月明かりの下、あの日言えなかったことを
三人が疲れてベッドに入った後、シャロンは部屋を抜け出し庭園へ出た。
控えていた侍女に渡されたストールを羽織る。もう季節は秋めいてきた。
少し歩いた先には、見事な薔薇が一面に咲いていた。月明かりに照らされた花壇の近くに、繊細な彫刻が施された長椅子がある。
腰掛けてゆっくりと目を瞑ると、薔薇の香りがふわりと香った。
「眠れないのか」
後ろからかけられた声に、シャロンは振り向いた。
珍しく髪を整えていないトラヴィスが柔らかく笑っていた。頬に痛々しくガーゼが貼られている。あちこち傷だらけの姿だ。
シャロンの視線に気づいたのか、トラヴィスがかすり傷だ、痛みもないと告げた。
安堵したシャロンが立ち上がり淑女の礼を取ると、トラヴィスが一瞬息を呑んだ。
「トラヴィス様…?」
何か粗相をしてしまったろうか。躊躇いがちに声をかけると、トラヴィスがハッとした顔ですまない、と微笑んだ。
「下町の君も愛らしかったが、今日の君もとても綺麗だ」
シャロンは自分の着ている服を見る。
トラヴィスが用意した白いドレスは、部屋着ではあるが上質な絹で作られている。
品良く控えめにレースやフリルで装飾されたドレスは足首まで伸び、ふわりと優美に揺れた。
幾重にも重ねられた薄い絹が袖から出る白い肌を美しく見せている。
ゆるやかにウェーブした金色の髪がキラキラと月の光に照らされ淡く輝き、シャロンを飾る装飾品のようだった。
久しぶりに着た、貴族令嬢の服であった。
「ありがとうございます。トラヴィス様の用意してくださったドレスのおかげですわ。着心地もとても良くて」
「いいや、気に入ってくれたなら良かった」
トラヴィスが長椅子に腰掛け、シャロンに隣に座るよう促した。
一瞬躊躇ったが、少しだけ距離をあけて大人しく腰掛ける。心臓の音が聞こえてしまいそうだった。
さらりとした風が吹く。
先ほどまでは肌寒かったが、今は不思議と丁度いい。
「――さっき、初めて君と会った時のことを思い出した」
「まあ。わたくしの下手な演技など忘れてくださいな」
シャロンはフルールフローラで出会った時のことを思い出す。黒い髪が艶やかに輝き、青い瞳が海の底のように揺らめいていた。
(――まあ、二回目なのだけど)
記憶の中の初恋の人が、さらに美しく男らしくなって現れた時の驚きはなかなか消えない。
「いや……君は覚えていないかもしれないが、それは実は二回目だ」
驚いて、シャロンはトラヴィスを見る。
深い海の底の瞳が、ゆらゆらと月明かりに煌めいている。
「あれは十年前かな。僕は、珍しく舞踏会――祝賀会だったかな…ともかく、社交に出かけた。社交嫌いのデュバル家が出席したものだから、もうたくさんの人が次から次へとやってくるんだ。うんざりしつくした時に、君が来た」
真剣な顔で話しているトラヴィスの頬が、少し赤い。
「君はその時、今日みたいな白いドレスを着て、まだ幼いというのに完璧な淑女の礼をとった。綺麗な菫色の瞳がシャンデリアの光にきらきら煌めいて、めまいがするほど美しかった。僕は緊張して何を話したか覚えていない。何も言えないまま、恋をした」
シャロンの口がぽかんと開くのを見て、トラヴィスが目を逸らす。
十年前の初恋を覚えてるなんて、重い男だろうと呟いた。
シャロンは驚きで声も出ない。
どくどくどく、と心臓が早鐘を打つ。そこから甘やかな痺れが、冷たくなった指先まで広がった。
「君は挨拶をしてすぐに去った。追いかけようか悩んだ時、父から殿下の婚約者だと告げられた。生まれる前からの王命と聞いては奪うこともできない。僕の初恋は儚く散り――また君と再会した」
トラヴィスは真っ赤だ。真っ赤な顔のまま、長い指でシャロンの髪の毛を手に取り、口づけた。
「――君が好きだ」
ようやく言えた、と顔を逸らしたトラヴィスは、首まで真っ赤に染まっていた。
シャロンは涙が出そうになって、無理に笑おうとし、やっぱり涙をこぼしてしまった。
泣き笑いになったシャロンを見て慌てるトラヴィスの姿が、ひどく愛しかった。
息もできないほど、幸せだった。