【3巻3/17発売記念SS】父と娘
明日3/17、コミカライズ用書き下ろしストーリーが始まる3巻が発売されます。
前回の番外編の続き、3巻が始まる当日譚。
妻と娘に弱い父の話です。
麗かな日差しが窓から差し込む、フォンドヴォール公爵邸。
両親と共に、いつもより早い朝食後のお茶を楽しんでいたシャロンは、目の前の窓ガラスにかすかに映る自分に目を向けた。
(――これで、大丈夫ですわよね)
今日これから、シャロンはトラヴィスに会うためデュバル公爵邸へと向かう。
三ヶ月ぶりの顔合わせに、そわそわと浮き立つ気持ちが落ち着かない。
(移動時間が長いから、お化粧は崩れないように薄く丁寧に施しました。髪も直しやすいように簡単に、けれど綺麗に整えていますし……)
義姉と二人で選んだ香水も、その時間を見越して調整してつけている。あちらに着く頃には、隣に並ぶと微かに香る程度になるだろう。
(トラヴィス様……)
まぶたの裏に愛しい人の姿を思い浮かべる。
きっと久しぶりの再会も楽しいものになるだろうと、思わず頬を綻ばせかけた、その時。
「良いか。くれぐれも、くれぐれもおかしなことをしないように」
浮き立つ心を引っ張るようなねちねちとした声が、シャロンの耳に響いた。
「公爵令嬢の戦場は社交界のみ。そのことをゆめゆめ忘れるな」
そう一切の信頼のない目を向けるのは、シャロンの父デリクである。
「たとえば。本当にたとえばだが。暴漢を見かけた際、けして自分で捕らえようとしてはいけないぞ。そういったことは婚約者殿の判断と、騎士に任せるんだ。これはあくまでもたとえで、危険の名のつくものすべてに適用される。お前のすべきことは他にもあるだろう?」
「勿論ですわ。その条件下で、わたくしが自ら暴漢を捕らえようとすることなどあり得ません」
小さくため息を吐きながら、シャロンが答えた。
「その場合、わたくしがすべきことはただ一つ。お忍びで城下へと出たならばともかく、トラヴィス様とわたくし、騎士がいる場に現れた暴漢……ともなれば、一般市民による犯行、と単純に切り捨てるわけにはいきません。組織的な犯行によるものかどうか見極め、もしもどなたかが裏で糸を……」
「違ァう!」
ダァン! と父が机を叩いた。
「そういう時は恐ろしさに震えながら、婚約者か父親の後ろに隠れるものだ! いや、震えなくともいい! 隠れていなさい!」
「まあ、無理ですわ。だってわたくし、そんな育てられ方をした覚えがございませんもの。染み付いた教育は変えられません」
頬に手を当てながらおっとりとそう言うと、父はぐ、と押し黙った。
王妃とは、常に毅然としていなければならない。
物心つく前から受けさせていた、そんな王妃教育を思い出したのだろう。
父はやましそうに目を逸らし、こほんと一つ咳をし……それから一瞬、目を伏せた。
「……いくら王命とはいえ。お前たちの相性も確かめずに、生まれる前から婚約を結んだことは悪かったと思っている」
しんみりとした声に、シャロンは少し目を見張る。
白いものが混じり始めた父の姿が、少しだけ小さくなったように見えたのだ。
「良かれと思う親心が、お前を傷つけてしまったことは事実だ。しかしだからこそこれからは、幸せに……」
「お父様」
父の言葉を遮り、シャロンは「わかってますわ」とにっこり微笑んだ。
「だからこそ、お父様はわたくしとトラヴィス様との婚約を認めてくださったのでしょう? わたくしの幸せのために」
「シャロン……」
「そんなお父様の血を引いているからこそ、わたくしも周りを幸せにしたいとついつい動いてしまうのですわ」
「シャロン……」
感動的な表情を浮かべ、まなじりに光るものを浮かべかけた父だったが――
「いや、アンドリュー殿下の件。拉致をされた当初己の手で黒幕を見つけようとしたのは誰かの幸せとは――……」
「あ、そろそろ時間ですわ」
流されてはくれなかったか。
さっくりと父の言葉を無視して、シャロンは席を立った。
先ほどから父娘の会話を、優雅に紅茶を飲みながら聞いていた母に向き直り、淑女の礼を執った。
「それではお母様。行って参ります」
「ええ。楽しんでらっしゃい」
そんな母娘の会話に、デリクが「シャロン!」と声をあげる。
「まだ話の途中だぞ! 怖いもの知らずのお前にはわからないかもしれないが、世の中にはか弱い少女には太刀打ちできない恐ろしいことがたくさんあって……」
「まあ、お父様」
シャロンはそっと頬に手を当てて、心外だというように眉を顰めた。
「わたくしにだって怖いものくらいありますわ。たとえば大好きなお父様の血圧が高くなって、お倒れにでもなってしまったらと考えると……まあ大変! 怒りすぎ、心配しすぎはよくありませんわ。そう思いませんか、お母様?」
「――そうねえ。それは確かに、心配ね」
そう言うと、父はぐっと言葉に詰まる。
割と雑な宥め方だったが、母が『心配』と言った以上、父は何も言えないだろう。
父は基本的にシャロンに甘いが、妻であるオフィーリアにはもっと弱い。
不承不承というように唇を引き結んだあと、大きなため息を吐き、「気をつけて行ってきなさい」と力なく笑った。
「無事に、楽しく帰ってきてくれればいい。デュバル公と、トラヴィス殿によろしく」
「……はい。行ってまいります、お父様」
思わず綻んだ頬をそのままに、シャロンはもう一度優雅に礼をした。
「楽しいお土産話を持って帰ってきますわね」
◇◇
「娘には勝てませんわね」
シャロンが去った後、妻であるオフィーリアがデリクの肩に手を回し、そう言った。
「私は妻と娘には一生勝てない……」
訂正をして項垂れるデリクに、オフィーリアがふふ、と笑う。
「しかしシャロンも、なかなか核心をついていましたわ。『そんなお父様の血を引いているからこそ、わたくしも周りを幸せにしたいと――』」
そう言ってデリクを見ると、彼はむっつりと黙っている。
これは照れた時の彼の癖で、こういう姿が見られるのはオフィーリアの特権だった。
「あなた、私へのプロポーズの時、『君を世界中の誰もが羨む幸せな女性にしてみせる』と、それはもう色々なことをしてくださいましたものね。大切な人のためなら何でもすると、シャロンと同じくらい、とても必死に」
「……忘れなさい」
ますます仏頂面を見せるデリクに笑いながら、オフィーリアは「きっと約束を守って、楽しいお土産話を持ってきてくれますわ」と言った。
「だってあの子は、約束を違えないあなたの娘ですもの」