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第三楽章の5

 演奏会は、久しぶりの公演ということもあり、また修復されたオペラハウスのこけら落しでもあり、全く新しく発表される交響曲ということもあり、満員の盛況であった。前の公演よりは足が地に着いた印象ではあったが、それでも僕は少しぼっとしながら指揮台に進んだ。しかし、最初の拍を振り下ろしたときから、僕の心が研ぎ澄まされるのを感じた。僕は、僕と楽団員とで編み上げたこの交響曲『帰郷』の中に吸い込まれていくようであった。僕にとって、彼らの作り出すビートもハーモニーも完全に満足のいくものだった。まるでアマチュア管弦楽団のように時間をかけて練習してきたものが、完璧に相互作用を起こして響き合い、見事な絵画として眼前に完成していくのを、僕は歓びと驚きをもって見つめていた。特に第4楽章は圧巻だった。繰りかえされる密やかな叫び声に思わず涙が流れるのを感じながらの指揮であった。この交響曲に、特にこの部分に関しては、楽団員たちも不思議な興奮状態に入るようになってきたことを、リハーサルの途中から感じるようになっていた。この部分になると、彼らは自分が演奏していない場合でも、目を輝かせるのだ。トマスが何人かの友人たちを代表して言ったものだ。「僕はこのメロディーを忘れることができないんだ、マエストロ。このところ、このメロディーが僕の生活から離れないのだ」と。それは僕も一緒だった。いつもこの単調に見えるメロディーが頭の中で鳴りつづけている。それは密かな静かな、しかし間違いなく生活の通奏低音のようにいつも僕と共にいた。それが僕だけではないことに、安心もし不安にも感じた。

 聴衆の反応は激烈だった。僕たちの演奏が終わっても会場は静かで皆が眠ってしまっているかのようだった。演奏後に静寂があることは珍しいことではない。しかし、それがこれほど長く続くことは、経験することはおろか聞いたこともなかった。聴衆が深いところから浮かび上がってくるのに時間がかかっている、そういう印象だった。そしてその後にすごい叫び声と拍手が会場を、僕たちをおおった。聴衆は皆立ち上がって歓声をあげていた。僕たちはこの短い公演を二日にわたって行った。二日目は満席ではないと聞かされていた。しかし、実際には会場に入りきれない人々が集まった。噂を聞いて押しよせてきた人々もあった。しかしもっと多かったのは、一日目の聴衆がもう一度聴くことを願って押しよせてきたことだった。この経験も初めてのものだった。そしてあまり耳にしたことのない経験でもあった。僕たちは、二日目には聴衆の求めに応じるために、急遽、時間をおいて二回の公演をおこなうことにしたが、団員たちには誰も不平を言うものはなかった。

 二回の公演が終わったあとでも、次にこの曲の公演はいつ行われるのかという問い合わせが事務局の電話を麻痺させるほどであった。もう一つおどろいたことがあった。その日のうちに、『御前』の代理人からCDとDVDの採録の要請があったことだった。僕たちのオーケストラでは全く経験したことがない出来事だったので、団員は皆、驚き興奮し戸惑った。その準備もすぐに行われることとなり、3日後には準備が完了するとのことだった。手回しの良いことに驚かされたのだが、修復されたオペラハウスには、録音することも想定して機器があらかじめ配置されていたのだった。

僕は突然に忙しくなった。地方のテレビやラジオがこぞってインタビューや特別番組を組んできたからだった。どこに行くのも、アリアに頼んで連れて行ってもらうことになった。そしてアリアも事情通の一人として、僕といっしょにスタジオに入るように依頼されるようになった。僕たちはほとんど一日中いっしょにおられるという歓びと、それがプライベートな時間とは言いがたいという苦痛を同時に味わうこととなった。CDとDVDの集録が無事に終わり、レコード会社の言うことには、この曲は世界中で発売されるということだった。僕のような無名の指揮者が、中堅の特別に名が売れたわけでもないオーケストラを指揮して、しかも作者が不明の交響曲を、世界中で売り出すといっても、果たしてどれくらい売れることになるのだろうかと心配して彼らに質問してみたが、彼らも上の指示だからというのみで、真っ当な商行為とは考えていないことが分かった。しかし、さすがに始めは出足が悪かったようだが、数週間のうちにCDなどが動き始めたとの報告が入ってきた。そして販売数は幾何級数的に増えていった。

 次に僕たちを驚かせたのは、世界演奏旅行だった。僕とオーケストラは、世界一周の演奏旅行に出かけることになった。何度も驚かされてきたことだが、『御前』はいったいどれほどの影響力を、権力を持っているのだろうと思わされた。なぜなら、すべての準備が驚くほどの短時間で行われたからだ。だいたい、これほどの短時間でコンサートホールを確保するだけでも並大抵のことではないと思われたのだが、すべての準備は本当にスムーズにすすめられた。普通の交響楽団の演奏旅行と違うのは、演奏するのがあの交響曲ばかりだという点だった。しかし、これも驚かされたことには、団員の誰もこの事実に不平を述べる者はなかったということだ。この旅行はアリアも一緒で、事務局長はじめ小さな事務局も帯同するということになったので、アリアも義父の心配をする必要が無く、僕としてはすこぶる楽しい演奏旅行となった。インタビューでは、この曲の作曲家がいったい誰なのか、なぜ僕たちがこの曲を演奏することとなったのかと言ったお決まりの質問に責められたが、分からないことは解らないとしか言いようがない。ひとつ『御前』の存在とあの屋敷での経験はできるだけ話さないことというのが、代理人から大切な注意として伝えられていたが、ひどくゆがんだ形で団員の誰かから漏れ出たのだろうか、僕が田舎の屋敷に籠って作曲したといった誤解が世間に生まれていた。僕のインタビューはそのためにもっと数を増したし、僕は世界の有名人になってしまった。この噂を否定しても、彼らがそう信じたがっているものはどうしようもない。しかし、この点においても、僕は常に正直に、あの特別な経験や悪夢の話以外は嘘をつくことはなかった。そのうちに、あのメロディーが他の音楽の形で出回るようになった。ポップスやジャズやもろもろとして。交響曲として聞くほどの輝きはなかったが、それらの曲もまたヒットした。


 ようやく世界を一周して故郷に、この街を僕もそう呼んでもいいだろう、帰ってきた時に、僕たちはまたあのオペラハウスで凱旋公演をした。街の人達は僕たちの成功を誇りに思ってくれていることがよく分かったので、僕たちは喜んで3日に亘って公演をおこなった。凱旋公演が終わった夜、あの例のホテルで歓迎のパーティーが行われた。会場は町中の人が集まったのかと思うほどの混雑で、挨拶に廻るのに僕たちは人々を押し退けながら進まなくてはいけないくらいだった。僕たちというのはもちろんアリアと僕である。

 ようやくパーティーが終わって、僕たちは開放されて自分の部屋に戻った。今回は最上階のスイートで、外に立派なベランダがついていた。もちろん演奏旅行中にはもっと立派な部屋に泊まる機会はあったが、ようやく旅が一段落したという安心感から、僕たちは最高にリラックスしてベランダに立ち、街を見おろしていた。大都会には見られない暖かい街の灯が眼下に広がっていた。僕とアリアはお互いの腰を抱きながら、この街で始まった僕たち二人の人生に思いを巡らせていた。それは、真にめまぐるしいほど大きな変化にゆすられた時だった。この街を留守にしてすでに半年以上が過ぎていた。このわずかの期間に、僕は自分で望んでいたよりもずっと有名になっていたし、僕たちの生活はあまりに大きな出来事の連続に、実際に経った時間よりもずっと長い時間を渡ってきたように思えた。

「マエストロ、私たちはどうなってしまうのでしょう」と彼女がいった。彼女がマエストロと呼びかける時には、何かを真剣に考えている時であることが分かっていたので、僕もしばらく黙ってこれからのことを考えていた。「大丈夫だよ、アリア。僕たちは普通の生活に戻るのだ。この街に落ちついて、時には出かけていく。あの曲以外の曲にも、改めて挑戦する。君ともピアノソナタをやりたいな。モーツアルトの24番なんかを」。「私はこのところすっかりピアノの練習を怠けてしまっていますわ」。旅先でも、アリアはピアノの練習を続けてきていたが、充分な時間が取れなかったことは分かっていた。それは仕方がないことだったから。「大丈夫だよ、アリア。僕たちには自由になる時間がもどってきたと思うよ。少なくとも、これから1カ月間、僕たちは、楽団員の皆も一緒に、休暇を取ることになっているし、その間に日常が帰ってくるだろう。そして幸せで少し退屈な毎日の生活がもどってくるだろう」。「本当に、私たちがあの交響曲以外のレパートリーを演奏することが許されるのかしら」。「許されるって誰に。『御前』にかい。僕たちは十分働いたと思うよ」。「許されるって、つまり聴衆によ。だって、ある人たちはあの曲を麻薬の交響曲って呼んでいるのを御存じでしょう。本当にそうだわ。私たちは今、あの曲以外の曲を演奏できるのかしら。世界中にあのメロディーがあふれているわ」。「そして、あのメロディーの最初のフレーズは君のハープだ。心配いらないって、アリア。君の弾くピアノも、皆聞きたがるに違いないよ」。

 確かに、初演からまだ一年もたたないのに、「交響曲 帰郷」は世界を席巻していた。その事実について、さまざまな評論家や、この頃では科学者までが疑義を唱えていることも聞こえてきた。その中には、あの交響曲に麻薬的な作用があると主張する人々もいた。実際に脳科学者なども研究対象にしていると聞いた。しかし、彼らにどうすることができるだろう。大衆だけではなく、彼らもまたあの曲を熱烈に聞き続けているのだから。不思議なことだ。こんな熱狂は、どんな分野でも見たことも聞いたこともない。しかし、事実は事実。僕は自分がこの曲の指揮者として選ばれたことを、不安がる以上に感謝している。この頃では、他のオーケストラによる演奏もされるようになった。しかし、作曲者は不明ながら、著作権に関しては僕たちのオーケストラに移譲されていたので、今では僕たちの管弦楽団は世界でも指折りの大管弦楽団以上の収入を得ていた。それに、僕の指揮を越える演奏はまだないという噂だった。僕はそれらの他の指揮者による演奏を聴く暇もない生活を送ってきたのだから、自分では判断できないのだが。しかし、思い返してみるとこの曲の理解については、あの巨樹に囲まれた館での一カ月余りの経験が、僕はいつしか一か月であったことに疑問を持たなくなっていたのだが、大きく影響していることを確信していた。『御前』には面会してもいなかったにもかかわらず。それとも、僕は知らない間に彼と出会っていたのだろうか。あの滞在中に、僕は普通以上に恍惚に陥ることが多かったように思う。そして、恍惚は今も指揮の途中で突然にあらわれてくる。しばらくこんなことを考えながら、僕はアリアの腰を抱いた腕に力を入れて、温かいこの街の灯りを見つめていた。この街の小さな明かりの上空を覆っている夜の暗さの中に、あの巨大樹の森の空を一瞬覆って通りすぎていった闇がこちらを見おろしているような気がした。しかし僕は、大きな恐れを感じながらではあるけれども、あの時に感じたようなぞっとする無力感ではなく、温かい視線のようなものを感じた。


「アリア、僕は『御前』に会ってみたくなったよ。そしてお礼を言いたい気がする」。

「私は怖い。でも、万一あなたがまた彼の所に呼ばれることがあったら、私は絶対についていくわ。けっして離れないわよ」。

この会話が、数日後には現実となった。



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