別れの情景Ⅲ
出会いはいつも偶然だけど別れはいつも必然、そのかなしみを描いたシリーズです。
石畳の上をからからと音を立てて、落ち葉が駆け抜けていった。黒々と空に手をさしのべる枯れ木の向こうには、燃える炎のような夕焼けの空が広がっている。立ちつくす彼女の頬を冷たい風が過ぎる。
あれから5年か。胸がチクリと傷んだ。彼女はそんな自分が少し可笑しくて心で笑った。もう5年もたったのにね。
髪の毛が風に乱されて顔を覆う。あの時もこうだった。あの時は長い髪をしていた。
「りん!」
と呼ばれて、彼女は思わずとびあがるほどびっくりした。振り返ると、一人の男性がこちらへ駆けてくる。
「あっ」
思わず、声が出た。目鼻立ちのはっきりした精悍な顔。背が高くきゃしゃな体つきも昔のまま。走る姿も高校生のころと同じだった。胸がキューンとなる。信じられなかった。こんなところで会うなんて……
「びっくりした」彼は息を切らせながら彼女の顔をのぞきこむ。「こんなところで、りんに会えるなんて」
りんは彼女の高校時代の演劇部でのニックネームだった。あとにも先にもあの3年間だけの。
演劇部は彼女の高校生活のすべてだった。演劇に夢中だった。3年間、彼と一緒に追いかけた夢だった。
「私も、びっくり」
胸の動悸がまだ止まらなかった。
「レクにこんなところで会うなんてね」
「あはあ、レクなんて呼ばれたのは何年ぶりかな。なつかしい」
彼は頭をかいた。その仕草がまた高校生の時のままで、なんだか、おかしかった。
「覚えてる?」と彼が言った。「昔、こんなふうに歩いたことあったよね」
彼女は彼を見ただけで何も言わなかった。言葉にするのが怖いような気がした。
忘れるはずなんてない! いったい何度、あの日のことを思い出しただろう!
思い出すたびに胸が痛んだ。
あの時も夕焼けが怖いくらいきれいだった。彼女はまだ高校生で、飾り気のない青い制服を着ていた。顔にも服にも、心にも化粧することなく、ただまっすぐに生きていた。季節も同じ十一月。風の強い日だった。暗い木々が夕闇をざわめきで満たしていた。
あのころの彼女は、腰にまで届くくらい長い髪をしていた。今から思うと何だったのだろうと思うくらい子どものころから長い髪にこだわっていた。けれども、その時は、その自慢の髪が風に乱されるのもほとんど気づかないくらい、彼女は一つのことばかり考えていた……彼女のすぐわきをを歩いていた、一人のクラスメイトのことを……
「あの日も、こんなふうに強い風が吹いていたよね。二人で歩いていると、まるで、あの日に戻ったような気がする」
ほんとうにそうだ。彼女は彼の横顔を見つめた。あれからもう五年もたっているのに、彼はあまり変わっていないような気がした。彼女は、まるで、自分があの日の高校生に戻ったかのような気がした。あのときみたいに胸がふるえた。あれからもう五年もたったのに。
「ねえ、木に登ってみようか、あのときみたいに」
石畳の道の奥に古い大きな木があった。それは、校舎からずっと離れた校庭の一番はずれにあって、枝がうまい具合に張り出していたので、彼や彼女、演劇部の仲間たちは、練習の終りに、しょっちゅう上って遊んでいた。その木に上ると、高台にある彼女たちの高校からは、町がよく見渡せて、とてもすがすがしい気分になったものだった。
木の幹は冷たかった。その感触まで、あの時とそっくりだった。中ほどに左右対称に突き出ている枝があって、その片方に彼が座り、反対側に彼女が座った。そう、何もかも、あの時と同じだった。
彼女は自分がふるえているのに気づいた。彼女は幹に寄りかかると、両手で自分をぎゅっとつかまえた。寒いわけではなかった。それは彼女の心の震えだった。あの日もこんなふうに震えて、自分の体が自分のものでないような気がした。
あれから何度もあの日のことを思い出した。
何度も、何度も後悔した。
あの日、自分の気持ちを打ち明けることができたら……そうしたら……
あのころの彼女は、ずっと彼を思い続けていた……
かなうはずのない思いだと知っていた。だから、きっと口に出せないまま卒業するのだろうと思っていた。
それなのに、あの日、まったく偶然に彼に出会ったのだった。そして、二人きりで木に登って……
こんなチャンスはもうないと思った。神様がくれたチャンスだと思った。
神様が最後に、ずっと秘めていた彼への思いを告げるチャンスをくれたのだと思った。
言おうと思った。
ただまっすぐに自分の気持ちを彼に伝えれば、嫌がられても、困らせても、それでいいと思った。
言うつもりで、口の先まで出かけたのに……
言葉が出なかった。
あのあと、どんなに後悔したことだろう。何度、後悔しただろう。
好きな人に「好きだ」と告げてから高校を卒業しなかったことを……あんなに好きだったのに……
あの日のことを思い出すたびに、胸が苦しくなった。木の手触り、風のざわめき、乱される髪の毛、何もかも体中が覚えていた。
何度も夢を見た。木の上で、彼とこんなふうにすわっている夢。
そうして、いつも、言おうとすると目が覚めるのだった。
「ねえ、あの時、私、どうしても言えなかったことがあるの」
震える体を両手でぎゅっと押さえつけて、ひとりごとみたいに、遠くを見ながら彼女はそうつぶやいた。
「私ね、高校の時、ずっと、あなたが好きだったんだ。あなたに恋していたの。あの時、もう、あなたと二人きりで会えるのもこれが最後だと思って、気持ちをうちあけようと思ったのよ。でも、どうしてもできなかった。弱虫だったから……だから、今……」
ふいに、風の音が強くなった気がした。
彼が息を飲むのがわかった。
彼は彼女を振り返った。彼女は遠くを見ていた。
「そんな……そんな……」
彼の声は震えていた。
「ほんとうに? ほんとうに?」
彼女は少し微笑んで彼を見た。
「やっと言えた。ずっと後悔してきたの。あの時、唇のすぐそこまで、言葉、来てたのよ……なのに、最後まで、とうとう、言いだせなかった」
「考えもしなかった……今でも信じられない……本当なんだよね」
「こんなこと、今さら言って、迷惑だったかな。でも、言いたかったんだ。だって、私、しばらく、ずっとあの日のことばかり考えていたんだよ。今でも夢に見るくらい……」
彼女は明るく微笑んだ。
短い沈黙。それから、彼は、彼女を見つめて言った。
「ぼくも、ずっと君が好きだった」
今度は彼女が息を飲む番だった。ありえないと思った。そんなこと、あるはずがないと思った。クラスでも演劇部でも一緒の空間にずいぶんいたのに、彼のほうから近付いてくれることなんて、たぶん一度もなかった。演技の話はいっぱいした。舞台の上では、愛し合う役も演じた。けれども、それ以外、彼と個人的な話をすることはほとんどなかった。あの時、最後に誘われて木に登ったのが唯一、二人きりで話した瞬間だった。
「君の姿をぼくはいつでも追いかけていた。いつも真剣で、何てすてきな人なんだろう、って、いつも思っていた。いつも輝いている君に夢中だった。でも、きみは、いつだって、ぼくのことを避けていたよね。ぼくのことなんて相手にしたくないんだなと、ずっと思ってた。あの時も、無理やり誘う形で、木に登ったけど、君は木の上でなんだか困っているみたいだったよね」
「そんな……」考えもしなかった。「私、あなたにそんなふうに見られていたなんて」
あのころ、どんどん彼に魅かれて行く自分が怖かった。自分がちっぽけな存在に思えて、彼の眼さえまともに見られなかった自分がいた。そばにいるだけで、どきどきして、うまく話せなくて、彼を避けてしまう自分がいた。
「ぼくも、あのとき、君に打ち明けようと思っていた。ずっと君のことが好きで、卒業前に一度は君が好きだって言ってからあきらめようと思っていた。あの道で出会ったとき、これが最後のチャンスだと思って、無理に誘って……、でも、あの時、木に登ったら……君がいやそうで……一緒にいるのが窮屈そうで、ぼくをまっすぐには見てくれなくて……ああ、とても言えないなと思って……迷惑だろうなって……困らせるだけだなって思って、あきらめた。ぼくは君を崇拝していたから、きらわれたくなかったんだ」
彼女は彼を見つめた。何も言えなかった。信じられなかった眼を伏せた。何もかも幼すぎる恋だった。初めての恋に戸惑って、自分に自信がなく、弱虫でおびえて逃げてばかりいた。
もう、遠い過去のことだった。過ぎ去って決して帰ってこない過去のことだった。
「ぼくも、あれから何度もあの日のことを思い出した。あの時、思い切って言ってしまえばよかったって……ま、どっちにしても君を困らせるだけだって、あきらめてきたんだけど……ああ、まさかね」
彼は心臓のあたりをぎゅっとつかんだ。
「もし、あのとき……」
彼女は何も言えなかった。彼も何も言わなかった。風の音ばかりがあたりを満たした。
「さよならだね」
ぽつりと彼が言った。
ふいに、彼女は、木の上にすわっている自分が高校生でないことに気づいた。髪はもう長くなかったし、夢ばかり追ってもいなかった。あの時ほど純粋でないかわり、たぶん、あの時よりも強くなった。あの時の思いを口に出せるくらいには……彼女は、もう一度、微笑んだ。
「あの時、思い切って言えていたらね。そしたら、私たちの人生はずいぶん違うものになっていたかもしれないわね……でも、どうしても、あのときは言えなかった。あのとき、ここにすわって、私、そのことばかり考えていたのに……今、言わなくちゃって……何度も言いかけて……だけど、どうしても言えなかった、こわくて」
「ぼくだって……あの時、本当にぼくにもう少し勇気があったら、そうしたらどうなっていたんだろう」
「ほんとうに、どうなっていたんでしょうね」
いつのまにか、陽は落ちて星が輝き始めていた。
「憶えてるかなあ。卒業公演の時の『オルフェオ』。きみは主役で、クライマックスの近くで、ナイト役のぼくに言ったセリフ。『あなたを愛している。あなたのためなら死ねるわ』って。あの時、ぼくはいつも震えていた。ああ、これがほんとうの君の言葉だったらなあって……」
突然、いっぺんに高校生の時の思い出が、部室の風景が、舞台の照明が、教室がのざわめきが、彼女に降りかかってきた。
彼女は唇をかんだ。
ふいに涙があふれた。あたたかい涙だった。ずっと心の中で凍っていたものが解けていくような気がした。涙で切れ切れになりながらも彼女は言った。
「あれ……あれ……わたし……いつも……本気だったよ……心の底から……あの時のわたしね……きっと、あなたのためなら死ねたと思う」
彼は彼女をふりむいて微笑んだ。「ぼくもだよ」
そうだね。さよならだね。ずっと二人はお互いに気がつかないまま恋人同士だった。でも、今、二人にはそれぞれ愛する人がいる。
ふいに彼女は彼に手をさしのべた。
「さよなら。あなたに出会えてほんとうによかった。ずっと大好きだった。ずっと、片思いだと思っていた。でも、高校時代、ずっと恋人同士だったのね、私たち。うれしいわ。昨日まで悲しい思い出だと思っていたものが、今日、すてきな思い出にかわったわ」
彼はまぶしそうに彼女を見た。
「ぼくは、昔からずっと、初恋の相手がきみでよかったと思っているんだ。届かなかったけれど、君はぼくの知っている中で一番すてきな人だ、といつも思っていた。あの日のことは悔しいけど、でも、ぼくにとって最高の人がぼくを思っていてくれたなんて、最高にうれしい。たぶん、君のこと、君と過ごした日々、そしてあの日のこと、そして今日のこと、一生忘れない」
彼は彼女の手をぎゅっと握りしめた。彼女の手は冷たく小さかった。彼の手は暖かく大きかった。
「さよならだね」
「そうだね。さよならだね」
あの時のさよならはなんてみじめで寒かったろう。でも、今はあたたかくせつないさよならだった。
たぶん、いま初めて、二人はほんとうに出会い、そして……ほんとうに別れたのだった。
連作小説「別れの情景」のⅢです。「別れの情景」はいろいろな別れのシーンだけを描いた超短編小説のシリーズです。