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第三楽章の3

 その夜は、何か胸騒ぎがするままに、夕食後も夜遅くまで楽譜と取り組んだ。疲れ果てて眠れば、昨夜のような悪夢は見ないですむと思ったからだ。事実明け方までは、何の夢も見なかったと思う。しかし、まだ窓の外が薄暗い頃、僕はやはり助けを求める叫びに起こされた。いやにはっきりした叫びで、それが夢だとは思えないで跳び起きた。アリアが悲鳴を上げる声のような気がして、変に胸がドキドキしてそのまま起き上った。昨夜見つけてあった懐中電灯をつけてみたら、白っぽい無機質の円が部屋の隅まで明瞭に浮かびあがった。僕は、ガウンを羽織って、懐中電灯をかざして廊下に出た。この屋敷の中では、昼間でもほとんど人と出会いそうではないが、ましてこの時刻である。このような様子でこのような時間に歩き回るのは無作法な気がしたが、あの助けを求めるような声がこの屋敷のどこかの部屋から、実際に呼んでいるのではないということを確かめるために、僕は廊下を歩いた。廊下は、昼間に歩く時よりも遠く感じられた。僕は耳を澄まし、ドアごとに耳を押し当てるようにして確かめて歩いた。らせん階段のある部分を通りすぎて、今まで来たことのない反対側のウイングの廊下を少し進むと壁にいきあたった。僕は引き返して階段を一階に下り、やはり僕のウイングの反対側に進むと大きな重々しい扉が行き先を区切っていた。取っ手を回しながら強く押したり引いたりしてみたけれど、その扉はびくともしなかった。ドアに耳を押し当ててみたが中からは何の音も聞こえてこなかった。身をひるがえして僕の部屋の下にあたる廊下をすすんでいくと、左右に等間隔にドアが並んでいた。ドアノブを試してみたが、ほとんどの部屋は鍵がかけられていた。そのたびに、扉に耳を押し当ててしばらく中の音に耳をすませてみても、何も聞こえなかった。廊下の先、僕の部屋の真下あたりに、右に折れるようにして地下に伸びる階段を見つけた。その階段に足を踏み入れると、目の前の明かりが突然ついた。驚いてしばらくそこに佇んでいたが、懐中電灯を消して思い切って階段をゆっくり降り始めた。少し降りるとその先の明かりがともった。そして背後の明かりが消灯した。階段の先は闇に閉ざされていて、降りていくたびに次の明かりが誘導するように灯り、背後は闇に閉ざされ続けた。階段を下りながら、僕は距離感を失っていった。いつもの恍惚感が僕をつつみ世界の底に向かって降りていくような気がした。僕の前後は闇に囲まれていた。それでも次々に灯る明かりに誘導されて階段を降りつづけていった。

ついに階段は終わった。目の前を古風な扉が遮っていた。僕はノブを押した。扉は簡単に開いて、その部屋は僕を中に入れてくれた。扉を抜けると、部屋中に明かりが点いた。そこはとても巨大な部屋だった。端まで見渡せないほど巨大だった。そしてそこには、膨大な量の書物が並べられていた。しばらく背表紙を眺めながら進んでいったが、とても全部の本の背表紙を確認することはできなかった。多くの本は何語で書かれたものかさえも判別できなかった。なかには巻物のかたちをした書籍が並べられている棚もあった。微かな埃と黴のにおいが感じられたけれど、蔵書の古めかしさから想像するほどひどいものではなかった。空調がきいているからだろうか。管理が行き届いているからだろうか。僕は両側に本棚の並んだ中央の廊下をすすんでいった。部屋は延々と続いていた。その先に今度は、さまざまな古い楽器のコレクションが並べられているガラスケールの列につきあたった。それらの楽器には、現在では死滅してしまったと思われているような古楽器も含まれており、ガラスケースの中にその時代の空気と一緒に置かれているように輝いていた。一つ一つの楽器の前ですっかり夢中になって、気づかないままに時間が過ぎてしまった。

この部屋には、この日以後も滞在中しばしば足を運んでたくさんの楽器に見とれて時間を過ごすことになった。僕はすっかり疲れて自分の部屋に戻った。何だか何十キロも歩き回ったあとのように足が疲れているのを感じた。もうすっかり朝になってしまっており、食堂では給仕係の男性がずいぶん待ちくたびれた顔で立っていた。

 不思議なこの館の中を探検してすっかり疲れた僕は、朝食後にまたベッドに戻った。何だかひどくエネルギーを失ってしまったような気がした。結局その日も御前の呼び出しはかからなかった。昼食で起こされて、もっとも今日はひどく控えめなノックだったが、それ以後は机にかじりついて一日を過ごした。第一楽章の歓びに満ちた複雑なハーモニーが、第二楽章に至ると短調の不安な悲しみに満ちたものとなり、第三楽章では悲壮さを感じさせるような確固とした決意のようなものに交じって、時として罪悪感のような感覚が潜んでいることが感じられ、そして第4楽章のいろいろな楽器により繰りかえされるグレゴリアン風のメロディーに続いて突然の歓喜に至るという構成の交響曲で、僕は楽譜への書き込みを自分自身に許して、すでに楽譜は書き込みで一杯になりつつあった。頭の中で音楽を聴きながら、僕の感情は高揚したり陰鬱の中に降ったりし続けた。ピアノの助けが欲しかったので、次に黒い男があらわれたらピアノの使用をお願いしようと思っていた。この屋敷の中にはピアノを使用できる部屋があるに違いないと思えたからである。ああ、ピアノという言葉を思い浮かべるだけで、僕の心はアリアを求めて震える。


 その夜は早く床についた。このところ眠りが充分ではなく深くもなかった。どこでも熟睡できる僕には珍しい事だった。頭の芯に熱いものが滞留しているようであった。そして、また夢を見た。僕は広い明るい空間を歓びに満ちて疾走していた。と、突然、真っ暗闇の中に放り出された。僕は必死で空気を吸い叫ぼうとしたが、僕の叫びは喉から外には出ていかない。僕の助けを求める叫びは誰にも届かないまま、僕はくるくる回りながら、闇の中をおちていった。発出されない叫びは僕の心の中であの第4楽章のメロディーとなって渦巻いていた。助けを求める叫びとして。僕は夢の中であらためて意識を失っていった。

次の日も、次の日も、そのまた次の日も、一日は同じように過ぎていった。僕は時としてジョッギングに出かけることがあったけれど、巨大樹の森を走っている時にもまるで夢の続きの中にいるようだった。食事と読譜とそして睡眠と悪夢、面会と試験をひたすら待ちながら、一日が繰り返されていった。まるで囚人であるかのように無為に、僕の一日は目の前を通り過ぎていき、アリアの面影だけが、僕の帰還の意思をつなぐ希望であった。僕はどんな時もアリアとともにいることを夢見た。巨大樹の森をさまよっているときも、アリアとの再会を思って歩いた。あの大きな幹を越えれば、そこにアリアが佇んでいると信じながら前に進んだ。館の中を彷徨っているときにも、閉ざされた扉が突然に開いて、アリアが目の前に現れるのを夢想した。僕のとおりすぎた廊下で、それが起こるのではないかと思われて、何度もうしろを振り返った。書斎で楽譜と取り組んでいるときにも、僕の後ろにそっとアリアが立っているのではないかという気がして振り返ることもあった。書斎の壁際にひっそりと造られている暖炉のまえで、炎のない炉室をぼんやりと眺めながらアリアと抱き合って眠った幸せを思っていた。悪夢の中ですら、いや、その中でこそアリアを探し続けていた。一人きりでいることの淋しさで、起きた時に枕がぬれていることもしばしばだった。とうとう、この交響曲が何を伝えたがっているのかということを理解できたと思えた。それは今の僕のこの奇妙な囚われの状態を、そして帰還への希望を、アリアの許に帰り共にいることへの祈りを表わしている。それが僕の理解だった。

 その朝、あれから初めて黒い男があらわれた。僕は彼に劣らず無表情になってしまったまま彼を見つめて、「いつお会いできるのでしょう。僕の試験はいつ行われるのでしょう」と問いかけた。彼は、「それは終わりました」と告げた。


 あ然としている僕を、黒い男は車に押し込むようにして乗せ、慌ただしく館を出発した。結局、僕は『御前』に会ってももらえなかったのだ。僕の努力でアリアを喜ばせることも、義父や友人たちの役に立つこともできなかったのだ。落胆の思いでいっぱいになった僕は、窓の外を眺めるのも憂鬱だった。一刻一刻、アリアのもとに近づいているのに違いなかったが、その歓びですら失敗したという落胆を慰めることができないほど、僕は落ち込んで車内の椅子に深く身を沈めてしまっていた。ふと気づくと、車はあの街の中を走っていた。時間はもう夕方になろうとしているようだった。また眠りこんでしまっていたのだろうか。でも、久しぶりに夢におびやかされることのない眠りだった。車はアリアの家の前に停まった。

 車のドアが開けられるのと、家のドアが開いてアリアが飛び出してくるのとが同時だった。アリアの顔は歓びで輝いていた。それを目にした瞬間に、僕の中にあったすべての憂鬱が消えさった。僕にはこれだけでいいのだ。どのような褒美もいらない。彼女の許に帰ることができたのだから。僕も車から飛び出した。次の瞬間、僕たちはぶつかるようにお互いの腕の中にいた。彼女の唇がこれほど柔らかで甘いことに気づいて体が震えた。同時にそのキスは涙の味がした。しばらく抱き合ってそのまま、二人で腕を組んで家の中に入った。僕たちのうしろから、黒い男から手渡されたカバンを持って義父が部屋に戻ってきた。驚いたことに、そこにはコンマスとチェロさんがいた。僕は自分の失敗の報告をしなくてはならないことに気づいて、力が抜けるようにソファーに腰をおろした。

「おめでとう、マエストロ」とコンマスが言った。彼が何を言っているのか、僕にはまったく分からなかった。意味をなさない言葉であった。僕は当惑してアリアの顔を見た。彼女が誇らしげに微笑みながら頷くのが見えた。僕はまだ呆然としたまま、義父の方を振りかえった。義父も笑っていた。「おめでとうって、何が」と、僕は呟いた。「それは君が成功したからさ」と、コンマスが続けた。「成功して今日のこの時間に帰ってくると連絡があったのだよ。それでここに駆けつけたのさ。急だったから皆に知らせる時間はなかったけれどね」。僕はもう一度アリアの顔を見つめた。アリアは笑顔をうかべたまま頷いて彼の言葉を確認してくれた。「だって僕が成功したはずがない。僕は御前にも会えなかったのだから」。呟くと、アリアが少し不安そうに眉間に微かなしわをよせて僕を見つめた。「ソウロ、あなたは少しやつれているわ。きっと厳しい試練を通り越してきたのね。大丈夫なの。私たちはあなたが試練を受けて、それに合格したという知らせを受けたのよ。だから、私たちのオーケストラはあなたの指揮の下で新しい交響曲を演奏するのだって、そう連絡を受けたのよ」。

 皆が一度に喋ろうとして声が重なって、全員が口をつぐんで静かになって、また全員が話そうとして、そして口をつむんだ。チェロさんが片手を挙げて皆をおさえて「ソウロにまず話してもらおう」と言った。

「僕が成功したはずはない。向こうではそんな話は聞いていないのだから。僕は、努力したけれど『御前』という人にも会うことはなかったし、屋敷に閉じ込められて、与えられた楽譜を勉強し続けていたにすぎないのだから」。

「なるほど、君がそんなにしている理由は分かった。それじゃ、詳しい話はあとで聞くとして、こちらの話を少しだけすることにしよう。マルティン、君から話してやってくれ」。

「ソウロ」と義父はやさしく慈しむような目で僕に話しかけた。「先ほど、事務所に連絡が入ったのだよ。向こうとしては、君が気に入ったということだった。つまり、君は合格したのだ。そして、オーケストラと彼らとの契約は次の段階に進むことになった。つまり、かれらは、君に新しく与えられた交響曲を我々が演奏することを条件に、僕たちを支援してくれることになるのだそうだ。最初の成功が得られたら、もしかしたら僕たちのオケは世界中を回ることとなるかもしれない。僕たちはまだ、どんな曲かさえも知らない交響曲だけれど、それを持って世界をまわることになるといった意味のことを彼らは伝えてきた。そういったこと一切のロジスティックも彼らが支援してくれることになった。だから、君は彼らのお眼鏡にかなったというわけなのだ」。

 僕には信じられない展開だった。だって、僕はそのスポンサーと直接顔を合わせる機会すら与えられなかったのだから。ただ、だんだん一日の経過も分からなくなったような毎日を、あの巨樹の森の屋敷の中で、時には屋敷内をさまよい、時には巨樹の森をさまよいながら、そしてあの悪夢に悩まされながら、ただただ楽譜を読み続けていたにすぎないのだから。僕がそう言ったあの屋敷での体験を皆に語った。しかし、悪夢のことはほんの少し触れただけだった。アリアを脅かしたくなかったからだ。僕の話を聞いて、そこにいた皆も僕と同じく首を捻ったが、一方で彼らへの連絡に関しては、彼ら自身が経験したことなので疑う理由がない。そこにチェロさんの奥さんがお盆にワイングラスをのせて入ってきた。

「不思議な話だが、ソウロ、君が成功して新しい扉が開いたことには間違いがない。僕たちの未来に乾杯しようじゃないか」と、チェロさんが皆にグラスを配った。義父が僕とアリアの、そして皆のグラスにワインを注いでくれた。その時まで、僕の話のあいだも、アリアはずっと心配そうに僕の手を握り続けていたが、ようやく手を放して立ち上がった。僕はソファーに座ったままで、立ち上がったアリアの手をもう一度求めた。彼女がようやく少し安心したような微笑みを浮かべてくれた。その時、彼女に伸ばした手首の時計の針が動いているのに気づいた。せかされる様にして屋敷から立ち去る時に、忘れないように慌ただしくベットサイドの引き出しから腕につけた時計だ。「そういえば、」と僕が言った。「今日は何月何日だい。あちらでは、日にちを教えてくれるものが何もなかったから、プレートも圏外で切れてしまっていたし、テレビや新聞はおろか、今気づいたけれどカレンダーも見なかったから、そのうえ時計も停まってしまっていたものだから、今日がいつだかわからなくなってしまって」。

返事を聞いて、僕は驚いて立ち上がった。一月以上も経ってしまっているというのが答えだったから。


 その夜、僕はアリアの腕の中で、アリアは僕の腕の中で眠った。たしかに、僕は芯まで疲れに侵されているようだった。とどめを刺したのは、僕が一月を越える期間、あの館で過ごしていたということだった。自分の感覚では、あれはせいぜい一週間か十日間くらいの期間であったと思っていたのに。便りもなく、僕はめったに使わないと知っていてもプレートすら不通のままで、一か月以上も僕を待ち続けたアリアの気持ちを思うと痛々しく感じた。僕の方も彼女への想いが、あの屋敷での僕を支え続けてくれたという確信があった。彼女の許に帰りたいと願う時には、不思議にいつもあの第4楽章の一節が頭の中に響いていたような気がする。「これからだね」「いまからね」と何度もささやき合いながら僕たちは深い眠りに落ちていった。




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