君しか知らない
「……わたくしの初恋も、十年前でして」
慌てているトラヴィスから目を逸らし、シャロンは呟くように言った。
トラヴィスの動きが止まる。
「その日、出席した舞踏会で、つまらなさそうにされている美しい方を見つけました。その方へご挨拶に伺いましたら、その方が一言、初めまして、とお声をかけてくださいました。その時の笑顔が、本当に本当に素敵で……」
どんどん頬が熱くなってくる。
シャロンの髪の毛を手に持ったまま、トラヴィスは動かない。ただただ視線を感じる。
本心を伝えるのは、どうしてこんなに大変で恥ずかしく、難しいのだろう。
「……まあ、それが、トラヴィス様なのですけれど……」
トラヴィスが息を呑む気配がした。
両手で顔を覆った。
もうダメだ。恥ずかしくて穴があったら入りたい。
全身が熱くてたまらない今、きっと肌という肌全てが真っ赤になっているのだろう。
数秒の逡巡を経て、トラヴィスが口を開いた。
「……でも君は、グレイが好きなのでは」
「えっ?」
たっぷり10秒、沈黙があった。
トラヴィスが渋い顔で口を開く。
「君は、いつも僕から目を逸らしてグレイばかり見ていただろう」
まじまじとトラヴィスを見つめると、ちょっと嫌な顔をして目を逸らされる。
口元を抑えたが間に合わなかった。笑みが溢れる。
「ふふ。おあいこですわね」
胸がいっぱいで、声が上擦る。人生で初めての経験であった。
「初恋の方が、記憶よりもずっと素敵な殿方になって現れたんです。目が合うだけで恥ずかしくて、落ち着かなくて、とても目を合わせたままなんてできません」
「……いつも君は余裕に見えていた」
「余裕があるように見せるために、目を逸らしていたのです」
「君は僕がいてもグレイにばかり話しかけて、グレイがいるから安心だと言って……。何を言ってるんだ僕は」
長いため息を吐いたトラヴィスが膝に肘を突き、両手で顔を覆う。
(これは……やきもち……トラヴィス様がやきもち……)
頬がゆるむ。
いけない、と顔を引き締めた。
「僕は君が殿下の愛妾を認めるつもりだったという話を聞いて、それ程大事に思われているのに側に女を置くなど、本気で殿下が憎かった……僕が公爵家を継いだ時は絶対にあいつを王位から引き摺り下ろしてやると思った」
不敬である。
「あの、それは愛してないから認められるのです。例えばトラヴィス様がわたくしの旦那様でしたら、他の女性を側に置くなど絶対に嫌です……」
もしもトラヴィスが、例えばミレルダと親しくなったとしたら――考えただけでも心臓が抉られるように悲しい。
(ああ、これが嫉妬というのだわ)
シャロンは愕然とする。
自分が嫉妬をするような人間だと、思ったことがなかったのだ。
「僕は絶対にそんなことはしない」
考え込むシャロンに、きっぱりとした声でトラヴィスが告げた。
その時、さあっと吹いた風がシャロンの髪の毛を靡かせた。頬にかかった髪をトラヴィスの指が優しく、かきあげた。
「……僕は君が思うような男ではないかもしれない。一度会っただけの女の子を、十年も想い続け、嫉妬にまみれる情けない男だ」
深い海の底の瞳が、熱を持ってシャロンを見つめていた。
頬に触れる指の熱さが、トラヴィスの気持ちを表しているようだ。
シャロンはその手を上からそっと自分の手で包み、ゆっくりと微笑んだ。
「トラヴィス様、本当はご自分のことを僕って仰るんですね」
自分を私と呼んでいたトラヴィスは凛々しく、優しく公爵家嫡男として相応しい人だった。側にいると己も凛とあらねばと、背筋を伸ばしてくれる素敵な人だった。
けれども自身を僕と呼ぶ等身大のトラヴィスは、側にいるだけで甘やかな気持ちを与えてくれる。こんなに素直に感情を出したのは初めてだ。聖水を摂取した時ですらこうではなかった。
どちらのトラヴィスも、どちらの自分も好きだと思った。
「他の方の知らないトラヴィス様を、わたくしだけが見られることが、とても嬉しいです。もっとたくさん、見せてください」