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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
4/19

4 メリッサ&セントジョンズワート茶

 七月四日木曜日。

 朝八時、家を出た。三佐子さんの店を手伝うために、岡山に戻り、職場の上司と主治医に会わなければならない。

 バスで矢野駅、呉線で広島駅。新幹線のホームに向かう途中、職場の上司から携帯に電話が入った。出たくないと思ったが、出るしかない。「調整したいことがあるので、一度、職場に出てきてくれないか」という内容だった。

 …ちょうど、良かった。今日一日で済ませてしまおう。

 広島に戻った三日間は病気のことも忘れるほどだったが、岡山に向かうと、気分が沈んでいく。

 …ダメだあ。でも、三佐子さんを手伝うために、頑張ろう。

 新幹線は、のぞみなら三十分ちょっとでついてしまう。岡山駅からバスに乗り、県警本部に入る。

 刑事部に行くと、上司の係長と課長。

 会議室が空いてないらしく、取調室で話すことに。気分の良い場所ではない。係長が「二週間で復帰できるなら、今後のキャリアのことも考えて、病休ではなく、年次休暇と夏季特休で対応した方が良い」と言う。うつ病刑事なんか、出世はないだろうから、どっちでも良いのだが、課長が「ぜひ、そうしなさい」と言うので、同意して、手続きを変更した。

 恐る恐る「休んでいる間に、うつ状態解消のために知り合いの店を無給で手伝いたい」と言うと、係長に「治療に専念すべき者が、そういうことをすべきでない」と言われた。この人が一番のストレッサーだ。言い方がきついし、絶対に笑わない。課長が「年次休暇に切り替えたのだし、それで、病状の改善につながるなら、目立たない程度でやっても良いだろう」と言ってくれた。医師のお墨付きが条件で、許してもらえた。「ご迷惑をおかけします」と頭を下げ、敬礼して、県警本部を出た。最初に一番の難関を突破した。

 今度は心療内科。お墨付きをいただかなければならない。主治医はちょっと怖い女医だが、この日は非番なのか、優しそうな高齢の男性医師が対応してくれた。話しやすいので、べらべら話すと、「あなたくらいの症状なら、生活のリズムを守る活動ためにも、自宅に籠るよりは、むしろそういう活動をした方がいい。医師の意見として、職場にそう言っても良いですよ」と言ってくれた。立ち上がって「ありがとうございます」と礼を言う。

「古い精神科のことわざに、『恋の病は心の病を駆逐する』というのがあります」

「へえ、そんなことわざがあるんですか」

「岡山の老医師の言葉だそうです。どうぞ、お大事に」

 そう言って微笑んだ。

 病院の外から、スマホで課長に電話をかけて、医師の意見として、「生活のリズムを守る活動をした方が良い」と言われたことを伝えた。最後は寮。病休ではなく、年次休暇になったので、外泊の届けを出すだけでよくなった。部屋に戻り、大きな旅行鞄に着替えを詰め込む。ノートパソコンも入れる。

 三時間で岡山の用事をすべて済ませた。岡山駅まで戻る。

 …あ、三佐子さんに電話しなきゃ。

 ズボンのポケットに手を入れると、店の電話番号が印刷されたマッチ箱があった。

 それを見ながらスマホから電話。呼び出しはするが、出ない。今、忙しい時間なのだろうか。

 駅前で立ち食いうどんを食べて、こないだの和菓子屋に立ち寄る。例の黒っぽい吉備団子、サンプル品を試食する。「このクセが(くせ)になる味」と呟き、母さん用と三佐子さん用で二箱買った。

 新幹線はこだまに乗ってしまった。各駅停車なので一時間半近くかかる。


 広島駅で呉線に乗り換えて、矢野駅で降りる。黄色い蝶が手招きをするように、目の前を飛んでいく。極楽橋を渡ると、身が軽くなったような気がした。雨が降り始めたが、気にもならない。

 …恋の病は心の病を駆逐するか。言えてる。

 いろんなことが、自分に都合よく展開し、結果として二週間の休暇をもらったことになった。商店街跡に建ったマンションの入口を過ぎると、駐車場の向こうに、純喫茶ぎふまふの建物が見える。スキップしたくなるような気持ちで店の前に行き、カランコロンとカウベルを鳴らして、扉を開けた。

「三佐子さん、主治医にも上司にも、やってええ言うてもろうたよ」

 返事がない。客もいない。

「三佐子さん…」

 …今日も休みだったのかな。

 焦げ臭い。鍋が火にかかったままだ。急いで火を消し、換気扇を回した。料理の途中で、火から離れるなんて考えられない。店外を一回りしてみるが、いない。

 その時、僕のスマホの電話が鳴った。表示された相手は「菊池塾長」。

 …塾長は意識がない状態と聞いたが。

 電話に出ると、間違いなく塾長の声。

「ヤマショウ?」

「ああ、塾長、お久しぶりです。入院しとると聞いとりますが」

「うん、大丈夫よ。それより、ヤマショウは三佐子のことを知っとるんかいね」

「はい、知っとります。実は今、店に来たんですが、姿が見えんのです」

「やっぱり、そうか。あれは見た目よりナイーブじゃけん、ちょっと心配なんよ。店におるんなら、二階と三階も確認してほしいんじゃが」

「あ、分かりました」

「ヤマショウ、君は最後の切り札じゃけんの」

 電話は切れた。気付くと、外は薄暗くなっている。雷鳴が轟き、雨が降り始めた。

「三佐子さん!」

 二階に向かって大きな声で呼ぶが、返事はない。初めて、二階に上がってみる。停電したようで、灯りが消えた。窓からの薄い日と時折の雷光に、部屋が気味悪く映る。売れ残りの本が、部屋の半分を占め、手前には化学の実験のような機器が並んでいる。誰もいない。

 さらに、三階に向かう階段がある。三佐子さんは三階に住んでいると言っていた。駆け上がると木の扉があった。ノックをする。

「三佐子さん、三佐子さん」

 返事がない。

「入るよ」

 扉を開けると、奥のベッドに人間の足が見えた。恐る恐る近づいてみると、向こうを向いている。寝ているのか、倒れているのか。

「三佐子さん!」

 肩に手をかけて揺すってみた。顔がこちらに向く。雷鳴の中、電光に映し出されたのは、ミイラのように痩せた女性。しかも…。

「わあ!」

 …死んでる。

 雨音が遠くなっていく。


 新幹線の車内チャイムが鳴り、間もなく広島駅であることがアナウンスされている。

 …夢か。塾長から電話がかかったりしたが。

 着信履歴を見るが、そもそも、塾長と電話番号を交わしたこともない。

 駅につくと、旅行鞄を引き摺って、在来線のホームに移動する。

 暑い。こだまなんかに乗ったので、乗り継ぎが良くない。喫茶店に電話をしてみるが、出ない。夢のこともあり、心配になってきた。せめて、ひかりに乗っていれば、とっくに矢野についてるのに。

 ようやく来た電車に飛び乗る。席は空いているが、矢野駅で開く側のドアで前をキープする。天神川、向洋、海田市…やっと矢野。改札を抜けたところで、純喫茶ぎふまふにリダイヤル。

…出ない。

 この重い鞄が恨めしい。キャスター付きだが背中に担いで走る。極楽橋を渡るが、夢のように体は軽くならない。なんとか店の前に着いたが、「クローズド」の札。ドアを押すと鍵はかかっていない。

「三佐子さん」

 返事がない。鍵もかけずに出かけたのだろうか。

「三佐子さーん!」

 変なにおいがする。さっきの夢と警察官経験が「死臭」という言葉を連想させた。階段を駆け上がる。途中、二階を横目で見ると、夢の風景によく似ている。あれは予知夢だったのか。窓が開いて、カーテンが揺れている。階段を一つ飛ばしで三階に上がる。

「三佐子さん! 入るよ」

 ドアを開けた。

「キャッ!」

 一瞬、鏡の前で着替えをしている三佐子さんの姿が見えた。

「ごめんなさい!」

 慌てて、後ろを向いて、ドアの外に出た。

「もう! ノックもせずに!」

 三佐子さんは怒っている。

「ごめんなさい」

 しばらく待った。

「いいよ。入って」

 恐る恐るドアを開けると、三佐子さんは腕組みをして立っていた。

「ごめん。変な夢を見て、何度電話しても出んし、折り返しもないし」

「電話は何回か鳴ってたよ。たまたま、出られんかったんよ。お兄さんかなとも思ったけど、掛け直そうにも電話番号知らんし」

「着信履歴は?」

「あの昭和風固定電話に、そんな機能あるわけないじゃん」

「そうか…。じゃあ、このにおいは?」

「これ、くさやの干物よ」

「くさや?」

「魚臭い喫茶店、嫌じゃろ? サバ味噌煮定食も水煮の缶詰を味噌煮しよるんよ。干物ならいいかなと思って、くさやを通販で仕入れてみたん。今日は午後からお客さんが切れたけえ、お店を閉めて焼いてみたんよ。いや、失敗失敗。こんなに臭いとは知らんかった。服ににおいが付いたような気がして、着替えとったんよ」

「なんだ。良かった」

「良くない! いきなり女性の部屋のドアを開けて。スケベ刑事(でか)

「ごめん。でも、スケベ刑事は酷い。死んどるんじゃないか思うて、突入したのに」

「なんで、死んどるとか思うん?」

「夢を見たんよ。怖い夢」

「怖い夢?」

「新幹線でウトウトっとしたらしくてね。その間に、電車を降りたあとのことを、夢で見たんよ。現実と区別がつかんくらいリアルじゃった」

「へえ、どんな夢?」

「店に入ったらね、三佐子さんがおらんで、焦げ臭いんよ」

「現実のさっきの状況じゃね」

「じゃろ。そしたら、塾長から電話がかかってきて、三佐子さんが大丈夫か確認してほしいって言うけえ、三階に上がったんよ」

「スケベ刑事の言い訳じゃないじゃろうね」

「違うよ。返事がないけん、部屋に入ったら、三佐子さんか誰か分からん、痩せこけた女が、このベッドの上で死んどったんよ」

「え、気持ち悪。私、今晩もここで寝るんよ」

「ほうじゃね。ごめんごめん」

「一人で寝られんくなるじゃん」

 …泊まって行けということ? 違う違う。深読みしちゃいかん。

「しかし、これをどうにかせんと、ほんまに寝られんわ。くさや、一緒に食べよ」

「このにおいの根源を?」

「のぞいた罰」

「のぞいたんじゃないって」

「ふふ、もうええよ。許したげる。でも、くさやは食べてよ」

「うん」

 三階の部屋は広めの1DK。木調の内装、出窓、照明器具は、昭和の和洋館の(おもむき)である。水回りだけは後付けのようで、キッチンは現代風。

「あ、店の鍵、開いてたんじゃね。鍵かけて、二階の窓も閉めてきてくれる? その間に食事の準備をする」

「承知!」

「ぎふまふ小説では『御意(ぎょい)』言うんよ」

「ギョイ」

 一階の店の鍵を内側からかけて、二階に上がって窓を閉めた。たくさん残っていると聞いた塾長の本の在庫、夢の中では部屋の半分を占めていたが、そこまではなかった。それでも、本棚にズラリと同じ背表紙。空きスペースに登場人物のフィギュアが並んでいる。部屋奥で目立っているのは、巨大なサイフォンのようなガラス製の装置。もう一つ、錬金術師が使うような銅製の装置が、怪しげな雰囲気を醸し出している。


 三階に戻ると、「くさや定食」がテーブルに用意されていた。シンプルな素焼きとご飯とみそ汁、お漬物。

「ちょっと調べたら、チャーハンとか()え物とかあったんじゃけど、こういう強い素材を、別の味で捻じ伏せるのは、違う思うんよ。ほんまに焼いただけ。まあ、においにやられてアイデアが出んいうのが本当かもしれんけど」

「三佐子さん、面白い。じゃあ、いただきます」

 箸で身を外して、恐る恐る口に入れる。

「わ、ゲロ不味(まず)

 思わず口走り、魚の身を乗せたまま、舌を出してしまった。

「こら! 食べ物を冒涜(ぼうとく)すると許さんよ」

 そう言って、三佐子さんも一切れ口に入れたが、目をつむって飲み込んだ。

「涙ぐんどるし」

「バレた? 私も初めてなんよ。発酵食品は慣れの問題。ヨーグルトやチーズだって、昔は食べられん日本人の方が()いかったんよ」

「僕、基本、何でも食べるけど、ブルーチーズはダメ」

「人類は飢餓を乗り越える保存食を作るために、命を賭けて腐敗と発酵のフロンティアにチャレンジしてきたんよ」

「今、くさやは僕らのフロンティアじゃね」

「チャレンジ、チャレンジ」

 「せいの!」と言いながら、二人は励まし合って、食べ進める。「ちょっと慣れてきたかな」、「旨さが理解できるようになった」、「ご飯と一緒ならいける」。そして、二人はくさやへの耐性を獲得した。

「くさや定食のメニュー入りは保留。広島の人にはひと工夫もふた工夫も必要だ」

「じゃね。三佐子さんならきっと何か思いつく」

「お兄さんも、一緒に考えてね」

 夢のことを思い出した。

「そういえば、さっきの夢は今日じゃけど、昨日の夜も夢を見たんよ」

「塾長はお兄さんを集中攻撃しとるね。さすが、最後の切り札と見込まれただけのことはある」

「三佐子さんは?」

「私は、あの二回だけじゃね。どんな夢?」

「極楽天神に滝があって、カラス天狗が岩肌の穴を覗け言うんよ。穴を見つけて覗いたら、こっちとそっくりの空間で(いくさ)をやっとるん。足軽が『ここは十六世紀、矢野城の姫を守って、毛利元就と戦っている』とか言うとった。敵には宙に浮く陰陽師がおって、怪光線に苦しめられているところ、忍者に支えられた足軽が飛び出す。足軽は武瑠で、忍者は三佐子さん。サンザと呼ばれとった。剣で炎を操り、一旦、押し返したんじゃけど、負けそうになってきた。そこで、武瑠が『お兄ちゃん、助けて』言うと、向こうの神社の扉からボールが飛び出して、陰陽師に当たって、撃ち落とした、という夢」

 三佐子さんは不思議そうな顔をした。

「塾長の小説、読んだことないんよね?」

「ない」

「それも小説の一場面よ」

「そうなんじゃ」

「ボールは出てこんけど。そういえば、前の晩の夢でボールを蹴ったよね」

「そうなんよ。二十一世紀のコスプレイベントで蹴ったボールが、十六世紀の戦争に届いたということかね? ま、どっちも夢じゃけどね」

 三佐子さんはテーブルの横の本棚から一冊の文庫本を取り出して表紙を見せた。厚さが三センチ以上ある。

「塾長のそこそこ売れた小説、『()ふ蝶の舞ふ春に』いうタイトル。ファンがSNSで『ぎふまふ』いうて言い出したらしいわ」

「それで『ぎふまふ』なんじゃね」

「塾長も気に入ってね。店に居ついた猫にまで『ぎふまふ』いう名前を付けとったよ。喫茶店を始めた頃から五、六年おったんじゃないか思うけど、いつの間にかおらんくなった」

「へえ、猫の名前に」

「メスの白猫。オッドアイいうんかね。左右の目の色が違う感じが、『ぎふまふ』っぽい言うてね」

「ふーん。そもそも、ギフチョウて、何なん?」

「知らんのん? アゲハみたいな蝶々。絶滅危惧種なんじゃけど、この町の山にはおるんよ」

「そういえば、こないだから、ちょいちょい、アゲハみたいな黄色い蝶々を見る」

「ギフチョウは春の女神じゃけん、今はあり得んね」

「そうなん?」

 …昨夜は翅が光ってたし、ガラスをすり抜けたこともある。確かにあり得ない。

「この本、読んでみる? いーっぱい売れ残っとるけん。これ、あげるよ」

「いや、ええわ。たぶん、読まんけん」

「本が出た頃、作者の塾を目当てに遠くからもファンが来とったんよ。それで、塾をやめて喫茶店にしたみたい。塾長がやっとった頃は、写真とかキャラクターグッズの見本とかが置いてあった。今は全部二階に持ってったけど」

 店名の由来、一つ謎が解けた。しかし、今の問題は、読んでない小説の夢を見ていること。

「ほんまに塾長に夢を見せられとるんかね。僕、一応警察官なんで、超常現象を体験しとるとか言えんのじゃけど」

「オカルト刑事(でか)じゃ」


 鞄の中の吉備団子を一箱出した。

「はい、お土産。一緒に食べよ」

「岡山の吉備団子、大好き」

 三佐子さんが包装紙を開けながら、僕に聞く。

「お医者さんと職場の人はなんて言いよったん?」

「あ、言うてなかったっけ?」

「聞いてないよ」

「どっちもOKだって」

「そう、良かった」

 むちゃくちゃいい笑顔を見せてくれた。僕と一緒にいられることを喜んでくれていると思って良いのだろうか。

 僕も三佐子さんと一緒にいられることが、何よりもうれしい。

「この吉備団子、黒くない? 黒ゴマか何か?」

「ちょっと黒いよね。何が入っとるんかね」

烏城堂(からすじょうどう)? それで黒くしとるんかね」

「たぶん、烏城堂(うじょうどう)と読むんよ。広島城を鯉城(りじょう)というように、岡山城の別名が烏城なんよ」

「ふーん。塾長が夢でコスプレしとるカラス天狗とは関係ないん?」

「関係ないと思う」

 成分表示を見ながら、三佐子さんが言った。

「これ、デーツが入っとる。たぶん、それで黒いんじゃわ」

 デーツ、どこかで聞いたことがあるような気がする。

「まあ、ええわ。お茶淹れるね。ハーブティー」

「ミントティーとか?」

「今日は、うつ病刑事さんのために、セントジョンズワートティーにする」

「セント…?」

「ジョンズワート。うつ病に効くって言われとるんよ。お医者さんのお薬はいつ飲んだ?」

「昨日の晩、半分ずつ。今日は飲んでない」

「じゃあ、ええか。併用すると稀に副作用が出るらしいけん」

「副作用? ハーブって、単なるにおい消しや香り付けの草じゃないんじゃ」

「におい消しや香り付けだって『単なる』ってことじゃないんよ。消毒や防腐、食欲増進みたいな効果があるんじゃけん。もう一歩踏み込んで、医薬品として処方される植物もある。セントジョンズワートは、ヨーロッパでは古くから知られる薬草よ。毒草に指定している国もあるみたいよ」

「毒草?」

「日本では、医薬的効果を(うた)わんかったら、栽培も販売も制限はない。これあげるけん、家でも飲んでみて」

「ありがとう」

「塾長、耕作放棄地を買うて、ハーブを育てとったんよ。その主力が、このセントジョンズワート」

「塾長、いったい何がしたかったん?」

「乾燥ハーブやハーブ精油を作って、ネット販売しとった」

「乾燥ハーブは何となく分かるけど、ハーブ精油って何?」

「エッセンシャルオイルとも言うよ。香水の原料と同じ作り方。二階で変なもの見んかった?」

「巨大なサイフォンのようなもの?」

「それそれ。あれ、蒸留器なんよ」

「蒸留器?」

「うん。片方の容器でハーブを煮沸して、その水蒸気をチューブで集めて、反対の容器に落として冷やす。ハーブの成分が濃縮された液体が出来る」

「それが精油なんじゃね」

「いや、それはハーブウオーター。それはそれで使い道があるけど、その上にわずかに油が浮くのね。それがエッセンシャルオイル。植物の油分にもよるけど、まあ、原料一キロで一グラムとか」

「じゃあ、大量に植物が要るね」

「そう。じゃけ、塾長、山の中に畑を持っとるんよ。手間もかかるし、少々高うても売れるん。その畑と蒸留器と商品のブランドも、塾長から引き継いだんじゃけど、実は喫茶店の倍稼いどる」

 そんな副収入があったのか。喫茶店の倍となると、そこそこ良い稼ぎではないのか。

 三階のキッチンの横の棚には、紅茶葉の缶のようなものが、十個ほど並んでいる。三佐子さんは、その中から一つ選んで、耐熱ガラスのポットと一緒にテーブルに置いた。指をパチンと鳴らすと、ケトルを乗せたコンロに火が点く。

「あ、ここでも魔法…サイフォンのランプに仕掛けがあるわけじゃないんじゃ」

 昨夜の夢では、マッチ棒を手の中に隠していたようだが。

「ふふ。ちょっと、お湯見よってね」

 そう言って階段を駆け下りて、二分足らずで戻って来た。

「お店の前のフレッシュハーブをちぎって来たよ」

「それ、お(ひや)の中に入っとるやつよね」

「そう、レモンバーム。ミントの仲間よ。メリッサともいうわ」

「メリッサ、なんかの歌で聞いたことある。珍しいもの?」

「いや、ほぼ雑草。道端にも生えとる」

「は、そうなんじゃ」

 そのメリッサの葉を水で洗って、ポットにちぎり入れる。強い柑橘系の香りがほとばしる。熱湯を注いで、蓋。タンと砂時計をひっくり返す。時間がくると、缶から木のスプーンで乾燥ハーブを掬って入れて、また蓋。砂時計をひっくり返して蒸らす。やっぱり、無声で何かを言っている。

 …魔女だ。

「このドライハーブはセントジョンズワートの葉。薬草効果はあるんじゃけど、味も香りも薄いんよね。じゃけ、メリッサで香りを付けてみた」

 砂時計の砂が落ち切る。三佐子さんは、ハーブの葉を濾しながら、ガラスのティーカップに薄い琥珀色の液体を注ぐ。

「言うとくけど、紅茶や緑茶みたいなもんじゃないよ。味は薄いけん、香りを感じて」

「分かっとる」

「お兄さんは鼻の利く刑事じゃったね」

「意味が違う」

「塾長の言葉を借りたら、『飲む』んじゃなくて『聞く』んよ」

「聞く? 塾長らしい」

 常人には意味不明。理屈っぽいくせに、多分に感覚的。塾長が武瑠を、特別に可愛がったのは、似たような性格で、気が合ったからじゃないだろうか。

 メリッサの香りを帯びたセントジョンズワート茶を「聞く」。

「甘酸っぱい香りと、スースーする清涼感」

「お、メリッサの香りが聞こえたみたいじゃね。お兄さんの嗅覚は、お世辞じゃなくて本物じゃね。お巡りさんにしとくの、もったいない」

「あ、優しい苦味が来た」

「それがセントジョンズワート」

 「聞く」の意味が分かるような気がする。耳を澄ますことによって、五感が立ち上がる。

 …ふふ。僕も「理屈っぽいくせに、多分に感覚的」になってる。

 気持ちが整っていくのが分かる。

 指を腹に垂直に当て、腹動脈の鼓動を感じながら息を吐く。

「プシュー」

 瞑想の域に入るほど、心が安定してきた。

「その動作は何?」

「不安解消ルーティン」

「ヨガみたいなもの?」

「自分で考えた」

「なんか、武瑠君と似とる」

「え?」

 武瑠とは正反対というのが、自他ともに認める見方だった。しかし、三佐子さんと出会ってからの自分は、それまでの自分とは違うような気がする。

「僕が武瑠化しとるんかも」

「武瑠化?」

「三佐子さん、僕が武瑠じゃったらええのに思うて、魔法かけたんじゃろ」

 深くも考えず、口を突いて出た言葉だが、すぐに後悔した。

「…ごめんね。武瑠君に似とるとか言うて。でも、お兄さんが武瑠君じゃったらええなんて、思うとらんよ」

 三佐子さんは立ち上がって、申し訳なさそうに謝った。

「あ、僕こそごめん。酷いことを言うた」

「そんな魔法かけるわけないじゃん。だって…」

 三佐子さんの言葉を遮るように、僕も立ちあがった。

「ごめんね…」

「謝らんで…」

 沈黙。

 遠く踏切の音、近くエアコンの音、さらに近くお互いの呼吸音。

 魔法の空気が生成され、二人きりの空間を包む。

 …今、僕の目の前にいる人。僕はこの女の人が好きだ。三佐子さんのことが大好きだ。

 込み上げてくる切ない愛しさをコントロールできない。

 一歩近づいて、少し強引に腰の辺りを抱き寄せた。

「ダメ」

 三佐子さんは顔の前で、手首をクロスさせて、唇をブロックした。

「ダメ?」

「ダメ」

 …どうかしていた。

 後悔した。

 しかし。三佐子さんは拒んでおきながら、どうしたことか、額を僕の胸に寄せてきた。

 ポニーテールの根本が鼻先にきた。

「ねえ、私の髪、におわん?」

「くさやのにおいじゃね」

 二人は吹き出した。そして、離れた。いつもの三佐子さんに戻る。

「お風呂屋さん、行かん?」

「銭湯? ここにはお風呂ないん?」

「あるよ。でも、ドアがすりガラスじゃけん」

 …僕が見るんじゃないかってこと?

 さっきの着替えの姿が浮かぶ。交番時代にストーカー男に職質をしたことがある。そいつが「男というのは、パンツが見えただけで、その女に執着してしまう動物だ」と言って笑った。反省のない言葉に憤りを覚えたが、今、自分がそんなことになっていないかと戒める。

「そんなことせんよ。現職警官じゃけん」

「そんなことって?」

「いや…」

 …すりガラスだから、どうだと言いたかったのだろう。

「すぐ近くにお風呂屋さんがあるんよ」

「あ、先の角にあったね。まだ、やっとるんじゃね」

「うん。時々、行くんよ。うちの喫茶店と違うて、真正昭和レトロ。今でも(まき)で焚いとるんだって。こないだテレビに出とったよ。遠くから入りに来る人も()いいらしいわ」

「へえ。時代遅れも、やり続ければ希少価値が出るんじゃね」

「もうちょっと、ええ言い方してあげて。時代に流されず貫くことで価値が上がるんよ」

 三佐子さんはお風呂バッグから、僕にタオル二枚を渡した。元商店街を歩いて、銭湯に行く。赤いのれんに「女」、青いのれんに「男」と書いてある。扉を押して開けると、番台。高齢のおばさんが座っている。向こうから、三佐子さんが入浴料を支払う。

「その人と二人分」

 番台のおばさんは、一旦、僕を見て、三佐子さんに言う。

「喫茶店のお姉さんよね。こちらは旦那さん?」

 僕が半分ふざけて、「いえ、まだです」と言うと、三佐子さんは「違います。うちのバイト君です」と笑いながら、否定した。

 …「バイト君」と銭湯に行く方が、よほど不自然だと思うけど。

 脱衣所は昔ながらの銭湯。確かに薪で焚いているにおいがする。その焦げ臭さは、嫌なにおいであるはずのカルキ臭さえも抱き込んで、癒しを与える。体を洗いながら、壁の向こうの三佐子さんを想像しそうになり、水を被った。湯船に浸かる。すごく落ち着いている。長風呂をしてしまったようだ。

 脱衣所で体を拭いていると、番台のおばさんがこっちに向かって、「お姉さんの方が先に上がっとるよ」と言う。急いで服を着て、銭湯の外に出た。三佐子さんはワンタイミング遅れて出てきた。おばさんと一言交わしたようだ。

「バイト君の筋肉、すごいねいうて言いよったよ」

「見とったん? なんかエッチだ」

「それ、武瑠君の口癖…」

「武瑠、武瑠、武瑠」

「あ、ごめん」

「ええよ。ちょっと分かってきたけん」

「ありがとう」

 街路灯が点灯した道に、肩を並べて歩いた。初めて、髪を下ろしているところを見た。大人っぽく見える。

 僕は事実上、告白した。ダメとは言われたが、僕のこと、嫌いではないようだ。三佐子さんの中には確かに武瑠がいる。僕は三佐子さんが苦しくならない距離で、三佐子さんを守ってあげることにしよう。

 …それが、僕の愛の形だ。

 店の前に戻った。

「一人で怖くない?」

「そういえば、怖い話思い出した。でも、大丈夫」

 僕は「あ、そうじゃった」と、メモとボールペンを取り出し、数字を書いて、破ったページを渡した。

「僕の携帯番号。怖いことが起きたら、いつでも呼んで。飛んでくるけん」

「ありがと」

「じゃあね。明日からまた手伝いに来るね」

「うん。おやすみ」

 グータッチをして分かれた。


 登り坂を歩いて帰った。せっかく銭湯に行ったのに、汗が噴き出す。家に着くとベチャベチャ。とりあえず、シャワーをして着替えた。

「遅かったね。岡山、どうじゃったん?」

 母さんに聞かれて思い出した。今日は岡山に行って、職場の手続きをしたのだった。

「ああ、病休じゃなくて、年休で対応することになったよ」

「年休?」

「年次休暇。民間でいう有給」

「二週間も続けて?」

「うん。ちょうど夏の特別休暇もあるし」

「ふーん。お医者さんには行ったん?」

「軽作業なら、むしろやった方がええって、お墨付きをもらったよ」

「そう。良かったね。ご飯は?」

「三佐子さんのお店で食べて来た」

「ダメよ、甘え過ぎたら。変な噂が立ったら、申し訳ないじゃろ」

「うん。気を付ける」

 …初日から、何人ものお客さんに彼氏か、旦那かって聞かれたよ。

 面倒な話にならないように、話を切り上げた。ネットテレビでグルメドラマの続きを見ながら、時間を過ごす。

 …そろそろ寝ようか。

 薬を飲む水を汲みに台所に行くと、三佐子さんに「今日はセントジョンズワート茶を飲んだので、薬を飲まないで」と言われたのを思い出した。台所には三日前に買った吉備団子。まだ、三個残っている。表面が硬くなっているので、全部食べた。「また、新しいの買うてきたけんね」と母さんに言うと、「はあ、しばらくはええよ。三佐子さんにあげんちゃい」。「もうあげた」。「じゃあ、誰かにあげんちゃい」。…誰かって誰だよ。前の箱を畳んで、新しいのを置いた。

 …今日もいろいろあったな。

 薬を飲んでいなくても、ベッドに横になると眠くなった。


 街路灯が照らす薄暗い道、銭湯の帰りだ。幸せな気持ちで三佐子さんと肩を並べて歩いていた。三佐子さんが住んでいる喫茶店の前まで来たが、名残(なごり)惜しくて、もう少し歩く。極楽橋の上、前から来た車のヘッドライトに目が眩んだ。

 車が行き過ぎると、舗装がなくなっていて、周囲が森になっている。

 …山道? ああ、これはきっと、塾長の見せる夢だ。

 夢なら構わないだろうと、三佐子さんの手を握った。特に抵抗はされない。三佐子さんも不安そうだ。

「痛い! 足を(くじ)いた」

 三佐子さんがしゃがみ込んだ。

「おんぶしてあげるよ」

「ありがとう」

 すっかり日は暮れたが、満月が煌々(こうこう)と光っている。人を背負って山道を歩くのは大変だが、愛しい人の体温は背中に心地よい。

 …年上の人に言う言葉じゃないのかもしれないけど、かわいい。

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