」
「はい。では失礼します。」
理一が母に挨拶をすると、美夏が表の門まで送ってくれた。
「きょうは楽しかったわ。」
「俺もだよ。美夏の生活がよくわかったよ。」
「私もあなたの生活がわかっているから、お互い様ね。」
「そうだね。それじゃ。」
理一は門を閉めた。
「また明日ね。」美夏の声がすっかり暗くなった家並みに吸い込まれた。
自由が丘までは十分とかからなかった。美夏の母が持たせてくれた紙包みから温もりが伝わった。それは愛情のようなものに感じられた。綺麗なお母さんだ。理一は心の中で呟いた。
第五章
師走になると、予備校生はいっせいにラストスパートに入る。実夏も例外ではなかった。
「ねえ。もうすぐ、センター試験の直前模試でしょ。なんだか呑気なのね。」
満員の教室で美夏はひそひそと、理一に語りかけた。
「本番は二次だよ。センター試験は気楽にいこう。」
「私まだ国立決めてないんだ。化学科も考えようかな。」
「薬学部じゃないの?」
「理一と話したり、いっしょに勉強してわかったの。薬剤師というより、身につけるため資格がほしかったの。もちろん薬学には興味があるわよ。お医者さんがいくらがんばってもいい薬が開発されなきゃ難しい病気は治らないわ。そこには、化学や生物学だって関係するわけでしょ。理一が言っていたように、確かに資格は結果なのかもしれないわね。」
「そうか・・・」
理一は考えた。いい意味でも、悪い意味でも、美夏を啓蒙してしまったのだと。本来ならば、国家資格のために学問を選択するのはおかしなことだ。あくまでも自らが修めたい学問を行う場所が大学である筈だ。けれども、ある特定の職業に就くための国家試験の要件が学部や学科を法律的に制約しているこの国にあっては、美夏の選択は仕方のないことだった。
理一と美夏は予備校ではあまりなれなれしくしなかった。二人とも、己の道を己の力で見出そうと必死だった。
しばらくして、センター模試の結果が配布された。
美夏は、高得点だった。英語と数学は理一が抜きん出ていたが、外は遜色がなかった。
「美夏、すげーじゃん。」理一は真顔で話し掛けた。
「理一にはかなわないわよ。でも国立も二次がんばればどうにかなるような気がしてきたわ。」
「各教科のアップ度からみれば、旧帝大なら受かるな。」
「兎に角がんばりましょう。」
美夏はそう言ったきり黙った。
『旧帝大』、その言葉に美夏は黙るという反応をした。理一にはその理由がわからなかった。地方へ行く気があるのか?仙台か?名古屋か?北海道か?理一はありえないと考えた。自由が丘に立派な実家があり、上流の家庭に育ち、地方へ行く。美夏の高校は男女共学の名門校だったが一部の例外を除いて、ほとんどは首都圏の有名私大へ進学するのが常だった。ただ、あれは、二人が初めてのランチのために南新宿のスパゲッティ屋に向うときのことだったであろうか。確かに美夏は『一人で暮らしたい』と呟いたことが少し気になった。
「正月なしでがんばろうよ。セミナーハウス行くんだろ?」
「行くわ。まだお金払いこんではないけど。理一も行くのよね。」
「うーん。スパルタは嫌いなんだよな。缶詰になることは、それなりにためになると思うよ。でも俺は、紅茶でも飲みながらゆっくりやりたいな。」
「そう。私も本音はそうなの。でもここががんばりどころかなって・・・」
「高三ならいざしらず。二回目の俺たちがやることじゃないよ。もう自分の弱点は知悉しているじゃないか。」
美夏は机に頬杖をついて考え込んだ。
果たして美夏の脳漿では如何なる思考が展開されているのだろうか。理一はある決断をした。
「美夏。正月をいっしょに過ごさないか。俺のマンションで。お互いのプログラムでやるんだ。いっしょにいれば、助け合える。時間のロスは限りなくゼロにできる。」
美夏は、僅かに微笑みながら理一の眼をじっと見つめた。
「その目は本気ね。また突飛なこと言い出したわね。親にうそ付けって言うの。合宿いくっていってお金ももらっているのよ。よく平気でいえるわね。」
「気持ちはわかるよ。お互い大人なんだから自分で決めればいいさ。俺を利用したければすればいいし、利用価値がなかったら、合宿で缶詰になればいい。」
「少し考えさせて。」美夏は長い髪をなびかせながら、既に誰もいなくなった教室を颯爽とあとにした。
次の土曜はクリスマスイブだった。街は皆イブの華やかな色に彩られていた。四谷の教会もイブのミサで荘厳な空気に満たされていた。二人はいつものように大学の図書館で勉強した後、土手のベンチに腰掛けた。
「今日はもうへとへと。理一のパワーにはついていけないわ。」
「俺もきょうのはきつかった。十五年前の難問だもんな。その頃俺たちまだ幼稚園だ。」
「そうね。難問っていうより奇問ってやつかな。」
「四問中三問が限界の限界だな。最後の問題は理科三類の数人しか完答してないさ。論外の外だよ。」
「でも、とってもいい勉強になったわ。」
「ところで今日はクリスマスイブだな。」
「クリパっていうのかな?クリスマスパーティ。大学のお友達とやらないの。」
「テニスサークルなんかはもうやったんじゃないかな。みんなきょうは自由行動さ。もしかして誘われた?」
美夏は黙ってうなずいた。
「そうか。俺に気を使うことなんかないさ。行きたければいけばいいし。俺といたければいてもいいし。美夏が決めることだ。」
「私、おうち帰るわ。」
「そうだな。家族三人でお母さんの美味しい料理食べて、ケーキ食べて。それがいいよ。」
「理一は一人なの?」
「俺は一人だよ。自由行動。本でも読もうかな。今日はもうポットは満タンだ。」
「あのね。私、合宿に行くことにしたわ。」
「そうか。じゃ頑張ってこいよ。」
「理一の合宿に。」
理一は、遠い視線を美夏に向けた。うっすらと桜色に染まった頬が愛らしかった。その頬にキスをして、やわらかく抱きしめた。
地下鉄がホームから離れ、眼下のトンネルへ入っていった。
* * *
十二月三十日の朝がきた。
予備校主催の合宿は修善寺のセミナーハウスで行われ、一月三日の夕方に東京にもどることになっていた。理一は、たくさんの食料品を買い込んだ。今日から五日間美夏と暮らす。静謐とした喜びが理一の心の中に、通奏低音のように響いていた。
午後一時ごろだった。玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると、美夏が買い物袋と荷物を持って立っていた。
「よう。何も買ってくるなっていったじゃない。」
「ごめんなさい。」美夏はどこか神妙な雰囲気を漂わせていた。
「私、お昼未だなの。理一は?」
「俺もまだだ。」
「じゃ、いっしょに食べましょ。インドカレー屋さんで二人分テイクアウトしたの。すぐ食べられるわよ。」
「ありがとう。」
理一は美夏のやさしさを思った。いや女のやさしさを思った。そのやさしさは美夏の母のものと同質であった。その国は、大いなる自然のようなやさしさに包まれた二人だけの共和国だった。
昼食をすますと、夕方までそれぞれに、紅茶を飲んだり、居眠りをしたり、敢えて会話することを避けるように勉強した。
やがて時は五時を過ぎた。理一は重たげな口を美夏に向けた。
「夕飯俺作るから。」
「いいわ。私が作るわよ。」
「美夏。勉強しなって、後悔しないように。ショパンかけてもいい?」
「いいわ。ここはあなたのおうちだから・・・」
理一は本屋で買ってきた、料理本のレシピを見ながら、ポトフとラザニアをつくった。
二人きりの食卓で向かい合って夕食を摂るということは、生活を意味していた。理一にとって生活とは常にしみったれたピアノだった。ところが、この空間にある生活は流れているショパンのノクターンのように甘美なピアノに聞こえた。
「おいしわ。このポトフ、鳥がまるごと入ってるのね。とってもおいしいわ。ラザニアも。」
「本見てつくったから、俺の作品じゃないよ。」
「そんなこと関係ないわよ。理一に作ってもらうなんて望外の幸せよ。」
「望外か?俺がおさんどんすれば、はかどるじゃん。最近悲壮感ないんじゃない?」
「そうね。センター模試が終わって、なんとなく安心したところはあるかな。」
「よかったじゃん。自信持たなきゃ。食休みしたら英語やろうよ。」
「私、長文読解やらなきゃ。」
理一はジャスミンティーを入れた。部屋中に香りが立ち込め全てを安心させた。
理一はジャスミンティーを飲みながら、月と六ペンスを夢中で訳した。しばらく経つと黙々と勉強していた美夏が突然声を発した。
「質問があります。どうしても訳せないの。」振り向くと、美夏は殊勝な顔をしていた。
「この長いセンテンス、意味はわかるけど、文法がわからないわ。」
「ああ、この“that”は同格のthatでしょ。これは、先行詞を含む関係代名詞の“what”。ここの“As is”のasは主格を省略した関係代名詞。“As is often the case with me,”は、イディオムで『よくあることだが』で“Such as”のsuchが省略されている。」
「そうか。イディオム丸暗記じゃだめなのね。本来の構成や意味がわかんないから・・・」
「ドリル、ドリル。時間かけるしかないよ。」
理一は熱中した。ポール・ゴーギャンをモデルにしたこの小説は、英語のためだけでなく、人間存在のあり方とその生き方を考える上で意義のあるものだった。この五日間で訳し終える、理一は自らに義務を課した。
辞書をひたすらに引いていると、見知らぬ単語の山が出来ていた。理一はその山を無視して前に進んだが、同じ単語が繰り返し出てくると、否が応でも暗記せざるを得なかった。次第に頭脳の回転が遅くなり、一度覚えたはずの語彙はなかなか定着しなくなった。気がつくと美夏は化学式をノートにびっしりと書き連ねていたが、よくみると余白に猫の絵が描かれていた。時計は一時を回っていた。
「あー眠い。はじめからストイックになるのはよくない。風呂はいって寝よう。」
「私はストイックよ。あらゆる意味で。」
理一は、聞かぬ振りをして、風呂に湯を入れた。美夏はそしらぬ顔で亀の子たわしやら猫を書いていた。
「美夏、先にはいんなよ。」
「私もう少しやるわ。」
「じゃ、悪いけど俺先入るよ。」
理一は、ゆっくりと風呂につかった。自然とこれからの長い夜のことを考えた。しかし、目的が違った。どう合理化すればいいのだろうか?『ストイックにならなければいけない』理一は体が温まるのと速度を同じにして、この想念をもって、頭の中をいっぱいにした。
風呂から出ると、美夏は寝ていた。
「美夏、風呂はいんなよ。眠いの?」美夏は起きなかった。
「じゃ、ベッドでねなよ。俺、ソファーベッドで寝るから。」美香をベッドへ運ぼうと体に触れた瞬間に美夏は忽然と起きあがり、
「やっぱりお風呂頂くわ。」とうつろな目で答えた。
少しばかりの時間がたった。シャワーの音が聞こえた。理一の記憶にある音だった。
理一は眠れなかった。いや眠らなかった。美夏を待った。大きな鼓動と全身の血液の循環する速度を感じながら。
美夏はパジャマをきてダブルベッドに座って髪を拭いた。
「いいお風呂だったわ。目がさめちゃった。」
「俺は睡魔に襲われてきたよ。」
「じゃ。おやすみなさいね。またあした。」美夏は体を丸くして背を向けた。
理一は逡巡した。このまま寝るのも小説だったら美しいかもしれない。だが、美夏にしても、考えがあってきたはずだ。そう思った途端、理一はゆっくりと美香の背後に滑り込んだ。
「だめ。勉強しにきたんだから。」
「美夏。」理一は細い体を抱きしめた。美夏は寝返って理一の胸に顔を埋めた。
緊密な紐帯・・・それは何も存在しない空間の中に、唯一存在を許された概念であり、理一の果断な性質が希求してやまないものであった。彼はその中に次第に蒙昧としていく自分を感じていた。
カーテンの隙間から冬の爽やかな太陽がこぼれていた。
美夏は未だ眠りにあった。その寝顔をみながら、恋というものの不可思議を漠然と思惟した。
昨晩の美夏は一切の贅肉のない精神と肉体で頂点を極めてなお、幾つもの交叉する頂点を彷徨った。美夏は理一にやさしかった。何歳も年上のようだった。理一はついこの前夢で見た、一面の向日葵畑を美夏に連れられて子供のようにはしゃぎまわった。背の高い大きな向日葵に囲まれて、理一は美夏と戯れた。やがて走り疲れて座り込むと、美夏は理一の顔を撫でながら向日葵畑の彼方を見ていた。その視線の先は茫漠としていた。そして、そのときの美夏は、理一には別人のように映った。
気のせいだろうか。美夏の精神は、理一のそれとはその爛熟さにおいて幾分か性質を異にしているように感じられた。その相違は模糊としたものだった。いずれ人間は多かれ少なかれ別の性質に生まれついている。その個性が互いに引かれ合い、恋に落ちる。多くのものを内包する人間の精神とは、そこに至ってもなお不透明なものなのだろうか。
美夏の美貌は突出している。生まれてこの方このような美貌は観たことがなければこれから先もないであろう。この明白な事実が理一の美夏に対する恋情の誘因であったことに相違はないし、性的欲求の対象としての生物的な要素についても同様であった。けれども、その品格、凛とした性情、敷衍すれば人間としての外延の緻密さが理一の美夏に惹かれた主因であり、さらに交渉がもたらした心身の豊潤さがそれを増長したこともまた確かなことである。加えて、理一は美夏を全的に理解しようと努めたが、昨夜知覚した、理一自身が確定し得ない美夏の精神の一片に対する戸惑いがこの不可思議さを綾なしており、恋愛特有の不安であると理一は折り合いをつけた。
つまり、理一の困惑の中心は彼の視線から眺めた美夏の精神の暗面であり、それは美夏自身しか知りえぬ、若しくは美夏自身も知りえぬ不確定性に起因することであった。
捉えどころのない思索に一区切りつけた理一は、美夏が目覚めないようにベットから静かに起きあがり、そっと外に出た。寒気がすっと体を刺した。静岡育ちの理一にとって、東京の冬は案外に寒かった。
散歩がてらにコンビニで歯磨き粉を買い、駒場方面へと歩いた。理一の気持ちの奥底には自然と駒場キャンパスが横たわっていた。真っ青な空がすがすがしかった。放射冷却で冷え切った道をまるで気持ちを鎮めるかのように駒場キャンパスの正面まで歩いた。立ち止まると荘重さが立ち込めた。その刹那、夢想から醒めたように、美夏を一人にしたくないという想念が増殖していった。時計を見ると既に三十分が経っていた。
「おかえりなさい。早起きなのね。」
「散歩してたんだ。」
「そう。コーヒーとトーストでいい?」
「ありがとう。」
美夏は既にシャワーを浴び、朝食の支度を済ませていた。
分厚いトーストにかじりつきながら、
「今日は大晦日だな。」と不意に呟いた。
「そうね。世間は。私たちには大晦日もお正月もないわ。」美夏は幾分か目に寂寥を浮かべていた。
「明日、明治神宮に行こうよ。」
「うーん。」美夏はコーヒーをすすりながら伏し目がちに考えていた。
「理一が合格したら一緒に行きましょ。」
「美夏が受かったらいこうよ。本当は、試験の前に行くべきところなんだろうけど。」
「それもそうね。」
美夏は完全に、受験に没頭していた。まるで、何かに憑かれたように。
大晦日も一日中それぞれに勉強した。美夏はベットに寝ころんで、英単語をさらったり、理一の本棚から本を取り出し、「ジョルジュ・バタイユってだれ?」と首をかしげながら語りかけた。理一は集中した。集中したときの彼の性癖は、昼食も忘れて代数に向かわせた。今年の二次は絶対に数列の難問が出題される。そう思うと、理一は息つく間もなく問題を解きつづけた。
夕刻になった。美夏が一緒にカレーを作ろうといった。それは買い置きのものですぐに作れた。美夏が肉や野菜を切り、理一がそれを炒めた。美夏は野菜をかなり細かく切った。水を差したところで、美夏が代わった。
いい香りが部屋中に立ち込めた。この中にどんな亀の子たわしがはいっているのだろうか?化学の不安が頭を掠めた。そんな自分に嫌気がさし、ショパンのワルツをかけた。美夏は、テーブルに座り、夕刊を読んでいた。受験生の休暇であった。
熱を冷まし、しばらくまった。合作のカレーはできあがった。それは理一の全く知らないカレーだった。
「これどうやってつくったの?」
「小麦粉をバターで焦がして、カレーパウダーでルーを作ったの。スパイスが結構あるのね。赤ワインを結構入れちゃった。トマト缶もつかったわ。あとはリンゴ。」
「うまいよ、これ。カレー屋やれるよ。」
「ありがとう。母に・・・」美夏は言葉を止めた。
「言えないわね。」微笑みながらカレーを口に運んだ。
理一は、いま眼前の美夏の心情を察するに、解き得ない不合理を思わざるにはいられなかった。もし、自然というものが人間を支配するものならば、自分も美夏も何の後ろめたさもない筈であった。ところが、世の中というものは、道徳だの、理性だのと、もっともなことを言っては、ときに自然の情操を悪徳とする。理一は人間なぞ矮小な存在は、これから幾世紀を費やそうが、いかなる科学の発展を見せようが、大いなる自然の前には無力であると確信していた。だから理一は恒に堂々とした気を構えて世間に処した。
食事を終えると美夏はベートーベンのピアノソナタをかけ、ソファに座った。スタンドランプから漏れる暖色に包まれて、理一の肩にもたれた。
「うちにきたとき弾いてくれたテンペスト、何番だっけ?」
「十七番。」
「いまでも覚えているわ。あの音色。理一って素敵よね。大学で、もてるんでしょ。」
「美夏が本当にそう思ってくれるならうれしいけど。俺の本質を認めてくれるのかな。美夏の主観が欲しいよ。」
美夏は答えなかった。理一もそれ以上追求することをしなかった。美夏の中の主情の理由をいま問いつめたところで何の易にもならなかった。二人は予備校生であることを忘れた。そして、人間であることを激しく思い出した。得体の知れない社会、二重構造の世間、この外界と完全に隔絶された正真正銘の二人だけの共和国に二人は暮らした。
年が明けた、二人の共和国には特別の区切りはなかった。民主主義と個人主義の徹底したその国はその後も恬淡とつづいた。
しかし、終に美夏の帰る日が来た。二人とも次第に夜更かしの傾向になり、朝方に眠りにつくようになっていた。その日二人が目を覚ましたのは、既に十二時を回っていた。理一は美夏の黒く柔らかい髪が好きだった。切れ長な鳶色の大きな瞳も好きだった。知性的な鼻梁も血色のいい唇も好きだった。こうして顔を眺めていると、嫌いなところを見つけることがかえって困難だった。そして、胸の感触も、脚の感触も・・・二人の共和国と世間という大国との併合は間近だった。
「理一。ありがとう。」
「うん。楽しかったよ。」
「理一きっと受かるよ。私わかったの。集中力が違うの。理科二類きっと受かってね。」
「俺は、二類は受けない。一類を受ける。」
「じゃ。一類からはいろんなとこいけるから、新振りで決めるんだ。」
「そんなとこかな。受かってからの話だけど。美夏も大丈夫だよ。そう思ってあと二ヶ月きついけどやるしかないさ。」理一は曖昧に答えた。
身支度を済ませると、美夏はマンションを後にした。下北沢駅まで送ると行ったが、一人で帰りたいと頑としてきかなかった。美夏が帰った後、理一はふと思った。少なくともこれから二ヶ月間、美夏と同衾することはないと。
夕方、コンビニに買い物に出た。夕飯をかってマンションに戻ると、純と恭子が玄関の前で辺りを見回していた。
「りーちゃん。」恭子は理一を認めると、切なそうに言った。瞳に涙をためていた。
理一は純の顔を見て、何が起こったのかと暗に尋ねた。
「理一。電話しても、永遠に話し中だったから、来たんだよ。」
「ケーブルはずれたのかな?まああがれよ。」理一は心中穏やかではなかったが、とぼけて見せた。
恭子は少し蒼ざめた顔をして、純とともにテーブルに座った。
「ごめんなさい。わたしが、りーちゃんにどうしてもあいたいっていったの。」
「元日の夜、サーカー部の同期であつまったんだ。実家に電話したら理一は正月も勉強だってお母さんが言うからさ。電話しても、ずっと話し中だし、俺はどのみちサッカー部の用で東京に戻るつもりだったから、一日繰り上げて午後の新幹線で恭子ちゃんときたんだ。」純は早稲田のサッカー部にいた。
「そうか。恭子元気か?」
恭子は黙って頷いた。
「合格するまであわないなんてひどいじゃないか。」純はいつかあったときと同じ科白を吐いた。
「俺はストイックなんだ。」
「私。りーちゃんの邪魔をする気はないよ。ただ高校のときと同じように・・・」恭子は言葉を詰まらせた。
「あと二ヶ月ですべてが終わる。俺の人生も大方方向がつく。そしたらちゃんと話そうよ。」
恭子は毅然とした目で理一を見つめた。
「誰か好きな人がいるならちゃんと言って頂戴。」
しんとした。二、三分が過ぎた。沈黙に耐えきれなかったのか、純が元日の夜のことを語りはじめた。
「みんな今でも忘れられないって行ったぜ。理一が準決勝で決めたフリーキック。」
「ああ、あれは純が倒されてもらったんだろ。本来、純のものだ。それに、決勝の負けっぷりがあまりに鮮やかだったから、忘れちまったよ。」
「フリーッキックは理一が蹴る決まりになっていたじゃないか。」
理一は高校選手権の県大会の準決勝に遡行した。
『後半も残り三分を切っていた。0対0の同点から理一はディフェンスの裏の窮屈なスペースにスルーパスを出した。純はライン際からトップスピードでゴールエリアに入ろうとしたが、県下ナンバーワンと評されるキーパーがスライディングし、得点を阻止した。与えられたフリーキックはゴールまで二十メートル、左四十五度だった。理一は純に蹴るように合図したが純はノーのサインを返した。後半三十分に真正面のフリーキックを理一は右足ではずしていた。キーパーに完全に読まれていた。理一は純を囮にはしらせ、左でファーポストをねらった。キーパーは純につられてニアポストに動きかけていた。大きな弧を描いたボールはドロップしながらポストを掠めてネットを揺らした。スタンドが地震のように唸った。仲間達が一斉にかけより理一に抱きついたが、彼の目にはたった今ゴールに吸い込まれたボールの軌線だけしか見えなかった。』
「そうだったな。三十分にはずしたからな。」理一は、ぼそっとつぶやいた。
「純ちゃんがキャプテンでりーちゃんといいコンビだったのにね。」恭子は、純と理一の現在の関係、否自分と彼らの関係が疎遠になっていることを寂しいと言いたげだった。だが、サッカーを本格的に続けているのは純だけだった。あとは、皆それぞれに進学して勉強していた。
「なあ、理一おまえこれで東大落ちたら友達なくすぜ。学生並みにつきあえとはもちろん言わないが、正月ぐらいかえってこいよ。おまえに会いたがっているのは、俺や恭子ちゃんだけじゃないんだ。」
「俺も、仮面浪人の辛さが身にしみたよ。だから受かるまで待ってくれ。」
「理一。おまえはそういう生き方をしていなかったじゃないか。東大を受けることになってからおまえは変わったよ。皆が羨むような大学に合格しても喜ばず、祝福する下級生は無視するは。卒業式にも出ないは。」
理一は黙るしかなかった。全て、純のいうとおりだった。
「なんとかいえよ、といたいとこだが。おまえの気持ちの百分の一ぐらいはわからないでもないさ。兎に角、俺は帰るから、二人でゆっくり話せよ。理一、たまには電話くれよな。」純はコップの水を飲み干して、マンションから逃げるように出て行った。
理一は深く大きなため息をついた。それは今日到来した不意の客のためではなかった。今日確信をもって帰ってしまった客のためだった。
「りーちゃん。私のこと今でも好き?」恭子は言いよどまなかった。
「今日はどうすることにしてるんだ?」理一は打っちゃった。
「お姉ちゃんのところって言ってあるわ。」
「吉祥寺か。ここから一本でいける。送っていくよ。」
「ここにいたいな。お姉ちゃんスキーいってるの。だから今日は一人なの。」
理一は困惑した。美夏の残り香のなかで恭子と一緒にいるわけにはいかなかった。それは道徳ではなかった。彼の憲法で言えば倫理性であった。けれども、決して放埒ではない彼をしても、ここで恭子を強引に吉祥寺まで引っ張っていくのは恭子を思いやる気持ちに欠けると考えた。その思慮こそが、彼における美夏の成熟した精神性に対する“immature”に同類であり、女に対する無理解の証左であった。愛情をもって偽るのはまた、愛情である・・・しかし、それには、巧拙よりは、真実が加担した。
その晩、恭子は高校時代の話をした。サッカー部の思い出。理一とつきあいだした頃に、二人でいった修善寺や湯ヶ島の情景。ともにした受験勉強、三島大社での合格祈願・・・
理一は純粋に高校時代と現在の不連続性を了解していた。思い出というものは乾いているから美しいのだ。こうして恭子とともにいて安心していられるのは、思い出と同様の湿度であるがためだと考えた。この心地よい湿度に比べれば、美夏への生々しい思いは湿度が異なった。その差異について、そもそも恋愛関係というものは、本来は美しくはないものを人間的本性において全的に美化してしまうところに存するのであり、それゆえ不可避的に生じるものと、彼は理解していた。
ソファベッドに寝かせた恭子を理一は抱かなかった。そのことが如何に恭子の胸に突き刺さるものかを察してなお、彼は情欲を忍耐した。昨晩まで美夏と同衾したベッドの上で美夏を想いながら、嘗ての女を忍耐する。それは性的な意味で人格の自立性が阻害される事態、換言すればスキゾフレニックな状態であった。
朝はあまりに自然に訪れた。窓を開けると夜小雨が降ったらしく路面が濡れていた。空を見上げると雲の隙間からうっすらと水色の領域が認められた。
恭子は、冷蔵庫をかき回し、朝食を作っていた。
「りーちゃん起きた?」
「うん。ぐっすり眠れたよ。」
「そう。じゃ、今日は頭が冴えるわね。」
「ほんと冴えるといいけどな。」
理一は起きてテーブルに着いた。
「いっぱい買い込んであるのね。びっくりしたわ。」恭子はご飯をほおばりながら明るい調子で言った。
「正月は籠もろうとおもって。」
「誰と籠もってたの?」
「どうして?」
「いいの。わたし馬鹿じゃないのよ。」
理一は黙った。
「りーちゃんの好きな人って、細くってながーい髪の人でしょ。きっと綺麗な人ね。」
理一はもう言い訳はすまいと思った。が恭子は話し続けた。
「私、東京の大学落ちたときから、いつかこうなるって思ってたの。りーちゃんには大学で新しい彼女ができるって。でも仕方がないわ。その人はりーちゃんのお世話いろいろしてくれるんだし、私はなにもできないし。やっぱりいくら考えても仕方がないわ。」
恭子の推察は正鵠を射てはいなかったが、大体において大きな的には当たっていた。
「このことは信じてくれ。彼女じゃないんだ。予備校の友達なんだ。つきあうつきあわないは、受かってからのことなんだ。」理一は、自分の犯した間違いに咄嗟に気づいた。そう言ったところで、恭子からみれば同じことではないか。
恭子の目から大粒の涙がこぼれた。やがて、それは、二筋、三筋になった。そのうちハンカチで顔を押さえた。こんなことまでして、嘗て愛した女を裏切る理由が、理一の考えるおおいなる自然のどこにあるのか。受験という社会の作り出したからくりに挑戦するために自らの憲法に抵触し、現実に自らを裏切ってしまったではないか。
「きっと合格してね。みんなでお祝いしてあげるから。」
「ありがとう。駅まで送るよ。」
「いいの一人で帰るわ。もう大人なんだから。」
恭子は、優しい言葉を残して帰っていった。
虚無感が揺曳した。しばらくして、月と六ペンスをぼんやりとした頭で読んだ。
第六章
センター試験の一日目が来た。理一は駒場で受験した。初日は英語と理科だった。既に一度経験しているためもあってか、緊張は全くなかった。午前の英語は発音問題を除いて、ほぼ完答した。午後の物理は全く問題なく終わった。
美夏からは連絡はなかった。“No news is good news”英語にそういう諺があった。理一はその諺を信じた。
二日目は、数学、国語、社会だった。世界史は苦手科目だったが八割ぐらいはとれた。
センター試験はあっけなく、余りにあっけなく終わった。
その夜家に帰ると、どっと疲れが襲ってきた。精神は緊張しなくとも神経が疲労するということを過去の試験というものから理一は感得していた。睡魔に襲われ、うつらうつらしていると突然電話が鳴った。
「はい。速水です。」
理一は努めてはっきりと言った。
「蓮山です。」美夏の声は明るかった。
「どうだった?」
「英語と数学ポカミス。理一は。」
「世界史わかんなかったよ。あとはO.Kかな。」
「さすがね。」
「美夏もO.Kだろ。いよいよ二次試験だ。」
「理一はそうだけど。私は明日の朝自己採点してからよ。」
「明日、予備校で会えるよな。」
「うん。採点表出さなきゃなんないし。」
「じゃあ。明日予備校で会おう。今日はゆっくり休んでね。じゃ。」
「理一もね。」
理一は少し怪訝に思った。英語と数学で躓くとはどんな事情なのか。仮にそんな大きな失敗でなければ一日目に電話があってもよさそうなものだ。理一から美夏の実家に電話はできない。そんなことを考えているうちに天井が落ちてきたかのように記憶がなくなった。次の日、新聞をみながら自己採点した。九割はできていた。その得点は、二次試験では、体のたった四分の一程にしかならない。センター試験一科目が二次試験の数学一問に相当する勘定だった。
予備校に着くと教室を見回した。美夏は見当たらなかった。少しの不安を抱きながら、きょろきょろていると、後ろから声がした。
「理一、何点?」美夏が立っていた。
「うん。七百四十点かな。美夏は?」
「私、六百六十点ぐらいかな、もうちょっとがんばれたな。七百点までもう一息だったのに・・・四十点頂戴よ。」
「あげられるんなら。あげるよ。」
美夏は快活に笑った。
配布された回答をみながら、二人でもう一度採点した。
『速水理一、七百四十四点、第一志望校、東京大学理科一類、以下空欄』
『蓮山美夏、六百六十三点、第一志望校、名古屋大学薬学部、以下空欄』
「美夏、名古屋受けるのか?第二志望も記載しないのか?だったら、理科二類受けて、理科大滑り止めにすればいいじゃないか。」
「私、名古屋大学に受かったら行くわ。」
「何故名古屋なんだ。」
「そのことは受かってからにしましょう。」美夏は明答を避けた。
理一は動揺した。いったい名古屋に何があるというのか。東京の裕福な家庭に生まれ、有数の進学校に進み、浪人して地方の旧帝大にいく。男ならいくらでもいるだろうが、女では珍しい。嘗てつき合っていた男は早稲田だ。理一は美夏がどういう交友関係をしているかに然程興味はなかったが、名古屋に行くことになれば、美夏とは頻繁に会えなくなる。美夏は一体どういうつもりなのか?理一は懊悩した。けれども、美夏に関する全的な決定事項は、あらゆる過去の事象を越えて合格後の時間軸に存した。理一の微かな希望の灯火は、暮れの同棲にあった。それから推して、桜の花の咲く頃には、美夏とつきあう蓋然性は高いものだと確信していた。ところが名古屋大学を受けるという。その間の消息は全く不明であった。
* * *
予備校の様子は次第にいよいよ本番といった雰囲気に変化していった。二月に入れば私立の受験も始まる。理一は私立を受けるつもりは全くなかった。大学の必修科目のレポートは全て日比野に託していた。単位制なので留年はない。単位取得できなたったときは四年までかかって挽回すればいい。理科一類を受けるのは、美夏の言ったとおり選択の幅を広げるためだった。ほとんどが工学部か理学部に進むが、経済や文学部の一部にも進める。彼はエンジニアになりたいわけではなかった。超一流の学問がしたかった。
美夏の受験も二次試験の配分が大きい。二次で逆転される可能性もある。そんな状況にもかかわらず、美夏は以前より、理一とともに勉強をしなくなる傾向にあった。理一の大学は年が明けると、期末試験のため図書館は学生でいっぱいになり、全く落ち着かなかった。美夏に限っても、自分自身で二次対策ができるまでに成長していた。それは二ヶ月余りで指数関数的に上昇した成績が証明していた。そのためもあってか、理一は美夏を強引に誘おうとはしなかった。もっと言えば、各々が自身の力でハードルを乗り越えるべき時期に達していた。土曜の四谷は理一唯一人になった。それでも理一は勉強を怠らなかった。二次試験に向け自ら作成したプログラムを粛々と淡々と消化した。解析はほぼ問題ない。過去問をみると代数幾何、特に数列に奇問が多かった。もう一つの難関は確率統計だった。これも過去に相当の難問が出題されていた。理一は計量経済ゼミの先輩から借りた確率統計学に一通り目を通した。最大の問題は有機化学だった。反応過程の論述は覚えるしかなかった。美夏はこの分野を得意としていた。しかし、科目の性質上一緒に勉強する相乗効果はなかった。全てはそれに費やした時間と記憶力の積で決まった。美夏の二次試験科目は英語、数学、化学、それと生物だった。理一が美夏にしてやれることは、ほぼ、尽きていた。
理一は、浪人してはじめて純に電話した。どうしても彼と話がしたかった。数秒のコール音の後、純が出た。
「よう。おまえが電話をくれるなんて珍しいな。どうした?」
「ああ、たまには純と飲みたいと思ってな。」
「センター試験も終わって二次試験に向けてまっしぐらじゃないのか?」
「たまの息抜きさ。」
「恭子ちゃんとあれから何かあったか?」
「いや違う。ただ飲みたいだけなんだ。」
「そうか。じゃたまには飲むか。明日なら空いているが、どうだ。」
「悪いな。それじゃ明日の七時はどうだ。新宿駅南口改札で待ってるよ。」
「了解。新宿駅南口だな。」
「じゃ、明日。」
純は、理一の突然の電話について、深い理由を聞かなかった。それは友人として、何よりも嘗ての仲間として、ともにサッカーボールを追いかけたが故の、やさしさなのだと理解した。
次の日の夕方、理一は小田急線に乗り、新宿へと向かった。夕刻の新宿はあらゆる種類の人間の坩堝だった。ここでは、ある指数に基づいた分布を取れば限られた分野での天才が数人はいるはずだ。夕闇に浮かぶ人の流れを見ながら、ふとそんなことを考えていると、右肩に強い力を感じた。
「待たせたな。」純は日焼けして、野性的な風貌を携えていた。
「サッカーの天才か。」
「理一、おまえ何言ってんだ。」
「夢を見ていたよ・・・どこへいこうか。」理一は自らの真っ白な顔を幾分か恥じるような思いで言った。
「ここは夢なんか見る場所じゃないな。サッカー部でよくいく店があるから、そこにしよう。」
二人は、明治通りに向かって歩き出した。東京の冬の寒さが意外なほどに身に凍みた。。二人ともその寒さに怯えるように静かに歩をすすめた。
明治通り沿いの小洒落たダイニングバーに純は案内した。
店のなかは、落ち着いた雰囲気だったが週末のためか、ほぼいっぱいだった。
「俺はビールだ。理一はどうする?」向かい合って座ると純は射るような目で理一を伺った。
「寒くてもやっぱりビールだな。」理一は自然体で受けた。
「それにしても久しぶりだな。何かあったか?」
「背景はいろいろあるが、純と飲みたかったさ。」
「そのいろいろある背景をゆっくり聞かせてもらおうか。」
「大した背景じゃないがな。」
ビールが来た。二人はグラスをカチンと軽く当て、大きく一口飲んだ。
「あー、最高だな。」
「最高だ。受験も何もかも忘れるような爽やかさだよ。」
「受験の他に何を忘れたいんだ?」純は、下から覗き込むように理一をみた。
「俺はやはり美しいものが好きなんだ。これは性癖だ。」
「理一は審美家さ。サッカーも。そして女も。」
理一はビールを一気に飲み干した。
「理一は、自分にも他人にも厳しい人間だ。だが、本当に心から好きなものにだけはやさしすぎるんだよ。サッカーだってそうさ。理一のパスはやさしすぎる。大学じゃ中盤からディフェンスの裏に、俺でさえ追いつけないような速いスルーパスがビシバシ出される。そのパスに合わせるスピードとシュートテクニックが要求される。理一はきちんと空いたスペースに綺麗なスルーを出すが、へたくそなフォワードでもトラップできるようなやさしいパスだ。だが、その瞬間大学レベルのディフェンスはもう既に俺に張り付いているんだ。ディフェンスのスピードと体の寄せ方が全く違うんだ。」
「その通りだと俺も思う。というよりそれを良しとしてやっていたよ。」
「シュートコースが空いたとき、理一はいいシュートを中盤から打ってたよ。だが、それはグラウンダーでキーパーの裏を突くシュートや、ゴールポストの手前でドロップするようなテクニカルなシュートだったよ。入ろうが入るまいがお構いなしの百パーセントの力で打ったシュートは一度もなかったな。理一はサッカーボールが好きなんだよ。俺は最近、ボールを猛烈に嫌悪している。もっと言えばサッカーをもだ。だがな、嫌悪からしかゴールは生まれないんだ。」
「高校時代には、一度もそんなことを言わなかったが、ずっとそう思っていたのか?」
「そうじゃない。大学でやってみて初めて解った。スピードの違い、ボディーコンタクトの違いだ。俺が言いたいのは、女にしてみたところで、半分嫌悪するようじゃなきゃ愛だなんて嘘の皮だってことだよ。理一はダイヤモンドでもみるように、女を好きだとか、愛するだとか、言ってるんじゃないか。」
「ダイヤモンドか。そうかもしれないな。いい女なんだ。全的に調和した格調が凛然としている。」
「随分な入れ込みようじゃないか。やはりおまえは審美主義の申し子だ。そんな眼はいつか壊れちまうさ。」純は、残りのビールを飲み干した。
「グレンフィディックでいいか。部で入れてある。」
理一は頷いた。そして心の扉を開けた。
「実はそのダイヤモンドが名古屋大学を受けるといっている。つまり、東京を去るということだ。」
「予備校生か。そりゃ、志望校は成績だけじゃなく、様々な要素から決めるもんじゃないのか。俺だって、サッカー推薦で早稲田に入ったわけだし。」
「純にはサッカーというモチベーションがあっただろう。だからそれを第一義に考えた。しかし、ダイヤモンドの名古屋大学に対するモチベーションが全くわからない。何故名古屋なのかわからないんだ。」
「理一。おまえらしくないな。視野を広げろよ。ちゃんとルックアップしろよ。十番だろ。」純はグレンフィディックを理一に差出しながら、諭すような調子で言った。
「俺はダイヤモンドを顕微鏡で見てるわけじゃない。今、手にとって見ているんだ。今度は望遠鏡でも見えなくなるかもしれない。」
「そういう意味じゃない。俺の言っているのは人生の視野だ。理一のダイヤモンドは透明に煌めいているだろうが、結晶の中までは見えないだろう。人間はそれぞれの人生の中に人知れず秘めているものがあるんじゃないか。」純はグレンフィディックを自らのグラスに注ぎ足した。
「そのダイヤモンドとは、二人揃って合格するまで全てを留保する約束なんだ。美しい夏なんだ。」
「美しい夏?」
「美夏っていうんだ。夏は彼方だよ。」
「理一がそれだけ惚れ込んでるんなら、全てが留保ってことでもないんだろう。東大受かるまで忘れろとは言わないが、自分の人生も美しい夏とともに大切にしたらどうだ。本当の意味で、燃え盛る夏の太陽を待ってみたらどうだ。」
理一は酒のまわりもあってか、次第に純の言うことにも理があるような気がしてきた。確かに純は理一を最もよく知る友人であり、大学のリーグで競り合っているだけの眼力を持っていた。その含蓄には、サッカーのためなら女も捨てる、という信念がみえた。理一は振り返った。純が、恭子のことに一言も触れなかったことを。そして、決意を改めた。合格発表まで美夏の行く末には感知しまいと・・・
その晩、二人は高校時代の思い出やサッカーの話で深夜まで盃を傾けつづけた。
第七章
二月の声を聞くと予備校の授業はないものと同じだ。それぞれが、私立、国立と志望校を考慮して受験する。その準備は自分で勉強するほかはない。畢竟、美夏と会う機会もなくなった。
理科大の試験が終わっても、美夏からは何の連絡もなかった。この時期に、理一から電話で誘うのは、美夏の母に一度会っているだけに何となく言い出しにくかった。要するところ、それは一生に関わる真摯な問題であった。理一が恭子と一年間会わないと告げた理由も同じであった。一度受験すればその峻烈さが体に浸みた。毎年、東大に多くの合格者を出す中高一貫の有名私立高は授業の内容が全く違う、東大の出題に耐えられるような授業なり演習が予定されている。地方の公立高校のように呑気にセンター試験で何点とって、どこそこに入れるといった具合の悠長なことは言っていられなかった。
理科大の合格発表の日が来た。夜になっても美夏からは連絡がなかった。理一は、亀の子たわしの論述と格闘していた。模範解答をみながら、大きな発見をした。しかしこの時期に発見をするということは、絶望を意味する。そのとき突然電話が鳴った。美夏からだった。
「全然連絡くれないからどうしていたのかと思ってたよ。理科大どうだった?」
「受かってたわ。」
「おめでとう。これで薬剤師になれるな。本当によかった。一安心しただろう。」
「うーん。うれしいわ。理一のおかげだからお礼言おうと思って。」
「美夏の自分の力だよ。」
「そうならいいけど。理一と勉強してなかったらどうなってたかわからないわ。微分積分がよくできたの。今までだったら、解けなかったわ。あの例題集のおかげよ。」
「よかった。国立の二次もがんばろう。」
「うん。ねえ、理一。絶対受かってね。理科一類。」
「受かりたいのは山々だけど、亀の子たわしに苦戦してるよ。」
「予備校の教科書もう一回やりなさいよ。過去問は基礎ができてからって言ったのは理一でしょ。」
「そうだな。俺もだいぶ焼きが回ってきたよ。」
「二次試験が終わったら、会いましょう。」
「楽しみにしている。」
「それじゃね。」
「じゃ、おやすみ。」
理一は名古屋のことは聞かなかった。それは、純と飲んだときに決意したことであり、遵奉すべき掟であった。
国立大学の二次試験が一斉に始まった。美夏は名古屋で。理一は本郷でそれぞれの戦いに挑んでいた。
数学は六問の出題だった。ざーっと見た瞬間。四問目に円錐の積分、五問目に統計、六問目に数列と整数問題の複合問題があった。整数問題は天才的な発想や思いつきがなければ解けない、努力でカバーできないカテゴリーに属していた。少しいやな気分を引きずったが、四問目の円錐は座標変換して何とか解いた。
統計はみたこともない確立分布関数が出された。もっと統計学に時間を割けばよかったと後悔したが既に遅い。
六問目も変則的な数を一般化できない。時間は、恐ろしく速く進んだ。なんとか統計の確率分布関数をいじくり回して、できたかできないかわからないところで時間が来た。
理一は心を静めるように黙想した。過ぎたことを悔やむのは愚だ。自分のもっとも嫌うことだ。物理と化学をとるんだ。そしてアタックした。
物理は、三問、力学は連なった列車、電磁気は交流理論、それと原子核崩壊の半減期が出題された。理一は全問説いた。原子核は熱心にさらっていた。予想問題が完全にあたった。他方、化学も有機で出された芳香族の反応の図式化に苦労したが、受験者の平均点以上は取れた確信があった。英語と国語は、圧倒的な論述力を試された。解いたには解いたが、どれくらい点をもらえるかは、理科系の科目ほど判然としなかった。自らの力の先端で勝負した。全く悔いはなかった。
兎にも角にも、理一の二度目の東大受験は終わった。
* * *
数日後、美夏も二次試験を終え、名古屋から帰ってきた。試験の後、電話をもらっていたので、東京駅まで迎えに出た。
東海道新幹線の改札口は平時より賑わっていた。やはり受験の季節のせいであろうか。
新幹線は時間通りに到着した。しばらくすると、中央改札からホワイトジーンズにスタジアムジャンパーを着たポニーテールの美夏がでてきた。
「よう。どうだった?」
「うん、問題みたときは解けるって思ったんだけど、いざ解いてみるとできたかできなかったかわかんなくて。」
「そういうときは、大体できてるさ。」
「そうだといいけどね。」
「めずらしいなホワイトジーンズなんて。ボーイッシュで、あんまり格好いいから誰かと思ったよ。」
「格好は理一には勝てないわよ。」
「よく言うよ。中身はわからないけど、外見だけなら美夏の偏差値は百を超えてるよ。」
「それは、非人間ってことじゃない?」
「からむなよ。」
そういって、理一は美夏の荷物の詰まった、ずっしりとしたCOACHのバックをもった。
「渋谷に出よう。」
「そうね。」
二人は、山手線に乗った。
「渋谷まで送るよ。家庭教師があるからゆっくり出来なくて、悪いな。」理一は沈んだ調子で言った。
「いいのよ。お迎えに出てくれただけで。ありがとう。なんだかすっきりしたわ。あとは神様に決めて貰うだけ・・・」
「俺たち二人の行く末が決まったら、きちんと話そう。」
「そうしましょ。約束だから。全てが決まったら・・・」
理一の心の中には、見知らぬ予感が太陽の黒点のように内在していた。
「美夏、発表までどうするんだ?」
「母が軽井沢に二人で行こうって言ってるの。疲れをゆっくり取りましょうだって。」
「そうか、いいんじゃない。昔スキーに行ったよ。懐かしいな。軽井沢。」
「もうスキーはできないわよ。ゆっくりと自然の中で散歩したり、お料理したりして、人生を見つめなおそうって思ってるの。」
理一は山手線から見える高層ビルをぼんやりと眺めていた。そして思った。『この切なさを少しだけ携えた気持ち、俺を熱烈に照らしてくれた太陽の黒点が次第に増殖していく予感。それは一体何のことだ』
けれども理一の眼力をもってしても、次第に増殖していく大きな黒点を、強烈な光彩を放つ太陽の中に発見することは全く不可能であった。
「美夏、東大の発表の日に四谷の土手で会わないか?そこで話そう。」
「分かったわ。私もきちんと話すわ。あの場所で理一を待っているわ。」美夏はしっかりとした語気で答えた。
沈黙が続いた。何を思考しているのか全く不明な、二つの不可思議な意識が、それぞれの過去の交通からなる不可測な、宿命という力学を基底として、各々の人生に向かって矢のように力強く放たれていった。
渋谷で美夏が電車を降りた。手を振ると大きく微笑んだ。その瞳の奥には凛然とした太陽が光輝を放っていた。
第八章
朝眼を覚ますと半透明な春の太陽が、理一をゆっくりと覚醒させた。これから本郷へ行く。既に美夏は名古屋大学薬学部に合格していた。理一は必ず追いつかねばならなかった。それを確かめるために、理一は無心で本郷へと向かった。
赤門をくぐると、既に合格者番号が貼りだされ、あちこちで歓喜の輪が出来ていた。理一は、理科一類の掲示板をみた。一八百番代をゆっくりと上から下に向かって数字を追った。
一八四四番。一八四〇番代は唯一人、理一は、『四』という数字とともに拳を太陽に向けて突き上げた。その刹那、理一の心は、四谷に反転した。一八四四番とともに踵を返し、美夏へと全力で疾駆した。
四谷駅を降りると、滝のような汗が理一の体中を洗った。気持ちを落ち着け、土手に登った。朝みた太陽と同じ、半透明な太陽が満開の桜のうえに霞んでいた。美夏が雲のような桜の下に立っていた。ゆっくりと一歩一歩近づいていくと、カメラの焦点が合うように、次第にその輪郭が明瞭になった。
「美夏、受かったよ。」
「おめでとう。」
二人は抱き合った。花びらが花篭から舞い、美夏のやわらかい髪が理一の心に安堵を与えた。
「理一。頑張ったね。」
そう言うと、美夏は右手を差し出した。理一はその意を量りかねたが、右手を前に出し、その手をしっかりと握った。美夏は、さらに強く握り返した。
「少しの間だったけど、理一と一緒に暮らせてよかったとおもっているの。でもね。一緒に暮らすって言うことは、家庭を持って、子供と一緒に暮らすことだってわかったの。」
「そう遠くない将来に、俺と家庭を持てばいいじゃないか。」理一は反駁した。
「学生時代は、理一のいうように、勉強したり、人生で必要なことを吸収する時期でしょ。」
美夏は、淡々と曖昧な答えをした。美夏はそう遠くない将来を形あるものとして見つめていた。理一は思った。人間というものは、他人の眼つきや顔つきに知らず知らずのうちに注意しながら生きているものだ。その中に何らかの小さな悪徳を認めるために。そして、その悪徳を互いに確認し合い、安寧秩序が保たれる。それは堕落した世俗に対して人間が抗していく手段を自動的に心得た結果であり、いわば自己防衛本能なのだ。
しかし、恋愛だけは違うはずであった。いや違うべきだった。いくつもの夜を重ねても、いくつもの朝を迎えても、なお心を探りあわなければならないのは何故なのか。理一が美夏と出会い合点した、世俗とは全く交通のない二人だけの小さな共和国は、改めて永遠に続くはずであり、あらたな大国として成長するはずであった。
「美夏。分かったよ。たまに名古屋に行くから会ってくれないか?」理一は美夏をあきらめられなかった。
「ごめんなさい。理一は私を美化してるわ。私は金メダルじゃないの。名古屋に行く理由は聞かないで頂戴。」
「それなりの理由があるんだろう。付き合ってた彼氏と別れて、俺と付き合って、それでまた別れるというのか。」
美夏は黙った。そして、遠く霞んで見える新宿の高層ビルを焦点の遠い眼差しで眺めていた。冷たい風が、ロングヘアーを大きく流した。花が不規則に舞った。髪を左に纏めて、美夏は、断定した口調で淘々と話し始めた。
「私ね。中学の三年間、家庭教師の先生に英語と数学をみてもらってたの。彼ね。未だ医学部の学生だったの。私一人っ子でしょ。年が離れてるから、お兄ちゃんってかんじだったわ。私が高校に入ってから大学を卒業して、名古屋に帰って研修医をしいていたの。それで私、前の彼と付き合ったの。でも学会で東京にくるたびに必ず電話をくれて、会ってたの。高校生と研修医だから特別な関係じゃなかったけど、彼といるととても落ち着くの。この我儘な私を全部吸収してくれるの。彼やっとお医者さんになったばっかりなの。理一はとても素敵よ。でも私は悪い女なの。理一のような純粋なひとにはもったいないの。」
「そんなことがあったのか。想像もしていなかった。」
理一は悄然とした。まるで、頭上の太陽が墜落したかのように凍りついた。しばらくして、彼は自らの悟性に訴えて静かな調子で話しはじめた。
「約束は約束だ。理由が聞けてよかった。ただそれだけだ。楽しかった時間をありがとう。俺は美夏と付き合って成熟したつもりだった。それでもなお、未熟なんだな。美夏を安心させられないんだな。」
理一は立ち上がり、精一杯の微笑をした。自らの制御不能な精神を握り締め、切なさを力の限り噛み潰した。そして絞るように言った。
「元気でな。」
背を向けて歩き出した。五六歩したところで振り向くと、いくつもの花篭の下で、美夏は泣いていた。理一は整然とした二人の共和国を失ったばかりではなく、彼自身の憲法をも失った。それは、ほとんど自己崩壊に近いものであった。
第九章
それから四年の月日が流れていた。
理一は、東大入学後、理科一類から経済学部に進学していた。何より日本という国家に立つ職業に就くと決心した。その間に彼は外国語はもとより、法律全般、経済学、国際関係学を徹底的に学んだ。特に、天賦の数学の才能を活かし、計量経済学では指導教官から助手としての任官を推薦された程であった。
けれども彼は国家にというものに拘泥した。学問を職業とすることはは魅力であったが、時に思弁的になりがちな自らの資質に鑑みて、実地経験を選択した。そして国家試験としては最難関に属する外交官試験に合格し、今まさに社会に飛び出そうとするところであった。
春休みを三島の実家で過ごし、上京するその日のことであった。郵便受けを開けると、美夏からの葉書があった。背景には南国の太陽の透いた海が、真っ青なあまりに真っ青な空の底に漂っていた。そして、二人の男女が調和しきった表情で太陽をまぶしそうに受けながら、幸福の予定の下に微笑んでいた。
『結婚しました。春休みは東京の実家に帰っています』その万年筆の筆跡の持ち主は、美夏であった。理一は、その字面に既に幸福を得た表情を認めるとともに、この瞬間までの四年間に、心のどこかで引きずっていた宿命的な予定調和にパタリと出くわしたようだった。
美夏に会おうと思った。祝福の言葉をかけてやろうと思った。理一はその想念が浮かんだ瞬間に、既に受話器をとっていた。
三島発十八時五十三分の新幹線に飛び乗ると、理一は数回深く息をした。禁煙車は空いていた。COACHのバッグを棚にあげ、座席に腰を下ろすと三島の街に目の焦点が合ってきた。一時間後には美夏に会える。そう思ったとたんトンネルに入った。周期的に聞こえるレールの音を聞きながら、理一は感情の高揚を抑え、努めて冷静であろうと、気持ちを精神の底に沈めた。
美夏に会うのは、四年ぶりだった。美夏の美しさは、理一の忘れることのできない美しさであった。その美しさは、まるで嵐のあとの澄んだ空気のような視覚的な凛冽さを有していた。
しばらくすると、熱海の街が夕暮れの中に見え始めた。理一は決心してデッキに出た。学生手帳を取り出し、電話番号を押した。呼び出し音がいつもより長く鳴った。
「はい。蓮山です。」
「速水です。今、熱海なんだ。」
「理一、ありがとうね。新横浜は七時半ごろかしら。」
「そうだな。自由が丘は八頃になっちゃうな。」
「分かったわ。わたし改札で待ってるわ。」
「ありがとう。じゃ、自由が丘の改札で・・・」
理一にとって美夏が何のためらいもなく会ってくれることは意外だった。捨てられた男が四年の時を経て、会いたいと言っている。そして、ともに夕食を摂るということは信じがたいことだった。言うまでもなく、理一が熱烈に恋したのは美夏だけだった。それは青年期になし得る情念の恋だった。
座席に戻り、夕暮れていく山肌に半透明の鏡を見ながら、横顔を点検し、ゆっくりと眠りに落ちていく自分とともに過ぎ去った夜の深さを重ねていた。
薄っすらと流れるアナウンスの中に、新横浜という響きを理一の脳髄が知覚した。立ち上がり、バッグを下ろし、降車口へと向かった。ホームに下りると乗り換えの階段は人で埋め尽くされていた。この雑踏をそれぞれの人間が、それぞれの目的の方向に恐ろしい整理をもって流れていくことが、何故か不思議に思われた。横浜線を乗り継ぎ、東横線にのった。雑踏は同じであった。
自由が丘駅の改札を抜けると、真正面に美夏がみえた。
格子柄のロングスカートに黒いタートルネックを着ていた。思い出の中の美夏のままだった。理一とともに時を過ごした無垢な美夏のままだった。
「悪いね。何だか強引に誘っちゃって。」理一は少しはにかみながら言った。
「いいの。どうせ今日は一人だし。行きたいお店があるの。そこでいい。」
「ああ、任せるよ。」
理一は四年前、二人で鎌倉に行った帰りに美夏の実家に立ち寄って以来、一度もこの駅に降りたことはなかった。
商店街を抜けて、駒沢公園へと美夏は足を向けた。四年前と同じ道だった。閑静な住宅街の瀟洒な佇まいは、理一にはあの時のままにも思え、また、初めてみるようにも思えた。口も利かずに二人は歩いた。理一には美夏とこうして並んで歩くこと自体が懐かしく、時を越えて新鮮であった。
「美夏、元気か?」理一は切り出した。
「元気よ。理一も元気そうじゃない。理一には頭脳があるもん。」美夏は快活だった。
「何言ってんだよ。そんな神話、崩壊して久しいよ。」
「理科一類から経済学部に進んだのね。理一らしいわ。そして外交官試験に受かって、キャリアになって、これから豊穣な人生が待っているわ。」
理一は黙った。自分の人生に沈殿している美夏という残滓は、今二人が歩いている道路端に落っこちているようなものではなかった。要するところ、美夏との過去に対する深遠として悔恨なのだ。
「理一、ここよ。」美夏は、小綺麗なマンションの一階にあるフランス料理屋に視線を移しながら言った。美夏は落ち着いていた。その落ち着きは昔と同じだった。いつまでも理一より大人だったあの頃と何も変わりはしなかった。
二人は、チョークで書かれたメニューをみた。
「俺はAコースにしようかな。」
「私もそうしようかな。とりあえず入りましょう。」
ドアを開けると数人の客がディナーをとっていた。
「いらっしゃいませ。お二人さまですか?」
「はい。」
ウェイトレスは窓際の公園の見渡せる席に案内した。テーブルには臙脂のクロスがかけられ、壁にはラ・トゥールの「マグダラのマリア」の大きな複製画が飾られていた。
ロングスカートから覗く長い脚、細い首、白い手・・・何も変わらぬ美夏がいた。
「この辺は洗練されているな。」
「そうかしら。私にはとても庶民的なところだけど。住んじゃえば何処もいっしょよ。名古屋だってそうよ。」
理一は窓の外を眺めながら、激しかったあの頃に遡行していった。この世から超越した空間で理一は青春の力を滾らせ、美夏とともに瞬間を全力で疾走した。一切の贅肉を持たない精神と肉体でお互いの本能の趣くがままに、頂点を極めてなお更なる頂点を追い求めた。
あれから四年が経っていた。美夏は家庭という生活を持ち、理一はこれから社会に出ようとしていた。
「馬鹿な質問かもしれないけど、外交官って具体的にどんなお仕事するの?」美夏は理一を現在に引き戻した。
「そうだな。俺にも未だ分からないよ。諸外国との交渉に際しての文書を作成したり、差最初は議員先生から国会質問をとってきたり、少しは政治家と拘ったり、そんなとこかな。そのうち自ら下交渉したり、当然海外にも赴任するよ。」
理一は未だ生活という言葉を遠くに感じていた。理一が美夏に突然の別れを告げられてこのかた、何人もの女を美夏の肖像画に重ね画いた。けれども、美夏の肖像はその度ごとに、必ず浮かび上がるのだった。蓋し理一は美夏の芳烈な残響とともに放蕩した。が、そこには一切の生活はなかった。けれども今、眼前にいる嘗ての女は既に生活の中にあった。
今は、美夏に対する恨みつらみは何もない。嘗て自分を多少なりとも成熟させた、今眼前にいる生活というものを選択した女が、未だに残している燦然とした美しさの核心に理一は本能的に回帰していた。
やがて、鱈の白子と温菜の載ったオウドブルが運ばれてきた。注がれた赤ワインを右手に持ち、美夏の瞳にかざした。
「おいしいそうね。」少しかすれた声で美夏は囁いた。
理一は微笑んだ。二人で食事をするときはいつも美夏はそう言った。
「何かおかしい?」
「全然、変わらないな。」
「そうね。理一も全然変わらないものね。」
四年ぶりに会ったという、時間的の距離感は微塵もなかった。
「三島はどうだったの?」
「何も変わらないよ。そう、はがきありがとう。実家の住所覚えててくれたんだ。」
「もう、済んだことだから。会っても大丈夫かなって思ったから。出しちゃった。」
「うん。俺も大丈夫。結婚って楽しい?」
「相変わらず、直球なのね。楽しいわよ。オペで遅い日も多いけど、いっしょにいると将来に希望が持てるの。」
「そうか。じゃ、後は国家試験だけか。」
「そうね。薬剤師の資格だけは一応取っておこうとおもって。理一に手伝ってもらったんだものね。」
「判然としないな。いずれにしろ、時効だよ。」
「時効か。じゃあ、私のことも許してくれる?」
「許すも許さないも、美夏の人生を美夏が決めただけじゃないか。余人のうかがい知るところじゃないさ。」
「私にとっての、理一は余人じゃないわ。初恋の人よ。初めて恋愛をした人なのよ。」
「初恋か?いい言葉だ。」
「ねえ、理一が結婚することになったら知らせて頂戴ね。」
「そんなのいつのことだか分からないよ。」
「いいのよ、いつでも。お祝いをしてあげたいの。理一と理一の奥さんになるひとに。」
「嬉しいけど、どうして?」
「女は巣をつくるの。そして子供と一緒に暮らすの。だから、理一の奥さんを祝福してあげたいの。きっと素敵な人よ。理一の奥さんだもの。」
「そういうもんなんだ。」
「そうよ。女だもん、子供は欲しいわよ。」
理一には美夏の言っていることが何となくだが分かるような気がした。嘗て恭子が同じことを言ったとき、理一はその言葉に透明だった。けれども、今は少なくともその内奥を幾らかは吸収できた。
美夏は理一の生活には入り込まなかった。理一にはその理由が分からなかった。
分かっていることは、美夏はそういうことを自分から聞かない女だということだった。
思えば、美夏を受験に立ち向かう青年として成熟させたのは他ならぬ理一自身だった。けれども、いつしか理一は人間として追い越されていた。理一は美夏を巣を持つ大人の女として成熟させることができなかった。そのことが理一の悔恨の情の中心であった。
眼前の美夏は美しい旋律を奏でていた。しかし、その旋律は、理一の知らない芳醇な甘い果実の匂いを含んだもののように響いた。
理一は少し酔いがまわりはじめた脳細胞をひとつひとつ突き刺すようにして考えた。
『女は何故、巣を作りたがるのだろう。生物学者は性ホルモンのためだとか、免疫力の整合のためだとか、その他のためだとか、信じ難いことをいう。果たして、美夏は俺に対して性ホルモンやら免疫力の自己との整合を直感的に否定したのであろうか。そうだとすれば、結婚相手にはその融和をみたのであろうか。それが本当ならば、美夏の結婚は、宿命的に予定された結果なのではないか。あれほど明晰な美夏がそんな酔っぱらったような状態で果たして結婚を考えたとは到底思えない。
初恋とは一体何のことなのだ。美夏は子供を産むという潜在的な意識を持たずに俺と恋をした。そのことだけは厳然とした事実であった。そして、もうひとつ確かなことは俺の子供を産みたいという願望が恋情の中に芽生えなかったということだ。それは性ホルモンやらのためも幾分かはあったにしろ、結局のところ人間の精神は闇だということではないだろうか。あれほど熱烈に愛し愛されることと結婚生活とは、女にとって多く別のことであり、個々人特有の暗面をもっているということが内実なのではなかろうか。
思えば、理一と美夏のともに過ごした季節は、人間の真の生活の排除された、青年期の生物的欲求に多分に依拠した恋愛であり、華から実へと成熟する道程の途中にあったのだ。いずれ、生物学のあるいは心理学その他の複合された問題が関与するにしろ、そうでないにしろ、美夏の言っていることには女として成熟し、現に結婚した人間こそが知る幾許かの道理があった。美夏と過ごした時分には、到底理解し得なかった道理があった。いつか美夏とみたあの向日葵畑の彼方の地平線には、こんなことが横たわっていたのではないだろうか。
畢竟するに、真の成熟とは、女の本性にかかる道理を悟ることではあるまいか。』
* * *
土手の桜が理一に舞った。花びらはいつもと同じようであった。美夏は言った・・・女は巣をつくると・・・
いくつもの蕾がやがて花になる。
美夏のいった初恋とはきっと未だ咲かぬ芽を出したばかりの花なのだ。
ともに過ごした時を反芻する間もなく、美夏は理一のまえを通り過ぎた。過ぎ去ってしまった時間と引き換えに、理一は成熟した。そして今、既に生活を得た美夏は、変わらずに美しかった。この土手に咲き乱れるいくつもの花篭のように。
理一は旅立とうとしていた。夢見ることの多かった桜の季節から。目を閉じると、花篭から美しいワルツが聞こえた。いつか美夏と聞いたロ短調のワルツが。空を見上げると大きな彗星が見えた。理一は思った。あの彗星こそが俺の求めていた生き様なのだと。