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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
2/19

2 ネギ増し増し生姜焼き丼

 七月二日火曜日。

 朝五時半過ぎに目が覚めた。薬が残っているのか、頭がボーっとしている。

 …散歩でもしようか。

 リビングに置いた簡易ベッドに寝ている母さんに、「散歩、行って来る」と声をかけて、ズボンだけ穿き替えて外に出た。

 …あの店、何時からだろう。

 ほかに用事はない。足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。昨日は山越えをして帰ったが、今日は駅前を通る普通のコースを行く。三十分ほどで、純喫茶ぎふまふに着いた。眠気はほぼ治まった。

 ドアには「クローズド」の札が掛かっているが、店内には灯りが点いている。少し迷ったが、ドアノブに手をかけて押してみた。

 カランコロン。

 開いた。調理場で料理している湯気の向こうに、棚から食器を出している三佐子さんの後ろ姿が見えた。

「ごめんなさい。開店は七時なんですよ」

 そう言って、こちらを振り返ったとき、ものすごくびっくりした顔をした。皿が床に落ちて割れる。

 ガチャーン!

「大丈夫です?」

「あ、お兄さん。びっくりしたあ」

「ごめんなさい。開店前なんかに来て、驚かせてしまいましたね」

「ううん、違うんです。武瑠君に見えたんです」

「え? このシャツのせいかな。昨夜、母さんにも言われました」

「そのシャツ見たことがあります」

 これを見たことがあるということは、武瑠とは失踪直前の知り合いということになる。行方不明の件は知っているのだろう。突然、現われたりしたら、皿を落とすほどびっくりするのも当然かもしれない。

「そうですか。驚かせてごめんなさい。日帰りのつもりだったので、着替え持って来てなくて、借りました」

「日帰り…」

「いえ、あ、挨拶が遅くなりましたが、おはようございます。また、来ちゃいました」

「おはようございます。来てくださったのですね…」

 割れた皿を集めながら、ちょっとうれしそうな顔をした。

「お皿、手伝いますよ」

「いえ、そんな。ちょっとカウンターの席にでも座っててください」

「あ、僕、邪魔してますね。本当にお手伝いさせてください」

「仕事はお休みなんですか? 日帰りのつもりだったというのは?」

「結局、昨日は実家に泊まりましたし。もうしばらくいようかと思います」

「しばらく? そうですか。じゃあ、お願いしようかな」

「何なりと」

「じゃあ、まず、店の前のプランターにお水を遣ってもらえますか。昨日、今日、続けて寝坊してしまって」

「分かりました。そういえば、昨日も夕方近くに遣ってましたね」

「よろしくお願いします」

 …なんか、言葉がまどろっこしい。この提案は年上の自分からしなきゃな。

「あの」

「はい?」

「敬語やめません? タメでいいですよ」

「あ、ああ、お兄さんがそう言うなら。その方が、私も話しやすいです」

「よし、では、一、二の三!」

「じゃあ、プランターに水を遣ってきてくれん? ザッとでええけえね」

「お、わりかしガッツリ広島弁」

 笑顔になった三佐子さんから、ジョウロを受け取った。水を汲んで、名前も知らない草に、水を遣る。結構たくさんある。葉の雰囲気からミントの一種だと思った。葉を一枚ちぎり、指で揉みつぶして、鼻に近づける。ミントというより柑橘(かんきつ)に似た強い香り。鼻から喉が涼しくなって、頭がすっきりした。

 …お店の水に入っている『レモンの香りがするミントの仲間』は、きっとこれだ。

 店内に戻ると、彼女は戦闘モードに入っていた。開店まで三十分しかない。

「キッチンも手伝うてもらえる?」

「もちのろん」

「それ、オーナーがよう言うとった。昭和語じゃね。それより、ゆで卵がまだなんよ。石鹸で手をよう洗うて、このエプロンと三角巾を付けて。鍋に水を張って、出してある卵を二パック、全部茹でて」

「ゆで卵くらいなら、できるよ」

「アラームを二つかけて、七分で十個、これが半熟。別の鍋に水を張って、そこで、流水と一緒に冷やす。殻は剝いちゃだめよ。十三分で残り十個、こっちは固ゆで。半熟と混ぜんようにね。冷やしたら殻を剥いてマヨネーズを和えながら潰す。あ、黄身が偏らんように、五分の時に、一回よく混ぜてね」

「メモしてもええ?」

「これくらい覚えんちゃい!」

「厳しい!」

 お互い笑いながら言っている。三佐子さんは、小さなボウルにオイルと酢とスパイスを入れて、こちらに手渡した。

「卵のお湯を見ながら、これ混ぜて。野菜サラダのドレッシングよ」

「ドレッシングまで手作り?」

「理由一、お客様に美味しいものを食べていただくため。理由二、買うより安い! ほら、心を込めて混ぜてよ」

 サラダの野菜をタンタンタンと切り、器に盛り付けたかと思うと、茹でたじゃがいもにマヨネーズとタラコを入れて潰し始めた。とにかく手早い。調理をしている三佐子さんは真剣そのもの。

「ものすごいスピード…」

「はい、卵が割れんように、そこの菜箸で転がして! 料理で大事なことはね、丁寧な下ごしらえと調理の手際。真心とか誠意とかは、技術があってこそ表現できるんよ」

「名言!」

「寝坊なんか、プロとしてもってのほか。私もまだまだ」

「体調管理も技術のうちじゃね」

「そのとおり! ほら、アラーム鳴ったよ。半熟卵を上げて!」

「了解!」

「すぐに冷却! 余熱で固まるけんね」

「オッケー!」

 ずっと前から相棒だったようなコンビネーション。忙しさを楽しんでいる。

「ありがと。間に合うたわ」


 開店時間の七時になる。ドアの札を「オープン」にひっくり返す。常連らしい中年男性が三人、次々と入店する。

「いらっしゃいませ」

「あら、三佐子ちゃんの彼氏かいね?」

「はい!」

 調子に乗って言ってしまった。そうだったらいいなという気持ちは、僕の心に明らかにある。

「はいじゃないじゃろ。新人のバイト君です。研修中につき、失礼がありましたらごめんなさい」

 冗談まじりに紹介してくれた。

「よろしくお願いします」

「失業でもしたん? ま、気にすな。そのうち何とかなるよ」

「ありがとうございます」

 的外れではあるが、気の良いお客さんの人柄に励まされる。

「皆さん出勤前なんじゃけえ、急いで差し上げてね。お(ひや)をお出しして」

「お、おひや?」

「水のことよ」

 一番年配のお客さんが教えてくれる。

「オーナーの昭和趣味で、わざとそんな言葉を使うとるんよね。熱いコーヒーはホット、アイスコーヒーは(れい)コ、レモンスカッシュはレスカ、クリームソーダはクリソー」

「へえ」

「この喫茶店には、古き良き昭和が残っとるんよ」

 三佐子さんが割って入った。

「たぶん、お冷は今のレストランでも使ってますよ。お兄さんが知らんだけじゃと思います」

「岡山じゃ聞かんよ」

「そんなことないって。もうなんでもええけえ、急いで!」

「はいはい、おひや、おひや」

 モーニングセットは、四枚切りトースト、コーヒー、サラダ、卵で三百五十円。サラダは日替わり。卵は半熟、マヨネーズ和えが選べる。目玉焼き、スクランブルエッグは二個使うので五十円アップ。コーヒーはおかわり自由である。

「ご注文のいただき方、見とってね。常連さんはこうよ」

 一旦、こっちに向かってそう言い、お客さんを見渡しながら言う。

「お三人様、同時でごめんなさい。いつもの半熟、目玉、マヨ和えでいいですか。今日のサラダは『たらも』にしました」

「俺、今日は目玉焼きじゃなくてスクランブルにして」

「承知しました。半熟、マヨ和え、スクランブル。しばらくお待ちください」

 オーブントースターは一度に四枚焼ける。三佐子さんはそこに三枚入れて、二分三十秒にセット。

 「先にコーヒーをお出しして」と僕に指示。モーニングセットのコーヒーはやかんで十杯分を抽出して、ドリッパーで微細な粉を濾す。粉はサイフォン用とは変えてあるらしい。僕は昭和な魔法瓶からカップに注ぎ、お盆に三つ載せて、お客さんに出した。

 三佐子さんはトレイを三枚出し、器を並べる。冷蔵庫からサラダを取り出して盛り付ける。コンロに火を点けフライパンを熱する。その間に、殻を切った半熟卵をエッグスタンドに乗せ、マヨネーズ和えを盛り付けた。熱くなったフライパンにバターを落として、回しながら広げる。ボウルに割った卵を軽く攪拌(かくはん)して、輪を描くように流し込む。そこで火を落として、余熱でスクランブルして、皿に盛った。

 オーブンがチンと言う。パンにマーガリンを塗る動作は、ナイフを上に向かって左半分、斜めに戻しながら中央部を通り、N字に折り返して右半分、両手を器用に動かして、角、角、角、角。複雑な動きだが、一挙動で流れる。

「はい、お待ちどおさま」

 無駄のない動き。同時に入ったお客さんには同時に出して差し上げたい。大事な気遣いだと思う。「技術がなければ、真心は表現できない」。三佐子さんの言葉の意味が分かるような気がした。僕は、困っている人には心を込めて、怪しい人物にさえも丁寧に対応してきたつもりだが、スピードとか理論とかのスキルアップを怠ってきたのではないか。そして、その結果がこの行き詰り。

「何、ボーっとしとるん。コーヒーのおかわりを注いで差し上げて」

「はいはい」

「はいは一回!」

「はい!」

 常連さんの一人が「何か楽しそうじゃね。朝から元気もろうたよ」と笑って言った。

 お客さんはNHKのニュースを見ながら、無表情に食べる。朝食は一日の始まりのルーティン、妙なバリエーションを必要としない。美味しいことは当然として、同じペースで食べて同じ時間に食べ終わることが大事なのだ。

 お金を払って店を出るとき、三佐子さんは「行ってらっしゃい。テキトーに頑張ってくださいねー」と声をかける。「テキトーにいうのがええね。いつもありがと。また来るね」。「毎度ありー」、底抜けに明るい感じである。

 母さんから電話がかかってきた。そういえば、散歩してくると言って、早朝に出たっきりだった。息子の一人が失踪している母さんには心配だったのかもしれない。謝って、「夕方には必ず帰る」と言った。

 その後、モーニングタイムは十一時まで、八時台、九時台、十時台と三人ずつくらい現れる。高齢の常連さんが多い。だし巻きや炒り卵くらいの特注には応じる。ウエイターとしてのだいたいの要領は得た。

 十一時から昼定食をセットする。今日は生姜焼き定食とサバ味噌煮定食の二種類。少なくとも一週間、メニューが重なることはないらしい。十二時を過ぎると、ほぼ満席。近所の店や会社の人なので、自発的に相席してくれる。息をつく暇もない。

 一時には、特製カレー目当ての人がちょうど五人待っていた。

 わずか半日だが、一緒に忙しい時間を過ごしたことで、信頼が高まり、距離が縮まった。

 昼下がり、お客が切れた。

「ありがとう。やっぱり、もう一人おると違うわ。ぶち助かった」

「そう言うてもらえると、うれしい」

「いつか誰かに、一人で二人分は働けんけど、二人なら四人分働けるいうて聞いたことがある」

「なるほど、チームワークじゃね」

 昼定食で余った豚肉の生姜焼きを、ご飯に乗せて出してくれた。それが見えないくらいの刻みネギがかかっている。カウンターに並んで座り、生姜焼き丼を食べる。

「憧れのまかない料理。このドバッとやり過ぎな感じ、うちの母さんの料理に似とる」

「そうなん。お母さんはお元気?」

「うちの母さんも知っとるん?」

「一方的じゃけど…。お兄さんにも一応、会うたことはあるんよ」

「え、僕にも? いつ? どこで?」

「言うても分からんと思う」

 弟の名前を知っていて、僕がその兄だと知っていた。さらに、母さんと僕にも会ったことがあると言う。何か引っかかるような気もするが、思い出せない。

「もう、教えてや」

「まあ、食べよ。しっかり底まで混ぜてね」

 はぐらかされた。

 肉は一口大に切ってある。丼の底からツユの沁みたご飯を掘り出し、肉とネギを混ぜ込んで頬張る。

「三佐子さん。これ、美味しい! 苦手な生姜も気にならん」

「そう? お客さんには申し訳ないけど、私ら、メニューより美味しいもの食べとるわ」

「タレは生姜と醤油と砂糖とみりん、ごま油?」

「さすが! あと、秘密の粉」

「やっぱり秘密の粉が入っとるんじゃ。味噌汁も美味しい。出汁には椎茸が入っとるね」

「お兄さん、やっぱりすごいね」

「一人暮らしが長くて、恋人とかもおらんけえ、外食しては材料や調味料を推測して、自炊に再現する趣味があるんよ」

 「へえ」のあとに、「恋人おらんのじゃ」と聞こえたような気がしたので、三佐子さんの顔を見ながら、「おらんよ」と心で呟いてみた。

「何か言うた?」

「何か聞こえた?」

「いや」

 …でも、何か伝わりかけたのかな。

「しばらく休み言うとったけど、どういうこと?」

 刑事になって一年ちょっと、メンタルが弱って病休を取ったことを話した。

「うつ病刑事(でか)じゃね」

「なんなんそれ? かっこ悪」

「ごめん。で、どれくらい休むん?」

「とりあえず、二週間」

「二週間で治るうつ病?」

「様子を見て、延長する可能性はある」

「薬見せてみて」

「そういえば、薬剤師じゃった言いよったよね」

 岡山の心療内科で処方してもらった薬を出すと、次々と名前を確認した。

「うん、初心者コースじゃね。たぶん、新型うつ病いうやつよ。昔なら、仮病(けびょう)のズル休みじゃね」

「仮病のズル休みは酷いよ」

「ごめん。精神疾患に対する認識が、昔と今は圧倒的に違うけんね」

「逃げ出したことには違いないよ」

「自分を責めんのよ」

「ありがとう。三佐子さんに言われたらホッとする」

 三佐子さんは微笑んで、薬を僕に返しながら言った。

「お医者さんの言うことは守らんといけんけど、これ、全部飲んだら眠くて、何もできんようになるよ。寝る前に抗うつ剤だけ飲もう。半分ずつでええよ。眠れるなら睡眠導入剤は飲まんでもええわ。日中はこの精神安定剤だけ、お守り代わりに持っときんちゃい」

「わ、ほんまに薬剤師なんじゃね」

 食べ終わると、ポツポツと午後のお客さん。塾長や武瑠の話を聞く時間はなかった。

 皆、コーヒーを注文する。サイフォンのランプに指で火を点けると拍手するお客さんもいる。砂糖やミルクは付けないが、町内のお菓子屋さんに特注で焼いてもらったクッキーをサービスする。ハーブが入っているらしい。

 僕がコーヒーを出すと、常連らしい中年女性に「三佐子ちゃんの運命の人?」と聞かれた。関係を聞かれるのは三人目。しかし、さすがに「運命の人」という言葉には照れてしまう。

「おばさん、やめて」

 お客さんに対して、「おばさん」は失礼な気がした。

「ああ、この人、母の弟の奥さん」

 …なるほど、『叔母(おば)』という意味なんだ。

「三佐子ちゃんの唯一の親戚。よろしくね」

「占いスナックやっとるんよね」

「占いとスナックは別よ。こないだ、三佐子ちゃんに『運命の人が現れる』いうて出たけん」

「勝手に人のこと占わんのよ」

 叔母さんは、三佐子さんの言葉を聞かずに、僕に話しかけてきた。

「水商売三十年の経験と勘も使うて、主に恋愛占いをしとるんよ。男女の相性は外したことがないね。半分以上はやめた方がええ言うんじゃけどね」

「そうなんですか」

「あなたと三佐子ちゃん、相当ええ感じよ。私のアンテナにピーンときた」

 …相当ええ感じって、そんな。

 僕は自分でも分かるくらい照れているが、三佐子さんは困ったように笑っている。

「それ、占いじゃなくて、当てずっぽうの勘じゃろ? なんぼ、うちのバイト君じゃいうても、あんまりからこうたら失礼なけん」

 …全然、失礼じゃないです。

 奥のテーブルに座っていた、七十代くらいの男性が笑っている。

「この人の勘は、占いよりよう当たるけん」

「もう、先生までやめてください。あ、この人は塾長のお友達で、郷土史会の会長さん。町の生き字引よ」

「菊池さんとは教員時代からの付き合いで、開店当時からここに来よるんよ。倒れちょる人には申し訳ないが、三佐子さんが継いでから、コーヒーも料理も旨うなったよ」

 塾長はやっぱり倒れてるのか。どこが悪いんだろう。

「そんなこと言ったら、塾長、怒りますよ」

「ほうじゃの。早よ、帰って来てくれんと、郷土史談義する相手がおらんと(さび)しいわ」

 叔母さんが言う。

「会長と菊池さんの相性もぶちぶちええよ」

「やめてくれ。気持ちの悪い」

 店内は笑いに包まれた。郊外の喫茶店にほのぼのとした時間が過ぎて行く。


 午後六時、閉店の時間だ。

「送って行くよ」

「ほんま?」

「うん。ちょっと、待っとってね」

 三佐子さんは、レジの鍵をかけて、食洗器のスイッチを入れ、ガスの元栓や窓のロックを確認した。ドアの札を「クローズド」に返して鍵をかけた。

 店から十数メートルの駐車場に向かうと、「純喫茶ぎふまふ」と書かれた軽バン。古い車のようで、キーでロックを解除して、キーでエンジンをかける。

 …ぎふまふって何なんだろう?

 三佐子さんは運転席に、僕は助手席に座った。二人で車に乗るうれしさと、母さんに病休のことを伝える躊躇いが、混ざり合わずに併存している。

 武瑠との関係を聞こうとする。しかし、また先を越された。

「何か躊躇(ためら)っていること、ない?」

 昨夜、夢の三佐子さんも似たようなことを言った。躊躇っていることがないかと聞かれれば、ある。

「メンタルで休むことを報告しに帰って来たのに、昨日は言いそびれた」

「やっぱり…」

「やっぱりってどういうこと? なんで分かるん? 叔母さんの占い?」

「そうじゃない。正夢? うーん、予知夢いうんかね」

「予知夢?」

「昨日の朝方、塾長が出てきたんよ。変な姿で。山伏(やまぶし)っていうんかな、嘴と羽根があった」

「嘴と羽根…」

 僕はハッとした。

「それ、マジの話?」

「マジの話よ」

「カラス天狗じゃない?」

「それそれ、たぶんそれ」

 昨日のサッカーの夢の話をした。

「『最後の切り札、ヤマショウの出番じゃ』言われた」

「誰に?」

「カラス天狗の恰好をした塾長に」

「わー、鳥肌が立つんじゃけど…塾長が二人の夢に、同じ恰好で出てきたんじゃね」

「で、三佐子さんのはどんな夢じゃったん?」

「昨日の朝はね、『間もなく心病みの若武者が現れる』とか言うんよ。『何それ?』思うたんじゃけど、本当に心病みの落ち武者が現れたじゃろ」

「心病みの落ち武者いうて僕のこと? そんなに落ちぶれ感あった?」

「ごめんごめん。それで、『躊躇(ちゅうちょ)を抱えておるゆえ、背中を押してやれ』言うんよ」

「あ、実はね。昨夜、夢に三佐子さんが出てきて、『私が背中を押す』みたいなこと言うた」

「え、え? マジマジ? 鳥肌鳥肌、見て見て」

「わ、ほんまじゃ」

「実は、私にも続きがある。今朝もお兄さんの夢を見たんよ。何かモジモジして躊躇っている様子なんで、私は『行くよ!』言うて背中を押して、一緒に走り出したん」

「いっぱい接点があるね」

「うん。短い夢じゃったけど、二日とも起きんにゃあいけん時間に見て、寝坊したというわけなんじゃけどね」

「そうなんじゃ」

 …三佐子さんの夢に、僕が出たんだ。

「カラス天狗の塾長が見せよるんかね」

「何回も聞きそびれとるんじゃけど、現実の塾長はどこで何しよるん?」

「入院しとるよ」

「らしいね。どこが悪いん?」

「ずっと意識がない」

「え、そんなに?」

「管をたくさん付けられて、眠っとるよ」

 言葉を失っているうちに、車は家の前に着いた。

 ぎふまふの意味、武瑠との関係、僕とどこで会ったのか、塾長の様子…聞きたいことはまだいっぱいあるのに。

 車を降りようとすると、ポンと背中を押された。

「お母さんにちゃんと言うんよ」

「うん、言う」

「明日教えてね」

「明日も行ってええ?」

「店休みじゃけど、来てくれる?」

「いろいろ聞きたい」

「うん」

 僕は姿勢を正して敬礼のポーズ、車が見えなくなるまで見送った。


 鍵を開けて、家に入る。

 テーブルに母さんと座り、約束どおり、仕事を休むことを話した。

「うつ病で休職したいうこと?」

「まあ、そんなところ。気分が沈む」

「お父さんも、そんな時期があったんよ」

「そうなん?」

「会社に行かれんようになって、しばらく休んだ」

「どうやって治したん?」

「結局、完全には治らんかったんじゃ思うよ」

「そうなんじゃ」

「今も、沈んどるん?」

「今は全く」

「じゃあ、原因は仕事なんじゃね。原因が分かっとるうちは軽症よ。原因から離れとけば、病気じゃないんじゃけん」

 鞄から、どっさりと薬を出して見せた。三佐子さんには、初心者コースだと言われた。

「去年から刑事になった言うたじゃん」

「なりたかったんじゃろ?」

「うん。でも、それがいけんかった」

「どして?」

「一年頑張ったんじゃけどね。優秀な人ばっかりでついていけんのよ。上司には叱られるし」

「そりゃあ、下っ端といえども刑事なんじゃけえねえ。一歩間違えば、仲間の命を危険に晒すんじゃろ。厳しゅうて当たり前じゃわいね」

「いやまあ、刑事いうてもね、殺人とか暴力団相手じゃなくて、選挙違反の捜査しとるんよ」

「選挙違反? 刑事、そんなこともやるん?」

「うん。今、選挙がないけえ、去年からひたすら名簿を集めとる。同窓会とか商工会とか」

地味刑事(でか)じゃね」

「刑事の捜査は地道なもんよ。ドラマみたいなことはそんなに起こらんと思う」

「そうか。劣等感に(さいな)まれながら、失敗して上司に叱られて、(へこ)んで帰って来たと」

「そがいな言い方せんでもええじゃん」

「それだけ元気がありゃあ大丈夫。うつ病の人に頑張れ言うちゃダメじゃ言うけど、母親じゃけん言うよ。頑張れ。いや、頑張るな。適当にやっとけ」

「母さん、無茶苦茶。テキトーな刑事はダメじゃろ」

「真面目にやってもダメなんじゃけん、テキトーにやるしかなかろう」

「酷いな」

 二人で笑った。笑い話にしてくれて、気が楽になった。母さんが心配するからというのは、自分への言い訳で、本当は挫折した自分を知られたくないだけだったのだ。三佐子さんも「自分を責めんのよ」と言ってくれた。

 …よし、これからはテキトーに生きるそ! しかし、やっぱりテキトーな警察官はダメだよな。

 仏壇の父さんにも報告した。父さんは武瑠の失踪の少し前に心筋梗塞で死んだ。今は落ち着いているが、三年前はこの明るい母さんも相当落ち込んでいた。仏壇の隣の小さなテーブルには武瑠の写真が置いてある。

 …武瑠。お前どこに行ったんだ。

「母さん、腹減った」

「チャーハン作ろうか」

「昨日も食べた。あ、今日は僕が作る」

「料理できるん?」

「九年、自炊しとるんで」

 三佐子さんの見事な手さばきを見て、自分でも料理がしたくなっていた。

 冷蔵庫を見ると、一人暮らしなのに、誰が食べるんだろうと思うほどのたくさんの食材。豚バラとネギがある。昼、まかないで食べた「ネギ増し増し生姜焼き丼」を再現してみた。

「見た目はイマイチじゃけど、味は保証する」

 トレイに、味噌汁とラッキョ漬けと一緒に乗せて、母さんの前に出した。

「最初に底まで混ぜてね」

 母さんは一口食べて、「旨いじゃん」とは言ったが、立ち上がって、冷蔵庫から生卵を出した。

 丼に割って落とし、混ぜながら「もっと美味しくなる」と言った。

「さすが、我が家のくどい味づくり」

 自分で食べてみると、やはり、三佐子さんの生姜焼き丼にはほど遠い。「秘密の粉」の正体を知りたい。しかし、母さんがやったように卵を入れると、味がまとまった。

 食後の薬を、台所で飲んだ。三佐子さんの言ったとおり、抗うつ剤だけ半分ずつ。二錠のものは一錠、一錠のものは歯で半分に割って。

 流し台の横に吉備団子が、昨日のまま。一つ頬張って、箱を食卓に持って行き、母さんに勧めるが、「ありがとありがと。もう食べたよ」と言って遠慮された。「せっかく買ってきたのに」。

 一緒に、ネットテレビの番組を選んだ。グルメドラマ番組を見つけ、それを見ているうちに眠くなる。母さんが窓を開けたり閉めたりしながら、「蝶々が入っとる」と言っているのを遠くに聞きながら、ソファーで寝てしまった。


 昨日の夢の続きなのか、サッカーのベンチのようなところで、侍や忍者、僧兵の恰好をした人たちが、待機している。自分の視点は、それを後ろから見ている。

 今日もカラス天狗の恰好をした塾長が仕切っている。

「武瑠、行くぞ!」

 錫杖(しゃくじょう)をチャリンと鳴らしたが、武瑠の姿が見当たらない。ほかのメンバーもキョロキョロしている。

「ビビっとるんか。あら、猫もおらん。しょうがないのお。もう時間じゃ、行くわ」

 カラス天狗がベンチから飛び出して行った。そこはグラウンドではなく、神社の境内(けいだい)。どうしたことか、集まった若い女性の歓声が上がる。声を張って幕開けの口上を述べ始めた。

「やあやあ、我こそは、かの小説の著者にして、作品中の『トキの行者』のモデル、菊池でござりまするーー」

 拍手が起こった。

「本日はお足元の悪い中、このような山中、極楽天神まで、ようこそおいでくださりました。これより、ぎふまふ一座のコスプレ演武をご覧にいれまするーー」

 侍二人、僧兵三人、忍者二人が次々と飛び出し、紹介された。派手な殺陣(たて)とアクロバティックなアクションに、観客のボルテージが上がる。

「そして、そして! この物語のヒロイン・アンド・ヒーロー、アゲハとサヌ!」

「行くよ!」

 ポンと背中を押したのはお姫様。

 …三佐子さんだ。

 僕は日本神話の服と髪型で、長い弓を持っている。お姫様とともに、境内に躍り出ると、百人以上いる観客の最高潮の歓声に迎えられた。先に出たメンバーを背に、二人で大見得(おおみえ)を切った。

「我こそは、矢野城六代目城主アゲハ! 隣に控えしは我が夫、神代(かみよ)皇子(おうじ)サヌである」

 カラス天狗が「最後の切り札、頼むで」と言うと、足元にサッカーボールが転がってきた。

「サヌに扮する、ヤマショウは当代一の蹴鞠(けまり)の名手にござりまする。見事なキックをご覧くだされ!」

 …言い過ぎ。どプレッシャーだ。

 長い弓を三佐子さんに預け、深呼吸。フリーキックのように間合いを取り、助走して、ボールを蹴る。左足の甲で捉えると、唸りを上げて神社に向かった。

「あ、神社が壊れる!」

 心配したが、扉がパンと開き、建物の中に吸い込まれて行った。

 女性ファンの黄色い歓声が上がる。お姫様の三佐子さんが「お兄さん、素敵!」と言って、ハグしてくれた。


 目が覚めた。スマホの時計はまだ十二時過ぎ。

 …幸せな夢だったな。

 夢はたいていすぐに忘れる。一旦、体を起こし、電気を付けて、鞄の中のメモ帳に記録した。エアコンは付けたままだが、汗びっしょり。母さんがタオルケットを掛けてくれている。その縁で汗を拭いた。

 再び、眠りに落ちた。

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