14― 大人のかき氷・ブランデーみぞれ
七月十四日日曜日。
日付が変わった。
リンダさんが三佐子さんに言う。
「遅くなっちゃったね。三佐子、飲んだじゃろ。私、飲んでないけん、お母さんを送っていくわ。車貸して」
三佐子さんが「ええよ」と言って、鍵を渡した。
僕も一緒に帰るつもりで、立ち上がった。
「ヤマショウは、もうちょっと三佐子を手伝ってやってね」
片付けはほとんど済んでいる。三佐子さんが「なぜ?」という顔をした。
「お母さん、帰りましょう。それで、そのまま、お宅に私を泊めていただけません?」
僕は「え?」と言った。
「勇者ヤマショウ、鈍いのお! せにゃあいけんことがあるじゃろが」
…プロポーズ。
…そうそう。
母さんは「せにゃあいけんこと」を深読みし、「いや、それは…」と言った。リンダさんは「もう、大人ですから」と言って母さんの手を引っ張って店を出て行った。
店には二人が残った。
僕が声を出そうとすると、三佐子さんは冷凍庫を見た。
「氷、まだある。ねえ、かき氷食べん?」
…夜は長い。焦るな山翔。
「食べる。さっき食べられんかった」
旧式の機械に氷を挟み、手回しでかき氷を作る。
「大人のかき氷よ」
白いかき氷に、透明なみぞれシロップをかけたあと、洋酒を垂らした。
「ウイスキー?」
「塾長のブランデー。純喫茶じゃけんお酒は出さんし、塾長も私もあんまり飲まんけん、何年もここに置いてあった」
「ブランデーのかき氷?」
「思いつき。やったことない」
「チャレンジじゃね」
「うん。お兄さん、何時に岡山に帰るん?」
「明日中、ああもう今日か。今日の夜に着けばいいよ」
「じゃあ、寝坊しても大丈夫ね。店も昼から開けよう。不真面目な店じゃね」
三佐子さんは笑う。かき氷ができた。
「はい、ブランデーみぞれ」
テーブルの真ん中に、器は一つ。
「へえ。どんな味じゃろ」
一口食べてみると、頭にキーンときたが、ブランデーを感じない。
「もっと崩して、底の液体を一緒に掬ったほうがいい」
しばらく、二人でシャクシャクした。
「そういえばさ、かき氷の『みぞれ』って、粋なネーミングよね」
「そうじゃね。見た目も無色でシンプル」
「何の味なん?」
「冷コのガムシロップと、ほとんど同じ物らしいよ」
「へえ、そうなんじゃ」
「みぞれと時雨を間違える人おるよね」
「え、どう違うん。僕も分からん」
「時雨は練乳がかかっとるやつよ。いちご時雨とか抹茶時雨とかあるじゃろ」
「あ、そうか、言葉のイメージが似とるだけで、全然違うんじゃ」
他愛のない会話をしながら、みぞれの山を低くする。洋酒と混ざり、琥珀色に染まった氷を口に入れる。
「あ、お酒の味がする」
「美味しいじゃん」
「これ、酔っぱらうよ」
「水割り二杯分くらいはかかっとるけんね」
二人とも、ほろ酔い気分になっていく。
「夜メニューをやるとしたら、名物にしてもええかもね」
「三佐子さん、一人で夜までやったら死ぬよ」
「私、ずっと一人なん?」
…ん? これはパスかも。よし、ゴール狙うぞ。
「三佐子さん」
「ん?」
「これ」
「え?」
筆の里で別に買っておいた化粧筆を出した。
「三佐子さんにプレゼント」
「わあ、私に?」
「うん」
「ちゃんと化粧しろって?」
「違うよ。三佐子さんは、何もせんでも綺麗じゃけん」
「お兄さんには、素直に『ありがとう』と言おうか」
「本当は指輪を出すところじゃけど、今日、これを言うことになるとは思ってなかったけん」
「はい…」
深い息を一往復。
「三佐子さん。結婚してください」
三佐子さんは泣きそうな顔になった。
「ダメ?」
「ダメじゃないよ」
「ええん?」
「うん。ありがとう。私でよければ」
「やった!」
三佐子さんの頬をポロポロと涙粒が流れた。
「三佐子をよろしくお願いします。山翔さん」
「初めて、名前を呼んでくれたね」
三佐子さんは、視線をかき氷の器に反らした。
「伊藤山翔のこと、ずっと好きじゃったんよ」
「え。…それは、僕がこの店に来たときからということ?」
「あの時はびっくりした。電撃的じゃった」
「一瞬、目が合うて固まったよね」
「気が付いとった? あの日、これっきりにならんように、必死でおしゃべりしたんよ」
「ああ。初めての客に、えらく厚くもてなしてくれるなあって思うたよ。それに普通、お客と一緒に食べんよねえ」
「そうか。『自然に自然に』思うとったんじゃけど、やっとること滅茶苦茶じゃね」
「そんなに必死そうには見えんかったけどね」
「そう? それと、あのときのカレーに魔法をかけたりしたんよ」
「『おいしくなれ』って呪文唱えるんじゃろ?」
「ふふ、いつもはね。でも、あのときは『これを食べた人、私を好きになれ』って。魔女でも何でもない、ただの乙女よ。恥ずかしい」
「そうじゃったんじゃ。でも、速攻効いとるじゃん」
「私のこと、あざとい女じゃ思うたじゃろ。思わせぶりなことばっかりして」
「ちょっと思った」
「ごめんね。好きになってくれたのは感じとったんよ。でも、アクセルとブレーキを同時に踏んどる感じじゃった」
「武瑠の兄じゃけんね」
「…」
「…」
「それは確かにブレーキじゃった。行方不明の彼氏のお兄さんと付き合うって、サイテー女じゃろ」
「うーん、そういう言い方をしたらねえ。それでもアクセルを踏んでくれたん?」
「このチャンスを逃したらいけんって、前の晩に、夢で塾長が言うたんよ」
「心病みの落ち武者の夢?」
「そうそう。叔母さんの占いで『運命の人が現れる』言われてたところに、その夢。落ち武者が山翔さんだと分かって、心臓がバクバクした」
「武瑠の兄じゃけん?」
「それは違う。私、山翔さんが中学生のときから、山翔さんのこと好きなんじゃもん。ずっとずっと大好きな人が、運命の人として現れたんじゃもん」
「え、中学! どういうこと?」
「私は高校生じゃった」
「どこで会うとったん?」
「塾のキャンプがあったじゃろ。覚えとらん?」
「あった。一回だけ」
「そう、一回しかなかった。あの時、肝試しで、ぽっちゃりメガネの女子高生をおんぶせんかった?」
「した。覚えとる。足挫いたけん、僕が背負うた」
「あれ、私」
「ええ? まさか」
「塾OGとして、手伝いに行っとったんよ。もう一人の女子高生はリンダ」
「二人とも顔を覚えとらん」
「塾生の男子は、みんな美人のリンダをちやほやしとったのに、山翔さんだけは私を気遣ってくれたんよ。おんぶまでしてくれて、年下の男の子に、乙女の恋心は真ん中を射抜かれたよ」
「そんなつもりは…」
「そうよね。サッカー一筋じゃったもんね」
「言うてくれれば…」
「ぽっちゃりメガネの女の子には勇気がなかった。言うても笑われるだけ。絶対に言わんことにした」
「絶対に…」
「山翔さんが高校生のとき、こっそり試合を見に行っとったんよ。ストーカーじゃね」
「知らんかった」
「いつも、後半の終わりごろに出てきて、走り回るんよね」
「持久力がないけんね」
「そういうことじゃったん? 私の王子様は最後の切り札。かっこえかった。決勝ゴールを決めたことがあったよね」
「ああ、あった」
「キャーキャーのキュンキュンじゃったよ」
「言うてくれれば良かったのに」
「七海ちゃんと付き合うとったじゃん」
「そうか、それも知っとったんよね」
「何でも知っとったよ。ストーカーじゃけん」
「そんなに、僕のことを?」
「うん。好きで好きで堪らんかった。自分でも変じゃ思うよ。年下の男の子にお熱を上げて、告白するでもなく、諦めるでもなく、ずっと、ひっそり片思いしとるなんて。気持ち悪いじゃろ」
「三佐子さんなら、気持ち悪いとは思わんけど」
「そう? なんて言えばええんじゃろ。アイドルのファンみたいな感じとも違うんよね。結ばれたいという気持ちはあるんよ。ほかの男の子には、全然興味を感じんし」
そこに、どうやって武瑠が入ってきたのか。気になるが、今は聞かずにおこう。
「男の人に告白されたことはあるんじゃろ?」
「うん。何人も」
三佐子さんはペロっと舌を出した。冗談っぽく言ったが、たぶん、一人や二人じゃないと思う。武瑠もその一人なのか。なぜ、武瑠を選んだのだろう。
「私ね、あのキャンプのあと、綺麗になりたい思うたんよ。山翔さんを振り向いてほしかったんかね。片思いでええ言いながら、矛盾しとるよね。山翔さんが、広島からおらんくなってからも、ずっと思うとったよ。山翔さんを好きな自分が一番好き、というか。そこから外れることを、私の心が許さない、というか。ほかの男性に気持ちを許したら、私が私でなくなる、というか」
「うー、僕にとっては知らん人なんじゃけん、振り向きようがないじゃん」
「そうじゃね。奇跡を待っとったんかね。ダメならこのまま枯れてもええって…」
「やっぱ、ちょっと怖いんじゃけど」
「ごめんごめん」
「僕以上の恋愛音痴じゃ思う」
「はは、そのとおり、ただの妄想癖。岡山に行ってからは、姿を見ることもできんかったけん、武瑠君がおらんかったら、山翔さんのことも忘れとったかもしれんよ」
…兄弟で三佐子さんの心を振り回したんだな。
「やっと会えたけど、現実の山翔さんと、心の中の山翔さんは違うかもしれんよね」
「違うとった?」
「ちょっとね」
「どんな風に?」
「硬派なスポーツマンじゃ思うとったけど、軟派でエッチじゃった」
「なんなんそれ」
「出会うて三日で襲われそうになった」
「くさやの日。ごめん。さすがに早過ぎたね」
「いや、うれしかったよ。部屋がくさやのにおいじゃなかったら」
「え、そういうことじゃったん?」
「やっぱりこの人が好きって思うた。この人にならありのままの自分をさらけ出せる。この人に甘えたいって…」
「甘えてええよ」
「…」
「…」
見つめ合った。
「三佐子…」
「山翔…」
抱きしめようとしたとき、バチッと静電気が飛んだ。。
リーーン、リーーン…。
店の黒電話が鳴った。三佐子さんが電話に出る。
…なんて意地の悪い。馬に蹴られて死んじまえ!
しかし、深夜の電話、ただ事ではないようだ。三佐子さんは険しい顔になり、暗いトーンで「はい、はい」と言っている。
「分かりました。すぐに行きます」
そう言って受話器を置いた。
「お兄さん…」
…さっき、名前を呼んでくれたのに、「お兄さん」に戻ってる。
「誰から?」
「病院から。塾長の容態が…。お母さんに電話して、リンダを呼び戻してくれん?」
「そうなん。分かった」
母さんの携帯に電話して、リンダさんに迎えに来てもらうように言った。
十分後、ぎふまふ号のライトが店の窓を照らす。三佐子さんと二人で外に出る。運転席にリンダさん、助手席に母さんもいる。後部座席に乗って出発した。
海を渡る海田大橋。真夜中のハイウエイにオレンジ色の照明が緩いカーブを描いている。
「山翔さん、ちゃんと言うた?」
リンダさんが僕に聞く。
「言うたよ!」
「そう。三佐子、えかったね。塾長に報告しようね」
「うん」
「間に合いますように!」
リンダさんはアクセルを踏み込んだ。三佐子さんは僕の手を強く握った。
病室に着くと、医師と看護師がついていた。
医師が言う。
「間に合いましたよ」
「塾長!」
「昨日のお昼くらいに、ものすごく夢を見ていたらしくて、体を動かそうとしたり、声を出そうとしたりしたんです」
「何か言ってましたか」
看護師さんが答えた。
「ああ、『ここじゃ』って言われました。あと、お経のようなことを」
「やっぱり、あの時、塾長も極楽天神に来とったんじゃ」
僕の言葉、三人には意味が分かるはず。
「塾長、ありがとう。私、山翔さんに見つけてもろうたよ。リンダも帰って来たし、武瑠君にも会えた」
塾長が微笑んだ。
医師が脈を取って、時計を見た。
「七月十四日、午前二時二分。息を引き取られました」
「塾長」
酸素吸入器を外してもらうと、三佐子さんとリンダさんはすがりついた。医師と看護師は席をはずし、しばらく泣いた。
リンダさんが話す。
「私は、アメリカで生まれて、父親が死んで、十二歳で母と二人、母の故郷に帰って来た。二十歳のときに母も死んでしまい、塾長がいろいろ面倒をみてくれた。三佐子の身寄りも血の繋がっていない叔母さんだけ。血縁者の少ない二人にとって、塾長はお父さんじゃった」
母さんが「三人は家族じゃったんじゃね」と言う。
「はい。こんな生い立ち、あんまり話したことないんですけど、武瑠君はそのことを知っていて、子どものくせに優しくしてくれました」
「武瑠が?」
「私たちにとっても弟でした。塾長とは師弟関係というか、妖しい研究仲間。二人にしか分からない世界を共有してたみたいです」
「私も山翔も知らんところで、武瑠は成長しとったんですね。そして、愛されていた。皆さんのお陰で、あの子は幸せじゃった」
母さんの言葉で、三佐子さんの切なさが溢れ出た。
「お母さん、武瑠君を守れなくてごめんなさい」
「思い出させて、ごめんね」
母さんは、三佐子さんを抱きしめた。
「これからは山翔をよろしくね」
「先にお母さんに報告しなきゃいけませんでした。はい、さっき、山翔さんから、結婚してほしいと言われ、お受けしました。お母さん、私が山翔さんのお嫁さんになることをお許しください」
「ありがとう。三佐子さん」
四人は塾長の遺体からカラス天狗が抜け出すのを見た。カラス天狗には羽根がある。天使のように羽ばたきながら、昇天していった。
相談室に呼ばれ、遺体の引き取りや葬儀社の手配などの説明を受けた。
午前四時、車で一旦帰る。海田大橋を東に向かうと、空が薄明るくなってきた。
運転しながら、リンダさんが言う。
「ほのかに明るくなっとる。東雲いうんよね。武瑠君と塾長はこの世におらんくなったけど、残された私ら、確実に夜明けに向こうとる」
「リンダ、帰って来てくれて、ありがとう。リンダがおらんかったら、こうならんかった」
「ほんまよ、三佐子。自分だけ幸せになって」
「リンダ、妬いとる?」
「真夜中のケトル。と言いたいが、東雲のケトル、ほのかに妬けとる」
「ちょっと捻り過ぎて分からん」
聞いていた母さんが言う。
「楽しい二人ね。二人ともお嫁さんにほしいわ」
「三佐子には、漏れなくリンダがついてきます」
「それはお得過ぎるわ。それなら、山翔は帰って来んでもええかも」
「母さん、それは変。じゃあここで重大発表するけど、僕、三月で警察辞めて、広島に帰ろうと思う」
「え!」
「え? 聞いとらん」
「三佐子も知らんかったん。ヤマショウ君、なんでそれをプロポーズのときに言うとらん。恩師を見送った帰りの車じゃ、三佐子も素直に喜べんじゃろうが。ヤマショウ、この件については、また後日改めてということで」
「はい。すみません」
「ヤマショウ、やっぱりズレとるで」
車中は和んでいた。
塾長の死は、ある程度覚悟していたが、黙っていると、いろんな思いが押し寄せる。今は、こうやって、いろんな話をしている方がいいのかもしれない。きっと、塾長もそれを望んでいる。
結局、全員うちに泊まることになった。
二十四時間近く、眠っていない。交代でシャワーをする。また、短いジャージに着替える。案外、気に入ってるのかも。
「みんな、お昼まで寝てええかね」
母さんが言うと三佐子さんが「店、休みます。日曜日なんで、大丈夫です」。
「じゃあ、爆睡大会ね。あんたら二階に寝んさい!」
母さんが僕と三佐子さんにそう言う。
「ベッド、シングルじゃけど」
「知らん。その方がええんじゃないん?」
三佐子さんを連れて、二階に上がり、エアコンをつけた。
狭いベッドに転げ込み、ギューッと抱きしめた。深呼吸をして、唇を近づけた。
「ダメ」
「ダメ?」
いつかも同じようなことがあった。
「塾長が見よる」
「マジで?」
「うそ」
そう言いながら、潜り込むように僕の胸に頭を擦りつけてきた。髪の匂いを嗅ぐように頭を抱くと、三佐子さんは軽い寝息を立てていた。
…今夜は眠らせないよ。
そんな言葉でラブシーンに突入したいところだが、「塾長が見よる」という言葉が強いブレーキをかける。
…ここで、そういうこと言うかなあ。ガードが堅いのか、ズレてるのか。まあ、疲れてるよな。
もう、窓の外は明るくなっている。僕のエネルギーもエンプティだ。腕枕に幸せそうな三佐子さんの寝顔を見つめ、軽く口づけして、目を閉じた。
夢に、この二週間の記憶が蘇る。
岡山から帰って来て、気まぐれで純喫茶ぎふまふに入り、三佐子さんに出会ったこと。店を手伝い、いろんな料理を一緒に作ったこと。ハーブ畑でお結びを食べたこと。激痩せのリンダさんが帰って来たこと。技能実習生と工場長の誤解を解いたこと。母さんと四人で一緒の夢を見たこと。武瑠が夢に出てきて、現実にも現れたこと。三佐子さんと婚約したこと。塾長が亡くなったこと。
毎日、何かが起こった、濃過ぎる二週間。忙しかった。僕が帰って来るのと、自分の寿命に挟まれた時間で、塾長は三佐子さんとリンダさんを幸せにしなければならなかったんだ。
本当に昼まで寝た。
母さんがカップラーメンを出してきた。
「たまにはええじゃろ」
三佐子さんは意外にも「実は大好き」と言う。
「カップ麺は、偽物の麺じゃないんよ、それはそれで本物なんじゃと思う」
「料理の話をする三佐子さんは、熱いね」
僕が言うと、「もう」と言って、僕の背中を拳でトントン叩いた。
「二人が熱いわ」
「リンダが妬いとる」
「真昼のケトルが沸騰しとる」
四人でカップ麺を啜る。
…この四人で新しい家族を築くのかもしれないな。
塾長の葬儀について話す。
火葬場での家族葬として、三佐子さんとリンダさんだけが立ち会う。火葬は火曜日。僕も行きたいが、復帰二日目では休みにくい。後日、お仲間を呼んでお別れ会をすることにした。それはエンディングノートに書いてあったらしい。
夕方の新幹線で、岡山に帰る。三人が送りに来てくれた。
「一時間もかからんのに、遠くに行くみたいじゃんか。休みにはできるだけ帰るし」
「ヤマショウ。三佐子はもう一生分、辛い思いをしたんじゃけん、これ以上寂しくさせたら、このリンダが許さんよ」
「御意御意」
「御意は一回!」
岡山に向かう新幹線。明日は岡山の職場に出なければならない。そんなことを考えると気が滅入るかと思ったが、精神状態は安定している。
岡山に帰って、寮に戻る。離れていたのは、わずか二週間である。何もなかったかのように、日常に戻った。
県警では、病気に配慮され、原則、定時勤務とされた。そこまでしなくていいとは言ったのだが、泊まりのローテーションからも外れ、土曜と日曜は基本的に休みとなる。極めて健康なので、同僚には申し訳ない。
間もなく、交番時代の上司が心配して訪ねてきてくれた。もう、退職している。
「あんたは刑事にゃあ優し過ぎたんかもしれんが」
「ご期待に添えずに、申し訳ありません」
「いやいや、一回や二回けっぱんずいても、大丈夫じゃが。優しさは警察官に一番大切なことの一つ。しかし、タフさやこも身に着けた方がええなあ。はあ、メンタルは大丈夫なんか」
「大丈夫です」
「そうか。優しい刑事にも使い道はあるけえ、せわーねーわな」
…退職されてから、岡山弁がきつくなってる。イマイチ、何を言っているのか分からない。
「実は来年の七月に結婚することになりました」
「そうか。それはおめでとう。相手は岡山の人か?」
「いえ、広島の女性です」
「こっちに嫁に来てくれるんかい」
「いえ、僕が帰ろうと思うんです。まだ、職場には言ってないんですが、三月で警察を辞めて」
「はー、ほうか。まだ諦めるのは早いがあ。うーん。まあ、自分で決めたんならしゃーねーわなー」
「ささやかですが、パーティを開きたいと思うので、その時には、広島に来てくださいね」
「もちろん、行かせてもらうが」
四十九日が過ぎた九月の始めのこと。純喫茶ぎふまふで、お別れ会が開かれた。塾時代、喫茶店時代、コスプレイベントのときの山伏の写真が飾られた。線香は焚かず、コーヒーの香りを漂わせる。店の常連さんや、塾の卒業生、小説のファンが次々と集まる。三佐子さんとリンダさんが、黒い服を着て迎え入れた。僕も、その後ろに立った。用意したパイプ椅子がいっぱいになり、外に立っている人もいる。
三佐子さんが「送辞」を読む。塾長の人柄を偲び、感謝を述べた。参列者から嗚咽が漏れる。最後に、「場違いとは存じますが」と、僕と婚約したことを発表した。
会が終わって、帰る参列者から、三佐子さんと僕は祝福を受けた。
ただ、あのコスプレイベントのメンバーは複雑な表情。武瑠と三佐子さんが付き合っていたことを知っていて、武瑠がいなくなってすぐ、うちにお見舞いに来てくれた人たちなのだ。武瑠が行方不明のまま、その兄と婚約というのは、確かに納得しかねるであろう。メンバーの一員であったリンダさんが、彼らを集めて何かを説明した。すると、僕と三佐子さんの前に来て、笑顔で声を掛けてくれた。
「サンザちゃん、おめでとう」
このメンバーは三佐子さんのことを、サンザを呼ぶようだ。
「山翔さん、サンザちゃんを幸せにしてくださいね」
「努力します」
「努力じゃダメですよ。必ず幸せにしてください」
「あ、はい。必ず幸せにします」
三佐子さんが携帯電話の契約をしたので、チャットしたり、写真を送り合ったりできるようになった。
三佐子さんには喫茶店の近くのマンションに、お母さんが購入した部屋があった。お母さんが亡くなってからは三佐子さんが一人で暮らし、リンダさんと一緒に暮らしたこともある。リンダさんに喫茶店の三階を譲り、三佐子さんはマンションに戻ることになった。結婚したら、僕にとってもそこが「自宅」になる予定だ。
リンダさんは喫茶店の手伝いをしながら、しばらくは国内で写真家活動をすることにした。グエンさんたちの結婚パーティで、撮った笑顔がきっかけらしい。そして、月に一回、僕が広島に帰ると、「私が店番しとくから、二人でデートしておいで」と言ってくれる。
近場ではあるが、軽バンぎふまふ号でドライブをした。店に縛られて、観光地などに出かけることの少なかった三佐子さんは、車窓に映る何気ない景色にも、感動してくれた。宮島、三段峡、錦帯橋、あちこちの海、山、川、道の駅…。
行く先々で、料理を食べたり、食材を見たりして、研究をしている。車の中ではいつも、食べ物の話。本当に楽しそうに、熱心に話す。
実は、刑事復帰後、いくつか手柄を立てていた。健康上の配慮から内勤が多くなった自分は、以前から集めていたいろんな団体の名簿を、辛抱強く突合させて調べた。そこで、改名を重ねている反社団体の幹部とある有力議員が高校時代の同級生であることを突き止めた。その後、名簿の見方のコツのようなものが分かり、いくつもの裏の交友関係をリストアップすることができた。
…休んだ二週間の間に、勘というか閃きというか、刑事としての嗅覚が鋭くなった気がする。
三月で退職したいと、あの笑わない係長に申し出たところ、強く遺留された。その後、課長から「あの係長は絶対にお世辞など言わない人だ。本気で君を有用な人材だと思ってるんだと思うよ。私もそう思う。県警として有能な刑事を失うことは、とても残念だよ」という言葉をもらった。
決心は変わらないが、自信ができた。
…三月末までは一生懸命、頑張ろう。
僕は三佐子さんの出自を何も知らない。結婚するにあたり、お許しを得るべき人はいないと言う。生い立ちを少し話してもらった。父親は知らないそうで、お母さんも早く亡くなり、お母さんの弟夫婦に面倒をみてもらったとか。とても幸福とは言えない成長期を過ごしていた。結局、武瑠とのことは聞けないままだが、武瑠の分も合わせて、僕が三佐子さんを幸せにする。そう心に誓った。




