第一楽章の3
この町のオペラハウスは、町の中心に近い公園の傍らに、公園の木々と歴史を競うようにして建てられていた。このような規模の町にすら、こうして歴史を背負ったオペラハウスがあるということに、あらためて感嘆させられる。ただし、建物はすでにかなり傷んでおり、長い間大規模な補修もされていないようであった。それにしても、自分たちの舞台をもっているオケであるということが、歴史の古さに加えて団員たちの誇りの根拠ともなっているのだろう。僕の国のような音楽途上国では考えられないことで、これだけでも彼らに威張らしてやっていても良いような気がしてくる。
建物の横手にあるごく普通のドアを開けると、廊下のすぐのところに事務室がある。昨日もそうだったが、今日も事務室のドアは開けっぱなしで、ドアのすぐそばには事務員の青年が一人座っている。何でも屋だそうで、一応の職名はステージマネージャーらしいが、ライブラリアンもトラ係もその他の雑務も、何もかも引き受けているらしい。頭の中の音楽にあわせて歩いてきたステップのままで、「おはようございます」と、陽気な大声で挨拶すると、ちょっと驚いたように上目使いでヒョコッと頭を下げた。部屋の奥に座っている事務局長が、立ち上がって挨拶してくれる。彼は、引退するまではコンマスだったと聞いた。おとなしい印象の人だが、きちんとした態度で、昨日初めて会って説明を受けた時にも、ほとんど笑顔を見せることはなかった。舞台の方からはすでに様々な楽器の音合わせが聞こえてくる。
「あー、ちょっと、今日はハープ奏者が3時過ぎになるので」と事務局長が言いにくそうに伝えてきた。「はい、いいですよ。それじゃ、ラヴェルは最後ですね」。「申し訳ないけれど」「他に何かご注意はありますか」というと、一瞬何か言いだしそうに見えたが、いやと口の中で小さく答えた。「まだちょっと練習開始まで時間がありますね。マエストロ、コーヒーをお入れしましょうか」と、ステージマネージャー。あらためてマエストロと呼ばれると、いまだにちょっと照れくさい思いがする。そんな自分の初心さかげんが自分でもおかしかった。「いや、団員の皆さんと少し相談がしたいので、特にコンマスと」と僕は言った。「あーいや」と事務局長が大きな声を上げた。そして、とってつけたように、「時間どおりお始めになるのが良いですよ」と小さな声で付け加えた。何か不審なものを感じたが、僕は「そうですか」といって空いている席に座った。ステージマネージャーがコーヒーの用意をしてくれている間、手持ち無沙汰なので事務局長に話しかけた。「いつも事務局のお仕事は、お二人でなさっているのですか。大変でしょう」。「いや、仕事が多い時には、臨時でいつも手伝ってくれる職員がいるんです。常勤は二人しかいませんけれど。仕事はかなり決まりきったことの繰り返しですからね」。「定期演奏会の演目などは誰がお決めになるんですか。指揮者の選定などは事務局長がお決めになるんですか」。「いや、団員も一緒に決めるんですよ。普通は」。僕を指揮者に指名したのはどういう経緯だったのかを聞きたかったのだけれど、ちょっとそれ以上聞きにくい空気が伝わってきた。ちょうどコーヒーが運ばれてきたので、話は途切れてしまった。「ごちそうさま」、そう言って僕が席を立ったのが練習開始時間5分前で、僕の背中に「昨日ご説明したように、5時には練習をあげてくださいね。団員との約束なので」と、ステージマネージャーが声をかけてきた。本当はもっと時間が欲しいんだけれどなぁと心の中でぼやきながら、僕は振りかえらずに右手を挙げて答えた。
廊下を歩きながら、この許された時間では二つの交響曲とラヴェルの小曲を、3回さらうのは難しいなぁと思っていた。大きな練習場をもたないので、このオペラハウスの舞台がそのまま練習場にあてられている。昨日もゲネプロをしているような贅沢な気持ちになった。今日もそうだ。正確に練習開始時間をはかって数秒間、舞台袖で足踏みをしてから入っていくと、コンマスが音合わせをしているところだった。これで皆が正式の衣装をつけていたら、まるで本番。気持ちがぐっと引き締まってくる。まるで本番のようだ。いや、昨日のこともあるので、僕は実際のところ本番以上に緊張している。指揮台に立ってオーケストラに向かい合って頭を軽く下げた。
「皆さん、おはようございます。昨日のリハーサルをさせていただいて、皆様の演奏を体験できて、とてもよかったと思っています。皆さんの持っておられるビートは、とても堅固で」、もう少しで“頑固で”と言いそうになったが、上手く表現できた。「まるで室内楽団のように、お互いの音に耳を澄まして聴き合っておられることがよく分かりました。素晴らしいことだと思います。まるで、指揮者など必要とされていないほどに完成されていました。それで、お願いしますが、私もこの音楽を、皆さんと共につくりあげる仲間にしてください。よろしくお願いします」。何も心の準備をしていたわけでもないが、指揮台から彼らを見たとたん素直にこういう挨拶ができた。そしてすぐに練習を開始した。少なくとも2~3人の団員が、小さく笑ったように感じたが、誰がそうしたのかはわからなかった。「今日は、ハープさんが後で参加してくださるそうなので、ベートーヴェンから始めましょう。通していきたいと思いますが、通しながら私の希望をお伝えしたいと思います。」
静かに団員を見渡した。今日は昨日より少しこちらに目を向けてくれているように感じる。ちょっとは僕に興味を懐いてくれたのかしら。ベートーヴェンは、ここに来る道を歩きながらずっと頭の中で響いていたので、とても自然に入れた気がした。今朝の平和な気分が、そのまま引き継がれたように。しかし、実際には二つの交響曲を聴きながら、棒を振ることになるので、ひっきりなしに指示を伝えることになってしまった。彼らのビートは相変わらず頑固で、そう簡単に修正は効かないのかもしれない。何よりも、やはりあまりに繰りかえされた演目であるということが災いしているのかもしれない。コンマスのビートなのかと思いながら彼に注目していたが、彼から全体に指示が出ているようにも感じられないのが不思議だった。それでは、どこからこのビートは生まれているのだろう。とにかく、僕は忙しかった。頭の中の曲と、耳の中の曲を聴きくらべながら、もっと大きく、もっと優しく、もっとはっきりと、もう少し早く、もう少し喜んで、もっと軽快になどと、曲を止めないままで、全体にも、それぞれの楽器にも、指示をだしつづけた。本当は細切れに練習したいという誘惑を何度も感じたけれども、指示を出すだけで全体をとおしてさらえることに決めていたのだ。だから、指示をした時には次の音に進んでいるわけで、どれだけ心に刻んでくれているかは全くわからないまでも、とにかく種を蒔きつづけることとしたのだ。
最後まで一度終わって、短い休憩を入れた。団員たちは皆それぞれに、楽器の手入れをしたり息を整えたりしている中で、僕も汗をぬぐいながら全員をあらためて見渡した。数人の団員がこちらを見つめているのに気づいて、それぞれの持ち場から立ち上る騒音のなかなで、「皆さんご存知の通り、8番は7番とほぼ同時期に作曲された曲ですね。ドイツの評論家であったパウル・ベッカーは、第7は高い山に登る努力の喜びを表し、第8は頂上での歩みの喜びを表していると述べています。僕は、ようやく登りきった山頂で、今までの努力への誇りに胸をふるわせながら、一方で目の前に拡がる素晴らしい景観に打たれて、謙遜な思いに満たされているベートーヴェンが見えるようです。この時期は、彼も世間もさまざまな不安に打ちのめされていたにもかかわらずに、です」と、おもわず語りかけた。多くの団員は僕より年長者だし、こんなことは、きっと言わずもがなのことだったのかもしれないが。全員が再度揃ったところで、「では、もう一度8番を」。一瞬、静まって集中。そして2度目のリハーサルを開始した。ビートは相変わらず頑固なままだったが、今回は一回目ほど指示を口には出さなかった。僕も彼らのビートに乗りながら、アンサンブルに神経を集中した。頭の中の曲と耳の中の曲が一致したわけではなかったが、今回は指揮そのものでの指示に徹しようとしたのである。
ベートーヴェンを二度さらって、少し長めの休憩をとることとした。僕も事務所にいったん引っ込んだ。なじみの薄い指揮者がうろうろしていたのでは、休憩にならないと経験していたからだ。事務局には事務局長の姿はなく、ステージマネージャーだけが残って机に向かって仕事をしていた。彼は僕がもどったのを見て少し緊張したようだった。「どうかされたんですか」と、喉の奥の緊張した声で聞いてきた。「いや、休憩をとりました」「そうですか」。何となくほっとした様子が見えて、どうしてだろうと思った。「お疲れ様でした。コーヒー、お飲みになりますか」「ありがたいですね。お願いします」。彼が用意をしてくれている間、僕はそこで軽く柔軟体操をしていた。コーヒーをセットしながら、「うちのオケはいかがですか」と彼。「そうですね、良いオケだと思いますよ。一人一人の技量も安定していて信頼できそうですし、よくお互いの音も聞き合っているようですしね。ただ、」「そうですか、良かった」と、遮るように彼が答えた。「ステージマネージャーさんは、このオケ長いんですか」「それほどでもないですよ。まだ」「でも、もちろん僕よりは長いんでしょう。僕はたった二日ですからね」と、少し冗談めいて聞いた。「何で僕がこんなに急に呼ばれたんでしょうね。予定の指揮者はどうされたんでしょう。急に指揮者が変わって事務方も大変でしょう」。「さあ、僕には詳しいことはわかりません。プログラムやポスターの変更とかちょっとは大変ですけれどね」。彼は慌てたように言って、それからは机に向かって何か仕事を始めた。「コーヒーごちそうさま」。しばらく沈黙が続いたあとで、僕はステージにもどった。