月林檎
「眠ってはだめよ」といつも彼女がいうんだ。そのくせ、泣きたくなるほど優しく頭を撫でてくる。
「眠ってはだめよ」
壊れたレコードのように繰り返して、また優しく撫でて来るから、その手を握って止めるのに。
彼女は繰り返し「眠ってはだめよ」と囁いて僕の手を離させる。
「僕も寝たくないんだよ」
「だめよ」
「お願いだから、僕をベッドから出させて」
「だめよ」
どうしてとか、聞くまでもなく、伏せていた顔を無理矢理あげて彼女の顔を見る。涙でぐちゃぐちゃになった顔で必死に笑みを浮かべ、また優しく僕の頭を撫でてくる。
「眠っては───」
彼女が泣いている理由を僕は知らずに、繰り返される言葉の意味すらも知らずに、だんだんと閉じる瞼に抗うのをやめた。
やめてしまった。
それがどんなに罪深いことかも知りもしないで。
目が覚めると、彼女はいなかった。
「……姉さん?」
彼女は…僕の姉はそうして姿を消した。
それから数日たって父さんが僕の部屋にやってきた、ろくに帰ってこなかった父さんをご飯を食べながら出迎えれば僕に一つの林檎を差し出した。
真っ赤な普通のリンゴだ。だけどそれは綺麗な形をしていて、綺麗すぎてニセモノの様にも見える。
「やっとお前の体を治す薬を手に入れたんだ」と父は誇らしげにそのリンゴを差し出してくる。
僕はそんなことよりも気になっていたことを聞いた。
「姉さんを見なかった?」
「姉さん…? 何を言ってるんだお前に姉なんかいないだろう」
変な返答に首を傾げる。
姉さんがいない? 小さい頃から僕のことを大切にしてくれた姉さんが。毎晩痛みに苦しんでいれば眠ってはだめよと頭を撫でてくる姉さんが。
僕の体は寝る度に死体のように手足が固まっていくという病気だった。白雪病と言うらしい、なんでも白雪というお姫様の美しさに嫉妬した魔女がかけた呪いに酷似しているからその名が付けられたそうだ。
だけどその白雪姫って人は愛する人のキスでその呪いが解けたと聞くけど僕のは呪いじゃなく病気。愛する人のキスでこの病気が治るわけじゃない。どうしてこの病気になったのか、その原因すらも不明。
「父さん、そのリンゴが薬なの? 普通の林檎にしか見えないけど」
「今夜は満月だろう?」
誇らしげな父は僕にそのリンゴを握らせる。僕はそれを受け取ってじっくりと見てみるけどやっぱり普通のリンゴだ。
「窓際にこのリンゴを置いておくんだ」
「いたんじゃわない?」
「いたまない」
「ふぅん」
手の上でりんごを転がしながら視線を父さんに向ける。
「で、姉さんはどこ行ったの? ここ数日見てないんだけど」
「だからお前に姉なんていないだろう、本も買ってきたから夜まで大人しく読んでなさい」
僕に数冊本を置いて父はさっさと部屋を出ていった。
部屋に残るのは食べかけのご飯と、変なリンゴと、数冊の本と僕。
父はもう部屋を出たし、姉は帰ってこない。ましてや、父はまるで本当に姉の存在を忘れたかのようだった。
「窓際に、ねぇ」
ベッド脇にある窓際の机の上に林檎を置いて、またスープに口をつける。姉さんはどこに行ったんだろう。
──────
ふわりと、りんごの匂いがして目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。左手の指が動かなくなっていた。
ウンザリとしながら窓の外を見ると既に真っ暗で綺麗な月があがっていた。
そして
机の上に置いてあったリンゴは何故か金色に染まっていた。まるで空に浮かぶ満月のように綺麗な輝かんばかりの金色に。
「金のリンゴ…」
唖然とそのリンゴを手に取ってみる。少し熟したのか手に持った時最初より柔らかく感じた。
ころころとベッドの上で転がしてみるけど、その金色はおちることが無かった。
金色に塗られた訳では無いらしい。
いよいよ怪しんでそのリンゴを机の上に戻そうとして、父さんが部屋に入ってくる。
「父さん?」
「リンゴは食べたか?」
「食べてないよ、置いておいただけで金色になったリンゴなんて食べたく……」
そこで言葉を区切る。父さんの目がなぜだか怖く感じた。
「食べるんだよ」
「……父さん?」
「その為だけに俺は───」
「妖精を殺したんだ」
目を見開いて固まる。妖精? あの御伽噺に出てくる妖精? 実在してたのか? と言うより、父はいま
殺したと言わなかったか?
「父さん、?」
「やっとお前の体も治ってすぐに他の子供のように」
「父さん!」
「ミリアと同じように死なせる気は無いんだ! ミトス! そのリンゴを食べるだけでいいんだ!」
父さんが怒鳴って来る。母さんは僕が幼い頃に亡くなったと聞いた、それが、それがまさか僕と同じ白雪病だなんて。
固まっていれば近づいてきた父さんが僕から金色のリンゴを取り上げる。食べずに済むのだとホッとした矢先に父さんは取り出したナイフでリンゴを切ってしまった。
どろりと変な風に汁が垂れる、暗い部屋ではその色はよく分からないが、僕の位置から見るとそれがまるで───血のように見えて。
「やめ……」
「さぁ、切り分けてやったぞ」
「やめろよ…」
「分かった手が動かないんだな、父さんが口に入れて」
動かない左腕じゃなくまだ動く右腕で父さんを突き飛ばす。
「いらないよ! そんなもの!」
「ミトス」
「絶対に食べない、そんな気持ち悪いリンゴ」
近づけないでと。そう言おうとしたんだ。
言おうとして気づいてしまった、何故かどこか確信して。確信を持ってしまうその想像に。僕の喉がひどく渇いている気がして。
『小さい頃から姉さんは僕の面倒を見てくれた』
「そん、な」
『いつも手を引いて、帰りの遅い父を待つ僕の頭を優しく撫でて、美味しいご飯を作って僕を』
「まさか…」
『いつだって愛しそうに見てくる』
気がふれたのかもしれない。目の前の父が手に持ってナイフを入れたその金のリンゴに、姉さんの姿がダブって見えた。
「父さん…」
「なんだ、ほら、リンゴだ食べ…」
「妖精はどこにいたの」
御伽噺にしか出ないようなそんな存在が、もし居たとして、どうやって人の目の前に現れない妖精を見つけたのか。
「寝てるお前のそばにいつも居た、お前を心配していたようだから本望だろう」
ああ、やっぱり。
泣きたくなるほどの溢れる感情に思わず目を閉じる。
『眠ってはだめよ』
泣きながら言った貴女は僕が眠った後いつか起こってしまう事を知っていたの。
「さぁ、お食べ」
差し出されるリンゴと近寄ってくる父さん。月明かりに照らされる父さんの顔は、まるで鬼のようで。
リンゴから流れる汁は透明で、姉さんが流した涙のように煌めいていた。
「父さん、寝たままじゃ喉に詰まってしまうよ」
「ああ、そうだな、今起こして───」
僕を起こそうとベッドの右脇にナイフとリンゴを置いたのを見て僕は笑った。
座らせようとしてくれる父が僕の背中に腕を回し、僕は───父の脇にある机からナイフを右手で取ると父の首へとそれを刺した。
「み…と……?」
「ごめんなさい、姉さん…僕らの事情に巻き込んでこんなことになって」
ナイフを引き抜けばひゅーひゅーと聞こえる空気の抜ける音に僕は目を伏せる。血だらけの父の手が僕に伸ばされるけど僕は金のリンゴを再び月光が当たる所へと置いた。
「ごめんなさい、僕も父ももう二度とあなたを傷つけないから」
「……み……と」
「今まで、ありがとう」
貴女のおかげで寂しくて泣く日は一度もこなかったよ。
どさりと父が倒れる音を聞き遂げて、ベッドに丸くなるように横たわる。
ごめんなさい、姉さんがどうして僕を気にかけてくれたのかは分からないけれど貴女が居たからここまで生きれたんだ。
なのに貴女の命を食らって長らえるなんて、そんなの必要ない。僕は幸せだったんだから。
薄れていく意識の中でまた姉さんの声が聞こえた気がした。
眠ってはだめ、起きていてと。そして。
私を置いて逝かないでという今まで聞いたことのない言葉も。
─────────────
────────
あれからたくさんの時が流れた。
月はしずみ月は上がり何度も何度も夜と朝が繰り返されて。
変わらずあるのは、リンゴ。
古くボロボロになったその家の窓際に置かれた夜になると金色になるリンゴ。
何回目かの満月の日がやってくるとそれに小さくひびが入り、ぱりぱりと欠片を零して割れてゆく。
そうして姿を表したのは小さな小さなリンゴほどの背丈しかない少女。少女は月明かりに照らされたその台の上からベッドに横たわる変わってしまったものを見て大きな声で泣き出した。
「貴方のためならよかったのに」
「貴方が生きてくれるなら幸せだったのに」
小さな少女はそうして泣いて、月を雲が隠した時に、少女の姿も消えてしまった。それを惜しみ嘆く人はもう───どこにもいない。
人からもらった
四の要素を取り入れた話を書くというのをやりました。
要素は金のリンゴ、復讐、満月、睡魔でした。