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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
7/19

7 究極シンプル塩結び・海苔結び

 七月七日日曜日。

 朝五時半にスマホのアラームが鳴る。自転車で六時に店に行くと、三佐子さんは、店の前のメリッサのプランターに水を遣っていた。

「女将さん、おはようございます」

「女将さんはやめて」

 笑った。

「今日は余裕があるんじゃね」

「日曜日は、モーニングと昼定食がお休みなんよ。食べたいと言われりゃ作るけど」

「曜日が分からんくなってきた」

「日曜日の午前中は、たぶん、お年寄りグループがお喋りしに来る。それが帰っちゃったら、お休みにしようと思うの」

「何か用事?」

「お兄さん、一緒に行ってくれる?」

「女将さんのためなら、たとえ火の中水の中、地獄の底までついて参りやす」

「ばか。ハーブ畑よ。しばらく行ってないけん、気になっとるんよ」

「はい、何でもするよ。畑仕事?」

「草刈りと収穫。それが終わったら、お見舞いに行ってみようか」

「塾長?」

「うん…」

「行きたい」


 三佐子さんは、おむすびを握りだした。

「ハーブ畑で一緒に食べようね」

「ピクニックみたい。楽しそう」

「結構、ハードワークよ。今日は曇りじゃけん、ちょうどええわ」

 九時半頃から、高齢男女が六人集まってきた。一杯目はサイフォンでコーヒーを淹れる。おかわりは、ドリップしたものを電気ポットに入れてカウンターに置き、自分で注いでもらう。グループの要望でそうしたらしい。話を聞いていると、朝八時から公園でグラウンドゴルフの練習をしたあと、仲良しメンバーでここに来るらしい。

 三佐子さんは調理台で何かを作っている。僕がカウンターの横に立っていると、一人の女性がおかわりを注ぎに来た。

「お兄さんはアルバイト?」

 僕は頭を掻きながら挨拶をした。

「はい。伊藤といいます。よろしくお願いします」

「あ、やっぱり、ヤマショウ君じゃろ? 私、矢吹七海(やぶきななみ)の祖母」

「え、七海のばあちゃん?」

 七海は、高校時代の同級生でサッカー部のマネージャー、初めて付き合った女子でもある。その後、彼女いない歴九年。

「七海は、おばあちゃん子でね。私には、ヤマショウ君のこと話してくれよったんよ」

「マジですか。恥ず」

「まあ、言うまいか。三佐子さんもおるし」

 七海のおばあさんは、小声で言って舌をだした。そして、耳元に来て、さらに小声で言う。

「ヤマショウのことが好きで好きで(たま)らんかったんよ。置いて、岡山へ行ってしもうて」

「なんか、ごめんなさい…あ、違うか」

「ま、七海もこないだ入籍したけん、要らんことは言うまいね」

「七海さん、結婚したんですか」

「うん。ヤマショウは三佐子さんと?」

「おばあさん、違います。三佐子さんとは、そういうんじゃないんで」

「あら、そうなん。こないだ、スーパーで一緒に買い物しよったの見たよ。仲良さそうじゃったけん」

 …あ、あの時、七海のばあちゃんに見られとったんじゃ。

「それは、お店の買い出しでカートを押しとっただけですよ」

「三佐子さん、ベッピンで気立てがええけんね。七海は(かな)わんよ」

「いや、ほんと、三佐子さんとは、何も」

「ふふん」

 八十歳前後じゃないかと思うおばあさんは、いたずらな笑みを浮かべて席に戻った。

 気が付くと、三佐子さんが横に立っていた。

「お兄さん、モテるんじゃね」

 …聞いていたのか。

「矢吹さんに口説かれとったじゃん」

「ばか。同級生のおばあさんじゃ」

「その同級生って七海ちゃんよね」

「知っとるん?」

「彼氏とコーヒー飲みに来てたよ。若いのに、なんでこんな店でデートしとったんかね。結婚したんじゃろ」

「らしいね」

 …この町は狭い。

 高齢者のお喋り会が帰る。二人で洗い物を済ませた。

「着替えてくるけん、待ってて。覗いちゃダメよ」

「じゃけ、覗かんって」

 三階に上がり、速攻で作業着に着替えてきた。長袖、長ズボン、長靴でタオルを首に巻き、サンバイザーとサングラスを付けている。僕にもタオルと麦わら帽子、軍手、サングラスを渡した。

「少し汚れるかも。おうちに着替え取りに行く?」

「いや、この服は汚れてもええ。終わってから、着替えに帰る。塾長のお見舞いに行くんじゃろ?」

 三佐子さんが運転する軽バンぎふまふ号に乗って、ハーブ畑に行く。広熊道路からちょっと山に入るところ、人は来そうにないが、ニュータウンの裏山にあたり、僕の家からも遠くない。山道の入口のちょっと広くなった場所に車を置いた。

「こんな場所があったんじゃ。子どもの頃、この近くで遊んどったけど知らんかった」

 休耕地の間の微かな踏み跡をたどると、三十メートル四方ほどの「生きた畑」が現れた。

「結構、広いんじゃね」

 周囲は森に囲まれている。

「ここだけ、日が当たるんよね。なんか、江戸時代に、年貢を逃れるために作ってた『隠し田』の跡らしいよ」

 三佐子さんは、物置小屋から草刈り機を持ち出した。回転刃をチェックして、混合ガソリンを注ぐ。スターターの紐を引いてエンジンをかけ、すぐに停止させた。

「大丈夫、エンジンかかった」

「三佐子さん、こんなことまでできるんじゃ」

 僕に、手袋とゴーグルを渡して、ニコリと笑う。

「じゃあ、草刈りお願い!」

「やったことないよ」

「周りに人はおらんけん、自分だけに気を付ければ、大丈夫。何事も経験経験」

 …やってみるか。

「あと、マムシにも気を付けてね」

「え、そがいなこと言うても、何に気を付けたらええんか分からんよ」

「あ、物置に塾長の長靴があるけえ、履いてみて」

 長靴はほぼ新品だった。少し小さいが、なんとか入る。

「ムカデが入ってないか、見てから履いてね」

「先に言うてや」

 エンジンをかけて、(あぜ)の草刈りを開始。大きな音が谷合に響く。雑草をバリバリと刈ると、気持ちがいい。

 …これは、うつ病にいいんじゃないか。

「気持ちええじゃろ。これも園芸療法の一種かね」

 …やっぱり、三佐子さん、心の声が聞こえてる。

 三佐子さん自身は、黄色い花の咲いたハーブを籠に摘んでいる。絵になる。

 …「草原の乙女」のジャケットがこんな感じだった。

 ガリン!

 草刈り機の刃が石に当たって、大きな音がした。

「こら、集中して。危ないけん」

 畦を一回りして、そこそこきれいになったので、ここに来る道の脇も刈り始めた。二メートルを超えるセイタカアワダチソウを切り倒して行くのは爽快だ。

 山道の山際を刈っていると、いつもの蝶が「おいでおいで」をするように導く。そこに行って、雑草を刈り取ってみると、道らしきものが現れた。

 …分かれ道。向こうに何かあるのかな。不気味。

 そちらに進もうとすると、三佐子さんの声が聞こえた。

「お昼にしよう!」

 畑に戻ると、物置の前に、椅子と小さなテーブルが置いてあった。きれいなテーブルクロスの上には、重箱に詰めたおむすびとおかず。物置小屋の横に木が立っていて、木陰を作ってくれている。

「わあ、おいしそう」

「手を洗って」

 バケツの中の透き通った水を、柄杓に取って、僕の手にかけてくれた。

「すぐ近くに湧き水があるけん、水を運んでくる必要がないんよ。枯れたことがない」

「じゃけん、隠し田ができたんじゃね」

 除菌のウエットティッシュを渡してくれた。

「塩おむすびと海苔おむすびよ。昨日、さつま汁でシンプルの素晴らしさに気付いたけん」

「何も入ってない?」

「具は入ってないよ」

「えかった。梅干し苦手なんじゃけど、母さんは知ってて必ず入れる。しかも、特別酸っぱいやつを」

「お母さん、面白い人ね。さすが、お兄さんと武瑠君を育てた人じゃね」

「どういう意味?」

「ええけん食べんちゃい」

「じゃあ、まず、三角の塩むすびから」

「塩むすびは、究極シンプルな和食よね。お米と水と塩だけじゃけんね」

「なるほど」

「手に水を付けたら、軽く切る。炊き立てのご飯、お茶碗に軽く一杯ほど手に取って、塩は指三本で摘まむくらい。冷めて食べるときはもう一回。手の中で回しながら、三角にする」

「美味しい! ほんとうに塩だけ? 出汁は本当に入れてない?」

「入れてないよ。味が着いているとしたら、それは、私の手の味」

「三佐子さんの手の味?」

「ぬか床も混ぜる手が変わると、味が変わるって言われるじゃろ」

 三佐子さんは、自分も一つ塩むすびを取って、一口食べた。

「お客さんに出すときは、衛生上、使い捨ての手袋をするんじゃけど、なんか、プラスチックのにおいが移るような気がするんよ。今日はお兄さんだけじゃけん、直接握ったよ」

「三佐子さんの手なら、舐めても大丈夫じゃね」

「いやぁ、なんか変態」

「ごめんなさい」

「あと、握り過ぎないというのも、よく言われるよね。米粒の間に隙間があることで、口の中で程よく解けるんよ。でも、お弁当で食べるとき、ボロボロ崩れるのも嫌よね。今日はちょっと固めに握ってある」

「この塩むすびに、そこまでの仕込みがあるなんて」

「シンプルいうのは、ごまかしが利かないということよ」

 一個食べ終わると、冷たい麦茶を二口飲み、次に、俵型の海苔むすびを手に取った。

「美味しい。磯の香りがする。フィルムに包まれたパリパリ海苔のおむすび、黒い紙を食べてるような気がするときがある」

「分かる。私も、お米にしっとり馴染んだ海苔の方が好き。海苔むすびはね、朝、握ったのを、お昼に食べるのが一番美味しいんよ」

「お米と海苔の化学反応?」

「そうなんかもね。海苔の風味がご飯に沁みて、海苔はご飯を引き立て、ご飯は海苔を引き立てる」

「海苔はご飯の最高のパートナーなんじゃね」

「じゃね」

「三佐子さんと僕みたい」

「かね」

 おかずは、運動会弁当の定番。牛肉のしぐれ煮、甘い卵焼き、野菜の煮物など。全部、美味しい。そして、赤色の半透明の物体。

「これ、寒天?」

「そう。広島じゃあ、これを水羊羹って言うよね」

「言う言う。これ、好きなんじゃけどね。母さんが作ると、ニッキっていうんかいね、それが無茶苦茶入っとるの。ベロがヒーヒーするくらい」

「ははは。ニッキは、漢方では肉桂(にっけい)とか桂皮(けいひ)とか言うんよ。聞いたことない? シナモンね」

「ニッキとシナモンって、同じもの?」

「クスノキ科の同じような木が原料じゃけど、ニッキは木の根で、シナモンは木の皮から採るんじゃと」

 食べてみると、母さんに負けないくらいニッキが入っていた。

「ベロが痛い! わ、鼻にきた!」

「広島の水羊羹はもう、こういうものなんよ。郷土料理じゃけん」

 言って笑った。僕は麦茶を飲み干した。

 とても楽しい時間。BGMがツクツクボウシからヒグラシに変わる。空が少し暗くなった。遠雷が聞こえる。

「帰ろうか」

「うん。ぶち楽しかった。また来たい」

「そうじゃね。私も楽しかった」

 …名残惜しい。

「あ、塾長のお見舞いに行くんじゃったよね」

 道具を物置に片付け、摘んだハーブを入れた大きな布袋を担いで、車に向かう。三佐子さんは、なぜか、笹の枝を一本持っている。

 途中、さっきの分かれ道が気になった。


 軽バンに乗って、まず、すぐ近くの僕の家に行って着替える。母さんはパートに出かけているようで、いない。本当はシャワーくらいしたいが、外の車で三佐子さんが待っている。

「お待たせ」

「あら、ネクタイしたん?」

「恩師に会うんじゃけんね」

「うん、見れんけど、教え子の成長した姿、喜んでくれると思う」

「うん」

 今度は、お店に戻り、三佐子さんが着替えるのを、僕は車で待っていた。

「お待たせ」

 花柄のワンピースにパンプス。

「わあ、イメージ変わった」

 …惚れ惚れする。

「こんな格好、滅多にせんよ。お兄さんがネクタイしてきたけん、ティーシャツにジーパンいうわけにもいかんじゃろ」

「ぶちぶち綺麗」

「ばか、照れるわ」

 …だって、本当だもん。

「あ、その靴じゃ、運転しにくいじゃろ」

 行先は知っている場所だったので、運転を代わった。

 海田大橋を渡り、市内の大きい病院に着いた。ナースステーションで面会を申し込み、病室に行く。扉を開ける前に、白髪の医師が来た。

「菊池さんの主治医です。成年後見人の孫娘さんですよね。と、旦那様?」

「あ、はい」

 …この『はい』は、『旦那様』に対するものではなく、『成年後見人』に対する答えだよな。

「どうぞ、菊池さんのお顔を見てあげてください。私、ナースステーションにいますから、終わったら声をかけてください。お話したいことがあります」

 扉を開ける。個室の真ん中にベッドを置いてある。

「塾長…」

 僕は言葉を失った。口に呼吸器、腕に点滴、ほかにもベッドから数本の管が出ている。三佐子さんには「遷延性意識障害」という状態だと聞いていた。意識が戻るのが延び延びになっているという意味らしい。

 三佐子さんは僕に向かって言う。

「お医者さんに、できるだけ大きな声で話しかけるよう言われとるんよ」

 塾長の手を握り、話しかける。

「塾長。今日は伊藤山翔君と一緒に来たよ。武瑠君のお兄さん。岡山で警察官になったのは知っとるよね。毎日、不思議な夢を見とるんだって。塾長が送っとるんじゃろ?」

 僕も三佐子さんの手の上から、塾長の手を握る。というか、三佐子さんの手を握っている。

 …どさくさ紛れというやつか。

「塾長。伊藤山翔です。お久しぶりです。お元気ですか」

「お元気ですかは、ないじゃろ」

「そか。毎日、変な夢を見ます。塾長も出てきます。武瑠の居場所を教えてくれようとしとるんですよね」

 塾長の口が動いているのに気づいた。

 三佐子さんが「何? 何が言いたいん?」と問いかける。僕は一生懸命に唇を読んだ。

「三佐子さん、塾長は『よろしく頼む』と言うとるよ」

「分かった分かった。私とお兄さんで、必ず武瑠君とリンダを見つけるけんね」

 …リンダ?

「塾長、また来ますね。頑張ってください」

 ナースステーションで、主治医の先生に声をかけると、カウンセリングルームに案内された。

「菊池さん。不思議なんですけど、ここ何日か眼球が活発に動いてるんです」

「どういうことですか」

「レム睡眠、夢を見ているんだと思います。意識が戻る可能性は極めて低いと、前にもお話ししましたが、もしかしたら、意味のある『寝言』くらい言うかもしれません」

「え? さっき、『よろしく頼む』と唇が動きました」

「ん? それは、あなたたちの声かけに呼応するものでしたか」

「はい。意味は繋がっていました」

「それは、素晴らしい。しかし、あまり、期待はしないでください。もともと、筋萎縮性側索硬化症、つまり、筋肉が衰えていく病気をお持ちです。万万が一、意識が戻っても、体を起こして話をしたりすることはないと思ってください」

 僕は先生に質問をしてみた。

「夢って、どうにかしたら、コントロールできるようになるんですか」

「私、脳外科医ですが、博士論文のテーマは、睡眠と脳のことだったんです」

「ご専門なんですね」

「専門ではありませんが、今でも興味を持っています」

「そうなんですか」

「夢をコントロールすると言えば、『明晰夢(めいせきむ)』というのがあります」

「明晰夢…」

「いい夢を見たい。見たい夢を見たい。せめて、夢の中では幸せになりたい。それは、大昔からの人間の願いです。訓練や能力によっては、夢を見ているという自覚のもとに、好きな夢を見ることができるらしいです。しかし、ストーリーはあらぬ方向に行くことが多いという、明晰夢経験者の話を読んだことがあります」

「こうしたいと思っても、話があっちこっちに行くということですね」

「そうですねえ。夢も立派な精神活動です。そういう意味では、菊池さんは、今、決して植物状態などではない。夢の中で、活躍しておられるんです」

「なるほど。ありがとうございます」

「また、声をかけに来てあげてください。ある程度の奇跡が起こるかもしれません」

 先生に頭を下げながら、病棟を出る。

 駐車場で車に乗ると、三佐子さんは体を捻って、後部座席の笹の枝を引き寄せた。

「今日は七夕よ。願いを書こう」

 ダッシュボードのボックスから、ちぎれるメモ用紙とマジックを二本取り出した。紙を三枚とマジック一本を僕に渡し、自分は自分で願い事を書きだした。三佐子さんは三枚くらい書いて、セロテープで枝に括りつけた。「塾長の意識が戻りますように」、「武瑠君がみつかりますように」という短冊が見えた。もう一枚はよく見えなかった。

 僕の今一番の願いは「三佐子さんへの思いを伝えたい」ということ。しかし、ここにそれは書けない。一枚ずつ「三佐子さんが好き、好き、好き」と念を込めて、三枚の白紙を括りつけた。

 海田大橋を渡って、矢野に戻る。ちょっと渋滞している。

「昨日は夢を見んかったん?」

「うん」

 …今日は三佐子さんのことだけ考えていたい。ややこしいタロット占いの話はしないことにした。


 店に戻った。もう、暗くなっている。ハーブの大きい袋を二階の蒸留器の横に運んだ。黄色い花のついたセントジョンズワートが十キロはある。

 一階のドアの前に、願い事を書いた笹の枝を刺して、横に置いてある自転車に跨った。

「なんか降りだしそう。今年も織姫と彦星は会えんね」

 …『今年も』と言った。三佐子さんの彦星は武瑠なんだろうな。

 そんなことを思っていると、三佐子さんが僕の短冊を見て、びっくりしたように言う。

「ばか。こんなん人に見られたらどうするん? 恥ずかしいじゃん。はずすよ」

「え、何も書いてないじゃろ」

 …え、書いてないはずの字が見えてる? それとも念写されてる?

 三佐子さんは短冊をはずして、折り畳んだ。そして、ふっと笑った。

「ありがと。今日は楽しかったね」

「うん。楽しかった。明日も来るね」

「うん。よろしく」

「じゃね」

「じゃあね」

 グータッチして、分かれた。自転車を漕いで坂道を上る。ハーブ畑は本当に楽しかった。三佐子さんのいろんな言葉や表情を浮かべると、切ない気持ちが口から出そうになる。


 雨が降り出した。家に着く頃には、大雨になり、ずぶ濡れになった。

 玄関の鍵を探していると、母さんが内側から開けてくれた。

「濡れたね。お風呂沸いとるよ」

「ありがとう」

「どしたん、ネクタイなんかしとったっけ?」

「あ、塾長のお見舞いに行って来た」

「ああ、そうじゃったん。どんな感じ?」

「寝たきりで、意識もない」

 風呂に入った。また、三佐子さんのことを考えている。もう、どうしようもなく好きになってしまった自分を自覚する。

 風呂から出ると、母さんはソーメンを茹でて、冷やしていた。

「昨日もにゅうめんじゃったじゃん」

「昨日のさつま汁の味噌を、ご飯じゃないものにかけてみようと思ったんよ」

「冷やしソーメンに、さつま汁をかけるんじゃ。悪くないかも」

「初めて、意見が合うたね」

「三佐子さんも、うちのさつま汁のことを『引き算の美学』じゃ言うとったんじゃけん、くれぐれも妙な『足し算』をせんように」

「あら、残念。ジャムでも入れようか思うたのに」

「ダメに決まっとるじゃん!」

「本気にするな。ジャムなんか入れるわけないじゃろうが!」

「母さん、やりかねん」

 食卓に、すり鉢に溶かしたさつま汁と、ソーメンが別々に出てきた。

「お玉で掬ってかけて」

「お、旨そう」

「みょうが入れる?」

「ノー!」

「大人の味になるって、お父さんのレシピに書いてあったよ」

「子どもでええ」

「せっかく買うてきたのに」

「それが、なんで美味しいのか分からん」

 みょうがは入れずに、汁をつけダレにして、ソーメンを啜った。

「おお、僕が作ったとは思えんくらい美味しい」

「ちょっと、入れたけんね」

「何を?」

「内緒。分からんにゃええんよ。秘密の根っこよ」

「あ、分かった。しょうがじゃ!」

「ほんのちょっとよ。体が温もるんよ」

「すぐに足し算したがる」

「そう。ソーメンだけじゃ足りんかと思うて、ご飯も炊いてある」

「サンキュ」

「みょうがご飯よ」

「足し算! そんなもん、食べたことない」

「私も。でも、スマホで調べたらレシピがあったんよ。ま、食べてみんさい」

「母さん、先に食べて」

「分かった」

 母さんは一口食べて、「美味しいよ」と言って、僕の茶碗に山盛りよそった。恐る恐る食べてみる。

「うーん。いけるかも」

「そうよ。これは慣れの問題なんよ。全部食べてもええよ」

「また、押し付ける気じゃね」

 食べ終わると、結構、遅い時間になった。室内にいても、雨音が聞こえるほど降っている。

 …織姫と彦星は会えないな。

 薬を飲んで、口直しに、鞄から大蘇鉄の袋を出して、不思議な木の実を一口齧った。

 …これもクセになる癖だな。

 そして、眠る。夢の時間がきた。

「明晰夢の神様。七夕の夜、三佐子さんと僕を会わせてください…」


 満点の星空、銀河流れる夜。星明りに照らされた山道を歩み、牽牛は織女に会いに行く。

 あのハーブ畑に着いた。花や葉が輝き、地面にも天の川が出来る。その向こうに、僕の織姫がいる。

「三佐子さーん」

 声をかけると、三佐子さんは顔を上げ、あのメモ用紙を振りながら言う。

「これ、ありがとう!」

 七夕飾りから外した「三佐子さんが好き、好き、好き」の短冊。僕の気持ちが届いた。

 強い風が吹き、ハーブの銀河は波打った。見る見るうちに、天の川は雲に覆われ、織姫は見えなくなってしまった。

 山道はそこで終わっている。寂しい気持ちで、引き返す。

 ポツリポツリと雨が降り出した。来た道を戻っているつもりだったが、広い場所に出た。神社と滝がある。

 …極楽天神の境内じゃないか。カラス天狗の塾長が待っていた。

「あれを見よ!」

 小さな滝壺に、女が浮かんでいる。

「見よ、とか言ってる場合じゃない。助けなきゃ」

 僕も警察官、人命救助は最優先事項だ。滝壺の水に入り、その女を抱え上げる。白い着物はびっしょりと濡れている。水に洗われているが、胸元から裾にかけて多量の血が付着している。見れば、手首に深い切り傷。まだ、癒えてはいない。僕はネクタイを解いて、その手首に巻いた。

 気を失っているが、息はしている。神社の前の平石に、横たえるように下ろした。

 顔を見て、驚いた。

 …あの女だ!

 頭蓋骨の形が分かるほど痩せこけた頬、落ちくぼんだ目。新幹線の白昼夢で、三佐子さんのベッドで死んでいた女に間違いない。

 塾長も女の顔を見ながら、僕に言う。

「恐竜から大蘇鉄の実をもらったであろう」

「あ、はい。ここに」

 鞄の中の紙袋。その中身は巨大な干しブドウ。

「大蘇鉄。その実を食べさせてみんさい」

「気を失っていて、ものを食べれるような状態ではありませんよ」

「口移しするか…」

 カラス天狗は嘴を動かしながら、そう言った。

「口移し? 僕がですか?」

 躊躇っていると、怖い顔になり、地面に錫杖を突いた。

「それしか方法がない」

 僕は巨大レーズンを(かじ)り、軽く咀嚼(そしゃく)した。甘ったるい味が口に広がった。首の後ろに片膝を入れて、少し体を起こした。

「ごめんなさい!」

 顎を持ち上げて口を開けさせ、唇を合わせて果肉を流し込んだ。鞄にあったペットボトルの水を含み、また口移しした。女は喉を鳴らして飲みこんだ。鼻からスーッと空気を吸い込むと、青白い顔に生気が蘇った。

 カラス天狗は言う。

「愛しているから口づけをする。そう思うとるじゃろう。しかし、逆もまた真なり。口づけをすると愛してしまう。ということもあるんじゃ」

「塾長、それはありません。今、僕は三佐子さんのことが好きで堪らんのです」

「こないだ聞いた。何回も宣言せんでよろし。しかし、その女がお前を愛してしまったかもしれん。ちなみに、その女の名もミサコじゃ」

「え?」

「口づけで、お前にも、この女に対する愛が生まれたか?」

 …そう言われれば…いやいやいやいや、ダメだダメだ!

「生きているのか、死んでいるのか分からない、この女を僕に押し付けて、三佐子さんを諦めさせる気じゃないでしょうね」

 女がいつの間にか目を開けていた。こちらを見ていたが、悲しそうに視線を反らした。僕の言葉が傷つけてしまったようだ。

「ごめんなさい。そういう意味じゃあ…」

 憂いに満ちた白い横顔。初めて、その女を美しいと思った。

 カラス天狗は後ろを向いて腕組みし、「四角関係になってしまうが、今はこうするしかない」などと呟いている。

 女を見ると、何かを言いたいようだが、声にならない。耳を寄せて、吐息の中の言葉を聞こうとした。

「……」

 聞き取れない。

 女を背負った。首のペンダントが、胸元からこぼれ出て、僕の肩口にぶら下がった。アクセサリーなのか実用なのか、鍵だ。

 耳元、息に混じる小さな声で何か言っている。

「ありがとう。ありがとう」

 泣いているようだ。

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