第一楽章の7
指揮者の部屋にもどって、僕は感謝の祈りを捧げた。このような演奏を、楽団員と共に創りあげることができたことに感謝の祈りを呟いていた。音楽と共に生きる喜びに、心からの叫び声をあげている自分がいた。それと同時に、明日はもう彼らと、このオーケストラと別れていくことを思うと、頭にも胸にも寂しさが満ちてくるのを感じた。
ノックの音がした。そして、事務局長が入ってきた。いつもどおりの落ちついた表情だったが、目の周りがほんのりと赤くなっている。「マエストロ、お疲れ様でした。素晴らしい演奏でした。私も久しぶりに感動しました。ありがとうございました」。そういって深々と礼をされた。「こちらこそ、こんな素晴らしい機会を与えてくださって、ありがとうございました」と、僕も深々と礼を返した。「マエストロ、うちのオーケストラでは稀なことなんですが、」と事務局長。「楽団員の有志で今日の定期演奏会の打ち上げをすることになっています。そこにぜひマエストロをご招待したいと皆が言っているのですが、ご参加いただけますか。マエストロはK氏のように団員とは個人的にお付き合いされないのでしょうか。それともB氏のように、そういった交わりにも参加してくださる方なのでしょうか」。謹厳な口調のままで、事務局長が訪ねた。「私は、まだ自分の方針を決められるほど経験豊かではありませんが、今日の気分でいうと、そしてご招待してくださったこのオケの皆様に対する感謝の気持ちからすると、B氏の方針でいきたいと思います。ところで、このような打ち上げをすることは珍しいことなんですか」。「いいえ、そうではなくて、皆がマエストロをご招待したいと言うことが珍しいことなのですよ」。「それじゃ、ますますお断りすることはできませんね」。今日、素晴らしい演奏を一緒に作り上げた興奮がまだ残っている僕は、その時はあまり不思議に思わずに招待に答えた。
打ち上げは、10時からで、会場もすでに知っているレストラン、僕の宿の近くの、二度昼食を食べたあの坂の途中のレストランだったので、とりあえず急いで部屋に帰り、シャワーを浴びて着替えをする時間があった。10時を少し過ぎて会場に着くと、小さなレストランは人で一杯だった。オペラハウスから直接こちらへきた団員も多かったようだ。早く着いた人たちは、もうけっこう盛り上がっている様子だった。入り口付近にチェロの主席がいて、マエストロ、こちらへと、僕の腕をとって奥の窓際の椅子まで案内してくれた。僕が顔を見せると、何人もの団員が笑顔を見せてくれたし、ちょっとした拍手も起こった。コンマスもワイングラスを二つ持って、僕のそばに来てくれて、二人で乾杯をした。レストラン内は、口々に話し合う声に満ちていた。集まっているのは30人ぐらいだろうか。それでも、部屋中が人であふれている感じだった。ホルンさんが近寄ってきて、恥ずかしそうに握手を求めてきた。僕は本当に喜んで、彼と固い握手を交わした。だって、彼こそが今日の影の功労者に違いないのだから。そんなこと彼には言えないけれど、彼のあのちょっとした失敗が、そのあとの奇跡を生んだのだから。そして、彼こそ僕を最初に彼らの指揮者として認めてくれた人に間違いないと確信していたのだから。
パーティーは、特に誰かが挨拶するとか、乾杯の音頭をとるとか、そういったことは一切ないままに、料理をつまんだり、次々と回ってくる楽団員さんたちと乾杯しながら、過ぎていった。今日の定期演奏会の音楽について話し合うことはほとんどなかったが、誰もが出来栄えに満足している様子がよく伝わってきた。僕は、どちらか言うと皆の話の聞き役だった。しかし、これほど皆が喜んでいるわけは、その時は本当には解っていなかった。ただ、今日の演奏に、皆が満足していることだけを感じており、そのおかげでこの交わりに加えられたのだと思っていた。
しばらくして僕は事務局長とステージマネージャーの姿が見えないことに気がついた。彼らはこの打ち上げには参加しないのだろうか。そう思っているところに、ちょうどまた僕の傍にチェロの主席さんがまわってきたので質問してみた。「事務局長たちは、この打ち上げには参加されないんですか。事務局長からお誘いの伝言をいただいたのですが」。僕がそういうと、彼もやはりちょっと気にしているようすで、「いや、いつもは参加するのだがな」と答えた。11時を過ぎた頃、事務局長がステージマネージャーの運転する小さな車で駆けつけてきた。急ぎ足で会場のレストランに入ってきた彼のようすは、いつもの真剣な顔つきで、何か気にかかっているというようすだった。「遅かったじゃないか」とチェロの主席が声をかけた。事務局長はチェロの主席にちょっと手を上げて挨拶した。彼らはきっと古い親友なのに違いないと思わせる空気があった。それから、彼に手招きをし、二人は肩を抱き合うようにして部屋の隅に移動した。しばらくチェロさんの耳に口をよせて何かささやいていたが、途中でチェロさんが驚いたように事務局長に向けて顔を上げた。事務局長がそれに対して何度かうなずくのが見えた。チェロ主席さんは、しばらく考えているようだったが大きくうなずくのが見えた。
「遅かったですね。あと始末だったのですか」と、ちょうど近づいてきたステージマネージャーに話しかけた。「いえね。後始末は明日です。すぐに分かりますがね、団員全員に連絡をつけていたのです。今日みたいな日には大変な作業でしたがね。ここにすでに来ている人たちは別にしてね」。「何が始まるんですか」。「うちのオケの全楽団員集会ですよ」。彼はそう言いながら手にしたワインを飲みほした。彼は車で来たのじゃなかったかなとまず思った。それから、全楽団員集会だって。その聴き慣れないたいそうな言葉が、ようやく意識に昇ってきて、僕はちょっと鼻白んだ。そんな場所にはいたくない、いや、いる権利はないと感じた。しかし同時に、ちょっと興味もわいた。少なくとも、これから開かれる集会を垣間見れば、どのようにして自分が呼ばれたのかを想像できるかもしれない。しばらくすると、外の道に次々と車が停まりだして、それほど広くない道の半分が駐車場のようになり始めた。なかにすでに集まった人々と違って、どちらか言うと苦虫をかみつぶしたような表情の人々が、すでにほぼ一杯になっているレストランに入って来はじめた。なかで盛り上がっていた人々も、この異変に気づいたらしかった。今までの楽しげな話し声や歓声が、ざわざわとしたものに変わり始めた。あとから来た人々は、座る場所も十分ではないレストランで、食事やワインに突進するでもなく、事務局長やステージマネージャーを、何となく非難めいた雰囲気で囲みはじめた。
事務曲長が暖炉のある壁際に移動した。傍に、首席チェロさんとコンマスさんが付き添う形となっている。チェロさんがゆっくりとした拍手を始めた。コンマスさんもその拍手にあわせて拍手し始めた。集まった皆は、徐々に事務局長さんに向き直り、お喋りもやんでいった。皆の注意が十分集まったところで、事務局長は、ワイングラスを高々と掲げていった。「まずは、今日の定期演奏会が満足のいく結果となったこと、おめでとう」。これには、後から参加してきた団員たちもあまり異議がないようで、ワァーと賛同の声があがった。同じくグラスを高々と掲げている人たちも多く見られたし、僕の方を振り向いて笑いかけたりウインクをする楽団員も少なくなかった。僕も、酔いも交じって顔を赤らめながら軽く会釈して、ワイングラスを高く掲げて乾杯した。「実にこんなに気分よく演奏会の打ち上げができることは、それにマエストロをお招きできることは、本当に久しぶりのことだ。皆さんの演奏を、心から祝福したい。また、感謝したい。こんな特別な夜に、まっすぐ帰宅した人々まで急遽呼び集めて、全楽団員集会を開催するなんて無粋なまねはしたくなかったのだが、明日の9時までに僕たちの意見をまとめておく必要が生じたのだ。呼び出された諸君にはまことに申しわけないが、どうか許してもらいたい」。事務局長がこうあいさつを続けると、座はしんとした。誰にも全楽団員集会が召集された理由がわからないらしかった。僕も好奇心を抑えきれない気がしていたのだが、それでもここにそのまま居座るわけにはいかないと思えた。それで、手を上げて「僕はこの場に同席させていただくわけにはいかないと思いますので、今日はこれで失礼します。皆さん、本当にありがとうございました」と挨拶して、帰ろうとした。ワッーと歓声と拍手が上がった。「いや、マエストロ。この話はあなたにも関係があるので、申し訳ありませんがこのまま一緒にいてください」と、帰ろうとした僕に事務局長が大声でいった。
エッ。僕にもかかわる話だって。