10%の嬉しさと、90%の。
シャロンは迂闊だった、と心の中でため息を漏らす。
この美しい男が自分のことでこんなに真剣になってくれるとは思わなかった。
(…ほんの少しでも心配してくれるといいな、と思った。なんて浅ましい女なんでしょう…)
恋は人を愚かにする。
10年前、彼女は初めてトラヴィスと出会った。挨拶をした。
初めまして、だけで終わった。何の変哲もない挨拶だった。
それだけの一瞬だった。
しかし一目見ただけで、幼いシャロンは恋に落ちた。
しかし、シャロンは王妃となる。生まれる前からすでにアンドリューとの婚約が決められていた。シャロンが王妃となることを、シャロンが愛する全ての人が望んでいたのだから。
過酷な王妃教育を、他に恋する男がいる状態で成し遂げられるほど強い人間ではなかった。
だからシャロンは自分の感情を完全に捨て去ることに決めた。自分は王妃になるために生まれてきた人間なのだからと。
けれども今、束の間ではあったとしてもシャロンは数奇な巡り合わせにより毎日楽しさに胸を弾ませて生きている。まだまだこの娼館でやりたいことも、やらなければならないこともある。
だからこそこれ以上、シャロンの感情を痛烈に揺さぶるような申し出は絶対に拒否したかった。
どうせフォンドヴォール家に戻ったら、また父の決めた相手と結婚か修道院だ。
彼と再会できた。これ以上は望みたくない僥倖だ。
「…わたくし、幼いころから過酷な王妃教育を受けてまいりました。でもそれが全て泡となり消えてしまいまして…」
トラヴィスが動きを止めシャロンをじっと見つめる。
話しているうちに、頰が赤く染まっていくのが自分でもわかった。
「幼い頃、一番欲しかったものをわたくし諦めましたの。けれども今、こちらで働かせて頂いて、みなさんの喜ぶ顔を見ることがとっても楽しいんですの。わたくし、毎日しみじみと感動なんかして。…わがままだとわかっています。近いうちに、必ず自宅に戻りますし、危ないことは致しませんわ。心配してくださるなら護衛も雇います。護身術や剣術も嗜んでおりますわ」
だから、もう少し、ここにいたいのです。
シャロンが瞳を潤ませてトラヴィスを見つめる。トラヴィスは天を仰いだ。
「…公爵家から一人、護衛の者をおつけします。そうしてあと、1ヶ月だけ。それでもよろしければ、今のところは私とあなただけの秘密にしたいと思います」
苦渋の末、腹から絞り出すような声を出したトラヴィスに、シャロンは思わず顔を上げた。
(…案外あっさり…マリーが言ってたチョロいってこういうことかしら)
それに拉致の件はシャロンも少し考えてはいたところだったのだ。
一応シャロンも護身術や剣術の心得はあるし、前回拉致した彼らはシャロンが一言声を発しただけで逃げた小物である。
これ以上公爵令嬢たるシャロンを害する気骨はないかと思うが、彼らは王家に連なる血筋の公爵令嬢を拉致すると言う大罪を犯している。いくら貴族とはいえ、通常であれば処刑は免れない。
シャロンは彼らの名前と顔を覚えている。
なにより名誉を重んじる貴族の彼らが口封じのために、シャロンを殺しにきてもおかしくはない。
フォンドヴォール公爵家に戻れば安全だろうが、まだ戻るわけにもいかない。
デュバル家が護衛をつけてくれるなら、これに勝る安心はない。ここまで真剣にシャロンの身を案じてくれるトラヴィスのことだ、きっと腕の良い護衛をつけてくれるだろう。
「本当に感謝いたします。わたくし、二人だけの秘密を持つなんて初めてです」
面映い気持ちにはにかんでトラヴィスの顔を見つめると、トラヴィスは苦虫を百匹噛み潰したかのような顔でシャロンを見つめた。
急いで表情を戻す。大昔の、ずっと前の、過ぎ去った過去の、思い人と再会し多少舞い上がってしまったようだ。
(流石に馴れ馴れしすぎました…わよね。気をつけないと)
自分を強く戒めるためにキュッと唇をきつく結んだ。
トラヴィスの顔はもう、見られなかった。