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第一楽章の6


拍手に迎えられてライトの中を指揮台に進む歩調が、楽しみと緊張で乱れそうになる。スキップかタタラを踏みそうになるのを抑えながら、落ち着いた顔でこの道を歩むことが普通になる時がいつか来るのだろうかと思いながら指揮台に辿りついた。聴衆に向かって礼をすると、会場の埋まり具合は約七割といったところだろうか。

 最初は小品で、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』である。なぜこの小品を劈頭に持ってきたのかは、最初から疑問に思っていた。何故こんなに優雅な小曲で始めるのかとも思ってきたが、ここまできたらそういった惑いも全部心から払うことと決した。もしかして、開演に少し遅れる人のための心遣いなのか。

 静に楽団員に向き直り、全員の顔を見回した。さすがに今は、全員の顔がこちらを向いている。たった3日間のリハーサルでのお付き合いにすぎないのに、皆の顔がすでに懐かしいものであるかのような気がした。

空気が止まった。腕をあげて、最初の拍を振り下ろす。ホルンが弦楽器群のピッツィカートを伴って、主題旋律を優雅に、哀愁をおびて唄いはじめる。美しい荘重なメロディーが一巡したとき、なんと、7小節目でホルンの音が一瞬裏返った。聴衆には気づかれなかったかもしれない。いや、どうだろう。しかし、オケの全員は気づいたはずだ。ゲネプロを加えて9回のリハーサルでは、一度もこんな失敗は起こらなかった。驚いてホルンさんを見ると、演奏を続けながら、真っ赤な顔をして目をみひらいてこちらを見つめている彼と視線がであった。ホルンさんの動揺が伝わってくるような目であった。謝罪しているようだとも感じる。僕は思わず、顔中で笑ってしまった。そして、彼に向かって頷いた。それは、このオケを振るようになって初めて、指揮者として認められた気がした瞬間だったのだ。僕は、僕を彼の指揮者として認めてくれたホルンさんを心の底から愛おしく思ってしまったのだ。指揮者として認められた喜びが思わず顔に出て、笑顔をうかべてしまったのだ。ホルンさんが仲間として意識された瞬間だった。そして、その時、僕の笑顔を、じつに楽団員全員が見つめていることを感じた。チェロの主席が僕の方を見て、頷いて、にっこりと笑った。そのとき僕の心のなかで響き渡るものがあった。ああ、彼こそがこのオケのビートさんなのに違いない。コンマスが僕の指揮に引きずられそうになった一瞬にも、しっかりと錨を下ろしていたのはきっと彼に違いない。そして同時に、奇跡が起こったことに気がついた。僕の頭の中で響くオーケストラの響きと、耳に聞こえてくるオーケストラの響きが、ついに重なったのだ。なんと、この曲はこんなにも短いものだったのか。ついに僕の演奏となったこの曲を終わりたくない。僕は曲が終わるのを惜しみながら、最後のピアニッシモが震えて消えていくのを見送ったのだった。

休憩時間は置きたくなかったが、そういうわけにもいかないではないか。正直にいってその時の僕の頭は空白だった。聴衆に礼をして、拍手に送られて舞台裏に引っ込んだのだと思う。今の感覚を失いたくない。僕は与えられた休憩時間のあいだ中、指揮者室の中を歩き回っていた。早く次の指揮にかかりたい。彼らが僕を認めてくれている間に。あるいは、先ほどの、あの共に創りあげたハーモニーは、あの場限りのものだったのだろうか。次の曲が始まる時には、もう失われているのではなかろうか。そのような焦燥めいた気持ちも渦巻いて、じっとしておれなかったのだ。ついに一緒に作り上げることができたという大きな喜びと、それが次の瞬間には失われるのではないかという不安が、メトロノームの針が振れるように僕を揺さぶり続けた。

どのように指揮台に辿りついたのか、はっきり記憶していない。呼ばれて、舞台袖でコンマスと会釈して、夢遊病者のように歩いたのだろうか。分からない。しかし、団員たちを見渡した時に、彼らの顔を順に見つめたときに、先ほど、短い曲ではあったけれど、共に創りあげたのだという事実は、あの時限りのものではないという確信が生まれた。頭が突然清明になった。二日つづけて見たこの街の朝の風景が目に浮かんだ。必死に保たれている誇りという言葉が、突然意識された。「私たちのオーケストラ」と嬉しそうに微笑んだウェートレスを思い出した。ナポレオン戦争が終結に向かっている時代を思い描いた。苦しみの末に、夜明けの微かな僥倖を仰ぐ歓びを唄いあげようと思った。団員の顔をもう一度見渡した。チェロの主席と目があい、うなずき合った。コンマスと目があい、うなずき合った。夢のような気がしながら、タクトを振りあげた。第一主題が、町の空を流れたように流れ始めた。

もう間違いはなかった。最初の日のあの悲しい思いをしてからたった3日目に、とうとう彼らと一緒に音楽を創ることができるようになったのだ。僕はただただ音楽を奏でるのに熱中していた。種を蒔きつづけた僕の指示が、まったくの無駄に思えながら種を蒔きつづけたのが、今、目の前で芽を出して実現されていく。僕はもう二つの音楽を聴く必要はなくなったのだ。頭のなかと耳とに同時に聞こえる音楽はついに一致したのだ。ビートもまた、今は僕のものだ。いや、僕たちのものだ。楽団員も、最高の音楽を奏でたいという思いをもったプロフェッショナルであるのだから、彼らを信用して共に創りあげればいいではないか。

モーツァルトの交響曲40番は、今まで僕が演奏した中で最高のものとなった。音楽家が王侯貴族のものであった時代に生まれ、その体制が揺らいでようやく力を蓄えはじめた市民に音楽が広く開かれようとしていた時代、そうした時代に生きたモーツァルトは、自分の存在とはどのようなものであると考えていたのだろう。自分に与えられた使命は、どのようなものだと考えていたのだろう。人が次々に生まれ、そしてその多くが幼くして死んでいった時代、ようやく生き残った人々の多くも生きることにのみ追われていた時代、そんな時代を生きていた人々のことを想いながら指揮を続けた。モーツァルトの哀しみと喜びが、オペラハウスに響き渡った。それは、あの時代の人々の哀しみであり喜びであった。死を親しいものと知る知識をあたえる神に感謝していた人々の、透明で純粋な信仰と希望を思って指揮を続けた。いや、今も祈りを忘れるわけにはいかない。これはいまだに、多くの地域、国々を蔽っている状況なのだ。この哀しみと喜びは、私たち人類を今とりかこんでいる哀しみと喜びでもあるのだ。この瞬間も、小さな地球のうえで、打ち続く戦乱と飢餓、疾病など、さまざまな出来事により理不尽に愛する家族や隣人を失う悲しみ、そのような状態が続いていることへの怒りと、しかし、それにもかかわらず私たちが持ちつづけている力強い希望を、モーツァルトは今もここで歌いつづけていることを、今日この瞬間に、この仲間たちと共に歌うのだ。そういった想いが心を満たした。いよいよ第4楽章に入って、ヴァイヨリンがさらに切なく走りはじめ、すべての絃楽器と管楽器が、あるいはそれを追いかけ、あるいは強い和声をうちつけるようになり、目の回るようなめまぐるしい転調が降り登りするころになると、胸が苦しくなった。目の前にいるチェロの主席が、温顔を振りながらリズムをとって僕を見上げている。彼のたしかなビートが走りそうになる僕を支えてくれているようだった。そして最後のヴァイヨリンが三回繰り返す主題とそれを支える和音によって終曲となった。

すべての音が鳴りやんだとき、頭のなかにも、もう一つの音も残ってはいなかった。何も考えられないまま、楽団員の顔を見まわしていた。楽団員の顔がぼやけて、涙があふれてきたことを知った。涙に曇ってはいるけれど、何人もの楽団員の笑顔がこちらを向いていることがわかった。チェロの主席が大きくうなずいているのが見えた。コンマスも歯をみせて笑っていた。それでもぼんやりと、皆の顔を見まわしていた。ホルンさんが、にっこりしながらウインクをおくってきた。そして、指を一本たててくるくる回した。そうだ。聴衆だ。振り向くと、大きな拍手が耳に入ってきた。聴衆が立ちあがって、拍手をしているのが見えた。指揮台にのったままで、深くお辞儀をした。そして慌てて指揮台から降りた。足がよろけそうになった。コンマスと握手をした。もう一度お辞儀をした。そして思い出して、楽団員に立ちあがるように合図をおくった。もう一度深くお辞儀をして、僕はよろよろと舞台をさがった。そして、また呼び出されて、お辞儀をした。楽団員を何度も立たせて、彼らの健闘をたたえた。この曲たちは、そしてこの賞賛は、まちがいなく彼らのものだ。何度彼らを祝福したか、僕は覚えていない。



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