2 ネギ増し増し生姜焼き丼
七月二日火曜日。
朝五時半過ぎに目が覚めた。薬が残っているのか、頭がボーっとしている。
…散歩でもしようか。
リビングに置いた簡易ベッドに寝ている母さんに、「散歩、行って来る」と声をかけて、ズボンだけ穿き替えて外に出た。
…あの店、何時からだろう。
ほかに用事はない。足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。昨日は山越えをして帰ったが、今日は駅前を通る普通のコースを行く。三十分ほどで、純喫茶ぎふまふに着いた。眠気はほぼ治まった。
ドアには「クローズド」の札が掛かっているが、店内には灯りが点いている。少し迷ったが、ドアノブに手をかけて押してみた。
カランコロン。
開いた。調理場で料理している湯気の向こうに、棚から食器を出している三佐子さんの後ろ姿が見えた。
「ごめんなさい。開店は七時なんですよ」
そう言って、こちらを振り返ったとき、ものすごくびっくりした顔をした。皿が床に落ちて割れる。
ガチャーン!
「大丈夫です?」
「あ、お兄さん。びっくりしたあ」
「ごめんなさい。開店前なんかに来て、驚かせてしまいましたね」
「ううん、違うんです。武瑠君に見えたんです」
「え? このシャツのせいかな。昨夜、母さんにも言われました」
「そのシャツ見たことがあります」
これを見たことがあるということは、武瑠とは失踪直前の知り合いということになる。行方不明の件は知っているのだろう。突然、現われたりしたら、皿を落とすほどびっくりするのも当然かもしれない。
「そうですか。驚かせてごめんなさい。日帰りのつもりだったので、着替え持って来てなくて、借りました」
「日帰り…」
「いえ、あ、挨拶が遅くなりましたが、おはようございます。また、来ちゃいました」
「おはようございます。来てくださったのですね…」
割れた皿を集めながら、ちょっとうれしそうな顔をした。
「お皿、手伝いますよ」
「いえ、そんな。ちょっとカウンターの席にでも座っててください」
「あ、僕、邪魔してますね。本当にお手伝いさせてください」
「仕事はお休みなんですか? 日帰りのつもりだったというのは?」
「結局、昨日は実家に泊まりましたし。もうしばらくいようかと思います」
「しばらく? そうですか。じゃあ、お願いしようかな」
「何なりと」
「じゃあ、まず、店の前のプランターにお水を遣ってもらえますか。昨日、今日、続けて寝坊してしまって」
「分かりました。そういえば、昨日も夕方近くに遣ってましたね」
「よろしくお願いします」
…なんか、言葉がまどろっこしい。この提案は年上の自分からしなきゃな。
「あの」
「はい?」
「敬語やめません? タメでいいですよ」
「あ、ああ、お兄さんがそう言うなら。その方が、私も話しやすいです」
「よし、では、一、二の三!」
「じゃあ、プランターに水を遣ってきてくれん? ザッとでええけえね」
「お、わりかしガッツリ広島弁」
笑顔になった三佐子さんから、ジョウロを受け取った。水を汲んで、名前も知らない草に、水を遣る。結構たくさんある。葉の雰囲気からミントの一種だと思った。葉を一枚ちぎり、指で揉みつぶして、鼻に近づける。ミントというより柑橘に似た強い香り。鼻から喉が涼しくなって、頭がすっきりした。
…お店の水に入っている『レモンの香りがするミントの仲間』は、きっとこれだ。
店内に戻ると、彼女は戦闘モードに入っていた。開店まで三十分しかない。
「キッチンも手伝うてもらえる?」
「もちのろん」
「それ、オーナーがよう言うとった。昭和語じゃね。それより、ゆで卵がまだなんよ。石鹸で手をよう洗うて、このエプロンと三角巾を付けて。鍋に水を張って、出してある卵を二パック、全部茹でて」
「ゆで卵くらいなら、できるよ」
「アラームを二つかけて、七分で十個、これが半熟。別の鍋に水を張って、そこで、流水と一緒に冷やす。殻は剝いちゃだめよ。十三分で残り十個、こっちは固ゆで。半熟と混ぜんようにね。冷やしたら殻を剥いてマヨネーズを和えながら潰す。あ、黄身が偏らんように、五分の時に、一回よく混ぜてね」
「メモしてもええ?」
「これくらい覚えんちゃい!」
「厳しい!」
お互い笑いながら言っている。三佐子さんは、小さなボウルにオイルと酢とスパイスを入れて、こちらに手渡した。
「卵のお湯を見ながら、これ混ぜて。野菜サラダのドレッシングよ」
「ドレッシングまで手作り?」
「理由一、お客様に美味しいものを食べていただくため。理由二、買うより安い! ほら、心を込めて混ぜてよ」
サラダの野菜をタンタンタンと切り、器に盛り付けたかと思うと、茹でたじゃがいもにマヨネーズとタラコを入れて潰し始めた。とにかく手早い。調理をしている三佐子さんは真剣そのもの。
「ものすごいスピード…」
「はい、卵が割れんように、そこの菜箸で転がして! 料理で大事なことはね、丁寧な下ごしらえと調理の手際。真心とか誠意とかは、技術があってこそ表現できるんよ」
「名言!」
「寝坊なんか、プロとしてもってのほか。私もまだまだ」
「体調管理も技術のうちじゃね」
「そのとおり! ほら、アラーム鳴ったよ。半熟卵を上げて!」
「了解!」
「すぐに冷却! 余熱で固まるけんね」
「オッケー!」
ずっと前から相棒だったようなコンビネーション。忙しさを楽しんでいる。
「ありがと。間に合うたわ」
開店時間の七時になる。ドアの札を「オープン」にひっくり返す。常連らしい中年男性が三人、次々と入店する。
「いらっしゃいませ」
「あら、三佐子ちゃんの彼氏かいね?」
「はい!」
調子に乗って言ってしまった。そうだったらいいなという気持ちは、僕の心に明らかにある。
「はいじゃないじゃろ。新人のバイト君です。研修中につき、失礼がありましたらごめんなさい」
冗談まじりに紹介してくれた。
「よろしくお願いします」
「失業でもしたん? ま、気にすな。そのうち何とかなるよ」
「ありがとうございます」
的外れではあるが、気の良いお客さんの人柄に励まされる。
「皆さん出勤前なんじゃけえ、急いで差し上げてね。お冷をお出しして」
「お、おひや?」
「水のことよ」
一番年配のお客さんが教えてくれる。
「オーナーの昭和趣味で、わざとそんな言葉を使うとるんよね。熱いコーヒーはホット、アイスコーヒーは冷コ、レモンスカッシュはレスカ、クリームソーダはクリソー」
「へえ」
「この喫茶店には、古き良き昭和が残っとるんよ」
三佐子さんが割って入った。
「たぶん、お冷は今のレストランでも使ってますよ。お兄さんが知らんだけじゃと思います」
「岡山じゃ聞かんよ」
「そんなことないって。もうなんでもええけえ、急いで!」
「はいはい、おひや、おひや」
モーニングセットは、四枚切りトースト、コーヒー、サラダ、卵で三百五十円。サラダは日替わり。卵は半熟、マヨネーズ和えが選べる。目玉焼き、スクランブルエッグは二個使うので五十円アップ。コーヒーはおかわり自由である。
「ご注文のいただき方、見とってね。常連さんはこうよ」
一旦、こっちに向かってそう言い、お客さんを見渡しながら言う。
「お三人様、同時でごめんなさい。いつもの半熟、目玉、マヨ和えでいいですか。今日のサラダは『たらも』にしました」
「俺、今日は目玉焼きじゃなくてスクランブルにして」
「承知しました。半熟、マヨ和え、スクランブル。しばらくお待ちください」
オーブントースターは一度に四枚焼ける。三佐子さんはそこに三枚入れて、二分三十秒にセット。
「先にコーヒーをお出しして」と僕に指示。モーニングセットのコーヒーはやかんで十杯分を抽出して、ドリッパーで微細な粉を濾す。粉はサイフォン用とは変えてあるらしい。僕は昭和な魔法瓶からカップに注ぎ、お盆に三つ載せて、お客さんに出した。
三佐子さんはトレイを三枚出し、器を並べる。冷蔵庫からサラダを取り出して盛り付ける。コンロに火を点けフライパンを熱する。その間に、殻を切った半熟卵をエッグスタンドに乗せ、マヨネーズ和えを盛り付けた。熱くなったフライパンにバターを落として、回しながら広げる。ボウルに割った卵を軽く攪拌して、輪を描くように流し込む。そこで火を落として、余熱でスクランブルして、皿に盛った。
オーブンがチンと言う。パンにマーガリンを塗る動作は、ナイフを上に向かって左半分、斜めに戻しながら中央部を通り、N字に折り返して右半分、両手を器用に動かして、角、角、角、角。複雑な動きだが、一挙動で流れる。
「はい、お待ちどおさま」
無駄のない動き。同時に入ったお客さんには同時に出して差し上げたい。大事な気遣いだと思う。「技術がなければ、真心は表現できない」。三佐子さんの言葉の意味が分かるような気がした。僕は、困っている人には心を込めて、怪しい人物にさえも丁寧に対応してきたつもりだが、スピードとか理論とかのスキルアップを怠ってきたのではないか。そして、その結果がこの行き詰り。
「何、ボーっとしとるん。コーヒーのおかわりを注いで差し上げて」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
常連さんの一人が「何か楽しそうじゃね。朝から元気もろうたよ」と笑って言った。
お客さんはNHKのニュースを見ながら、無表情に食べる。朝食は一日の始まりのルーティン、妙なバリエーションを必要としない。美味しいことは当然として、同じペースで食べて同じ時間に食べ終わることが大事なのだ。
お金を払って店を出るとき、三佐子さんは「行ってらっしゃい。テキトーに頑張ってくださいねー」と声をかける。「テキトーにいうのがええね。いつもありがと。また来るね」。「毎度ありー」、底抜けに明るい感じである。
母さんから電話がかかってきた。そういえば、散歩してくると言って、早朝に出たっきりだった。息子の一人が失踪している母さんには心配だったのかもしれない。謝って、「夕方には必ず帰る」と言った。
その後、モーニングタイムは十一時まで、八時台、九時台、十時台と三人ずつくらい現れる。高齢の常連さんが多い。だし巻きや炒り卵くらいの特注には応じる。ウエイターとしてのだいたいの要領は得た。
十一時から昼定食をセットする。今日は生姜焼き定食とサバ味噌煮定食の二種類。少なくとも一週間、メニューが重なることはないらしい。十二時を過ぎると、ほぼ満席。近所の店や会社の人なので、自発的に相席してくれる。息をつく暇もない。
一時には、特製カレー目当ての人がちょうど五人待っていた。
わずか半日だが、一緒に忙しい時間を過ごしたことで、信頼が高まり、距離が縮まった。
昼下がり、お客が切れた。
「ありがとう。やっぱり、もう一人おると違うわ。ぶち助かった」
「そう言うてもらえると、うれしい」
「いつか誰かに、一人で二人分は働けんけど、二人なら四人分働けるいうて聞いたことがある」
「なるほど、チームワークじゃね」
昼定食で余った豚肉の生姜焼きを、ご飯に乗せて出してくれた。それが見えないくらいの刻みネギがかかっている。カウンターに並んで座り、生姜焼き丼を食べる。
「憧れのまかない料理。このドバッとやり過ぎな感じ、うちの母さんの料理に似とる」
「そうなん。お母さんはお元気?」
「うちの母さんも知っとるん?」
「一方的じゃけど…。お兄さんにも一応、会うたことはあるんよ」
「え、僕にも? いつ? どこで?」
「言うても分からんと思う」
弟の名前を知っていて、僕がその兄だと知っていた。さらに、母さんと僕にも会ったことがあると言う。何か引っかかるような気もするが、思い出せない。
「もう、教えてや」
「まあ、食べよ。しっかり底まで混ぜてね」
はぐらかされた。
肉は一口大に切ってある。丼の底からツユの沁みたご飯を掘り出し、肉とネギを混ぜ込んで頬張る。
「三佐子さん。これ、美味しい! 苦手な生姜も気にならん」
「そう? お客さんには申し訳ないけど、私ら、メニューより美味しいもの食べとるわ」
「タレは生姜と醤油と砂糖とみりん、ごま油?」
「さすが! あと、秘密の粉」
「やっぱり秘密の粉が入っとるんじゃ。味噌汁も美味しい。出汁には椎茸が入っとるね」
「お兄さん、やっぱりすごいね」
「一人暮らしが長くて、恋人とかもおらんけえ、外食しては材料や調味料を推測して、自炊に再現する趣味があるんよ」
「へえ」のあとに、「恋人おらんのじゃ」と聞こえたような気がしたので、三佐子さんの顔を見ながら、「おらんよ」と心で呟いてみた。
「何か言うた?」
「何か聞こえた?」
「いや」
…でも、何か伝わりかけたのかな。
「しばらく休み言うとったけど、どういうこと?」
刑事になって一年ちょっと、メンタルが弱って病休を取ったことを話した。
「うつ病刑事じゃね」
「なんなんそれ? かっこ悪」
「ごめん。で、どれくらい休むん?」
「とりあえず、二週間」
「二週間で治るうつ病?」
「様子を見て、延長する可能性はある」
「薬見せてみて」
「そういえば、薬剤師じゃった言いよったよね」
岡山の心療内科で処方してもらった薬を出すと、次々と名前を確認した。
「うん、初心者コースじゃね。たぶん、新型うつ病いうやつよ。昔なら、仮病のズル休みじゃね」
「仮病のズル休みは酷いよ」
「ごめん。精神疾患に対する認識が、昔と今は圧倒的に違うけんね」
「逃げ出したことには違いないよ」
「自分を責めんのよ」
「ありがとう。三佐子さんに言われたらホッとする」
三佐子さんは微笑んで、薬を僕に返しながら言った。
「お医者さんの言うことは守らんといけんけど、これ、全部飲んだら眠くて、何もできんようになるよ。寝る前に抗うつ剤だけ飲もう。半分ずつでええよ。眠れるなら睡眠導入剤は飲まんでもええわ。日中はこの精神安定剤だけ、お守り代わりに持っときんちゃい」
「わ、ほんまに薬剤師なんじゃね」
食べ終わると、ポツポツと午後のお客さん。塾長や武瑠の話を聞く時間はなかった。
皆、コーヒーを注文する。サイフォンのランプに指で火を点けると拍手するお客さんもいる。砂糖やミルクは付けないが、町内のお菓子屋さんに特注で焼いてもらったクッキーをサービスする。ハーブが入っているらしい。
僕がコーヒーを出すと、常連らしい中年女性に「三佐子ちゃんの運命の人?」と聞かれた。関係を聞かれるのは三人目。しかし、さすがに「運命の人」という言葉には照れてしまう。
「おばさん、やめて」
お客さんに対して、「おばさん」は失礼な気がした。
「ああ、この人、母の弟の奥さん」
…なるほど、『叔母』という意味なんだ。
「三佐子ちゃんの唯一の親戚。よろしくね」
「占いスナックやっとるんよね」
「占いとスナックは別よ。こないだ、三佐子ちゃんに『運命の人が現れる』いうて出たけん」
「勝手に人のこと占わんのよ」
叔母さんは、三佐子さんの言葉を聞かずに、僕に話しかけてきた。
「水商売三十年の経験と勘も使うて、主に恋愛占いをしとるんよ。男女の相性は外したことがないね。半分以上はやめた方がええ言うんじゃけどね」
「そうなんですか」
「あなたと三佐子ちゃん、相当ええ感じよ。私のアンテナにピーンときた」
…相当ええ感じって、そんな。
僕は自分でも分かるくらい照れているが、三佐子さんは困ったように笑っている。
「それ、占いじゃなくて、当てずっぽうの勘じゃろ? なんぼ、うちのバイト君じゃいうても、あんまりからこうたら失礼なけん」
…全然、失礼じゃないです。
奥のテーブルに座っていた、七十代くらいの男性が笑っている。
「この人の勘は、占いよりよう当たるけん」
「もう、先生までやめてください。あ、この人は塾長のお友達で、郷土史会の会長さん。町の生き字引よ」
「菊池さんとは教員時代からの付き合いで、開店当時からここに来よるんよ。倒れちょる人には申し訳ないが、三佐子さんが継いでから、コーヒーも料理も旨うなったよ」
塾長はやっぱり倒れてるのか。どこが悪いんだろう。
「そんなこと言ったら、塾長、怒りますよ」
「ほうじゃの。早よ、帰って来てくれんと、郷土史談義する相手がおらんと寂しいわ」
叔母さんが言う。
「会長と菊池さんの相性もぶちぶちええよ」
「やめてくれ。気持ちの悪い」
店内は笑いに包まれた。郊外の喫茶店にほのぼのとした時間が過ぎて行く。
午後六時、閉店の時間だ。
「送って行くよ」
「ほんま?」
「うん。ちょっと、待っとってね」
三佐子さんは、レジの鍵をかけて、食洗器のスイッチを入れ、ガスの元栓や窓のロックを確認した。ドアの札を「クローズド」に返して鍵をかけた。
店から十数メートルの駐車場に向かうと、「純喫茶ぎふまふ」と書かれた軽バン。古い車のようで、キーでロックを解除して、キーでエンジンをかける。
…ぎふまふって何なんだろう?
三佐子さんは運転席に、僕は助手席に座った。二人で車に乗るうれしさと、母さんに病休のことを伝える躊躇いが、混ざり合わずに併存している。
武瑠との関係を聞こうとする。しかし、また先を越された。
「何か躊躇っていること、ない?」
昨夜、夢の三佐子さんも似たようなことを言った。躊躇っていることがないかと聞かれれば、ある。
「メンタルで休むことを報告しに帰って来たのに、昨日は言いそびれた」
「やっぱり…」
「やっぱりってどういうこと? なんで分かるん? 叔母さんの占い?」
「そうじゃない。正夢? うーん、予知夢いうんかね」
「予知夢?」
「昨日の朝方、塾長が出てきたんよ。変な姿で。山伏っていうんかな、嘴と羽根があった」
「嘴と羽根…」
僕はハッとした。
「それ、マジの話?」
「マジの話よ」
「カラス天狗じゃない?」
「それそれ、たぶんそれ」
昨日のサッカーの夢の話をした。
「『最後の切り札、ヤマショウの出番じゃ』言われた」
「誰に?」
「カラス天狗の恰好をした塾長に」
「わー、鳥肌が立つんじゃけど…塾長が二人の夢に、同じ恰好で出てきたんじゃね」
「で、三佐子さんのはどんな夢じゃったん?」
「昨日の朝はね、『間もなく心病みの若武者が現れる』とか言うんよ。『何それ?』思うたんじゃけど、本当に心病みの落ち武者が現れたじゃろ」
「心病みの落ち武者いうて僕のこと? そんなに落ちぶれ感あった?」
「ごめんごめん。それで、『躊躇を抱えておるゆえ、背中を押してやれ』言うんよ」
「あ、実はね。昨夜、夢に三佐子さんが出てきて、『私が背中を押す』みたいなこと言うた」
「え、え? マジマジ? 鳥肌鳥肌、見て見て」
「わ、ほんまじゃ」
「実は、私にも続きがある。今朝もお兄さんの夢を見たんよ。何かモジモジして躊躇っている様子なんで、私は『行くよ!』言うて背中を押して、一緒に走り出したん」
「いっぱい接点があるね」
「うん。短い夢じゃったけど、二日とも起きんにゃあいけん時間に見て、寝坊したというわけなんじゃけどね」
「そうなんじゃ」
…三佐子さんの夢に、僕が出たんだ。
「カラス天狗の塾長が見せよるんかね」
「何回も聞きそびれとるんじゃけど、現実の塾長はどこで何しよるん?」
「入院しとるよ」
「らしいね。どこが悪いん?」
「ずっと意識がない」
「え、そんなに?」
「管をたくさん付けられて、眠っとるよ」
言葉を失っているうちに、車は家の前に着いた。
ぎふまふの意味、武瑠との関係、僕とどこで会ったのか、塾長の様子…聞きたいことはまだいっぱいあるのに。
車を降りようとすると、ポンと背中を押された。
「お母さんにちゃんと言うんよ」
「うん、言う」
「明日教えてね」
「明日も行ってええ?」
「店休みじゃけど、来てくれる?」
「いろいろ聞きたい」
「うん」
僕は姿勢を正して敬礼のポーズ、車が見えなくなるまで見送った。
鍵を開けて、家に入る。
テーブルに母さんと座り、約束どおり、仕事を休むことを話した。
「うつ病で休職したいうこと?」
「まあ、そんなところ。気分が沈む」
「お父さんも、そんな時期があったんよ」
「そうなん?」
「会社に行かれんようになって、しばらく休んだ」
「どうやって治したん?」
「結局、完全には治らんかったんじゃ思うよ」
「そうなんじゃ」
「今も、沈んどるん?」
「今は全く」
「じゃあ、原因は仕事なんじゃね。原因が分かっとるうちは軽症よ。原因から離れとけば、病気じゃないんじゃけん」
鞄から、どっさりと薬を出して見せた。三佐子さんには、初心者コースだと言われた。
「去年から刑事になった言うたじゃん」
「なりたかったんじゃろ?」
「うん。でも、それがいけんかった」
「どして?」
「一年頑張ったんじゃけどね。優秀な人ばっかりでついていけんのよ。上司には叱られるし」
「そりゃあ、下っ端といえども刑事なんじゃけえねえ。一歩間違えば、仲間の命を危険に晒すんじゃろ。厳しゅうて当たり前じゃわいね」
「いやまあ、刑事いうてもね、殺人とか暴力団相手じゃなくて、選挙違反の捜査しとるんよ」
「選挙違反? 刑事、そんなこともやるん?」
「うん。今、選挙がないけえ、去年からひたすら名簿を集めとる。同窓会とか商工会とか」
「地味刑事じゃね」
「刑事の捜査は地道なもんよ。ドラマみたいなことはそんなに起こらんと思う」
「そうか。劣等感に苛まれながら、失敗して上司に叱られて、凹んで帰って来たと」
「そがいな言い方せんでもええじゃん」
「それだけ元気がありゃあ大丈夫。うつ病の人に頑張れ言うちゃダメじゃ言うけど、母親じゃけん言うよ。頑張れ。いや、頑張るな。適当にやっとけ」
「母さん、無茶苦茶。テキトーな刑事はダメじゃろ」
「真面目にやってもダメなんじゃけん、テキトーにやるしかなかろう」
「酷いな」
二人で笑った。笑い話にしてくれて、気が楽になった。母さんが心配するからというのは、自分への言い訳で、本当は挫折した自分を知られたくないだけだったのだ。三佐子さんも「自分を責めんのよ」と言ってくれた。
…よし、これからはテキトーに生きるそ! しかし、やっぱりテキトーな警察官はダメだよな。
仏壇の父さんにも報告した。父さんは武瑠の失踪の少し前に心筋梗塞で死んだ。今は落ち着いているが、三年前はこの明るい母さんも相当落ち込んでいた。仏壇の隣の小さなテーブルには武瑠の写真が置いてある。
…武瑠。お前どこに行ったんだ。
「母さん、腹減った」
「チャーハン作ろうか」
「昨日も食べた。あ、今日は僕が作る」
「料理できるん?」
「九年、自炊しとるんで」
三佐子さんの見事な手さばきを見て、自分でも料理がしたくなっていた。
冷蔵庫を見ると、一人暮らしなのに、誰が食べるんだろうと思うほどのたくさんの食材。豚バラとネギがある。昼、まかないで食べた「ネギ増し増し生姜焼き丼」を再現してみた。
「見た目はイマイチじゃけど、味は保証する」
トレイに、味噌汁とラッキョ漬けと一緒に乗せて、母さんの前に出した。
「最初に底まで混ぜてね」
母さんは一口食べて、「旨いじゃん」とは言ったが、立ち上がって、冷蔵庫から生卵を出した。
丼に割って落とし、混ぜながら「もっと美味しくなる」と言った。
「さすが、我が家のくどい味づくり」
自分で食べてみると、やはり、三佐子さんの生姜焼き丼にはほど遠い。「秘密の粉」の正体を知りたい。しかし、母さんがやったように卵を入れると、味がまとまった。
食後の薬を、台所で飲んだ。三佐子さんの言ったとおり、抗うつ剤だけ半分ずつ。二錠のものは一錠、一錠のものは歯で半分に割って。
流し台の横に吉備団子が、昨日のまま。一つ頬張って、箱を食卓に持って行き、母さんに勧めるが、「ありがとありがと。もう食べたよ」と言って遠慮された。「せっかく買ってきたのに」。
一緒に、ネットテレビの番組を選んだ。グルメドラマ番組を見つけ、それを見ているうちに眠くなる。母さんが窓を開けたり閉めたりしながら、「蝶々が入っとる」と言っているのを遠くに聞きながら、ソファーで寝てしまった。
昨日の夢の続きなのか、サッカーのベンチのようなところで、侍や忍者、僧兵の恰好をした人たちが、待機している。自分の視点は、それを後ろから見ている。
今日もカラス天狗の恰好をした塾長が仕切っている。
「武瑠、行くぞ!」
錫杖をチャリンと鳴らしたが、武瑠の姿が見当たらない。ほかのメンバーもキョロキョロしている。
「ビビっとるんか。あら、猫もおらん。しょうがないのお。もう時間じゃ、行くわ」
カラス天狗がベンチから飛び出して行った。そこはグラウンドではなく、神社の境内。どうしたことか、集まった若い女性の歓声が上がる。声を張って幕開けの口上を述べ始めた。
「やあやあ、我こそは、かの小説の著者にして、作品中の『トキの行者』のモデル、菊池でござりまするーー」
拍手が起こった。
「本日はお足元の悪い中、このような山中、極楽天神まで、ようこそおいでくださりました。これより、ぎふまふ一座のコスプレ演武をご覧にいれまするーー」
侍二人、僧兵三人、忍者二人が次々と飛び出し、紹介された。派手な殺陣とアクロバティックなアクションに、観客のボルテージが上がる。
「そして、そして! この物語のヒロイン・アンド・ヒーロー、アゲハとサヌ!」
「行くよ!」
ポンと背中を押したのはお姫様。
…三佐子さんだ。
僕は日本神話の服と髪型で、長い弓を持っている。お姫様とともに、境内に躍り出ると、百人以上いる観客の最高潮の歓声に迎えられた。先に出たメンバーを背に、二人で大見得を切った。
「我こそは、矢野城六代目城主アゲハ! 隣に控えしは我が夫、神代の皇子サヌである」
カラス天狗が「最後の切り札、頼むで」と言うと、足元にサッカーボールが転がってきた。
「サヌに扮する、ヤマショウは当代一の蹴鞠の名手にござりまする。見事なキックをご覧くだされ!」
…言い過ぎ。どプレッシャーだ。
長い弓を三佐子さんに預け、深呼吸。フリーキックのように間合いを取り、助走して、ボールを蹴る。左足の甲で捉えると、唸りを上げて神社に向かった。
「あ、神社が壊れる!」
心配したが、扉がパンと開き、建物の中に吸い込まれて行った。
女性ファンの黄色い歓声が上がる。お姫様の三佐子さんが「お兄さん、素敵!」と言って、ハグしてくれた。
目が覚めた。スマホの時計はまだ十二時過ぎ。
…幸せな夢だったな。
夢はたいていすぐに忘れる。一旦、体を起こし、電気を付けて、鞄の中のメモ帳に記録した。エアコンは付けたままだが、汗びっしょり。母さんがタオルケットを掛けてくれている。その縁で汗を拭いた。
再び、眠りに落ちた。