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第二楽章 奇妙な提案と「トゥーランガリラ交響曲」


2.奇妙な提案と「トゥーランガリラ交響曲」


 「今夜、突然に提案されたことは、奇妙な提案ではあるけれども、僕たちのオーケストラにとっては悪い話ではないと思っています」。事務局長が続けた。「それは、僕たちがある条件に従うことに同意すれば、僕たちのオーケストラの3ヶ月分に相当する寄付をいただけるという話なのです」。

 「それは、僕たちが公演会などで、自分たちで稼ぐ3か月分の予算ということなの」と、トランペットさん。

「いや、寄付金や公的支援も含めた全予算の12分の3ということだ」

「それはすごい」と、何人かが呟いた。

「それで、条件とは何なの」。

「条件は、2週間後に臨時の公演をおこなうこと。その曲目が、メシアンのトゥーランガリラ交響曲だということだ。おわかりだろうが、これが、僕が明日9時までに返事を用意しなくてはならない条件の一つなのです。そして、皆に急いで集まっていただいた理由だよ」。

 会場は少しざわついていた。2週間後にトゥーランガリラか、といった私語が飛び交っていた。

「いいじゃないか、まだ2週間ある」と、またトランペットさんが言った。

「でも、私たちの団員構成では無理だね。楽器が圧倒的に足りないだろう」と、ファゴットさんがのんびりした声で言った。

「あれはたしか、打楽器奏者が8人もいるぞ。僕たちは2人しかいない」と、ティンパニーさん。

「ピアノはともかく、オンド・マルトノはどうするんだ。演奏者と一緒に楽器も借りなくてはならない。予算をくれるといったって、こうした費用を考えたら、たいして助けにはならないんじゃないか」。これを云ったのは誰かわからなかった。

「だけど、そろそろ、今まで僕たちのレパートリーじゃなかったことに挑戦したいんだ」と、トランペットさん。何人かの団員が頷くのが見えた。

「でも、僕たちのこの街で、突然トーランガリラを公演しても、みんな来てくれるかなぁ」と、オーボエさんが呟くように言った。

 こういった様々な声が入り混じるなかで、事務局長が答えた。

「エキストラや、余分にかかる費用は、さっきの提案とは別に向こうが持ってくれるそうだ。それに、短時間でエキストラを集めるという問題にも協力してくれるそうだ。ステージマネージャーが、向こうと相談しながら何とかしてくれるだろう」。

 このことについては、何も聞かされていなかったのか、僕のそばにいたステージマネージャーが飛び上がるように驚いていたが、何も言わなかった。

「とにかく一週間でエキストラを集めるなんて不可能じゃないのかなぁ。それぐらいで集められないと、リハには間に合わないだろう」と、相変わらずのんびりとした声のファゴットさんが意見を言った。

「実は僕も同じような心配を、電話で向こうに伝えたんだが、向こうは自信があるようだった」と、事務局長。「それにこの件がまとまれば、成功するにしろ失敗するにしろ、団員には一月分くらいのボーナスを出す余力が久しぶりに出る」と付け加えた。

 低いどよめきが部屋を満たした。ごたぶんにもれず、皆、苦労しているのだと思った。リハーサルの時間を制限されたのも、楽団員がアルバイトをせざるを得ないからだろうというのは想像できたからだ。でも、本番の直前までアルバイトをするのかいと、僕なんか独身者はつい思ってしまうけれど、ほとんどが家庭持ちだろうなぁと考えると、強く非難する気持ちは静まってしまう。逆に、音楽というプロフェッションに、苦労しながらでもしがみついて、そのことを何よりも誇りとしている彼らは、僕と同類の人種だということが感じられて親近感がわく。一か月分のボーナスがいかばかりのものかは知らないが、彼らにとってはちょっと息をつくことが可能な金額なのであろうと思えた。

「やってみようよ。僕はやりたい」と、またトランペットさんが大声で賛成した。ボーナスはともかく、うれしいには違いないけれど、僕たちを支えているのは、結局、この音楽をやりたい思いに違いない。

「条件はそれだけかい」と、誰かが質問した。

「いや、ここまでが第一の条件なのだ。それじゃ、この条件にはみな賛成してくれるんだね」と、事務局長が皆に念を押した。積極的にやりたがっているトランペットさんから、不安の方が強いようなオーボエさん、色々発言したけれど、のんびりと構えているファゴットさんまで、皆の表情はいろいろではあったけれど、誰も積極的に反対という人は出なかった。一番不安そうなのはステージマネージャーさんだったかもしれない。

「もう一つの条件は、マエストロなんだ。マエストロ、このトゥーランガリラ交響曲の指揮を引き受けてもらえますでしょうか。僕たちのオーケストラで、マエストロが指揮をして演奏することというのが、向こうの提案の条件なのです」。

「向こうっていったい誰なんだい」と、誰かが呟くのが聞こえた。

 まったくそのとおりだ。いったいこの奇妙な、突然の提案は、いったいどんな人からのものなのだろう。

今まで僕は、この問題に僕自身がどう関係しているのか考えないままに、周りの楽団員たちを観察していたのに、突然、その提案が直接僕にふりかかってきて、何と答えようか迷ってしまった。トゥーランガリラ交響曲は、学生時代に読譜したことはあったものの、それ以後にはあまり勉強する機会がないままできた曲だ。わずか2週間で準備できるだろうか。幸いぼくは売れっ子じゃないから、2週間後までの予定は何も詰まっていない。でも、2週間とは。今までとは逆に、周りの団員が皆こちらを向いて、僕の反応をみまもっている。もちろんやりたい気持ちはあるが、普通もっと勉強する時間があるものだ。とくに全く新しい曲で、ことがそれなりにちゃんと進むときには、何ヵ月も前からスコアを読んで、自分なりの世界を築いていなくてはならないのだから。今回はたった2週間で、勉強と指導とをやり遂げなければならないのだ。しかも、多くのエキストラを抱えることになっているこのオーケストラを率いて。僕が考え込んでいるので、その場がシンとなった。このスケジュールでやれと言うのじゃ、まるで指揮コンテストに出場するみたいだなと思いつくと、思わず笑えてしまった。

「ウー。僕はやりたいです」。考えた末に出たのは、その一言だった。そして続けた。「僕は、この曲についてはまだ勉強が足りません。でも、もし皆さんがこれを引き受けられるのだとしたら、必死で勉強しながら、皆さんと一緒にこの曲をつくりあげたいと思います。今夜、僕は皆さんと一緒にすばらしい経験をしたところです。こんなに幸せな演奏会は、僕は、初めてでした。ですから、今、自信があるとか、これが自分にできるという確信があるわけではありませんが、皆さんと一緒になら、素晴らしいことが起こりそうな気がするからです」。そう答えたところで、拍手と「やりましょう」といった声とが湧きあがった。

「ありがとうございます。分かりました。私たちも、マエストロと一緒にすばらしいことができそうな気がします。よろしくお願いします。マエストロの事務所には、明日、私の方から連絡を入れておきます」。事務局長がそう答えてくれた。

 もともと、かなり陽気な祝祭的な雰囲気のパーティーだったが、奇妙な提案を受け入れて、新しい課題に挑戦するという決心がついたためだろう、その場の雰囲気は、全員の気分は、最高に盛り上がって遅くまで続くこととなった。

「まさか、いたずら電話ってことはないだろうなぁ」と、誰かが大声を上げた。

「それも、明日の午後にはハッキリするでしょう。定期演奏会が終わったところですが、明日の夕方頃には、皆、事務所との連絡がつくようにしておいてください」と事務局長が指示して、臨時の全楽団員集会は、いきが上がった陽気な気分のままで閉会した。


 翌朝は、遅くまで起きることができなかった。長い眠りの途中、何度か夢に起こされかけたが、はっきりとは覚えていないけれど、結局、悪夢ではなかったせいだろう、起きることはなかった。最後に目覚めたときにも、とても幸せなコーラスがはっきり判別できない夢とともに消えていくところだった。こんな風に眠ることは久しぶりのことだ。そして、こんなに満たされて目覚める朝も久しぶりのことだ。昨夜の幸せが今も続いていることを感じた。昨夜のできごとは、あれははっきり覚えていない夜中の幸せな夢だったのではなかったのだろうかと思えるほどだった。しかし、痛飲したのに頭はすっきりしていたし、確かにパーティーの最後ごろにホルンさんと肩を組んで何か歌っていたような気がする。皆の指導者たるべき指揮者が、こんなにも親しく仲間つきあいをして良かったのだろうかという反省もあったが、昨夜の演奏は、皆が、もちろん僕も、これほどまでに幸せに酔いしれるものであったという自負もあり、まあ良いか、済んだことはいまさら変えられないと納得した。とにかく熱いシャワーを浴び、濃いコーヒーを沸かして飲み、もう昼近くなっているので出かけることとした。

 日曜日である。さすがに今日は、この時間には、まだ事務所は開いていないだろうと思った。いや、それとも事務局長たちが、連絡は朝の9時と言っていたっけ。もしかしたらそのまま誰かいるかもしれない。坂を少し下って昨日のレストランの前を通ったが、ここも今日は閉まったままだった。昨夜遅くまで皆で騒いでいたからなぁ。あの騒ぎ声は、ここから見晴らせる街に遠くまで拡がっていたのではないだろうかと、ふと気がかりになった。坂を下って公園を横ぎり、オペラハウスのドアが閉まっていることを確認して、旧市街に足を向けた。道の両側には3階建てにそろった住宅が並んで、その2階の窓にそってバラやミニバラ、マリーゴールドや美女桜などの手入れされた花が輝いていた。途中のお店は閉まったままで、市電の軌道のとおる大きな道にまで出て、それに沿ってゆっくり歩いていった。新しいビル群が徐々に頻度を減らして、古い建築物の頻度が増し、道の両側のほとんどを占めるようになって、突然目の前が開けた。街の中央広場に出たようだ。さすがにこの広場の周辺には、パラソルを店前に出してイスとテーブルを広げた喫茶店が数軒、すでに営業していた。ほどよく歩いてちょうど空腹も感じていたところで、その店先のパラソルの下に座って、軽いブランチを注文した。トーストと卵と小さなサラダとコーヒーの、簡単な食事をゆっくり味わっていると、あらためて昨日のことが夢のように感じられた。あの成功と、そのあとのパーティーと、そしてあの奇妙な申し出。すべてが本当のことのようには思えなかった。広場の反対側には、大きな教会堂がそびえていた。教会の尖塔が深い青空に突き刺さるように聳えているのに沿って、視線が自然に天空に誘導されるようだった。広場には、ほどよい間隔で銀杏の樹が植えられていて、木陰にはベンチがおかれていた。その景色を眺めながらも、僕の頭のなかには、新しい疑問がますます大きく渦を巻き始めていた。あれはいったい誰なのだろう。なぜ僕やこのオケが指名されたのだろう。なぜなんだろう。なぜ。この新しい不思議に較べたら、昨日の朝まで心にかかっていたオーケストラに関する疑問など、今はどうでもいいことに思えた。とくに、昨日の定期公演会で、オーケストラとの一体感を経験してしまった今となっては。コーヒーを飲みながら、空を見上げた。空の高いところに巻雲が流れていた。



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