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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
17/19

366 カキ船と広島菜と広島の酒

 三月末で岡山の警察を辞めた。四月から広島に帰り、実家で母さんと暮らしながら、調理師免許とハーブコーディネーター資格の勉強をした。喫茶店とハーブ畑を本気で手伝うつもりでいる。

 …いずれは手伝いではなく、三佐子さんと共同経営者になりたい。


 七月一日火曜日。

 僕が、純喫茶ぎふまふを初めて訪れてから、ちょうど一年。三佐子さんと二人で区役所に婚姻届を出しに行く。

 七月十三日には、極楽天神で武瑠に結婚を報告したい。

 しかし、三佐子さんは憂鬱な顔をしている。

「どしたん、気分悪い?」

「ううん。大丈夫」

 …女心に鈍感と言われるので、僕も勉強をしている。これはあれだ。マリッジブルーというやつ。

 二人は、住民課の窓口でカウンターを挟んで係の人と対面で座る。婚姻届を提出すると、係の人は「おめでとうございます。しばらくお待ちください」と言って、端末パソコンで確認を始めた。

 しかし、しばらくすると首を捻り、何かをプリントアウトして、上司に相談に行った。

 三佐子さんの様子がおかしい。

「大丈夫?」

「ちょっと出てくる」

 そう言って、区役所の建物の外に出てしまった。

 そこに、係の人が戻って来て、言いにくそうに話す。

「あの、すみません。妻になる方の本籍にお間違いはありませんか」

 僕は「三佐子さん」と振り返るが、帰って来ない。

「何かありましたか?」

「詳しいことは申し上げられないのですが、お名前が見当たらないんです」

 ものすごい胸騒ぎがする。

「三佐子さん!」

 区役所の人に「ごめんなさい。ちょっと探して来ます」と言って、僕は立ち上がり、玄関から外に出た。

 三佐子さんの姿はない。

 スマホに電話をしてみるが、出ない。どんどん不安になる。

 …名前が見つからないってどういうこと? 戸籍がないってこと?

 一度こっそり、叔母さんに三佐子さんのご両親のことを聞きに行ったが、思えばリアリティに欠ける話だった。

 …もしかして、三佐子さんはこの世のものではない?

 肩で息をするほど、気持ちが不安定になってきた。

 鞄の中から、精神安定剤とペットボトルの水を取り出そうとすると、薬は切れていた。別の紙袋に、いつ入れたものだか分からないが、大蘇鉄が入っていた。

「これにも鎮静効果があるはず」

 それを齧るが改善は見られず、生汗が出始める。木陰に入り、ちょうど座れる高さの植え込みの石に腰を掛けた。

 気が遠くなる。


 スマホが「ピコン」といった。三佐子さんからのSNSメッセージだ。

 口で息をしながら、開いてみる。

 ―ごめんなさい。ごめんなさい。結局、武瑠君とのこと、ちゃんと話していない。私、懺悔(ざんげ)します。―

 …懺悔って。

 炎天下にクマゼミの蝉時雨。。


 メッセージにはURLが貼られていた。それを押すと動画が立ち上がった。

 閉店後の喫茶店を背景に、三佐子さんの声でナレーションが始まる。

 ―九年前、尾崎神社で塾長の小説のキャラクターのコスプレイベントを開催しました。あの集合写真のイベントです。あのときのメンバー、スタッフ、小説の熱烈ファンはその後も仲が良くて、自分たちのことを『秘密結社ぎふまふ』と名付けて交流を続けていました。伊藤家にお見舞いに行った人たちのグループです。それから五年後、つまり四年前の七月十三日。秘密結社の同窓会がありました。―


 画面が、広島デルタを上空から撮った映像に変わった。

 ―市内の川に浮かぶカキ船レストラン。ここが同窓会の会場です。―

 そして画面は店内へ。塾長と三佐子さんが話している。

「今日、山翔も呼ぼうか思うたんじゃけど、今は武瑠と付き合いよるんじゃろ」

「付き合ってるっていうんかなあ」

「まあ、あの時の償いはするけん」

「償いって。もうええですよ」

「はは。ところで、まだリンダから連絡がないんじゃが、サンザにはあったか」

「いえ、ないんです。出発して二か月、電話もメールも手紙も」

「たいてい、向こうに着いたら連絡くれとったがな」

「ええ。今回はそんなに危ないところじゃないと言ってましたけど」

「心配じゃ。私の塾生は八年間で百八十三人おるけど、サンザとリンダは特別。娘のように思うとる」

「ありがとうございます。塾長のおかげで、大人になることができました」

 開始時間になり、塾長の小説の決め台詞、「こんにちは、こんにちは」で乾杯。パーティが始まった。挨拶をさせると、長いので、乾杯のあとに講話の時間がセットされていた。塾長時代と同じく、これだけは標準語。ちょっとクセのある口調でうんちく講義を始める。

「今日は広島名物カキ船での同窓会。カキは冬のイメージだが、ここでは夏でも生カキが食べられる。広島湾の南の方の水は綺麗だからね。ということで、カキ船の話をしたい。江戸時代末期、広島のカキを大阪などに運ぶカキ船が流行した。カキ船は水に浮かぶ料亭、カキを運ぶだけではなく、こうして酒や料理も出す。寄港先でも広島の酒や広島菜漬けが使われ、その旨さはカキとともに評判となった。そしてもう一つの話、実はカキと我らの故郷、矢野はとても縁が深い。江戸時代にいち早くカキ養殖を始めたのも、矢野大江灘(おおえなだ)何某(なにがし)。さらに矢野のカキ船は、後発ではあったが数は一番多く、全国各地に広く展開した。この二つの話を繋ぎ合わせると、広島の酒や広島菜漬けを各地に紹介し、全国区に押し上げたのは、矢野のカキ船の功績であった…とか、そうではなかったとか…。実際、矢野は昭和時代まで酒造りも漬物作りも盛んであった。塾長の一口講話、一口ではなかったとか」

 半笑いと拍手が起こり、本格的に宴会が始まった。

 ―参加者は、日本酒で酔っ払いモード。塾長が口を滑らせて、武瑠君と私が付き合っているということが、あっと言う間に広まり、みんなに冷やかされました。パーティは盛り上がり、塾長の「ぎふまふ!」という乾杯の音頭でお開きになりました。武瑠君と私は、塾長と一緒に帰るつもりでしたが。―

「さすがに、そんな野暮じゃございやせんぜ。『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』ってね。もう一軒寄って帰るけん、若いお二人はどこへなりと」

「塾長、なんかエッチだ」

 ―武瑠君、何を考えてるの?―


「少し歩こう」

「うん」

 ―暗い平和祈念公園を歩きながら、武瑠君が話し始めました。―

「コスプレイベントのとき、『五年経って、相手がおらんかったら、もう一回言うて』と言われた」

「覚えとるよ」

「誰かおる?」

「それらしい人が目の前に」

「サンザちゃんの前におるのは、伊藤武瑠じゃけど」

「うん。確かそういう名前の人」

 ―武瑠君はポケットからケースを出しました。蓋を開けると指輪。―

「大学を卒業したら、結婚してください」

「私、五つも年上だよ」

「五年経っても追いつけんかったね」

「ふふ。ありがとう。武瑠君、三佐子をよろしくお願いします」

「良かった」

 ―武瑠君は私の手を取って指輪を嵌めてくれました。そして、人目がないことを確認して、抱き合って口づけをしました。―

「夢で見ていた君との口づけに、ときめきを解き放つ。君が好き、君が好き。溢れる思いをもう止めない」

「『草原の乙女』の歌詞」

「うん。今の僕の気持ち」

「愛してくれてありがとう。私も武瑠君のこと大好きよ」


 ―帰りの電車の中。二人は隣り合って座りました。―

「サンザちゃん、お兄ちゃんが好きじゃったんじゃろ」

「え?」

「サッカーの試合、見に行っとったよね」

「見つかっとったん? というか、その頃から私のこと知っとったん?」

「だって、僕、小学校のとき、塾キャンプについて行ったときから、サンザちゃんのこと、ずっと好きなんじゃもん」

「え、小学生のときから? あの時、あそこにおったん?」

「うん。三佐子さんがメガネかけとったのも知っとるよ」

 ―高校生の私が中学生の山翔君を好きになった日、小学生の武瑠君が私を好きになっていたということみたいです。―

「あの頃から、ずっと、きっと今もお兄ちゃんのこと好きなんじゃろ?」

「何、言いよるん」

「ええよ。好きなままで」

「じゃけ、何を言いよるんかって」

 ―私は激しく動揺しました。抱えたままの迷いを、このタイミングで武瑠君に引っ張り出されるなんて。そして、電車が矢野駅につきました。―

「ばか!」

 ―私は電車を降りると、武瑠君を振り切り、逃げるように走って行きました。たぶん、泣いていたと思います。武瑠君は、私のことを誰よりも大切にしてくれる人。武瑠君の優しい心に飛び込みたい。でも、そう思えば思うほど、山翔君の面影が重なる。私は自分の罪深さに耐えられなくなりました。―

「武瑠君のばか…私のばか…」

 ―極楽橋の上まで来ると、夜にも関わらず、蝉時雨が響きだし、通行人も自動車も消えてしまいました。橋の欄干を白い猫が歩いてきました。―。

「ぎふまふ…」

 ―そのオッドアイと視線が合うと、私の意識は遠のき、視界が真っ暗になりました。どれくらい時間が経ったのか、あるいはまったく経っていないのか。意識が戻ると、私は、家路を急ぐ人や車のライトの中、そのまま橋の上に立っていました。ぎふまふはいなくなり、指輪がなくなっていました。―


 画面は喫茶店の中に戻った。

 ―それが武瑠君の失踪の日の状況。私もどこで武瑠君がいなくなったのか、知らないのです。私は武瑠君に申し訳ない気持ちのまま、家に帰りました。翌朝から武瑠君と連絡が取れなくなって、連絡を待ったけど、かかってくるのは警察からの電話。怖くなって、スマホを持つのをやめたのです。塾長から知り合いにはそのことを言ってもらいました。本当は、捨てたわけでも、解約したわけでもなく、引き出しに入れて、毎晩、着信履歴だけは確認していました。―

 映像は徐々にブラックアウトした。


 ピコン! 新しいメッセージが届いた。

 ―ごめんなさい、ごめんなさい。やっぱり、こんな私が、山翔さんと結婚なんかしたらいけませんよね。私だけ幸せになったらいけませんよね。―

 「三佐子さん、それは違う。絶対に違うよ」と返信した。なぜか、既読にならないまま、次のメッセージが来た。

 ピコン。

 ―この動画、塾長のパソコンにあったんです。「三佐子の記憶」というファイル名が付いていました。同じフォルダに、「教皇昇天の件」という動画と「武瑠の記憶」という動画がありました。―


 ピコン。URLが送られてきた。

 それを押すと、「武瑠の記憶」という動画が始まった。今度のナレーターは武瑠だ。

 ―サンザちゃんは「ばか」と言って駅から逃げるように走って帰った。僕は追いかけた。サンザちゃんは極楽橋の上で遠い目をして立っていた。なぜか欄干に猫のぎふまふがいて、その目を見つめていた。近づいて、声をかけた。―

「サンザちゃん、さっきはごめん」

 ―サンザちゃんは気を失って座り込んだ。すると、体から半透明のサンザちゃんが抜け出した。しかも、二体。「武瑠の愛に応えようとする心」と「山翔の幻影に迷う心」が二つに割れて幽体化したものだった。―

 片方は欄干の上に立ち、片方がそれを突き落とそうとしている。

「ナム・アフ…山翔の幻影に迷う心よ、死んでおくれ」

 ―「山翔の幻影に迷う心」は両手を広げて、川に飛び込もうとしている。―

「サンザちゃん!」

 ―僕は、ダイブしたサンザちゃんの手を掴んだ。橋の下を見ると、何メートルもないはずの桁下に、底の見えない、黒い気が渦巻く大穴が口を開けていた。ぶら下がった女は眠ったように脱力している。幽体のせいか重さはないが、大穴に吸い込まれそうな体を必死に止めた。橋に残っている「武瑠の愛に応えようとする心」が叫ぶ。―

「逝かせてやって!」

「離せるわけないじゃろ!」

「その子は死んで、武瑠君を心から愛する私だけが残るけん!」

「何言いよるんや。お兄ちゃんを好きなままでええ言うたじゃないか。それも含めて、全部受け入れるけん。分裂するな!」

「そんなのあり得ん! それじゃ私が苦しい! 苦し過ぎる!」

 ―情念を露わに泣き叫ぶ幽体が、そばにいた猫にのり移り、その体を依代にして実体化した。すると、恐ろしい獣の顔に変わり、牙を剥いて僕の腕に噛みついた。―

鬼女姫(きじょひめ)!」

 ―それは、塾長の小説に出てくるサンザの別名。僕の腕は出血した。―

「やめろ!」

「そいつを殺せ!」

「ダメじゃ。元に戻ってくれ!」

 ―僕は痛みに耐えながら、眠ったまま吸い込まれそうな「山翔の幻影に迷う心」を橋の上に引き上げた。鬼女姫は優しいサンザちゃんの顔に戻り、僕の腕の傷口を舐めて止血した。―

「僕が諦める。追いかけ過ぎた僕が悪いんじゃ。サンザちゃんの心が分裂するほど追い詰めた」

「違う。悪いのは私よ。山翔君のことはもう何とも思うてない。この私は武瑠君を愛しとる。間違いなく愛しとるよ。信じて、信じて、信じて!」

「サンザちゃん! 分かった」

「武瑠君…愛しとるよ。武瑠君だけを」

「サンザちゃんが大好き。大大大好き!」

 ―泣きながら抱き合い、長い長い口づけをした。温かい光に包まれると、二人の体は軽くなって浮き上がる。どうしたことか蝶の姿になり、欄干を越えて黒い穴に吸い込まれた。恐怖も不安もなく、ただただ、幸福を感じていた。―


 壮絶な光景を見せられ、僕は肩で息をしている。

 三佐子さんも武瑠も純真過ぎる。

 僕という存在が、そんな二人を苦しめ、幸福を邪魔してきた。

 武瑠の失踪の意味も、三佐子さんの迷いも知らずに、三佐子さんに恋をして、三佐子さんと結婚しようとした僕。

 どれだけ鈍感で、愚かなのだろう。

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