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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
9/19

9 スーパーの野菜サンド

 七月九日火曜日。

 朝五時、アラームで目が覚めた。

 昨夜、夢を見たという感覚はあるのだが、内容を全く覚えていない。何か、重要な夢だったような気もするが、思い出せない。

 …夢ってそういうものか。

 カーテンを開けると、雨は上がっていた。

 僕の熱も下がっていた。店に電話をしてみる。やはり、三佐子さんは出ない。

 母さんは僕の体調以上に、三佐子さんのことを心配している。自転車はブレーキワイヤーが切れて、店の前に置いたまま。

 …歩いて行くしかない。いや、走るか。

 体力には自信がある。しかも、ほぼ下り坂。猛スピードで走る。

 函館っぽい坂道の両サイドの街路樹は、アメリカフウという木らしい。今は真緑だが、秋には色とりどりに紅葉する。

 純喫茶ぎふまふに着くと、ドアには、昨日貼ってあった「臨時休店」の紙がそのまま。鍵がかかっている。駐車場に行ってみたが、車はない。三佐子さんは、車に乗って出かけているようだ。

 店に戻ると、朝の常連の一人、気の良い工場長が、貼り紙を見ていた。

「工場長さん、おはようございます」

「ああ、バイト君、おはよう。昨日は臨時休店じゃったけど、今日は? いつもならこの時間には、中で準備しよるけど、おらんみたいなね」

 まだ、通常の開店時間までは一時間あるが、気になって見にきたらしい。

「昨日は大雨だったので、休むと連絡があったんですけど、今日はなかったんです。こちらから連絡しても、ここにはいないようで」

「そうなん。あんたにも連絡がないん?」

「ないんです」

「心配じゃね。心当たりは?」

「特に…」

「彼氏かと思うたけど、ほんまにただのバイト君なんじゃね」

「ええ…」

 …ただのバイト君と言われると悔しい。

「どしたん? 自転車、メゲたん?」

「ブレーキのワイヤーが切れたんです」

「直したげよう。ちょっと待って」

 工場長は駐車場に行き、自分の車から工具とワイヤーを持って来た。

「ワイヤーまで、持ってるんですか」

 工場長は、慣れた手つきで修理を始めた。

「うん。技能実習生に自転車、貸しとるけんね。お国の家族の期待を背負うて、日本に来とるんじゃ。怪我をさせたら、申し訳ないじゃろ。実習生の自転車の点検は、工場長の仕事よ」

「技能実習生、たくさんいるんですか」

「ああ、自動車部品を作っとるんじゃが、うちは女子ばかり預かっとる。細かい作業は、日本人より丁寧なよ」

「へえ。そういえば、あの人たちって、恋愛禁止と聞いたんですが」

「誰に聞いた? そんなことはないよ。そんなことはないんじゃが、誤解されとるんじゃないかと思う」

「誤解?」

「どしたん? 何かあった?」

「いえ、そういうわけじゃ」

「恋愛したらクビになるとか、変なことを吹き込む奴がおるみたいなんよ。公民館で、ほかの工場の実習生に会うみたいなんじゃが、『もう行きんさんな』言うたんよ」

「そうなんですか」

 …間違いない。ホーさんとレーさんが通う工場の工場長はこの人だ。

 しかし、ここで、彼女らの名前を出すのは良くない。

 工場長は「恋愛したらクビなどと変なことを言う奴がいるから、公民館には行くな」と言ったわけで、彼らが思っているように「恋愛のきっかけになるので、公民館に行くな」と言ったわけではないようだ。「うちの工場に勤めとる間に、変な男に付かれたら、お国の親御(おやご)さんに申し訳ないじゃろ?」

 確かに技能実習生たちは誤解しているが、工場長も誤解している。グエンさんたちは決して変な男ではない。それに、工場長が思っているほど、彼らは子どもではない。

「ほい、直ったで」

「ありがとうございます」

「そうか、今日も休みか。コンビニでサンドイッチ、()うて食べるか。三佐子ちゃんのモーニングじゃないと、調子が出んのじゃがね」

「なんか、すみません」

「いやいや、この店の臨時休店は、先代のときから珍しいことじゃないんよ。三佐子ちゃんも、先代の世話やら畑の世話やら、いろいろ忙しいんじゃろ。常連は皆、分かっとるけん」

「そうなんですか」

「みんな、三佐子ちゃんの応援団よ。ええ子よね」

「あ、はい」

「なんで、ただのバイト君が照れとるん?」

 工場長は、僕を冷やかして、にこりと笑い、その場を去った。


 自転車は直った。三佐子さんの行きそうな場所と言っても、見当がつかない。

 …僕は三佐子さんのことを何も知らない。ただのバイト君だから。

 悲しくなった。三佐子さんはいい笑顔で気さくに話してくれる。恋人か夫婦かと聞かれても、嫌な顔はしない。しかし、そういうことも、僕が勝手にそう感じているだけなのかもしれない。

 昨日の朝、バスの中から軽バンを運転している姿を見た。それから、連絡さえ取れない。三佐子さんは携帯電話を持っていない。店の固定電話に出てもらうか、僕の携帯にかけてもらうしかない。連絡できないのか、しなくてもいいと思っているのか。

 いろいろ考えると、切なくなる。腹動脈を押さえる、精神安定ルーティンをやってみるが、不安は治まらない。

 直してもらった自転車で、昨日、軽バンを見つけた場所に行く。駅前の市営駐輪場の建物の前だ。あの時、バスの中からあの痩せた女を見た。直後、三佐子さんの車を見た。随分、焦っているようだった。

 スマホが鳴った。自転車を止めて、スタンドをかけて、画面を見る。

 …公衆電話…誰だろう。

「もしもし、お兄さん?」

「三佐子さん!」

 路上にも関わらず、大声を出してしまった。

「ごめん。心配しとるよね」

「そりゃあ、しとるよ。どこで何しよるん?」

「ごめん。電話ができんかった。今、病院」

「塾長に何かあった?」

「いや、塾長じゃなくて、私の友達に付き添っとるんよ。安芸南病院、分かる?」

「分かるよ」

「今日も店は休みにするけん。お兄さん、来れるなら、ちょっと病院に来てくれん?」

「もちろん。すぐに行く」

 三佐子さんと連絡が取れた。それだけで、それまでの胸騒ぎが落ち着いた。


 坂町との境界にある病院に向かってペダルを漕いだ。地域の基幹病院であり、この辺では一番大きい。受付で部屋番を聞いて、エレベーターでその病棟に行く。ナースステーションで面会の許しを得て、病室の前に到着した。

 四人部屋だが、一つしか名前の表示がない。

 …林田美沙子。聞いたことあるような。

 カーテンが閉まっている。これを開けたりすると、また、「スケベ刑事」と言われる。

「こんにちは、伊藤山翔です」

 声をかける。

「あ、お兄さん」

 カーテンから、三佐子さんが顔だけ出した。そして、小声で言う。

「患者は同級生。ナイーブじゃけん、傷つけるようなことを言わんように」

「分かった」

 と言ったが、三佐子さんの言葉の意味は、カーテンを開けるまで分からなかった。

「う」

 息を飲んだ。妙な反応をすると、その反応が傷つけてしまう。

「今、眠ったみたい」

 ベッドに横たわる、三佐子さんの友達の顔を見て、驚いた。

「じゃけ、そんな顔をしたら、傷つくって」

 そう言われても、驚きを隠すことができない。こけた頬、落ちくぼんだ目、細い腕。唇が震える。

「いや、違うんよ。この人なんよ」

「何が?」

「夢で見た、痩せた女」

「え、私のベッドで死んどった女?」

「そう。昨日の朝は、現実の世界で二回見た。大雨の中で、傘を差して」

「どういうこと? 昨日、会うたん? どこで?」

 大雨の中、店に行く途中、駅の近くで彼女を見て驚き、自転車で転んだこと。帰りのバスの中から、もう一度見て、直後に三佐子さんが車に乗っているところを見たこと。昨日のことを話した。

「店に電話があったんよ、弱々しい声で。すぐに、駅に迎えに行ったんじゃけど、おらんけえ、車であちこち探しよったんよ」

「僕は、そのときの三佐子さんを見たんじゃね」

「その後、駅前の駐輪場の裏の柱にもたれかかってるのを見つけたんよ。車を降りて、声をかけたら、意識が薄いん。救急車呼んで、一緒に乗ってここに来たんよ。心配かけたね。ごめんごめん」

「そうじゃったん。大変じゃったね」

 横になっている人の寝顔を見つめた。

「なんで僕は、その人の夢を見たんじゃろ」

「不思議なね。この子が『リンダ』よ」

「リンダ?」

 三佐子さんの話に、ちょいちょい出てくる名前である。

「一緒に菊池塾に通い、一緒に講師を務め、一緒に喫茶店でバイトした、私の親友。林田美沙子。もう一人のミサコよ」

「もう一人のミサコ…」

 その言葉で、三佐子さんに話さなかった口移しの夢を話すことにした。

「実はね。一昨日も、夢でこの人に会った。塾長から『その女もミサコ』という言葉を聞いたんよ」

「リンダのこと?」

「そうじゃったんじゃね。今、分かったところ。極楽天神の滝の滝壺に、痩せた女が倒れていて、それを助けたんよ」

「極楽天神に倒れとったん?」

「うん。手首に怪我をしとったけん、僕がネクタイを巻いた」

「え?」

 三佐子さんは、ゆっくり毛布をめくり、リンダさんの左手を出した。手首に包帯が巻かれている。

「あ! どういうこと?」

「夢と現実がリンクしとるようなね」

「また、カラス天狗が出てきて、『大蘇鉄の実』を食べさせろ言うんじゃけど、気を失うとるけん、口を開けんのよ。そしたら、塾長が『口移し』言うて、脅すんよ。仕方ないけん口移しで食べさせた」

「へえ、キスしたんじゃ。で、意識戻った?」

「キスじゃない。一応戻ったけど、声は出んの。夢のことじゃけん、言うけど、塾長は『愛するから口づけをすると思うとるかもしれんが、逆もまた真なりで、口づけをしたら愛し合うことになる』みたいな無茶苦茶なこと言うんよ」

「やっぱり、キスじゃん」

 三佐子さんが拗ねたように見えた。

「夢の中のことよ。僕はこっちの三佐子さんのファンなんじゃけん」

 気付くと、ベッドのリンダさんが目を開けている。ハッとした。悲しそうな顔で、僕を見ている。夢の中で、同じようなことがあった。

「三佐子さん!」

 「リンダさんが目を開けている」と続けようとしたが、二人が同時に「はい」と言った。二人とも「ミサコさん」なのだ。どちらを呼んだのかを明らかにしないことにした。

「リンダ! 声を出したのね」

「今まで、声が出んかったん?」

「そうなんよ」

 三佐子さんはリンダさんの手を取った。

「リンダ。武瑠君のお兄さんよ。知っとるよね」

 リンダさんは頷いて、初めて笑顔を見せた。色白で、ちょっと日本人離れした目鼻立ち。健康さえ取り戻せば、美人だと思う。

 三佐子さんが包帯の巻かれた手を優しく握る。リンダさんは、安心したような表情をすると、また、眠り始めた。

「談話コーナーに行こ」

 三佐子さんはカーテンを開けて、廊下に出た。それについて、病棟の角にある談話コーナーの椅子に腰を掛けた。

「何?」

「リンダね、実は武瑠君がいなくなるちょっと前から、ずっと音信不通じゃったんよ」

「え、そんなに」

「海外に行って連絡が取れんのは、いつものことじゃったけどね。さすがに半年、帰って来んけん、塾長が捜索願を出した。私の前から武瑠君、リンダ、塾長、大切な人が次々と離れていった…」

「そうじゃったん」

 三佐子さんは、疲れた顔をしている。

「リンダの手首、夢で見たんよね?」

「うん。怪我をして服が血に染まっとった」

「リストカットじゃね」

「自殺しようとしたってこと?」

「包帯をめくってみたら、ためらい傷が何本かあった。最後の一本は新しかったね」

「確かに、僕のとは比べ物にならない重症のメンタルじゃね」

「何があったんじゃろ。本当はよく笑う、明るい子なんよ」

「でも、リンダさん、見つかって良かったね」

「うん。リンダが出てきたけん、武瑠君も出てきそうな気がする」

 三佐子さんは、テーブルに顔を伏せた。リンダさんが現れたことがうれしいのか、武瑠のことを思い出したのか、泣いている。僕は躊躇しながら、肩に手を置いた。

 …三佐子さんの肩の筋肉すごい。

 違うことを考えてしまった。

「重いフライパンを振っとるけんね」

 また、声に出してないことに返事がきたが、不思議ではなくなってきた。

「あ、九時になったら、隣のスーパーが開く。ちょっと買い物して来るけん、リンダについておいてやってね」

「え、僕一人で? 目が覚めたら、どうしよ」

「大丈夫じゃろ。塾長の予言を確認してみたら?」

 …やっぱり、あの夢の話に引っかかってくる。話題を変える。

「リンダさんは病気なん?」

「昨日、検査してもろうたけど、体のどこかが病気というわけじゃないらしいんよ。メンタルは別にして、体力さえ回復すれば、元気になるって」

「そうなんじゃ」

 九時になって、三佐子さんは隣のスーパーに出かけて行った。待っていたかのように、リンダさんが目を開けた。

「山翔さん」

 いきなり、名前を呼ばれて、ドギマギする。

「あ、はい。リンダさん、気分はどうですか」

「ごめんなさい。お手間を取らせて」

「いえ、僕は何も」

 声は小さいが、言葉ははっきりしている。

「あの、うつ病患者の妄想だと思って聞いてもらえればいいんですけど…」

 何か、僕に話したいことがあるようだ。

「何でしょうか。僕も自律神経失調症で、仕事を休んでいます」

「そうなんですか。仲間ですね」

 笑った。

「聞いてほしいことというのは?」

「あの、私、夢で山翔さんと会っていたんです」

「え?」

 鳥肌が立つ。

「どんな夢ですか?」

「自殺しようとして、睡眠薬をたくさん飲んだんです」

「夢で?」

「いえ、たぶん現実で」

「…」

「ごめんなさい。やっぱり、引きますよね」

「大丈夫ですよ。話してください」

「ここからは夢なんですけど、夢の中でも意識朦朧としていました」

「夢でも、現実でも生死の境をさまよっていたんですね」

「そういうことですね。で、私をおんぶしてくださっていました」

「誰が?」

「山翔さんだと思います」

 サブいぼが背中から頭に駆け上がり、髪の毛が逆立ちそうだ。

「かなりぼんやりしてるんですけど」

 …信じられないが…。

「その夢、僕も見ました」

「え? それは冗談ですか」

「いえ、冗談ではありません。あなたに不思議な木の実を食べさせました」

「え? 確かに、夢で木の実を食べさせてもらいました」

「口移しで…」

「朦朧としてたので、どうやって食べたのかは分からなかったんですけど、口移しだったんですね」

 リンダさんは、驚きを表したあと、恥ずかしそうにした。

「同じ夢を見た? というか、同じ夢の中にいたということでしょうか」

「そんなことがあるのかしら…。夢の中に菊池塾長はいました?」

「いました。カラス天狗の恰好で」

「そうです。あれはカラス天狗というのですね」

「塾長が見せている夢なんだと思います。僕は毎日、そんな夢を見せられています」

「へえ。夢の中で塾長は『サンザのもとへ帰れ』と言いました。私も、きっと心配しているであろう親友、サンザ、つまり、君島三佐子のところに帰らなきゃと思ってたんです」

「そうだったんですか」

「山翔さん、助けてくれてありがとう…」

 自分が救ったのは夢の中のことであるが、不思議と不自然に感じない。

「昨日、朝早く矢野駅に降りました」

「え? 昨日の朝は、大雨で電車止まってましたよ」

「え?」

「…」

「…そう言われれば、どこから電車に乗ったのか記憶がありません。というか、この街を出てから…いえ、この街を出たという記憶もありません」

「そのうち、思い出しますよ」

「薬のせいですかね。そもそも、いつどこであの睡眠薬を飲んで、あの夢を見たのでしょう。どこまで現実でどこからが夢?」

「夢の中では、極楽天神の滝壺に倒れていました」

「ああ、何か思い出しそう…」

 辛そうな表情になった。

「無理に考えない方が…」

「はい…」

「…」

「そして、駅前から電話したんです。塾長にかけても三佐子にかけても、電源が入ってないって言うから、お店に。そしたら、なぜか三佐子が出ました。そこは現実なんですよね。大雨が降っていたので、迎えに来てもらおうと思って」

 …それで、三佐子さんは出かけたんだな。

「その後、自転車が転んだのを見ませんでしたか。僕だったんですが」

「見ました。あれ、山翔さんだったんですか。気の毒に思ったんですけど、助ける体力も、声を掛ける気力もなくて。あまりの大雨に、雨宿りができる駐輪場の裏に避難したんです」

「なるほど。大変でしたね」

「たぶん、そんなところに行ったから、三佐子に見つけてもらえなかったんですね」

「その後、もう一度見ましたよね」

「はい。一旦、バス通りに出たら、バスの中に、夢の中で助けてくれた男の人がいたんです。びっくりしました」

「僕も、夢の中の女の人が、現実に現れたので、びっくりしました」

「あのあと、雨に濡れて体温が下がったせいか、気が遠くなって、柱に寄りかかっていました。そこを三佐子が見つけて、救急車を…」

 リンダさんは話し過ぎて疲れたようだ。肩で息をしている。

「あ、ごめんなさい。もう、やめましょう」

 鞄の中に、例の木の実が入っている。

 これを食べたら、リンダさんは元気になる。というのは夢の中の話。しかし、この木の実自体、夢の中から現実化した不思議の木の実だ。

 …食べてもらおうか。いや、三佐子さんに相談してからにしよう。

 痩せ衰えた若い女性が横たわっている。いろんな意味で目のやり場に困る。口移しの光景が蘇る。思い出せるほど、唇の感触がリアルだった。

 …口づけをしたら愛してしまう…ダメダメ!

 首を横に振って振り払い、窓の外を見る。

 ようやく、三佐子さんが帰って来た。レジ袋ではなく、自前の買い物バッグを持っている。

「あら、リンダ、目が覚めたん?」

 リンダさんは、頷いた。

「今、少し、話をしたよ」

「話ができるようになったん?」

「うん。小さい声じゃけど」

「そう。また教えて。お兄さん、朝ご飯食べてないんじゃない? はい!」

 小さい布袋を差し出した。スーパーの中のベーカリーで買った惣菜パンと飲み物が入っているようだ。

「あ、ありがとう。お腹ペコペコ。三佐子さんは?」

「リンダの病院食を代わりに食べた。もったいないけん、看護師さんにお願いして」

「リンダさん、全然、食べんのん?」

「うん。食欲はないみたいね」

 リンダさんは、申し訳なさそうな表情で聞いている。

「これ、食べても大丈夫かな?」

「何? あ、夢から出てきた大蘇鉄ね。私らも食べて、何ともなかったけん、大丈夫じゃとは思うけど。リンダ、食べれるかね。噛む力がなさそう」

「口移し?」

「ばか。なんか変態」

「冗談…」

 リンダさんはびっくりしている。

「夢の中の、あの木の実が実在するん?」

「お兄さんが恐竜からもろうて、リンダに口移しで食べさせたんじゃとね」

 口移しの話になると、三佐子さんは不機嫌になる。

「夢を信じて、リンダにも食べてもらおうかな」

 紙袋を渡すと、三佐子さんは一個取り出して平皿の上に乗せた。果物ナイフを器用に使って種を外し、果肉を五ミリくらいに刻んだ。

 電動ベッドのスイッチを入れて、リンダさんの姿勢を起こし、スプーンで掬って、口に持っていった。リンダさんも意を決したように口を開けて、スプーンを受け入れた。三佐子さんは、追いかけるように水差しで水を飲ませた。

「美味しい」

 リンダさんは言った。三佐子さんは、リンダの意欲をみて、もう一つ刻んだ。それを食べさせながら、「お兄さんも食べて来たら? そこの店内ベーカリーの野菜サンドは評判なんよ」と言う。

 談話室に行く。袋には野菜サンドと野菜ジュースが入っていた。

 …さすが栄養士、野菜中心。自分だったら、チョコパンと缶コーヒーを買ってしまう。刑事はあんパンと牛乳か。

 評判だという野菜サンドだが、レタスとキュウリ、苦手なトマト。ほかに具は見えない。かぶりつく。

 …トマトの水分がうまく処理されていて、嫌いなグズグズが気にならない。レタスもキュウリは新鮮で歯ごたえと音がいい。あ、見えなかったがベーコンが入っている。ちょっとうれしい。そして、この香りはパルメザンチーズと、ん? マスタードではなく、わさびマヨネーズ。具材は直球で調味料は変化球というわけか。パンは全粒粉だな。いいじゃん、旨いじゃん。さすが、三佐子さんが「評判」と言うだけのことはある。

 知らず知らずに分析をしている自分に気付く。けっこうな大きさだが、一気に食べた。

 病室に戻ると、二人が手を取り合ってニコニコしていた。特に何かを話しているわけでもない。リンダさんの顔が赤みを帯びている。

 僕が「顔色が良くなったね」と言うと、三佐子さんは「そうじゃね」と答えて、僕を振り返る。

「あ、お兄さん。お願いがある」

「何?」

「喫茶店の車。救急車に乗るとき、駅前のうどん屋さんの駐車場に置かせてもろうたんよ。いつでもええとは言うてもろうとるんじゃけど、取りに行ってくれん?」

 「ええよ」とキーを預かり、駐輪場から自転車に乗った。

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