第二楽章の2
ゆっくりと食事をしながら、ゆっくりと空を眺め雲の行方を追いながら、ゆっくりとこうした不思議な出来事について心をただよわせながら、ゆっくりとした時間を食後のコーヒーとともに充分に味わったが、事務所に戻るのにはまだ時間が早い。僕は、陽のあたる広場を横切って教会堂の方に近づいていった。教会堂の中で座って、その空気の中で心を空白にすることは、僕の好きなことの一つだったからだ。教会堂によってその内部は、美しいステンドグラスを透した光りに溢れていたり、古の時代を照らした明かりを模した落ちついた薄暗さであったりするけれども、どの教会にも時代を越えて積み重ねられてきた、祈りの静けさとその底から聴こえてくる音楽が感じられるからだった。音楽は祈りから生まれてきた。僕はそう信じる者である。だから、時代を積み重ねた音楽の分厚い地層を、特に、こうした古い礼拝堂に座って耳をすませていると、その地層を慎重に探る考古学者になったかのように感じるのである。
教会堂の正面に向かってゆっくり歩んでいくと、広場の横手から一人の若い女性がうつむき加減で足早に入口に向かってくるのと、歩線が交わることとなった。僕の目の前まで来て、彼女が僕に気づいて、「あら、マエストロ」といった。それで僕も、彼女がハープさんであることに気づいた。「ああ、ハープさん。こんにちわ。教会に行かれるんですか」。
「ええ、今から教会の合唱団の練習があるんですよ。アマチュアの合唱団ですけれどもね」と、彼女はやや上目づかいで答えた。
「昨夜の今日で、お疲れじゃありませんか」
「いえ、昨夜のような演奏会ですと、ちっとも。素晴らしかったですもの。マエストロこそお疲れじゃありませんか。こんなに楽団員の皆と親しくなられたマエストロは初めてですわ」と、彼女が続けた。「昨夜のパーティーでも、ずいぶん盛り上がっておられたようですね」と、彼女が続けた。僕はちょっと恥ずかしくて頭を掻いて笑った。彼女も微笑んだ。
「私たちのコーラスをお聞きいただけますか」。
「それは、喜んで」と、彼女のために教会堂の重い扉を開いた。
聖堂は、思い描いたとおり、やはり天井が高く、石造りの壁と天井をふとい石の柱が支えていた。石の清潔な清らかさが堂内に満ちており、そこに正面のステンドグラスを透過して色分けされた光が、煌めいていた。朝の礼拝が終わってからすでに少し時間が経っているからか、聖堂内にはわずかな人々しか見られなかった。彼女は僕を聖壇のほうに誘導していった。聖壇の脇にある小さなパイプオルガンの周りに、すでに20人ちかくの男女が集まっていた。そのうちの一人に「コンダクター、私たちのマエストロです」と、僕を紹介した。彼は顔全体に喜びを浮かべて僕に手を差し出し、「昨夜の演奏を聞かせていただきました。とても感動しました。本当に心の底から揺さぶられるような経験でした。私はオーケストラの会員ですから、定期演奏会は欠かしたことがありませんが、昨夜のご演奏は本当に特別でしたよ。ありがとうございました」と、握手をしてきた。僕も、「ありがとう」と握手をかえした。
「マエストロに、私たちのコーラスをお聞かせしたいんですが」と、ハープさんが横から控えめにいった。
「聞いていただけるんですか。それは光栄です」と、もっと大きな笑顔で指揮者が僕にいった。僕より少し年上と見えるこのコンダクターが、これほど喜んでくれるなんて、僕はいったい何者、そういった戸惑いをおぼえながら、ハープさんの案内してくれた会衆席の前のほうに腰をおろした。
「それじゃ、小曲ですが」。そういって彼はこちらに会釈して、横列に並んで準備を整えた合唱団に向き直った。僕は彼らを正面から見つめた。ハープさんはアルトの列に立って、目が合って優しくほほ笑んだ。指揮者が静かに指揮棒をふりおろした。始まったのは「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。確かに短い曲ではあるが、静謐なメロディーラインは歌詞とともに、キリストへの信頼に満ちており、深い信仰の力を宿している名作である。彼らの合唱は、この石造りの教会堂に静かに拡がっていき、そのまま石の壁に吸い込まれていくような澄んだ清らかさに満たされたものだったので、僕の心にも沁みこんでくる美しさに満ちていた。短い曲が静かに消えていったとき、僕は思わず立ち上がった。指揮者がこちらを振り向いて会釈をしてきた時、僕は大きく腕を振って、音がでない大きな拍手を贈った。そして、「素晴らしい」と、低い声で感想を伝えた。指揮者も合唱団員も、嬉しそうに微笑んで会釈をかえしてくれた。
「お聞きくださってありがとう」と指揮者がやはり低い声で答え、「これから僕たちは練習を始めます。完成品とは違って、お邪魔かもしれませんが」と続けた。
「いいえ、私こそお邪魔かもしれませんが、しばらくこの礼拝堂で過ごさせていただきます。すばらしいアヴェ・ヴェルム・コルプスを聞かせてくださってありがとうございました」。そういって僕も、もう一度彼らに礼をした。
聖壇と十字架を正面に、僕は少しさがった席に着いた。彼らが練習を始めた曲は、メサイヤのパートであるようだった。クリスマスにでも演奏が行われるのだろうかと思いながら、僕は教会の空気の中に沈み込んでいった。目を瞑って、この数日のことを思い巡らしていると、合唱団が練習する声が徐々に遠のいて、天上から聴こえてくるような気がした。合唱練習は、有名なハレルヤのパート練習にかかっていた。僕は瞑想に沈み込んでいき、すべてが遠のいて自然に祈る姿勢になっていった。素晴らしい命の喜びが突然身体じゅうを満たした。すべての不思議がさまざまな色になって、僕の身体の周りに充満しているのが感じられた。それは、ステンドグラスを透して届く光のようで、それよりももっと鮮やかな力強さであった。そのまま、恍惚が僕を満たしたまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。ハープさんがそっと呼びかける声に、僕は今、教会の椅子に座り、ステンドグラスと聖壇を見つめている自分に気がついた。
「マエストロ、私はこれからオペラハウスに参りますが、マエストロはどうなさいますか」。
「ああ、ありがとう。僕も行かなければ」。
僕たちは、聖壇の横でそれぞれに帰り支度をしているコンダクターと合唱団の人々に手を振って挨拶をし、連れ立って教会を出た。いつの間にか時間が過ぎて、午後遅くの陽が広場と街を柔らかく照らしていた。
「メサイヤは、クリスマスシーズンの準備ですか」と、僕が尋ねた。ハープさんはこちらに顔を向けて、コクリと首を動かした。
「それにしても、昨夜はすばらしい夜でしたね。それに、不思議な夜でした」と、ハープさんが話題を変えた。
「トゥーランガリラ交響曲には、ハープはありませんね」と僕。
「もしマエストロのお許しがあれば、私は鍵盤楽器をさせていただきとうございます。確かたくさんの鍵盤楽器が参加していたと思いますけれど」と、彼女が少し緊張気味に答えた。
「ああ、それは良い」。思わず弾んだ声で答えてしまって、直後に少し恥ずかしくなった。それで、僕たちは肩を並べてそのまま黙って道をたどった。
オペラハウスには、すでに、思ったよりも多くの楽団員が集まっていた。事務局長の顔はまだ見えなかったが、ステージマネージャーが集まってきた楽団員たちを客席の前方の席に案内していた。皆は三々五々思い思いの席についてお喋りをしていたが、僕とハープさんが入っていくとトランペットさんがにこにこしながら寄ってきて僕たちの座った席の前列に後ろ向きに座って話しかけてきた。
「僕はもう待ちきれなくて」と、彼はうきうきした調子で話した。「今日はもうステージマネージャーが来る前から外で待っていたくらいなんだ」。「昨日の申し出が本当の話かどうか考えると、夜もおちおち眠れないくらいだった。今日になって全て無かったことになるんじゃないかと心配でね」。
「僕も不思議で仕方ないんだ。突然のチャンスだからね。君の気持はわかるよ」と僕は答えた。
「マエストロは、実は世界的な大金持ちの隠し子ってことはないでしょうね」と、彼は顔をくちゃくちゃにして笑いながら続けた。「だって、向こうの人は、マエストロの指揮という条件を、とても強く主張されたようですよ」。
「まさか」。僕は笑いながら答えた。たしかに僕には、今は家族と呼べる人はいないけれど。
「とにかく僕は嬉しいんだ。ぜひ、今までの僕たちのレパートリーを越えた作品に挑戦したい。僕たちのオケは、ちょっと保守的ですからね。それにこの町の人たちも」。
「この町の人たちは、私たちのオーケストラを愛してくれていますわ」と、ハープさんが控えめに答えた。
「そうですね。それは僕にも感じられましたよ」と僕が彼女を見つめて言った。あのウェートレスの少女が思い出された。
ちょっとくすぐったいような表情を浮かべて、トランペットさんは僕たち二人を見つめて、それから、「勿論ですとも。でも僕は新しいレパートリーに挑戦できるこのチャンスを逃したくなくてね」と笑顔を見せた。
しばらくすると、舞台の上に事務局長が急ぎ足で現れた。皆が雑談をやめてそちらに注目した。
「昨夜のあの提案は、本物でした」と、ゆっくりした口調で始めた。
「今日の午前9時に、事務局に電話がありました。そして、私たちが相手方のご提案に同意する旨をお伝えしました。相手の方からも、あらためて同意をいただきました」。
「まだ、いたずら電話である可能性はあるんじゃないか」と、ファゴットさんがゆっくり突っ込んだ。
「それはありません。約束のお金がすでに振り込まれています」。
「今日は日曜日じゃないか。どうしてわかるんだ」と、ティンパニーさん。
「おっしゃるとおりです。相手の方が今日の午後に振り込むとおっしゃったのですが、私も心底からは信用できなかったので、私たちの理事のメスナーさんに頼んで、特別に調べてもらいました。ヨハネスは、皆も知っているとおり銀行の支店長ですから、そうしたら、ちゃんと約束のものは振り込まれていることを、ついさっき確認してきたところです」。
座っている楽団員たちがどよめいた。
「それじゃ、いよいよ本当に準備にかからなくちゃならないわけだ」と、トランペットさんが叫んだ。
「そのことについてですが、スコアとパート譜の準備はステージマネージャーにすでにお願いしてあります。その他の準備、エキストラの手配についても、この後すぐに開始する予定です。そこで、マエスロト、今後の練習のすすめ方などでアドバイスがありましたらお願いします」。
突然に発言を振られて、僕は驚いたが、立ち上がって、ゆっくりステージに向かいながら、なにをいうべきか頭を整理した。ステージに上がり、楽団員たちの方に振り向いて、ゆっくりとした口調でまだ考えながら話し始めた。
「この曲は、このオーケストラでは初めて演奏されるわけですよね」。
何人かの楽団員が頷くのが見えた。
「それで、全体でのリハーサルは少なくとも5日前に開始することとします。その前に、各パートごとの練習をしていただきます。パート練習には私も何度か同席させてください。エキストラが参加するわけですが、当然皆さんが演奏の核となっていただかなくてはなりません。私も、皆さんのパート練習に参加させていただくことによって、曲全体のイメージをつくりあげなくてはなりませんから、皆さんがパートをつくりあげる過程に参加させていただきたいのです。楽器によっては、私が無知であるものも含まれていますので、皆さんから教えていただかなくてはならないことも多いと思います。パート練習のスケジュールについては、各パートの主席にお任せします。スケジュールが決まれば、事務局に報告してください。私はそのスケジュール表を見て、参加可能な時間で、それぞれのパート練習に参加させていただきます。明日から3日間は、私は一人で籠るつもりです。それから、」と言って事務局長のほうを向いて続けた。「指揮者の部屋にあるピアノを使わせていただきたいのですが」。
「もちろん、ご自由にお使いください。あとで鍵をお渡しいたします」
「皆様と同様、私にもこの出来事全体が、なぜなのかわかりません。しかし、このような機会を与えられたことは、私にとっても、これも皆さん同様にとても幸せなことです。皆さんと一緒にすばらしいものをつくりあげましょう。なんだか、突然指揮者コンテストに出場することになったような気持ちですが」。
最後まで真剣に聞いていてくれた楽団員たちは、最後のことばで私と一緒に笑ってくれた。「僕たちもそうですよ」という声もかかった。
楽団員の集会が終わって、皆がそれぞれに家路についたあとで、僕は事務所によって鍵を受け取った。スコアは明日の昼ごろまでには用意すると、ステージマネージャーが請け負ってくれた。とにかく、この古典派のクラシックを演奏するオーケストラのライブラリーには、まだ「トゥーランガリラ交響曲」の楽譜は備えられていないので、明日にならなければ届かないのだそうだ。僕ももちろん、旅先には限られたスコアしか持ってきてはいない。
「マエストロ、急ですけれど今晩のご予定はありますか」と、事務局長がたずねた。もちろん、そんなものは僕にはない。そう答えたら、「もしよろしかったら、今晩の夕食を我が家でご一緒しませんか」と招待してくれた。「私の車でお連れしますから、ちょっとお待ちいただけますか」と。