第三楽章の2
「マエストロ、お着きになりましたよ」と起こされて、僕はびっくりして目を覚ました。まさか自分がこのような不安の中で眠ってしまうなんて思いもよらなかったのに、いつのまにか熟睡してしまったようだった。外は夜で、玄関の車寄せには古い門燈が灯っており、ドアを開けた例の男の顔がこちらを向いていたが、やはり逆光ではっきりとは見えなかった。案内する彼の背中について玄関を入ると、広いロビーになっており右手にゆっくりとカーブを描いた広い階段が二階へ続いていた。彼は無言で階段を先にすすみ、僕はその後にしたがった。かなり大きなお屋敷であるようだったが、車を出てすぐに玄関だったので、そのうえ夜の闇のせいで、どのような建物なのかは窺い知れなかった。古い大きな屋敷がこうであると想像するように、照明は薄暗く、廊下は広く厚い絨緞がひかれていて、大きな絵画が廊下の壁を飾っていた。広い間隔をおいて閉まったドアが続いている長い廊下をすすんで正面の部屋に入ると、そこには大きなダイニングテーブルが部屋の中央におかれていて、幾皿もの夕の食事が用意されていた。
「今宵は遅くなりましたが、このお部屋があなた様の御滞在中の食堂となります。お食事を終えられましたら、係の者が寝室にご案内いたしますので、どうかお休みください。明日の朝お目覚めになりましたら、またお目にかかります」。そういうとこの全身が黒い男は深々と礼をして部屋から出ていった。僕は指示に従う以外しかたがないのと空腹も感じたので、用意された夕食を頂くこととした。やはり目立たない地味な色合いの服装をした給仕係が食事のあいだ世話をしてくれた。
案内された寝室はその隣の部屋で、まるで高級ホテルを思わせる近代的に場違いな広々としたバスルームとトイレが付属していた。シャワーを浴びてフワフワしたタオル地の寝巻に着かえて、ベッドに横になった時に、腕時計を外そうとして、ふと気づいて時間を確認しようとしたが、どういうわけか腕時計は5時少し過ぎを指したまま止まってしまっていた。慌ててめったに使わないプレートをカバンから取り出してみたが、通信圏外を表示しており、しかも何故かこちらも機能していないようだった。部屋はなんだか広すぎて、ベットサイドの灯りでは隅の方には闇が残ってしまい、寒いわけでもないのに少し寒気がするような気がした。僕は、御前の笑い声を聞いたとき以来いつも不気味さを感じて不安を口にするアリアの顔を思い浮かべて、ここにアリアが一緒に来なくてよかったように感じた。心の中でアリアにお休みをいって灯りを消すと、深い闇と完全な静寂に包まれて意識が失われていった。
次の朝、深い眠りから覚めると一瞬、隣にアリアがいないことに気づいて、アリアはどこに行ってしまったのだろうかとしばらく戸惑ってから、昨日一日の出来事を思いだした。厚いカーテンを透して朝の光がうっすらと差し込んできていたが、カーテンを開けてみるとこの屋敷の周りは深い森であることが分かった。これほど太くて背の高い木々の森は初めてだった。二階の窓から見上げてみても木々の梢は見えなかった。ベッドサイドテーブルに小さなベルとメモを見つけて読んでみると、「朝の準備が整われましたらベルを鳴らしてお知らせください。お食事の用意が整っております」と、黒いインクでまるで活字体のような正確な字で書かれていた。いつの間におかれたメモなのだろう。昨夜には気づかなかったように思う。洋服ダンスを開いてみると、着て気持ちよさそうなカジュアルな服が何着か下着とともに用意されていたが、枕元に置かれていたカバンから持参した楽な服を出して朝の身支度をととのえた。ベルを鳴らすと、多分昨夜の給仕をしてくれた同じ人なのだろう、特徴のない男がノックをして部屋に入ってきた。そして、黙ったまま隣の食堂のドアを開けてジェスチャーで僕を案内してくれた。
準備されていたのは申し分のない朝食だったが、たった数日ではあるがアリアと義父との三人で摂る食事にすっかり馴染んでしまっていたことに、改めて気づかされた。豪華な朝食ではなくても、そこでは会話だけではなく、表情や仕草やといった楽しい愛情にあふれたコミュニケーションが料理の味を引き立てて、すばらしい幸せな想いを与えてくれていたのだが、ここでは一人きりでテーブルに着いていたからだった。食後のコーヒーを飲み終わるのとほとんど同時に、昨日の男が食堂に入ってきた。そしてジェスチャーで寝室と反対側のドアを指し示して、先に立って歩き始めた。「すいません、ちょっと待ってください。御前にお会いするのに、この服を着替えたいのですが」と呼びかけると、「今は、御前はお会いになりません」と低い声で答えた。隣の部屋は書斎になっていた。窓に向かって大きな書き物机があり、その上には分厚い封筒が置かれていた。部屋の中央には重厚な応接セットがあり、壁はシンプルに黒ずんだ印象を与えるほど濃紅色の布地で全面に覆われていた。この部屋には絵画や装飾の類はいっさい掛けられていなかった。
「このお部屋は、ご滞在中の書斎でございます。ご自由にお使いください」。そういって退室しようとする彼を呼びとめて質問した。
「御前とおっしゃる方には、いつお目にかかれるのでしょうか。また、このお屋敷の中や外を散歩することはできるのでしょうか。私はここで何をしたらいいのでしょう。試験を受けるといった類いのことを聞いてきたのですが」。
「その封筒をご覧ください。それから、お屋敷の中も外もご自由にしてくださって結構です。お入りになってはいけないところには鍵がかかっておりますから。ただし、当屋敷は人里離れたところにございますし、森はたいそう深こうございますので、道に迷われませんようにご注意ください」。
男が出ていってから、また彼の顔がしっかりと見えなかったことに気づいた。これでは、どこかの道で彼に会ったとしても、あるいは、この屋敷の中で会ってさえも見分けられないのではないかと不安になった。僕はその部屋をグルグルと二周ほど歩いた後、窓に寄って外を眺めてみた。外は寝室の窓から眺めたのと同じような深い森に囲まれていた。一本一本の木は、太古から生えていたように大きく立派で、見上げても樹冠は霧雲に隠されていた。これほど大きな木々による森は見たことが無い。いや、聞いたこともない気がした。いったいここはどこなのだろう。僕は首を振って机の上の封筒に目をうつした。彼はこれを見て良い、いや見るようにと言っていたことを思い出した。封筒には楽譜の束だけが入っていた。表紙には飾り文字で、“ad patriam”と記されていた。
楽譜は交響曲のものだった。これが僕に与えられる課題というわけなのだろう。僕はさっそく机に座り、新しい楽譜に向き合った。しかし、この交響曲は全く初めて見るものだった。楽器構成はトゥーランガリラ交響曲と古典オーケストラ曲の中間ほどで、特殊な楽器も用いられておらず、これは普通の構成といえた。ざっと読譜して、曲の長さも約60分ほど、これも特に変わった印象は与えなかったが、楽章の進み方が奇妙だった。最初の楽章は今まで見たこともないほど現代的な印象を与えたが、楽章が進むにつれて時代をさかのぼっていくように思えた。特に奇妙に感じたのは、第4楽章に入ってからのメロディーである。同じ懐かしい印象を与えるヨナ抜き・ニロ抜き音階のようなものを用いたようなメロディーが次々と楽器を変えながら続いていく。しかもそれは、まるでグレゴリアン聖歌か、漸く始まったころのポリフォニーのような感じで繰りかえされる。何かを繰りかえし訴えかけているような印象だった。それがしばらく続いたあとに楽章の最後に向けて突然、全オーケストラによる大きな歓喜の音楽として集束するのである。その日は机の前で過ごし、気がつくと夕食の時間となって例の男に呼び出された。昼食も忘れて楽譜に没頭していたために、呼びかけた彼の声には初めて感情が、僕を気づかうような音が含まれているように感じた。窓の外を見上げたが、真の闇で星の光りも見えなかった。
その夜は、昨夜の旅の疲れが残っていたせいだろうか、あるいは逆に二晩目となり少し緊張が解けたせいだろうか、眠りは横になるとともに突然始まった。遠くから呼びかけられている声を聞いたような夢を見た気がしたが、次の日に起きたときにはそのことは覚えていなかった。つまり、その夜にそうした夢を見たことは、後になって思い出したことなのである。次の朝には、起きるとすぐにトレーニング・ウェアーに着替えて外に出た。雨は降っていなかったが晴れた空を見ることはできなかった。玄関を出る時には、早朝でまだ鍵が閉まっているのではないかと少し心配だったが、ドアは簡単に開いた。車留めの正面には大きな車一台分ほどの幅の土の道が巨木の森の中に心細く消えていた。とりあえずそちらに向かってしばらく走ってみる。ふりかえると屋敷が見えた。中央のロビーがある部分の左右に翼を羽っている鷲のように見えた。城というほどではないが、それを思わせるほど巨大な屋敷であった。そして不思議な威厳に包まれているようだった。あの向かって左のウイングの先端の部屋が、僕に今与えられている部分であろう。気を取り直してどんどん先に進んでみたが、どこまで行っても巨大樹の森が続いていてうす暗い大気に包まれたままだった。見上げても空はわずかな隙間としか見えなかった。その空も灰色だった。いったいここはどこなのだろう。こんな場所が、少なくとも僕が知っている地図の上にあるとは聞いたことが無かった。この辺には危険な動物はいないのだろうかとふと気になって、僕は道を引き返し始めた。そして、鳥の声が全く聞こえないことに初めて気がついた。
シャワーを浴びて朝食の席に着いたが、あの黒い男は、僕をこの屋敷に案内してくれた人をそう呼ぶことにしたのだが、今朝は姿をあらわさなかった。食事の給仕をしてくれる男もほとんど口を利かなかった。仕方なく早々に朝食を終えて、僕は書斎の机に戻って、そこに置かれていた楽譜の勉強を続けた。少なくとも、この楽譜が僕の試験の課題に関係していることは間違いないので、いつ試験が始まっても用意ができているようにしておきたかったのだ。できるだけ早く試験を終えてアリアのもとに帰りたいと願ったのと、できれば、アリアだけではなく新しく常任指揮者に迎えてくれた仲間たちを喜ばせたいと思ったからだった。楽譜に戻ると、いつの間にか熱中していた。楽譜を見ながらこのような恍惚状態になることなど、今まではあまり経験したことがなかった。しかし、この曲には不思議な力が感じられた。たった二日目なのに、頭の中で曲が強力な魅力をともなって流れ始めていた。僕は普通この段階ではあまり楽譜に書き込みはしない。しかし、この曲に関しては書き込みたい思いを無理に押し殺さなければならないほどだった。昼過ぎになると強いノックの音が聞こえたので、僕は飛び上がった。いよいよ「御前」の面接かと思ったからである。しかしそうではなかった。前日昼食を抜いたことであの男の指示を受けた給仕人が、僕を昼食に誘うためのノックであった。窓の外は相かわらず曇っていて、まるで薄明の中に森全体があるように見えた。僕のその日も、呼び出しもなく机の前で過ごす一日となった。ときどき柔軟体操を行う以外、僕は楽譜に取り組み続けた。
その夜、夜中に誰かの叫ぶ声が聞こえたと思った。僕は驚いて夢から覚めた。周りは真っ暗な闇につつまれていて、ベットサイドのスイッチでスタンドの灯りをつけても部屋の隅には闇がうずくまっていた。しばらく横たわって耳をすませていたが、何も聞こえなかった。いったん灯りを消したが、気が変わってベットサイドの小さな灯りだけは点けておくこととした。明け方にまた夢を見た。僕は巨大樹の森を一人でさまよっていた。淋しさが骨の芯まで侵すようで、震えながら帰り道を探していたが、道は見つからなかった。アリアの所へどうしたら帰れるのかと、そればかり思いながら、風景の変わらない巨大樹の根元を疲れ果てて歩いているのだった。目を覚ますと、心臓の鼓動が激しかった。僕は自分に、アリアと別れてまだたった3日目なのだと言い聞かせて落ち着こうとした。それ以上、眠る気にはなれなかった。僕は起き出して机の引き出しを探ってみた。そしてベットサイドテーブルの小さな引出しの中に懐中電灯を見つけた。
次の日の昼食後、黒い男が姿をあらわした。今度こそ「御前」に面会できるのかと思ったが、そうではなかった。僕はどうしたらいいのかと彼に聞いた。彼は、御前のお呼びがかかるまでは読譜を続けるようにと言ったきりだった。いつ帰れるのかと訊いたが、彼にもそれは分からないようだった。一つだけ、彼はこの森には危険な動物はいないと請け合ってくれたので、僕はまた着かえてジョギングに出かけた。森の道はこの前の倍は走ってもまだ森から抜け出ることはなかった。ただ、車が行き交うためなのか、少し広くなっているところを見つけた。その小さな広場から見上げるとようやく空が少しのぞめた。今日は雲が薄くて、半透明の層雲を透かして青空がかすかに見える気がした。僕は久しぶりの空らしい空を見上げながらしばらくそのまま突っ立っていた。ジョギングでかいた汗が森林のフィトンチッドに浄化されていくような気がした。僕は、薄青色の空をそのまま見上げて、久しぶりに自然の中で陶然としていた。恍惚感が僕を充たしていき、生きている素晴らしさがよみがえってきた。この世界のすばらしさの中に沈み込んでいくような気がした。
その僕が突然自分をとりもどしたのは、僕の見上げている空を一瞬真っ黒い闇のようなものが横ぎったからだった。急に寒気がして、僕は屋敷に引き返すこととした。




