11 ローリエとオリーブオイルの軟膏
七月十一日木曜日。
いつものように、六時に喫茶店に着いた。
「おはよう。魔女様」
「おはよう。勇者様」
昨夜、リンダさんと積もる話をして、涙を流したのか、少し瞼が腫れぼったい。
「昨日、リアルな夢を見た」
「どんな夢?」
塾長が「極楽天神、魔女の呪文、教皇の鍵」と言ったことを話した。三佐子さんは「魔女は私? 教皇はリンダ? 極楽天神を見つけて、私の呪文とリンダの鍵があれば、何かが起こるということなんかね」と、数秒首をひねり、話題をかえた。
「今日は、モーニングの常連さんが終わったら、店を閉めて、リンダを塾長に会わせに行くけんね」
「分かっとるよ」
「あ、それでネクタイしとるんじゃね。しかし、お見舞いに赤かあ」
「変? こないだの紺色が見つからんのよ」
「いや、むしろええか。塾長を応援しに行くんじゃけんね」
七時に開店。工場長が来店。いつもと同じように挨拶はしたが、まだ、技能実習生のことは切り出せない。どんな顔をして良いのか分からないので、外に出て、もう一度、プランターに水を遣る。これまでは店の中で忙しくしている時間。徐々に駅に向かう人が増えていく。僕は見知らぬ通行人に「おはようございます」と挨拶をしていた。
「山翔君?」
声をかけられた。顔を見ると、高校のとき付き合っていた矢吹七海。大人の女性になっている。
「七海…」
「久しぶりじゃね」
「元気? あ、結婚したんとね。おめでとう」
「ありがとう。山翔君は、ここの三佐子さんといい感じだって、おばあちゃんに聞いたよ」
「じゃけ、違うんだって」
「いや、違わんと思う。女の勘を舐めたらいけんよ」
そう言って、いたずらな笑みを浮かべた。こないだのおばあちゃんとそっくりだ。
「三佐子さんには好きな人がおったみたいじゃけど」
「え?」
「ほら、気にしよる」
「かま掛けたな」
「そうじゃないよ。私には分かる。三、四年前かな。聞いても教えてくれんかったけど、あれは恋する女の顔じゃった」
…武瑠と付き合ってた頃かな。
「思い当たる節はあるんじゃけど、山翔君は聞いてない?」
意味ありげに、上目遣いで聞いてきた。
…もしかして、武瑠と三佐子さんのことにも勘付いてたのか?
「な、なんで、僕が知るわけないじゃん」
「そう、知らんのなら仕方ない」
…やっぱ、こいつ危ない。
言葉に出てしまいそうなので、話題を変えた。
「今から仕事?」
「うん。毎日、ここ通るんよ」
「そうなん。結婚しても矢野に住んどるん?」
「うん。旦那は大阪におるけん、実家から通勤しよる」
「いきなり別居?」
「今月の一日に籍入れたばっかりなんよ。お互いに仕事があるけん、まだ、一緒に住めんの。週末、交互に行き来する約束したけど、お金かかるけんそうもいかんかも」
「ふーん。週末婚か」
「そんなことより先に、相手が誰かとか気にならんのん?」
「あ? ああ、知っとる人?」
「もう、言わん。ヤマショウ、相変わらずズレとる」
「ごめん…」
「なんかこう、男女のことには鈍いんよね。昔から恋愛音痴」
…母さんが「誰が言ったか覚えていない」と言った「恋愛音痴」は、七海の言葉だったか。高校の頃、七海は母さんにも取り入っていた。
「自覚しとらんと思うけど、その鈍感なところが女心を引きずりまわすんよ。優しくして惚れさせといて、放置。悪いやつ!」
…放置って…。
笑って言ったが、冗談で言ったわけでもなさそうだ。
「ネクタイ姿、初めて見た。かっこええよ」
「そうか?」
「いつまでこっちにおるん?」
「今週いっぱい」
「やっぱり岡山に帰るんじゃ」
「うん」
「三佐子さんを放置して?」
「放置なんかせんって!」
「やっぱり好きなんじゃん」
「あ」
…三佐子さんが言っていた七海の誘導尋問。
「一緒におらんと、愛は薄れるよ」
「え?」
「私、あんなに山翔君のこと好きじゃったのに、広島におらんくなったら、あっという間に冷めたよ」
「そうなん。なんか、ごめんな」
「何を、今さら謝りよるん。好きなら、一緒におれる方法を考えんちゃい」
「うん」
三佐子さんのこと、認めてしまった。
「七海も離れて暮らしとるんじゃろ?」
「うちは大丈夫。ここ、赤ちゃんおるけん」
お腹を指さしながら、そう言って笑う。
「できちゃった婚」と言いそうになったのを押し止めた。
「行って来るね」
「幸せにな」
「うん、ありがと。山翔君もね」
「うん、ありがと」
…よく気が付くいいやつ。友達としてなら、ずっと付き合っていけるんだけどな。
高校の終わりの頃には、七海の気持ちが重荷になり、会うのが億劫になっていた。岡山の大学に行きだしてからは会えなくなり自然消滅した。明確な別れの儀式は行っていない。
九時までの常連さんがひと通り現れて、帰って行った。
店を閉めて、三佐子さんは着替えのために三階に上がった。そして、リンダさんの手を引いて、階段を下りてきた。三佐子さんは青いワンピース。リンダさんは茶色のノースリーブにカーディガンを羽織り、太めのスラックス。痩せ過ぎた体が分かりにくい。フェミニンな三佐子さんに、メンズっぽいリンダさん。腫れた瞼を隠すためにサングラスをかけると、ファッション雑誌から出てきたようにかっこいい。
「お兄さん、悪いけど、車を店の前に持って来てくれん?」
「ええよ」
キーを預かり、店の前に車を持って来ると、二人とも後部座席に乗り込んだ。
「僕が運転するのはええけど、助手席が空いたら、タクシーの運転手みたいで寂しい」
「私が横に座ったら、リンダが妬くけん」
「なんで、ワシが妬く! そりゃあ、三佐子じゃろが」
「真夜中のケトル」
三佐子さんの顔が赤くなりでもしたのか、リンダさんが冷やかす。
「おお、ケトルが沸いとるで。勇者ヤマショウ、モテるのお」
リンダさんは運転席の背もたれごしに、僕の背中を足で強めにつついた。
「あ、リンダが蹴っとる」
おふざけが止まらない。
「あんたら、ほんま、中二病じゃの」
「ワシゃあ、躁うつ病ようね。そりゃあどうでもええが、勇者の広島弁、きつうなっとるで。おっさんみたいなど」
「塾長仕込みじゃけえのお」
…塾長の講話のメニューの一つに広島弁講座があった。
「おお、怖! やーさんみたいなど」
「いやいや、リンダさんの広島弁の方が、だいぶん濃いいで。さっきから、『ワシ』言うとらんや? 女子は『うち』言わんにゃ」
「ワシゃあ、ハワイからの帰国子女でがんすけんの」
「出た! がんす! 伝説の広島弁じゃ」
「知っとるか知らんかしらんが、県人会の人らは今の県民より、ほんまの広島弁を喋りよりますで」
三人は車の中で、声を上げて笑った。
三佐子さんとリンダさん、一人ずつはちゃんとした大人なのに、二人揃うと子どものようにはしゃぎだす。たぶん、昨夜は二人で、この感じを取り戻していたに違いない。リンダさんは昨日までとは比べものにならないほど元気そうになっている。
さすがに病院の敷地に入ると、静かになった。駐車場に車を止めて、サングラスを外して、病棟に向かう。リンダさんの瞼は三佐子さん以上に腫れている。
塾長の病室。リンダさんがベッドに駆け寄る。
「塾長!」
酸素マスクに口を覆われ、どこに繋がっているのか、管が何本も…。
「塾長。私よ。リンダ、林田美沙子。分かる?」
手を握って、語りかける。
「心配かけて、ごめんなさい」
「…」
「もう、何も分からんのん? 意識があるうちに、話がしたかったよ」
「塾長、聞きよるよ。話してみんちゃい」
「私ね、週一の塾長講話が大好きじゃったんよ。世界の話、歴史の話、科学の話…。ワクワクしながら聞きよった。先生の話で写真始めたんよ。『写真は人類最高の発明。真実を写し、世界に届ける。未来に届ける。人の心に届ける。その時、写真は、真実の裏にある物語をも記録する。塾長、私まだ、真実の裏側にある物語を、人の心に届ける写真が撮れん」
「…」
「え? 塾長、何か言うた?」
…テキトーに頑張れ。楽しく頑張れ。
塾長の心の声が、リンダさんと、僕と三佐子さんにも聞こえた。
「リンダ、塾長の言葉、聞こえたね。良かったね」
「うん」
リンダさんの腫れぼったい瞼から、涙が滝のように流れ出した。首に下げたペンダントを、胸から引っ張り出して握る。
「塾長、もう死にたいとか言わんけんね。三佐子と一緒にテキトーに頑張るけんね」
三佐子さんも泣いている。僕も我慢できなくなった。塾長は半透明のマスクの下で笑っているような気がする。
主治医の先生が「菊池さんの脳は引き続き、活発に動いているようです。夢の中で、誰かと話しているのでしょうかね」と言う。三佐子さんが「私たちの夢に出てきてますよ」と答えると、先生はちょっと「気持ち悪い」と言いたそうな顔をした。
僕にはもう一つ気になることがある。
「リンダさん、そのペンダント」
「あ、私のロザリオよ。心を決めるときに握って、勇気をもらうの」
ロザリオといえば、普通は十字架だが形が違う。
「それ、鍵じゃろ」
「そうよ。純喫茶ぎふまふの鍵よ。バイト時代から預かったまま」
「店の鍵?」
「うん。あの建物は私の原点。塾時代は帰国子女で友達のいない私を、温かく迎え入れてくれた。塾長と出会い、三佐子と出会い、私は勇気をもらって飛び立った。私、弱いけん何度も死にたくなったけど、私には帰るところがある。鍵がそのことを思い出させてくれるんよ」
三佐子さんも知らなかったようだ。
「今はもう、その鍵は変わっとるんじゃけど、古い鍵じゃけんこそ意味がある。大切な鍵じゃね」
…きっと、これが教皇の鍵だ。
リンダさんにも、昨夜の夢のことを話した。
病院を出るとき、三佐子さんが「リンダにもハーブ畑を見てほしい」と言い出した。「じゃあ、着替えなきゃ」ということになり、店に帰って、二人は作業着に着替えた。畑に行く途中、僕の着替えのために、家に寄る。
母さんが出てきて、「三佐子さんのハーブ畑? 私も行ってええかね」と言う。三佐子さんが「どうぞ、どうぞ」と答え、四人で軽バンに乗った。運転は僕、助手席に三佐子さん、後部座席にリンダさんと母さん。
三佐子さんがリンダさんに母さんを紹介する。
「リンダ、山翔さんのお母様よ」
「こんにちは。君島三佐子の友人の林田美沙子です。よろしくお願いします」
「こんにちは。山翔と武瑠の母です。こちらこそよろしく。へえ、二人ともミサコさんなんじゃ」
「そうなんです。菊池塾のときから仲良しで、いつも一緒だったので、塾長が私をリンダ、こっちをサンザと呼んでたんです。私は三佐子と呼んでますけど」
「はあはあ、林田さんじゃけん、リンダさんなんじゃね。細いわね。モデルさんみたい」
「母さん、その話は」
「いいんですよ。ちょっと精神疾患で。でも、三佐子と山翔さんのおかげで、ご飯も美味しく食べられるようになったんですよ」
「あら、知らぬこととはいえ、ごめんなさいね」
「大丈夫です」
母さんもリンダさんの手首の包帯に気付いた。
ハーブ畑に着いた。ニュータウンの僕の家からは近い。
四日前に、三佐子さんと幸せな時間を過ごした場所だ。
母さんが驚いたように言う。
「わあ、きれい。これ、全部ハーブ?」
「野菜も作ろうとしたんですけど、月に二回くらいしか来ないので、ほったらかしにできるハーブだけです」
「それでも、これだけ面倒みようと思ったら、大変じゃろ」
「ええ、実は、奥の荒れ地も塾長が買った土地なんですよ。こっちの倍あります」
僕が割って入った。
「へえ、人手さえあれば、いろんなことができるのにね。ハーブ商品のネット販売は、喫茶店の倍の売り上げがあるんだって。ね、三佐子さん」
「うん。だから、リンダやお兄さんが帰って来ても、仕事はあるよ。力仕事じゃけどね」
「面白そうじゃけど、私まだ、写真諦めてないけん。山翔さんだって、警察官じゃしね」
「ごめんごめん。例えが悪かったね」
「あの、私にやらせてもらえんかしら」
言ったのは母さんだった。
「武瑠君とお兄さんのお母さんじゃけん、塾長も喜ぶと思うけど、一人じゃ大変ですよ」
「うん。近所のお年寄りと一緒にやりたい。ここなら、団地から歩いて来られる」
「母さん、そんなこと手伝ってくれる人おるん」
「私、地域のお年寄りのアイドルじゃ言うたじゃろ。私が頼めば、草刈り機でもチェンソーでも、『よっしゃ』言うて担いで来てくれるおじいさんがいっぱいおるんよ。山翔と武瑠とリンダさんが帰って来たときの土地を、切り拓いとかんとね」
「え? 奥の土地を開墾するという意味ですか」
三佐子さんが驚いたように言った。
「うん。おじいさんいうても、七十代はまだまだエネルギーが余っとるよ。たぶん、みんなイキイキしてやってくれると思うわ」
「じゃあ、無理なさらない範囲でお願いします」
「ほんま? 切り拓いた後は、おばあさんらとも一緒に野菜作りたい。農協の理事もおるけん、栽培や販売も教えてもらえると思う」
「地元の人たちの役に立つなら、どうぞ、お使いください。塾長も本望でしょう」
「山翔もリンダさんも、今の仕事が嫌になったら、安心して帰っておいで」
「なんか、私の心配までしていただいて、ありがとうございます」
リンダさんがそう言うと、みんな笑った。そして、三佐子さんに解説してもらいながら、ハーブを収穫した。母さんもリンダさんも興味津々で聞いている。
リンダさんが、小屋の横に立っている木を見ながら言う。
「あの木、ローリエよね」
「そうよ」
「店に帰ったら、二階でやらせてほしいことがある」
「ええよ。私も今日は蒸留をするつもりじゃった」
そのまま四人で店に帰り、二階のハーブ部屋に上がった。
「なんだか気味悪くて、素敵」
母さんは、目をキラキラさせて驚いている。
「錬金術師の実験小屋らしいですよ」
三佐子さんは、黒いローブを羽織った。
「皆さんも着る?」
「着る着る」
四人の怪しい錬金術師ができた。
三佐子さんは、一番大きい銅製の蒸留器に精製水を注いでいる。四日前に収穫したセントジョンズワートを蒸留すると言う。
「リンダは何がしたいの?」
「ミキサーある?」
「ミキサー、ここでは使うことないけど、奥の大きい棚の中にあったような」
棚の扉を開けると、いくつかの機械類が入っていた。
「あったあった。動くかしら」
一緒に棚を開けた母さんが、手動のかき氷機を見つけ、「これ、使えるよ」と言う。「本当ですか。使ったことないんです。今度ぜひ、お願いします」と三佐子さん。
一方、リンダさんは、ミキサーのプラグをコンセントに差し込み試運転。
「動く動く。大丈夫みたい。オリーブオイルある?」
「下にある。お兄さん、取ってきてやってくれる?」
僕は店のストッカーからオリーブオイルを持って上がった。
リンダさんが、興味深い説明を始めた。
「中東にいたとき、『アレッポの石鹸』というものを知ったんです。素早く汚れが落ちて、お肌に優しい。通販やネットなら日本でも買えるみたいですけど、まだまだ一般的ではないですね」
「あ、通販番組で見たことある。アレッポって、あの辺の地名よね」
「はい。よくご存じですね。石鹸って、油脂とアルカリの化学反応でできるんですけど、油脂の種類はいろいろです」
「昔、公民館の環境講座で、揚げ物の残り油で作ったよ」
「それはエコロジーでエコノミーな石鹸ですね。アレッポの石鹸は、オリーブオイルやローリエオイルで作るんです」
「お料理の香りになりそう」
「確かに」
さっきハーブ畑で採ってきた、ローリエの葉を十枚ほどミキサーに入れる。
「で、この葉っぱを、オリーブオイルと一緒にミキサーにかけます」
オリーブオイルをミキサーに流し込むと、蓋を押さえてスイッチオン。
グオーーン!
「おお、懐かしい音」
ドロドロになっていく様子を見ながら、止めたり、点けたりを繰り返す。
「もう、いいかな」
蓋を開けると、ローリエの甘い香りが漂った。
「これが、アレッポの石鹸になるのね」
「いえ、アレッポの石鹸はオリーブオイルかローリエオイルで作るのであって、両方を混ぜたりはしないと思います。これは私の思い付きです」
「思い付きなの?」
「はい、やったこともありません」
「ここまでのこと、全部初めて?」
「はい。うまくいくかどうか、全く分かりません」
「リンダさんも面白い人」
「ありがとうございます。三佐子も似たようなものだと思います」
三佐子さんが蒸留器の滴りを見ながら、「こらー、聞こえとるよー」と叫んだ。
…行き当たりばったり。むしろ母さんに似てる。
「三佐子、これ、どうやって濾したらええ?」
「知らんよ。リンダがやり出したんじゃん。もう、全然、先のこと考えずに動きだすんじゃけん」
「そうか、考えて考えて、動かん三佐子とは、やっぱり似とらんね」
「何のこと? それね、コーヒーフィルターみたいなもんじゃ詰まって落ちんけん、ガーゼで濾して、沈殿させて上澄みを掬うしかないと思うよ」
「さすが、三佐子」
リンダさんは、三佐子さんの言うようにして、濃い緑色の油液を抽出した。
「ローリエの英語RAULELと、OLIVEのオイルじゃけん…よし、命名、RAULELOLIVEオイル!」
「ロレロレオイル?」
「それでもオッケーです。そんな感じです。しかし、これは意外に手間ですね。石鹸を作る量のオイルを作るには相当時間がかかります。方針変更、ソープは諦めて、オイントメントにします」
「オイントメント?」
「軟膏ですね」
リンダさんは、鞄から自分の使っている白色ワセリンを取り出した。スプーンで全部掬い出し、小さいビーカーに落とした。そして、鍋に水を張り、ビーカーを湯せんした。
「ワセリンって、湯せんで溶けるんですよ」
透明に液化したワセリンに、ロレロレオイルを垂らし込む。そして、軽く混ぜて、一気に白色ワセリンの元の容器に戻す。
温度が下がり、見る見る白濁していくが、しっかり固まるには時間がかかる。待てないリンダさんは、冷蔵庫に入れてしまった。
しばらく、三佐子さんの鮮やかな手際の蒸留作業を見学した。やはり、何かを呟いている。
「まさしく、魔女が怪しい媚薬を作っている光景じゃね。動画を撮ってアップしたら?」
リンダさんが冷やかすが、三佐子さんは集中している。
…邪魔せんの。
リンダさんには、僕の心の声は聞こえないようだ。
そして、最後の一滴が落ちるのと同時。
「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」
三佐子さんがついに、はっきりと声に出した。
「今のが呪文?」
リンダさんに聞いた。
「そうよ。塾長の小説の中に出てくるサンザの呪文」
…これが、塾長の三つのキーワードの一つ、「魔女の呪文」に違いない。
「サンザは、あの小説の中で、最もミステリアスな呪術師、別名、鬼女姫」
「鬼女姫。どんなことができるん?」
「人の記憶を操作する。記憶を消したり、偽りの記憶を植え付けたり…」
三佐子さんの作業が終わった。僕とリンダさんの会話は聞こえていなかったようだ。
「ふー」
「お疲れ様。いつも、ああやって?」
「うん。草を薬にするんじゃけん、心を込めなきゃね」
「高く売れるん?」
「一万円のエッセンシャルオイルも二百円の焼きそばも、同じように心を込めるよ」
「さすが、真心の三佐子じゃね」
「ありがとう。リンダも出来た?」
「いやあ。三佐子のに比べたら、私のはええ加減なものよ」
母さんが冷蔵庫からワセリンの容器を出して、蓋を開けてにおいを嗅いだ。
「リンダさん、ローリエの甘い、いい香りよ」
リンダさんは、指に取って、手に塗り込んだ。
「よく馴染む。とりあえず、成功」
三佐子さんも指で掬い、手のひらから手の甲に広げながら馴染み具合と香りを確かめる。リンダさんの手を取って、包帯の内側に優しく指を入れた。
「ワセリンはそれだけで保湿効果がある。オリーブオイルは皮脂に近い成分で、ローリエには炎症を緩和する成分があるんよ」
「さすが、薬剤師」
「これ、商品化できる」
「やった! 初めて、三佐子に褒められた」
三佐子さんが、軽バンに乗って母さんを送ってくれた。僕は自転車で追いかけた。
帰宅して、テレビを見ながら、母さんと今日のことを話す。
「リンダさんも素敵な人ね。愉快で明るい人みたいじゃけど、あの手首の包帯はもしかして…」
「うん、たぶんね。いい作品が出来んと、とことん落ちていくらしいわ」
「死にたいほど苦しいなら、やめりゃええのにと思うけど、そうもいかんのかね」
「僕のうつ病が初心者コースじゃと、三佐子さんの言うた意味が分かったよ」
自分の部屋で一人になり、塾長の小説の文庫本を出してみた。武瑠と三佐子さんのツーショットの写真が挟んであるページ。蒸留器の前で三佐子さんが唱えた呪文があった。
―ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!―
…何語だろう。しかし、たぶん、これが魔女の呪文で、リンダさんのロザリオが教皇の鍵なんだろう。あとは、極楽天神の場所だ。
同じページに栞代わりのタロットカードが挟んである。その図柄が、叔母さんの占いで出た「女教皇」だと気づいた。持っているのは剣でも十字架でもなく鍵だ。そしてまた、同じページに折り畳んだ紙が挟んであった。
…こんなものあったっけ。
開いてみると、地図だ。夢の神殿で見た古地図に似ている。
教皇は「地図はすでに勇者の手にある」と言った。女教皇のカードと一緒にあった。これがその地図ということなのだろう。イラストではなく、もとは写真のようだ。写真があるということは実在するということだ。A3くらいの大きさだが、文字はかなり小さい。鞄からルーペを持ち出す。一緒に入っていたデーツを食べながら、読んでみる。文字はほぼ仮名書きである。
「ちやや」は茶屋、昔の喫茶店。山中の「しろあと」は城跡で、海岸の「ふなたまり」は船溜まり、港のこと。「ちこくはし」、遅刻橋? そりゃないか。
探しているのは極楽天神だ。山の中に黒く塗り潰れた部分を発見した。よく見ると、手の形をしている。
…教皇が付けた血の掌紋?
一昨日の夢で、梯子に登って上の方に手形を押し、そこが極楽天神だと言った。これが矢野の地図で海が下にあるということは、上は南ということになるが、周りに目印となるものがない。手掛かりを探すと、比較的近い場所に、薄い小さな字で何か書いてある。「おんてん」と読める。
…温点、恩典、音転、怨天、御添…。
いろんな文字を組み合わせて考えているうちに眠くなった。ベッドに入る。
暗闇に塾長が病院着で立っている。酸素マスクを着けて、点滴のスタンドにもたれかかっている様子は、嘴のあるカラス天狗が錫杖を突いている姿に似ている。
「ヤマショウ、もう少しじゃ。ワシも最後の力を振り絞る」
「塾長! 魔女の呪文と教皇の鍵は、それらしいものを見つけたけど、『極楽天神』が分からない」
何か言いたげな顔をしているが、闇にフェイドアウトした。
極楽天神、夢では何度か現れたが、場所が分からない。ヒントは「おんてん」という場所の近くではないかということだけ。
夢の中の山道、どこだか分からない。僕が先頭を歩いている。後ろには三佐子さんとリンダさん、そして、母さんまでいる。
母さんと三佐子さんが話し出す。
「犬、猿、キジを連れた桃太郎みたいじゃね」
リンダさんが冗談っぽく、割り込む。
「桃太郎さん、桃太郎さん。桃太郎さんは三佐子を置いて、岡山に帰ってしまわれるのですか」
「そういうこと言うかなあ」と困る僕を見て、三人は笑った。
藪の中で、ゴソゴソと音がする。
「何かおる…」
三人の女性は、僕の影に隠れた。桃太郎、いや勇者ヤマショウとして、彼女らを守らなければならない。僕はその辺に落ちている木の枝を掴んだ。
…似たような光景があったよ。あの時は恐竜が出てきたが…。
出てきたのはイノシシ。牙のある大きなオスだ。猪突猛進、こちらに向かってきた。後ろの人たちを横に下げ、自分が進路に立った。向かって来る獣の眉間に木の枝を振り下ろす。
「面!」
打ったあと、左に避けて行き過ごさせると、イノシシは十メートルほど先で転倒した。
「チェストー!」
とどめをさしに行こうとすると、母さんが言う。
「無用な殺生はやめんちゃい」
イノシシが逃げて行った方向に、黄色い蝶が飛んでいる。
…シカがいれば、猪鹿蝶か。
過去にも蝶に導かれたことがある。蝶の方向に進んでみる。しばらく行くと、神社と滝が現れた。夢では何度か、訪れた場所。見るたびに大きくなっているような気がする。
神社の前をよくみると、ペットボトルほどの大きさで、よく見ないと見えないくらい透けている塾長が立っていた。
「七月十三日、正午…」
「七月十三日、正午。それが、事が起こる時刻なんですね」
塾長は消えた。
僕が「今日は何月何日?」と聞くと、三佐子さんが「七月十三日よ」と答えた。
僕は時計を見た。
…間もなくだ。
映像は、突然、途切れた。




