パンドラの箱に眠る秘密
ようこそいらっしゃいました。私は支配人のジェームズ・フランクリンと申します。今後とも、どうぞご贔屓に。さて、本日はどのようなモノをお預かりしましょうか?紙幣や宝石でしょうか?それとも美術品?おや、そんなものではない。さて、一体何でしょうね。えぇ、はい。私共の守秘義務は絶対に保障しますので、その点はご安心ください。えぇ、はい、そうでしたか。どなたからお聞きになられたのか存じませんが、既にそういったモノもお預かりいたしております。では、こちらにどうぞ・・・。
ジェームズ・フランクリン銀行は世界一の銀行として有名だった。何故なら、“誰でも”、“どんなモノでも”、“何年間でも”預かってくれる銀行だったからだ。“誰でも”と言うのは、客が凶悪な犯罪者や貧乏人であっても取引に応じてくれるという事だった。“どんなモノでも”と言うのは、お金や貴金属類はもちろん、それが例えガラクタであっても預かってくれるという事だった。そして、”何年間でも“と言うのは、この銀行が存在する範囲において何年間でも保管してくれるという事だった。それに加えこの銀行では、万全のセキュリティー・システムを構築していたので、世界で最も安全な銀行とも言われていた。
しかし、その世界的な名声の影で、ジェームズ・フランクリン銀行には数多くの如何わしいモノが預けられ、犯罪の温床となっているという悪評も存在していた。中でも、地下奥深くに存在するという特別金庫室、別名『パンドラの箱』は、その名が示す通り“開けてはいけない場所”として、世間の眼から遠ざけられたモノが数多く納められているという噂であった。
ここはジェームズ・フランクリン銀行の搬入口。頑丈な金属製の扉の鍵はカードキーによって開錠される。建物の中に入ると、そこは正方形をした何も無い部屋だった。
「トム・ブラック氏からの預かり物です。関係書類はこちらに全て揃えてあります。」
人間が一人分入れそうな大きさの箱を運び入れると、男はそう言った。どこかに監視カメラとスピーカーが設置してあるのだろう。男の言葉に答えるように声がした。
「分かりました。箱はそのまま部屋の中央に置いてください。カードキーと関係書類はこちらにお入れください。」
壁から飛び出してきた引出しに書類とカードキーを納めると、男は部屋を出て行った。自動で閉まる引出しに続いて、部屋の中央に置かれていた箱も床と一緒に下降していく。そして、数分後には元の何も無い部屋に戻っていた。
監視ルームからその様子を眺めていたジェームズ・フランクリンとトム・ブラック。
「フランクリンさん。貴方の銀行を疑うわけではないのだが、この程度のセキュリティで果たして安全だと言えるのだろうか?この銀行を狙っている者は大勢いるはずだが。」
「ご安心ください、ブラックさん。ここはあくまでも搬入路です。ここからでは直接例の特別金庫室には辿り着けません。特別金庫室に辿り着くためには、そこから更に3つのセキュリティを通過しなければなりません。今からそれをご紹介いたしましょう。」
そう言うと、3つのセキュリティについて説明を始めるのであった。
エンチャーチ街の片隅に、小さなバーがあった。その店の名は『ギムバック』という。カウンターがあるだけの狭い店内は5人も客が入れば満員になる程であったが、一人の時間を過ごすにはちょうど良い場所だった。今夜もまた一人、この店にお客がやって来たようだ。
「ウィスキー、ロックで。」
男は多少赤くなった顔をしているが、まだ意識はしっかりしている様子だった。
「お待たせいたしました、ウィスキーのロックです。」
男は、差し出されたグラスを手に取ると、琥珀色の液体に浮かぶ氷を指で突いた。そして、店主に向かってこう話しかけるのであった。
「マスター、“ジェームズ・フランクリン銀行”って知っているかい?」
「もちろんよく存じ上げていますよ。何しろ世界一の銀行ですからね。」
男の質問に店主が愛想よく相槌を打つ。それに気を良くした男はグラスを高く掲げると、中に入った液体を光にかざしながら話を続けるのであった。
「そう、世界一の銀行さ。そして、世界で最も安全な銀行でもある。」
「まさにその通りです。実は私も、あの銀行には特別なモノを預けておりますので・・・。」
秘密めかして囁く店主の様子に、好奇心をくすぐられる男。
「へぇ〜、それは一体何だい?良かったら教えてくれないかな。」
「お客様、ここだけの話ですよ。絶対に、他の誰かに喋っては駄目ですよ。」
そう言って客を手招きする。男は手にしたグラスをカウンターに置くと、店主の方に身を乗り出した。
「なんだい、いやに勿体つけるじゃないか。」
その男の耳元に口をあてて、店主はこう囁くのであった。
「実は、死体を預けているんですよ。私がこの手で殺した妻の死体を。」
「へぇ〜、死体か。・・・・・・・・なんだって!自分の奥さんの死体を預けている!」
そう言うと、男は椅子から滑り落ちた。その様子を見た店主は男に向かって、
「ハッハッハ!ジョークですよ、ジョーク。さすがのジェームズ・フランクリン銀行でも死体は預かってくれないと思いますよ。どうでした、私のジョーク。なかなかの出来栄えでしょ?先ほども別のお客さんにお話したのですが、こんなに驚いてくれたのはあなたが初めてですよ。お詫びの印にそのウィスキーは私が奢りますので、気を悪くしないでくださいね。」
そう言って、店主はニヤニヤ笑うのだった。床に座り込んだ姿勢の男は、バツが悪そうに立ち上がると椅子に座りなおした。
「いや、ジョークだとは分かっていたんだ。どうも今晩は、少々飲みすぎたらしい・・・。」
店主に言い訳したつもりか、はたまた自分にそう言い聞かせているのか、そんな事を呟く男だったが、相変わらずウィスキーの入ったグラスを傾けているところを見ると、ちっとも懲りていないようだ。男のそんな様子を知ってか知らぬか、熱心にグラスを磨いている店主であったが、自然に緩んでしまう口元を完全に隠すことは出来ないようだった。
ジェームズ・フランクリンは、自らの執務室で仕事を行っている最中であった。支配人である彼が自ら携わらなければならない業務は、今や皆無に等しかった。業務の大部分は部下に委ねてあり、自らは特別な顧客の対応のみを取り仕切っていた。
「支配人。ブラック様からの紹介状を携えてきたと言われるお客様が、面会を求められております。いかがいたしましょう。」
受話器を通して聞こえてきたのは、彼の秘書の声だった。
「どんな男だ。」
「はい。黒いスーツを着た若い男です。ただし、金属反応がありましたので、拳銃を所持しているものと思います。追い返しましょうか?」
「いや、構わん。とりあえず応接室に通しておけ。後ほど会いに行く。」
「かしこまりました。」
受話器を置いた支配人は、監視カメラで応接室の様子を確認した。問題の客は応接室に案内されると、壁に掛けてある大きな振り子時計の前で立ち止まり、熱心にそれを見つめている。客を案内し終わった秘書は、すでに自分の仕事場に戻ったようだ。
「お待たせいたしました。私がジェームズ・フランクリンです。」
フランクリンが応接室に入って挨拶をするのだが、問題の客は振り子時計を見つめたまま、こう答えるのであった。
「世界一の銀行の支配人ともなると、さぞやお忙しいことでしょうね。きっと、寝る間も惜しんでお金を数えておられるのでしょうね。」
男の無礼な物言いに少々気分を害したフランクリンであったが、長年培ってきた銀行家としての習慣は抜け無いらしい。にこやかな笑顔を浮かべたまま、男に向かってこう答えるのだった。
「いえ、業務の大部分は部下に任せております。銀行の支配人というのは案外、自由な身なのですよ。まあ、立ち話もなんですし、どうぞおかけください。」
そう言って椅子を勧めるのであったが、男はこちらを振り向きもしない。
「その時計がそんなにお気に召しましたか。この応接室の中で真っ先にその時計に目をつけられたという事は、きっとこの時計の持つ価値もご存知なのでしょうね?」
そう尋ねるフランクリンに、男はこう答えた。
「これはジョン・ルブラッシュの手掛けた数少ない作品の中でも、最高傑作と評価されている振り子時計『変わらぬ記憶』です。決して狂わず、永久に時を刻み続けるその仕組みは今でも多くの謎が残されており、その複雑な構造のため製作者本人以外修理は不可能と聞いております。」
「その通りです。幻の時計職人として知られているジョン・ルブラッシュの最高傑作『変わらぬ記憶』。この作品をご存知なのであれば、彼が実は世界的な金庫破りでもあったというお話も、きっとご存知なのでしょうね。」
フランクリンの問いかけに、ようやく振り向いた男。その問いには答えずに、先ほど勧められた椅子に腰をおろした。男のその反応を見て、ようやく自分に主導権が移ったと確信したフランクリン。男の真向かいに座り相手に隙を与えまいとして、こう続けるのだった。
「折角ですので、ブラック様からの紹介状を拝見してもよろしいですか。それと、上着のポケットに入っているモノも一緒にお出しください。そうそう、念のために申し添えておきますが、妙な考えは起こさないほうが良いですよ。ここは私の応接室ですからね。」
そう言われて男は、素直に上着の内ポケットから封筒に入った紹介状と拳銃を取り出した。それら二つを机の上に並べて置くと、こう言うのだった。
「拳銃はあくまでも護身用です。あなたを殺害する気はありませんので、ご安心ください。それから、紹介状の方はご自分の目でご確認ください。」
フランクリンは拳銃を男の手元から遠ざけると、封筒を手に取り紹介状を確認した。しかし、一瞥した限りでは特段不信な点は見受けられなかった。
「紹介状は本物のようです。しかし、拳銃は念のため預からせてもらいますよ。もっとも、紹介状などご用意していただかなくても、ジェームズ・フランクリン銀行ではどんなお客様とでもお取引いたします。それが例え、素性の分からない相手であってもね。」
そう答えるフランクリンに、すかさず男が口を開いた。
「『パンドラの箱』に関わる取引だったとしても、そう言い切れるのでしょうか?」
二人の間に、突如として緊張した空気が張り詰めるのであった。まるでそれを打ち消すかのように、フランクリンが口を開く。
「ほう、『パンドラの箱』ですか。私もそんな噂を耳にした事がありますよ。そんな名前で呼ばれている特別金庫室が銀行の地下奥深くにあるという話でしたな。きっと、うちの銀行の評判を聞いた誰かがそんな噂を作り上げたのでしょうね。本気でそんなものが実在するとお思いなのですか?」
くだらない事に時間を費やしているとでも言わんばかりに、先ほどまでの改まった態度を崩すと椅子に反り返って足を組みかえるフランクリン。そんな様子などお構いなしに先を続ける男。
「紹介状を書いてもらったブラックさんに教えてもらったのですよ。この銀行には確かに『パンドラの箱』と呼ばれる特別金庫室が存在するという事をね。」
「そうですか。ブラックがそんな事を言っていましたか・・・それは困りましたね。」
そう言うと、机の上に置いてあった拳銃を男に向けて構えるフランクリン。
「残念でしたね。そのブラックという男はあなたをここに御呼びするため、我々が用意した囮なのですよ。ジェームズ・フランクリン銀行へようこそお出で下さいました、ジョン・ルブラッシュさん!そして、さようなら。」
そう言うと、躊躇う事も無く引き金を引くのだった。銃声が響き渡り、辺りに硝煙の臭いが立ちこめる。テーブルに突っ伏した姿勢の男を眺めながら、舌打ちをするフランクリン。
「くそ!他人の武器なんて使うものじゃないな。どうやら指に怪我をしたらしい。まぁいい。それにしても、こんな若造がジョン・ルブラッシュとは・・・・・・まったく・・・・・・冗談も甚だしい・・・・・・。」
そこまで呟くと椅子に倒れこむのだった。しばらくして、殺されたはずの男が起き上がると、フランクリンに向かって何やら話す声が聞こえてくるのだった。
「あなたは三つの過ちを犯しました、フランクリンさん。一つ、私はジョン・ルブラッシュではありません。その方とは多少縁がありますが、まったくの別人です。私の名前はジーン・クラウド。二つ、先ほども申し上げたとおり、拳銃は護身用のために用意したものです。込められているのは全て空砲弾ですよ。ただし、引き金に少々細工が施してあるので下手に触ると指に怪我を負いますよ・・・って、もう遅いですね。三つ、これからは封筒に入った紹介状を無闇に素手で触らない方が賢明ですよ。どんな薬品が染み込んでいるか分かりませんからね。今回は眠り薬でしたが、毒薬だったら大変な目に遭いますよ。」
椅子に横たわっているフランクリンに、丁寧に話して聞かせるクラウド。
「・・・・・・おっと、こんな説明をしてもまったく無駄でしたね。そうそう、寝る間も惜しんで働くのは体に良くないですよ!人間はやっぱり休養する事が大切です。この機会に、どうぞゆっくりと御休みください。」
フランクリンにはしばらくそのまま眠っておいてもらうことにして、クラウドは応接室に掛けてある振り子時計『変わらぬ記憶』に近づいた。
「なかなか見事な出来栄えですけど、所詮はレプリカですね。やはり本物には遠く及びません。そして、ここが『パンドラの箱』への入口。」
そう言って時計の中のボタンを押すと、果たして隠し扉が開くのだった。
「さて、最初は声紋認証でしたね。」
突き当たりの扉の前に来ると、録音機を取り出してセンサーにかざす。
『パンドラの箱。』
フランクリンの声紋を認証した扉は、何事も無く開いた。続く扉は掌形認証を備えていた。フランクリンから採取した掌形により、ここも何の問題もなく通過する事が出来た。
「最後は虹彩認証でしたね。世界で最も安全な銀行のセキュリティもこの程度ですか。」
フランクリンの虹彩をセンサーにかざして扉を開けると、部屋の中へと姿を消すのだった。
3つのセキュリティを軽々と突破したクラウド。しかし、肝心の部屋の中には、宝石どころかガラクタ一つ無かった。目の前に広がっているのは何も無い空っぽの空間。そんなクラウドの背後で突如扉が閉まると、聞き覚えのある声が部屋に響いた。
「ジーン・クラウド・・・と言いましたか。あなたのようなコソ泥が、これまでにも大勢『パンドラの箱』に挑戦しているのですよ!それなのに、私が何の対策も施していないと思っていたのですか?まぁ、ここまで辿り着いたのはあなたが初めてですがね。」
声の主は、先ほど眠らせた筈のフランクリンのようだった。
「おやおや、もうお目覚めですか?その勤勉さは私も見習わないといけませんね。私の方は勝手に帰りますので、構わずしばらく御休みになられていたら良かったのに。」
この状況に、少しも慌てる様子を見せず答えるクラウド。
「口の減らない方ですね。まぁいいでしょう。流石の私も、まさかあのような仕掛けがしてあるとは思いもよりませんでしたよ。それについては褒めて差し上げましょう。しかし、私の方が一枚上手でしたね。」
「なるほどね。騙したつもりが、騙された訳ですか。」
「そういう事です。しばらくそこで大人しくしていて下さい。あなたの処分は後ほど考えますので。それでは!」
そう言うと、フランクリンの声は聞こえなくなった。
やがてフランクリンの監視の眼が無くなったとみるや、行動を開始するクラウド。
「さてと。一体どの辺りですかね。」
クラウドが四方の壁を詳細に叩き始めると、1箇所だけ周りと音が違う箇所が見つかる。
「ここみたいですね。それでは・・・っと。」
そう言うと、壁に向かって呼びかけるのであった。
「師匠、約束通り迎えに来ましたよ。そこにおられるのでしょ?さっさと開けてくださいよ。」
それに答えるかのように、壁の向こうから人の声が聞こえてきた。
「ようやく来たのか、ジーン。こんな場所まで来るのに、一体何時間かかっているのだ。もっと早く迎えに来んかい!儂を特別金庫室の中で飢え死にさせるつもりか。」
先ほどまで壁があった場所に扉が出来ると、中から老人が現れた。その老人に向かってクラウドがこう告げる。
「ジョン・ルブラッシュともあろう方が、死体に扮して特別金庫室に忍び込むなんて・・・無茶をするにも程がありますよ!もっと他に方法が無かったのですか?」
どうやらこの老人こそ、幻の時計職人であり世界的な金庫破りでもあると言われるジョン・ルブラッシュであり、老人のいた部屋こそ『パンドラの箱』のようだ。
「死体に扮して特別金庫室に忍び込む、名付けて『トロイの木馬作戦』じゃ。ジーン、お前にはいつも“時計造りと同じで金庫破りも芸術性が伴わなければ意味がない”と言って聞かせておるではないか。腕は見事なのじゃが、その辺のセンスに欠けるのがお前の未熟なところじゃ。」
そう言うルブラッシュは、やれやれといった様子で頭を振るのであった。
「危険を冒して遥々迎えに来た弟子に向かって、その言い方はないでしょうよ。それに『トロイの木馬作戦』って・・・・ギムバックの店主が似たようなジョークを言っていましたが、まさかそこから思いついた訳じゃないですよね?」
「馬鹿な事を言うな!これだけ面倒なセキュリティを備えた特別金庫室、内側から開けるほう簡単だと思っただけじゃ。それに『パンドラの箱』は外側からは絶対に開かん。こうやって内側から開けるしか方法は存在しないのじゃ。」
「内側から開けるしかなかったら、どうやってフランクリンは開けていたのですか?」
「その事は、おいおい分かるはずじゃ。それでは行くぞ!」
そう言って、『パンドラの箱』へと戻って行くルブラッシュ。その後を追って、クラウドも部屋の中へと足を踏み入れるのだった。
「ところでジーン、『パンドラの箱』の物語は知っておるな。」
「ええ。様々な災いが詰まった箱をパンドラという名の女性が開けてしまうというギリシア神話ですよね。」
「そうじゃ。慌ててその箱を閉めたパンドラじゃったが、既に一つを除いて飛び出してしまったという物語じゃ。」
「確かにこの特別金庫室は『パンドラの箱』と呼ばれています。それがどうかしましたか?」
「まぁ、これを見てみろ。話はそれからじゃ。」
そう言うと、ルブラッシュは手近な扉の一つを開いた。中には死体の入った箱が納められていた。中身を改めるジーン。
「死体・・・ですか。しかも、死亡してからまだそれ程時間が経っていないようですね。何でこんなものがここにあるのでしょうか?ジョークにしては笑えないですね。」
そう言うジーンの問いに、真面目な顔で答えるルブラッシュ。
「お前もさっき会ったジェームズ・フランクリン、奴は表向き銀行の支配人なぞやっておるが、裏の世界では名の知れた“保管屋”なのじゃ。」
「“保管屋”ですか?要するに、何でも保管する人・・・って事で良いですか?」
「そうじゃ。死体の存在しない殺人事件は、殺人事件としては成立せん。仮に永久に死体が発見されない殺人事件が起こったとしたら、それはどうなると思う?」
「その場合、殺人事件ではなくて失踪事件として扱われるでしょうね。」
「そうじゃ。ここに預けられた死体は永久に外の世界に出る事はない。そして、仮に生きた人間がここに預けられたとしても、結果は同じ事だ。しばらくこの場所で身を潜めておったが、ここは世界中の犯罪の痕跡が眠る場所となっておる。」
「特定の人間にとっては、まさに『パンドラの箱(開けてはいけない場所)』という訳ですね。」
そう言って黙り込んでしまうクラウド。
「そうじゃ、まさにパンドラの箱じゃ。しかし、パンドラの箱の中身は災いばかりではない。そうじゃったな?」
「“多くの災いの中に、一つの欠片が残っていました”と言う話ですか?」
「まぁ、そんなところじゃ。・・・・・・おお、こちらに来なさい。」
そういってルブラッシュはクラウドの背後に眼を向けるのだった。クラウドが振り返ってみると、そこには幼い少女の姿があった。少女はルブラッシュの背後に隠れると、そこからクラウドの様子を窺うのだった。
「この子はここで生まれて育った少女で、名前を“リリィ”という。リリィ、心配せんでもジーンはお前に危害を加えたりはせん。隠れなくても大丈夫じゃ。」
そう言うとルブラッシュは自分の前にリリィを引っ張り出すのだった。この特別金庫室の目的を考えると、ルブラッシュ以外の生きた人間に出会っても驚くことではないのだが、この場には相応しくない少女の存在が非常に気になったクラウド。
「師匠、どうしてこんな少女がここにいるのです?何かの犯罪に巻き込まれてここに連れて来られたのであれば、こんなに自由に動き回っているのも不自然ですし・・・。」
不信に思うクラウドの顔をじっと見つめる少女。少女の整った顔立ちは、幼いながらも、どこか大人びた表情をしているのだった。
「リリィはこの銀行に預けられたのではない。彼女こそ『パンドラの箱』に残された一つの欠片であり、この部屋を中から開ける鍵でもあるのだ。」
「ところで、“彼女がここで生まれて育った“というのは、どういう意味でしょうか?」
「それはな・・・。」
「ジョン、相変わらずお喋りが過ぎるようですね。天才という称号に相応しい才能をお持ちのあなたですが、その欠点だけは直したほうが良いですね。」
二人の会話に割って入ったのは、ジェームズ・フランクリンその人であった。抑えた調子の静かな言い方ではあったが、その声には押さえ切れない興奮が込められていた。
「久しぶりじゃな、ジェームズ。大人しく金儲けの事だけ考えておれば良いものを、こんな事にまで手を染めおって。」
「何を仰います。全ての始まりはあなたの創り出した振り子時計『変わらぬ記憶』が原因なのですよ。一番の責任を負わなければならないのは、あなた自身。違いますか?」
「そうじゃ、だからこうしてここにやって来たのじゃ。」
「師匠、一体どういう事ですか。わたしにも分かるように説明してください。」
クラウドの質問に、ルブラッシュは昔を思い出すようにゆっくりと話して聞かせるのだった。
「今からちょうど15年前。世界で最も優れた時計を創り出す事を目標にしていた儂は、お前もよく知っている『変わらぬ記憶』の制作に取り掛かったのじゃ。その時計には、儂が当時開発した新たな動力機関『セル』が組み込んであっての、その結果“決して狂わず、永久に時を刻み続ける”と評されるまでになったのじゃ。もっとも、“永久に時を刻み続ける”時計などこの世には存在せん。機械というのはいつか壊れるし、止まるように出来ておる。そうでなければ時計職人はみんな職を失ってしまうからの。」
「そう。若き天才ジョン・ルブラッシュは、永久機関を模した新たな動力機関『セル』の開発に成功したのですよ。『セル』は彼の言葉通り完全とは言えませんでしたが、それでも見事な発明に変わりはありませんでしたよ。時計の動力に使うだけでは物足りないくらいにね。そこで我々は、『セル』をある目的に使用するために、研究を始めたのです。この『パンドラの箱』でね。」
「そんな時、ある事件が起きた。ジェームズの娘であるリリィが事故に遭遇したのじゃ。すぐさま病院に運び込まれたが、彼女の助かる見込みはほぼなかった。そこで我々は、彼女にある手術を施す事にしたのじゃ。」
「師匠、まさかリリィがここで生まれたと言うのは・・・」
「そうじゃ、ジーン。リリィは1度この世を去った。そしてここ『パンドラの箱』で再び蘇ったのじゃ。しかし手術の後遺症のためか、リリィの体は外の世界での暮らしに耐えらず、成長も止まってしまった。結局、果てしない長い年月をただこの部屋で過ごす事しか出来なくなってしまったのじゃ。」
普段のルブラッシュでは決して見られない表情に、クラウドも何と声を掛けてよいか分からなかった。しばしの静寂が辺りを包み込む。それを破ったのはフランクリンであった。
「悔やむことはありませんよ、ジョン。むしろ私はあなたに感謝しています。生まれた時から病弱で何の役にも立たなかったリリィが、あなたのおかげで『パンドラの箱』の管理人という立派な役目を担う事が出来るようになったのですから!こんな素晴らしい娘を持つことが出来て私は幸せですよ。まさに神からの贈り物ですよ!」
そう言って、部屋中に響き渡る声で笑い出すのであった。
「さて、久しぶりの旧友との再会に少々無駄話が過ぎましたね。昔の懐かしい思い出を語り合って感傷に浸る時間もそろそろ終わりにしましょう。リリィ、お前はこちらに来なさい。」
そう言って拳銃をルブラッシュに向けるのだった。
「さて、私も忙しいのであなた方にこれ以上付き合っている暇はありません。申し訳ないのですが、そろそろお別れいたしましょう。さようなら、我が友ジョン・ルブラッシュ!」
『パンドラの箱』に銃声が響き渡る。クラウドの横に立っていたルブラッシュが、ゆっくりと床に倒れて行く。
「さて、次はあなたの番ですよ。」
そう言ってクラウドに銃口を向ける。すかさず拳銃を抜いたクラウドは、フランクリン目掛けて引き金を引いた。弾丸は見事に相手の心臓に命中した。一方のクラウドはというと、かすり傷一つ受けていないようだった。
「師匠、もう起きて良いですよ。」
ルブラッシュに声をかけるクラウド。その声に答えるかのように、ルブラッシュの笑い声が聞こえてきた。
「やれやれ。空砲弾にすり替えてあると分かっていても、生きた心地がせんわい。イタタタ・・・。悪いが助け起こしてくれんか、ジーン。」
「相変わらず見事な死に様でした。本当に死体役をやらせたら世界一ですね、師匠は。しかし、こんな事もあろうかと弾丸をすり替えておいて正解でした。」
そう言うと、笑いながらルブラッシュに手を貸してやるのだった。
「笑っていられるのもそこまでよ、お二人さん!」
見ると、拳銃をこちらに向けたリリィの姿があった。彼女が手にしているのは、先ほどまでフランクリンが握っていた拳銃のようだ。
「リリィ、その拳銃の弾は全て空砲弾にすり替えてあります。そんなもの何の役にも立たちませんよ。君のお父さんを殺害してしまった事は申し訳ないと思います。しかし、こうでもしなければ、命がいくつあっても足りませんので。」
クラウドがリリィに向かって言う。銃口は相変わらずこちらを向いたままだった。
「あなたたち二人が馬鹿騒ぎしている間に、この拳銃に実弾を込める時間くらい幾らでもあったとは思わない?それに、私の事を幼い女の子だと思って油断しているみたいだけど、私はもう立派な大人よ。あの忌まわしい手術のせいで、いつまでたっても15年前の姿のままだけれどもね。」
「しかし、師匠は君を助けるために・・・。」
「私を助けるため?冗談じゃないわ。ジョン・ルブラッシュは単に自分の才能に溺れていただけよ。それに、こんな死体だらけの部屋で毎日を過ごしていて、私が幸せだったと思っているの?」
リリィの言葉になおも反論しようとするクラウドを抑えて、ルブラッシュが口を開いた。
「ジーン、もう良い。リリィ、お前さんの言うとおりじゃ。あの頃の儂は、ただ自分の才能に溺れておったのじゃ。15年間辛い想いをさせたな。儂を殺して気が済むのであれば、お前さんの手で殺してくれ。その代わり、ジーンは無事にこの部屋から出してやってくれ。」
「ジョン・ルブラッシュ、あなたの始末は後でするわ。目の前で自分の弟子が死んでいくのをそこで大人しく見ていなさい!」
そう言って、引き金に指をかけるリリィ。再び『パンドラの箱』に銃声が響き渡った。
「・・・・どうして発砲しなかったんだ。」
「ジーン・クラウド。あなたの事は、別に怨んではいないわ。父を殺した事も含めてね。あの人はこれまで数多くの犯罪に手を染めてきた。私もそれを知っていながら、父を止める事が出来なかったわ。止めるどころか、私自身も今までそれを手伝ってきたんだもの。罰が当たったのね。」
そう言って床に崩れ落ちるリリィ。すかさず駆け寄り抱きかかえるルブラッシュ。
「ルブラッシュおじさん。小さい頃から、いつも私の面倒を見てくれてありがとう。体が弱くて外で遊ぶ事も来なかった私を、いつも何かしら楽しませてくれたわね。本当だったら15年前に死んでいたはずの私がこうして生きていられるのも、全てあなたのおかげだわ。あなたには本当に感謝しているの。」
「リリィ、もうそれ以上喋るな。儂がまた、お前を生き返らせてやる。そして今度こそ、お前を外の世界に連れ出してやる。約束する。」
「いいえ、おじさん。私はもう十分生きてきたわ。それにこの15年間、本当はすごく幸せだったの。今まで私の事なんて見向きもしなかった父が、私の事を褒めてくれるようになったのよ、“お前は私の大事な娘だ”ってね。外の世界に出られなかったのは残念だったけど、こうして父と一緒にいられるんだもの、思い残すことはないわ。」
そう言うとリリィはルブラッシュの腕の中で息を引き取ったのだった。
エンチャーチ街の片隅にある小さなバー『ギムバック』。カウンターには若い青年の姿があった。頬杖をついて物思いに耽っている様子は何か悩み事でも抱えているのだろう、憂鬱そうな表情だった。
「ブルーマンデー、お待たせいたしました。」
青年の今の心境を象徴するかのような、蒼く輝くカクテルがカウンターに置かれる。グラスを差し出す店主の声で物思いから引き戻された様子の青年。
「マスター、自分の今の仕事を辞めたいって思った事、ありますか?」
「そうですね。確かに今のこの仕事は大変です。ずっと立ちっぱなしですし、生活リズムも不規則ですしね。それに、こんな小さな店じゃ大して儲かりませんからね。それでもやっぱり、この仕事が好きなのでしょうね。辞めたいって思った事はありません。・・・・・・あっ、いらっしゃいませ。」
どうやら別の客が来たようだ。その客は店内に入ってくると、青年の肩に手を置いた。
「なんじゃ、ジーン。妙に落ち込んでいるな。」
振り向いて確認するまでもなく、声でルブラッシュである事は気が付いていた。
「師匠が声を掛けておるのに、無視するとは何事じゃ!こっちを向かんか。」
いつもであればここで二人の掛け合いが繰り広げられるはずだったのだが、クラウドの方ではそんな気分にないらしい。
「この前の事はジーン、お前のせいではない。責められるべきは儂の方じゃ。お前を巻き込んでしまって悪かったな。マスター、儂にも何か一杯貰えるかな。」
そう言ってクラウドの隣に座るルブラッシュ。
「本来であれば安らかな眠りにつくはずだったリリィ。儂がこの世に呼び戻してしまったばかりに、余計な罪を背負わせてしまったわい。ジーン、お前のおかげで彼女は罪の連鎖からようやく解放されたのじゃ。儂からもお礼を言う。ありがとう。」
やがて店主が琥珀色の飲み物をルブラッシュに差し出すのだった。
「どうぞ。アンバードリーム(琥珀の夢)というカクテルです。地中深く、長い年月をかけて固化した樹脂は、いつしか琥珀という立派な宝石へと変化します。差し出がましいことを言うようですが。」
「いや、ありがとうマスター。おい、ジーン。リリィはきっと今頃、ジェームズと幸せに過ごしておる。心配するな。」
そう言ってグラスを手に取るルブラッシュに、クラウドもようやく笑顔を見せるのだった。
「ところで師匠。あれからずっと気になっている事が一つあるのですが。」
クラウドがルブラッシュに尋ねる。
「なんじゃ?言ってみろ。」
「師匠が今回、『パンドラの箱』に忍び込むのに使われたという『トロイの木馬作戦』の事なのですが・・・。」
「あぁ、死体に扮して特別金庫室に忍び込む、例の芸術的な作戦の事じゃな。それがどうかしたか?」
「どう考えても、そんな単純な作戦で忍び込めるとは思えないのです。本当はどうやって侵入したのですか?」
「それはな・・・・・・・ヒ・ミ・ツ・じゃ。」
そう言って、店主と一緒に笑い出すルブラッシュだった。
ある方から頂いた「金庫破りが出てくるお話」というリクエスト。それがキッカケとなって、今回の作品は書き始められました。本当は「あらゆるセキュリティをかいくぐって、手に汗握るスリリングな展開」というご希望だったのですが、私の力不足により良いアイデアが浮かびませんでした。(申し訳ありません。)
それでも、試行錯誤を重ねながら何とか完成まで辿り着く事が出来ました。当初予定していたのとは随分と違うストーリー展開となってしまいましたが、良い作品に仕上がったのではないかと思っております。楽しんでいただけましたでしょうか?