第一楽章の5
シュニッツェルはおもったよりボリュームがあり、それを小さく切りながらワインを口に運んだ。彼女も客も視界からいなくなったあとで、僕の名前の部分にまた手を触れてみた。そして、端っこに爪を立ててみたが、その紙は思いのほかしっかりと貼られていた。それでも根気よく繰り返していると、端の方から少しずつ剥がれてくるようだった。ワインを一口飲み、シュニッツェルを一切れ、そしてウェートレスの引っ込んだ方をまっすぐに見て戻ってこないことを確認しながら、少しずつ紙を剥がしていった。時間をかけてようやく少し下の字が覗けるようになってきた。その名前は、特別有名とはいわないまでも少なくとも中堅の指揮者で、僕よりは名前の売れた人だった。おやおや、急に指揮できなくなったのは彼だったのか。そう思いながら剥がした紙を元に戻した。少し皺がよったけれど、それほどは目立たない程度だった。やれやれ、なぜ彼は指揮できなくなったのだろう。そう思いながらワインをごくんと飲んだ。シュニッツェルを食べ終わっても、まだボトルに少しワインが残っていたので、ソーセージの皿を追加注文した。血の中にワインが程よく溶け出て、なんだかどんな心配事もこの世には存在しないような気がしてきた。
外に出て、街路樹を渡る風に吹かれても、幸せな気分は変わらなかった。いや更に、幸せな気分が深まったような気がした。僕の宿に向かって歩み始めると、またモーツァルトがもどってきた。モーツァルトの与えてくれるこの軽やかな自由、しかし、モーツァルトの生きた時代の人々にとっては、死はいつも隣りあわせだったはずだ。繰りかえされる戦争、繰りかえされる飢饉、そして栄養失調、いつ襲ってくるかわからないペスト、ジフテリア、コレラ、チフス、天然痘、しょう紅熱、インフルエンザなどの疫病、すべての人々にとっても、5人の兄弟姉妹を亡くしたモーツァルトと同様に、死は日常の一部だったはずだ。そのような世の中で、彼の音楽の持つこの透明さ、この優しさ、この静けさ、この平和、なぜそれが可能だったのだろうか。40番ト短調などの短調の曲にかぎらず、モーツァルトのすべてのメロディーに秘められ、いつも心の深いところに共鳴するこの静かな悲しみと平安を、彼はどのようにして紡ぐことができたのだろう。涙を流しながら微笑んでしまうような、微笑みながら涙がこらえきれなくて流れ出てしまうような、この語りかけてくる響きのなんと自由なことだろう。頭の中で響くモーツァルトのメロディーに沈み込むように、僕は宿を目指して坂を上っていった。
その時、僕のうしろをつけてくる足音が聞こえた。ふりかえる僕に見えたのは、道を横切っていく黒い人影だった。黒い服に身をつつみ、闇のなかであるにも関わらず闇から浮き出ているような、一人の影が確かに僕についてきていて、僕が振りかえると同時に闇の中に消えていったと思う。
遠くからオーケストラが聞こえてくる。いや、僕が指揮しているのだ。曲はラヴェルのあの曲だった。オーケストラの響きに重なって一人の女性が横たわっているのが見えた。彼女は森の中の静かな流れにうかんでいるのだった。水の中から空を見上げるように、安らかにベッドに横たわるように。彼女の顔のうえを、体のうえを、清らかな透明な水が流れていた。その水があのメロディーを奏でているように思えた。永遠に失われたが、今も生きているその美しい女性にむかって、僕は必死になってラヴェルを演奏した。この曲が演奏されている間は、彼女も生かされているのだと僕にはわかったからだ。彼女の姿が薄れていく。彼女を失いたくなくて、僕は必死に指揮棒を振った。しかしオーケストラの音は次第に遠のいていく。僕は涙を流しながら、汗だらけになって必死に指揮をしていた。
久しぶりに夢の中でオーケストラを指揮していた。夢の中での演奏は、まだ少し耳の奥に残っている感じがした。あの女性は、いつか美術館で見たことのある神話を題材にした絵画を思わせるものだった。遠のいていくあの演奏を、掌の中に留めていたいと思いながらゆっくりと目を開いた。今日はいよいよ本番の日であるという事実が、意識の正面に浮かび上がってきた。僕はベッドから起き出して時計に目をやった。時間は、9時頃で、僕としてはかなり遅い目覚めだった。もう窓には陽が輝いているのが見えた。ゲネプロまでに残された演奏会の前の時間を、あらためてどう過ごそうかと思いながらベッドを離れた。結局は、いつもと同じように過ごすに違いないのだが、と思いながら。
それでも、いつもと同じというわけにもいかなかった。濃いコーヒーを沸かして、熱いシャワーを浴び、頭をすっきりさせてからは、窓ぎわの椅子に腰を掛けて、しばらく外を眺めて過ごした。10代半ばの少年が、自転車に乗って坂を猛スピードで下っていった。灰色のショールの老婆が、ゆっくりと坂を上っていった。彼女が窓から見えなくなるまで、そのゆっくりとした歩みを目で追っていた。見上げると、この窓から見える空はすみずみまで青く澄んで、雲は見あたらなかった。頭の中を、今日指揮する曲のパッセージが流れては消えた。でも、いつものように曲全体が流れるわけでもなかった。そのように努力すればできないことはなかっただろうが、今は頭を空にしておきたかったのでそのままでいた。結局、11時を過ぎたことに気づいたので部屋を出ることとした。カバンにタキシードをつめて、忘れ物がないことを念入りに確かめた。こうした行為のすべてが、今日を特別の日に、決定的に定めてしまうことになるのだが。外に出て空を見上げたが、窓から見えたとおり真っ青だった。
昨日も行きがけに寄ったレストランが今日も開いていた。やはりまだ客の姿はなく、昨日座った窓際の席に座り、メニューで一番上のパスタを注文した。昨日は上から二番目のものを食べたからだった。昨日は、わざと二番目を注文したわけではなかった。無意識に選んだまでだ。でも、今日はわざと一番上に書かれた料理を注文した。別にひどく縁起をかついだわけでもないのだけれど。
昨日と同じく町を見下ろした。昨日と同じく晴れた空の下で、町は静かに横たわっていた。しかも、今日はもっと晴れやかに。昨日の霞が薄くかかっていたような色合いは、今日は見られなかった。もっと直截に、光りは町全体を蔽っていた。そのせいで、光る建物や屋根は、影をくっきりと浮びあがらせてもいた。強い光の中におかれると、影もその濃さを増すのであると思った。明度に大きなめりはりのある町で、色彩もまたより鮮明で、赤い屋根も無数の色に、緑も無数の緑にという風であった。僕はどちらの音楽が好きなのだろうと、ぼんやり考えた。昨日の景色のような音楽なのだろうか、今日の景色のような音楽なのだろうか。もちろん、それはその時によって異なるのが普通なのだと思う。それでは、今日の指揮ではどちらの景色を浮かび起たせようか。そんなことを考えながら食事を終えた。レストランを出てオペラハウスに向かいはじめると、ベートーヴェンの第二楽章がまた始まった。メトロノームを思わせるリズムに合わせるように、足が踊りながらリズムを刻んだ。公園を横ぎるあいだも、いつもの建物のドアをくぐるまで音楽は鳴りつづけていた。
事務所に入っていくとステージマネージャーが顔をあげた。「おはようございます。マエストロ、お早いですねぇ。ゲネプロまでまだだいぶ時間がありますよ。今日は指揮者のお部屋の準備をしておきましたので、そちらで時間までお休みください」。そう言って、僕を案内してステージの裏手の部屋まで連れて行ってくれた。この部屋も、歴史を感じさせる造りで、立派な調度が揃えられていた。嬉しいことに、グランドピアノも置かれていた。この部屋には、ピアノがゆっくりとおさまる広さがあった。ここにピアノがあることを知っていたら、昨日もこの部屋を使わせてもらえばよかったと思いながら蓋を開けて、ちょっと指を走らせてみた。調律もされているようだった。見渡すとロッカーだけが場違いに新しかった。タキシードをのばしてロッカーに収めていると、満たしたコーヒーポットとカップをもってステージマネージャーが入ってきた。
特別の日には、時間もゆがんでしまう。この落ちついた部屋の中で、不透明なガラスごしに入ってくる陽の中でソファーに座っていた。時間はたっぷりと存在しながら、ふと気がつくと手元にはほとんど残っていなかった。
ゲネプロの時間がきて、指揮者室から舞台に上がり楽団員に挨拶をすると、5人ほどの楽団員が会釈をかえしてくれた。今日は演目を予定されている順番でさらっていった。曲はまだ頭のなかと耳の中で二重に聞こえていたが、ベートーヴェンの途中で、「おや」と思った。右の絃群が3回ほど左の絃群と一瞬あわない瞬間があったのだ。右の絃群は相変わらずの頑固さで続いているのに、左の絃群がほんの一瞬、僕に寄り添ってくれたように思えたのだ。気のせいかと思えるほどの短い一瞬で、全体のビートは以前のこのオケのものにもどってしまったのだが。それにしても、このビートはどこからきているのだろうかと思わずにはいられなかった。ゲネプロは、まあ、完全には僕の音楽とまでは言えないものの、それなりにアンサンブルも揃っていて、これでいくしかないかなと覚悟が決まった。
指揮者室に帰ってくると、昨日事務所にいた女性が入ってきて、冷めたコーヒーポットを新しく入れかえてくれた。「マエストロ、ご夕食は」と尋ねてきたので、「本番前ですからね」と言って、便利屋で買ってきておいた小さなサンドウィッチを持ち上げてみせた。軽食を食べ終わっても、時間はほとんど過ぎていなかった。不透明ガラスの窓を開けると、公園の木々が見えた。古い高い木々とほとんど同じ窓の高さだった。入り口には階段もあるし、この部屋にくるには、舞台に向かってゆるい傾斜を上ってくるからだろう。木々の上の空がやや濃さをましているように感じた。窓を開けたままでソファーにもどり、空の色の変化にぼんやりと見とれていた。遠いあかね色が反映する一瞬がとおりすぎると、暗闇が徐々にましてきた。ぼんやりと見つめる僕の瞼のうらに、朝に夢で見たあの女性が空に横たわっているように見えた。空が深い闇の川となって、あの女性が静かに、目を閉じて、水面の下に横たわっていながら、微かに息づいているように思われた。ベートーヴェンもモーツァルトも、たくさんの死を見てきたのだろうという思いが、また突然わいた。陶然としていると、どこからか、ざわざわする雰囲気が伝わってきて、意識が急にもどってきた。もう開演間近となっていたのだった。僕は立ち上がり身支度をした。僕のタキシードは身分不相応な高級品だ。長い間、食費を削ってまで手に入れたタキシードだが、もちろんヴァイオリニストが必死で手に入れようとするヴァイオリンほど高価なわけではない。それでも、今の僕には精いっぱいの高級品で、本番でこれに袖をとおすと更に特別の気分になる。指揮棒の方はというと、これは僕の手製だ。だから、時間はかかっているがお金はそれほどかかっていない。実際、今の指揮棒に落ちつくまでに、どれほど作り変えたことだろう。タキシードに着替えてからは、皺になるのが嫌で座らないで窓ぎわまで歩いていった。夜が蓋っている公園のところどころに瞬く街灯を眺めていた。
「マエストロ、お時間です」。事務局長が直接迎えに来た。