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第四楽章 自分の世界に の1 

第四楽章 自分の世界に


 たった一年前には、僕はまったく無名の指揮者だった。そして、一人で請負仕事の指揮をさせてもらっている旅人だった。仲間もなく、まして家族もいなかった。求められるままに一人きりで世界を旅していた。そして、プロの交響楽団の指揮をする機会も決して多くは与えられてはいなかった。それが今では、クラシックの世界では新進気鋭の指揮者の一人ということになってしまった。本当に不思議である。テレビやラジオやネットでも僕たちの交響楽団の演奏が流れるようになった。そればかりではなく、あの第四楽章のメロディーは世界を席巻している。道をすれ違う人がハミングをしながら通り過ぎるようなことも珍しくなかった。いや、それ以上に、僕の頭の中ではあのメロディーが、いつも繰り返し繰り返し流れているのである。それは、僕の演奏仲間たちも、あるいはその他の友人たちも同じことだった。気がつけばいつも、あのメロディーが頭の中を廻っている。本当に不思議だ。同時に、いつのまにか、これほどの幸運を与えてくれた『御前』に感謝を捧げている自分がいた。


 その話が入ってきたのは、またしても夕刻のことだった。義父がその知らせを持ちかえってきたのだ。連絡によると『御前』が僕にもう一度会いたがっているということだった。もう一度と言われても、僕は前回もお会いできた記憶はない。しかし彼が僕を呼んでいるということが伝えられた時、僕たちは彼の意向に逆らうことは難しいと明瞭に感じた。僕たちは3人でどう返答するかを話し合った。アリアは心底から怯えているように見えた。今回は、僕について二人で行くのでなければ絶対に反対すると主張した。僕としては、あの不思議なというよりは不気味な体験をアリアにさせたくはなかった。しかしアリアは、この申し出が入ってきて以来、もし僕を一人で行かせたら、この先何年も、もしかしたら二度と僕に会えなくなるのではないかと真剣に恐れているようであった。それは迷信的とも思えるほどの彼女の確信であったが、確かに、あの時にアリアに経ってしまった一か月は、僕にはせいぜい10日くらいにしか思えなかったのも事実である。このことをきちんと知っているのは結局僕たち3人だけなのだが、アリアにあらためて指摘されると僕も不安になる。しかし、もし僕たち二人が長く不在にすることになったら、義父を一人で残していかなくてはならないことも心配だろうと言うと、義父はその点は問題ないと答えた。第一、彼らがアリアの同行を許すのかどうかも、僕たちが話しあっている今はまだ分からないのではあったが、次の日に義父が彼らと交渉することとなった。必要があれば僕も電話に出ることにする。そして、交渉の内容はアリアの同伴を認めてもらうということに決定した。どうしてもそれが認められないときには、三人でもう一度話し合うということに結論した。

 次の日の指定された時間に、僕たちは事務局の電話の前で緊張して待っていた。電話が鳴った瞬間には、予告された時間どおりであったにもかかわらず、アリアははっと息を呑んで身震いした。僕は彼女に、本当に僕について来たいのかいと、義父が電話をとりあげているのを横目に見ながら改めて確認したくらいだった。彼女は僕の腕を強く握りしめて頷いた。しかし、交渉はあっけないほどの短時間で終わった。義父が僕たちに首を縦に振って見せながら受話器を置いた。前回には、アリアの同伴は一顧もされずに断られたのに、今回は向こうもこの条件を予期していたかのようだったと義父はいった。それで、その日は僕たちの留守中の手配に追われることとなった。僕たちが『御前』の許に出かけるという知らせは、すぐに団員たちの間にも広がった。そしてその夜、団員の有志が集まって僕たちの壮行会を開いてくれることになった。いつもの旧市街のホテルのレストランの一室を借りてのパーティーだったが、正直いって急なことなのに、これほど多くの団員が集まってくれるとは思っていなかった。そしてこれほど温かい励ましや慰めを、彼らから得るとは思ってもいなかった。僕たちは、この半年以上にわたった世界公演旅行を通じてすっかり家族同様になっていることを改めて感じさせられた。また、同時に正体の知れない『御前』の不思議に対する団員たちの興味と感謝の思いにも裏打ちされていることも感じられた。もっとも、彼らは僕たちが感じている不安を、同様に感じているわけではなかった。僕のあの経験は、家族三人の秘密としていたからだ。しかし、アリアの様子を見て彼女の不安が彼らにも一部伝わっていったようだった。

 次の朝、例の黒塗りの大型セダンが僕たちの家の前に停まった。チェロさんと奥さん、アンナさんトマスとコンマスが見送りに来てくれた。「大丈夫よ、アリア。お父さんのお世話は私にまかせておきなさい」と、アンナがアリアを軽く抱擁しながら言った。チェロさんたちも、それは全く心配ないから元気で行ってきなさいと励ましてくれた。僕たちはまたしても例の黒い男に案内されるまま、豪華な広々とした車内で抱き合うほどくっつき合って座った。そして、またしても眠りこんでしまったことに、到着を知らせる声に起こされてから気づくこととなった。僕たちは何らかの方法で眠らされて旅をしてきたのだと、あるいはこの旅が眠りと深く結びついたものなのだと今回は確信した。だって、そうでなくては僕だけではなく、あれほど不安がっていたアリアまでが、旅の過程を少しも認識できないほどにぐっすりと眠るわけがないではないか。

 着いたのはもう日が暮れてからだった。これも不思議に思っていることの一つだ。旅に費やす時間がまるで測れないのだ。そして、確かにあの館であることは間違いないようだったが、僕には何かが異なっているように感じられた。何が違っているのだろうと考えている間にも、僕たちは、前回僕が毎日食事をした例の食堂に案内された。アリアとしっかりと手をつないで、僕たちは長い廊下を通っていったのだった。

「マエストロはすでにここのことをご存知ですから、改めにご説明はいたしません。ご夫婦の寝室も書斎も以前のとおりです。お食事が終わりましたら、どうかご自由にお寛ぎください。明日からも、御前のお声がかかるまでは、邸内外ご自由に散策されてもかまいません。多分、遠からずお声がかかるものと思っておりますが、私にも正確にご予定をお告げできないのです。それでは、これで失礼いたします」。そういって黒い男は下がっていった。僕たちは長いテーブルの両端に整えられた席に着いた。それは映画で見る貴族の食卓風景のようであったが、「ソウロ、もっと近くに来て」とアリアが言ったので、僕は給仕係に頼んで僕の席を彼女の隣に整えなおしてもらった。彼女が少し安心した様子で微笑みを浮かべて僕を見上げた。様子がよく分かっているような僕の態度に、少し不安が消えたのかもしれない。アリアと話しながら豪華に用意された食事をいただくのは、一人で摂り続けた前回の食事時とは全く違った歓びを与えてくれた。一つ一つの料理を、僕は本当に味わうことができた。そして前回の滞在中は、あらためて自分が夢遊病者のようであったこと、夢の中で食事をしていたようであったことに気づいた。ベッドは一つのままだったが、もともと大きなベッドなので二人にはまだ十分な広さがあったし、今回はウォードローブには、少し古典的なアリアのドレスも準備されていた。もっともその夜は、僕たちは自分の持参した着なれた寝巻でベッドに入った。旅行の間中、眠り込んでいたにもかかわらず、その夜、僕たちは抱き合って熟睡した。真夜中に悪夢で起こされることもなかった。



 次の朝、隣に眠るアリアの温かさを感じながら、夜が明ける頃に目を覚ました。何か前回とは違うという違和感が、目を開くきっかけとなったのだ。しばらくベッドに横たわりながら、何がどう違うと感じたのかと感覚を研ぎ澄ませていて突然に気がついた。鳥たちが騒ぐ声が窓の外から聞こえていたのである。僕はアリアを起こさないようにそっとベッドを抜け出して窓際に立った。そしてカーテンの外を覗いて思わず「アッ」と声をあげた。うしろからアリアの緊張した声が、「ソウロ、どうしたの」と聞こえた。「ごめん、起こしてしまったね」。「あなたの叫び声が聞こえたから」。「そんなに大きな声だったかしら」。「いったいどうなさったの」。そう言いながらアリアも起き上がってきて僕の隣に立った。そして、「まあ美しい」と窓外を見つめた。そこには、美しい森が拡がっていた。しかし、それはあの巨大樹の森ではなかった。空も覆うようなあの巨大樹は完全に姿を消していた。それは、立派ではあるけれども普通の高さの、見晴らしが遠くまで拡がる、広葉樹も混ざった森だった。そして、すでに色づき始めたそれらの樹木が、新しく昇ってきた陽に照らされて紅葉をひときわ輝かせているのだった。「美しいところなのね」と、僕の腕に手を絡ませながらアリアが言った。僕はもう少しで消えてしまった巨大樹の森のことを口にしそうになって慌ててのみ込んだ。彼女を怖がらせても仕方がないではないか。でも、ここが前回に訪れて過ごしたあの館と同じ場所に建つ館であるとは思えなかった。昨夜ここに着いたときの違和感は、暗闇で見えなかったけれども、あの巨大樹の圧迫感の消失のせいであったのだと思われた。

 朝食が終わってから、僕はアリアの手を引いて館の中を探検に出かけた。アリアは気が進まない様子だったが、僕はこの館があの館とはよく似ているけれども違うものではないかという気がして、そのことを確かめたくて、前回歩き回った廊下や部屋を次々に覗いていった。しかし、外の森の消失のような大きな変化はどこにも見られなかった。細かい点で「おやっ」と思うことはあっても、僕自身の記憶違いである可能性が大きいのだろうと思える程度のことで、やはり同じ屋敷であるとしか思えなかった。もっとも大きな違いの一つは、あの図書室に降りる階段だった。それは僕の記憶の中にあるよりもずっと短くて、しかも灯りは前回と違い階段全体を浮かび上がらせていた。あの巨大な図書室も以前と同じように静まり返っていて、アリアを驚かせるには充分だった。しかしアリアをことさら喜ばせたのは、例の古楽器の陳列された部屋の一隅だった。それまでは、手を繋いで恐々ついてきていた彼女が、感嘆の声をあげながら一人で先に進んでいき、気にいった楽器の前ではガラスのケースに額をつけて座り込むようにして動かなくなるほどだった。特に古い竪琴にはことさら興味が尽きないようだった。もう一つ、やはりこの屋敷は前回の屋敷とは別のものではないかと思わせられる大きな変化があった。部屋の突き当りに絨緞の敷き詰められた一角があり、立派なグランドピアノがその中心に置かれていた事だった。いくら僕が夢遊病者のようであったということを、不承不承だが認めたとしても、このピアノを見落とすようなことは絶対にありえない。あの時には絶対にこの一廓はなかった。アリアはそっとピアノの前に座ったが、指を軽く動かして小さなメロディーを静かに弾く以上の演奏はやらなかった。無意識で弾いたメロディーが、例のメロディであったために恐れを感じたのかもしれない。



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