第4話 ネメシスの雫
パーン!
乾いた音が響き、空気が凍える。
突然、レティーシアが立ち上がりアンジェラの頬を力任せに平手で張った音。
勢いでめくれた袖口から美しい骨格を想像させる細い手首が覗く。
平手を打った手のひらが勢いのまま流れ、自らの肩にぶつかると弾かれ、その場で一瞬静止した。
その時見えた手の甲から伸びる関節を感じさせない長い指、その先端の整った爪から健康的な桃色が透けていた。
アンジェラは、目を見開き唇を噛む。
レティーシアは、彼女を憐れみ蔑んでいるかのように見下ろしていた。
王の手掛かりは、レティーシアにとって朗報だったのでは?
彼女は興奮しているのか、息が荒い。
彼女は肌の露出が少ない衣装をいつも好んで着る。
筋肉の無い細い身体だが、どうしても、布地越しに柔らかな曲線美が浮かぶので、胸や尻といった女の部分に、しっかりと若い張りのある肉を隠しきれない。
およそ争いには向かないように見える彼女。
胸元の王印を布地越しに、握りしめている。
何かを決意する時の仕草、いつもは堂々とする彼女だが、今は小さな肩を震わしていた。
アンジェラは、思い直したかのように頬を緩め口元に薄い笑みを浮かべた。
「姫様、あんたは国をお望みかい?」
「バーナード! この無礼者を切り捨てなさい!」
頬を赤く染め、整った愛らしい顔が怒りで歪む。初めて見る彼女の姿に、皆、驚きが隠せない。
周囲の騎士達が異変に気付き、ざわつく。
バーナード団長は、正に熟練の手練れが見せる素早い隙のない動きで、レティーシアを上手にかばいながら、剣を上段からアンジェラへと……、その間際、バーナードの剣が頂上の位置で縛られたかのように動きを止めた。
バーナードとアンジェラの間に、ケモ耳の小さな女の子の姿があった。
フェンリルの化身、チビが瞬時に反応し、彼の手首を片手で掴み止めたのだ。
チビは両耳をピクッと動かし俺を見つめ、指示を仰ぐ。
すぐそばから、
「もっと、信用して下さい……」
とメアリーの寂しげな声が聞こえた。
ジャンヌとメアリーには、「許可するまで動くな」と密かにメッセージを送っていた。
アンジェラと戦うのは本意では無いからだ。
チビなら、そんな俺の意図を察して的確に動いてくれるだろうと思っていた……。
「ソフィア、邪魔しないでっ!」
レティーシアが声を張り上げる。
「私は、アンジェラに賛成よ、王様は、レティーシアのお父さんなんでしょ、行くべきよ」
「娘では無く、私は王女なのよ! だから、邪魔しないで!」
彼女は、まだ王印を握っている。
「マスター、彼女の意見は正しい、大局を考えるのは、民を率いる者の務めだ」
ジャンヌは、そんな彼女を擁護した。
バーナードも、その孫、セシリアですら、同意見のようだ。
レティーシアは、父親よりも、戦局を有利に運ぶ方を優先しようとしている。
情報の真偽はともかく、王が今更戻っても、戦いは有利にはならない。レティーシアが代理とはいえ、国を率いているからだ。
「あなたは、それで良いの?」
いつに無く興奮しているレティーシアに、意地悪な質問をしてしまう。
「湿地帯に陣取る帝国軍を叩く、王国にとって、それが一番大切なことよ」
レティーシアは、バーナード団長の肩を叩き、彼を後ろに下がらせた。
アンジェラは、
「ご立派なのね」
と言い席を立つ。
「マスターは、彼女の尊い決断を尊重すべきだ」
ジャンヌの信じる神は、自己犠牲を美徳の一つに数える。
確かに尊いのだろう……。
なら、レティーシアは、父親を本心では救いたいということだ!
それに、彼女は、何か重要な決断をする時は、いつもいつも、王印を握りしめる。
「ソフィア、準備が整ったら出発よ……、理解して頂戴……」
両手を胸元で組み、伏目がちに彼女は言った。
「ええ、そうね、そして、その王印を父親に返すのよ」
「マスター!」
「ソフィア殿!」
ジャンヌとバーナード団長が声を荒げた!
「帝国なら、私が黙らせるわ! 昨晩のように、レティーシア、あなたに余計な真似はさせないわ!」
レティーシアは、俺が帝国軍を残忍に燃やした事を、自らの命令だと葬儀の際、発言した。
それは、俺の罪を背負うということ。
そんなのは迷惑でしか無い。
「ソフィア、あなたが一人で行くなんて許さない!」
「いいえ、私は、ここから、動かないわ! それでも湿地帯の帝国軍は、殲滅できるのよ!」
彼女は、もっと、俺を信じて利用すべきだ!
「無理よ!」
「私の本気、少し見せてあげる。アンジェラ、王の情報が嘘だった時は、覚悟しなさい!」
「こわい、こわい、でも情報は、真実よ」
アンジェラは、足を止め、場を離れるのをやめた。
ヘルメスの杖【カドケウス】を取り出すと、【フライ】のスキルで一気に上空に飛び立つ。
そこから全力の索敵を仕掛ける。
世界が明瞭に脳裏に浮かぶ。
特に、湿地帯の帝国軍は、俺に対抗する為、様々な強力な防御魔法を絶やすことなく展開しているので、一際目立っていた。
格好の的だ。
魔力を増強する為、アクセサリー、【世界樹のティアラ】で頭を飾り、【フレイヤの首飾り】、【ソロモンの指輪】で万全を期す。
最初に、世界中に漂う魔素に、俺の存在を知らしめる為、口から旋律を奏でる。
自分でもびっくりするくらい、美しい音色が響いていく。
特に、この他は、大量の命が失われて間もない場所だからだろうか、思ったより早く、準備が整った。
「我は世界に告げよう」
言葉を整えた世界中に漂う魔素に響かせる。
「我は、逆らう者に死をもたらす! 世界は、我を怖れよ! そして、我を崇めよ!」
俺を中心に世界を覆う、巨大な魔法陣が広がっていく。
そのせいで太陽が霞み、空の色が変わる。
「理の代行者たる、我が、天のネメシスに命ずる! 雫をもって、大地に、その威を刻め!」
魔法陣が、天空の一点に集約し、まばゆい光を放ち、消える。
世界から音が消えた。
地上に降り立った俺に、レティーシアが声をかけた。
「ソフィア、あなたは何をしたの? それに……」
彼女の疑問はもっともだ。
まだ、詠唱が終わっただけで、魔法は発動してはいない。
「発動までは、しばらく掛かるのよ」
やれやれと腰を下ろす。
「ご主人様、アクセサリーは外した方が良いかと……」
メアリーが耳元で囁く。
「アルムヘルムの姫君……」
アンジェラの言葉を低い唸り声のような音が遮る。
その音は、天空から響いていた。
皆、空を見上げた。
揃いも揃って口を開け間抜け面だ。
空高く、天空より高い位置に、それは現れた。
大気と衝突し、低い唸り声を発し、その身を赤く染めている。
【死の星】、天体衝突の呪文が、やっと発動したのだ。
ギルド戦はもちろん、対NPCでの使用も許可されていない魔法、いわゆる禁呪。
年一回、冬の時期に開催されるワールド存亡をかけた戦い、全プレイヤーが協力して挑む、フルレイドでのみ、禁呪指定が解除される、禁断の呪文。
その効果は、バトルフィールド全域にわたり、回避不能の上、威力も絶大、耐えることが出来るのはフルレイドボス、深淵の主神【タルタロス】のみという、絶望的な破壊力を誇る神話級最上位の魔法、【死の星】。
それを五段階ある威力指定の内、第一段階で発動させた。
「湿地帯の帝国軍は全滅よ。レティーシア、あなたが犠牲になる必要はないわ」
俺の言葉に、彼女は無言で頷いた。