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第三楽章の1 試練・新しい交響曲

3.試練 新しい交響曲


 今、振り返ってみると、これまでの経験の奇妙さは、あるいは信じられないような幸運は、まだほんの序の口だったと思う。ここまでに経験した運命は、あるいは特別に運が良ければ、本当に運が良ければ、同じような経験をしたことがある人もいたかもしれない。あくまでも若しかしたらということだが。しかし、これから述べることは、おそらく誰も経験したことのない出来事だと確信している。しかし、過ごされた時間の流れに戻って話しを進めてみようと思う。


 それからの数日、僕には新しい時代が始まった。ほとんど一日中、どこに行くのもアリアといっしょだった。僕は充分にロマンティックな気分を味わい続けた。アリアはまさに驚異だった。アリアと共に始めた時間は、新しい発見の連続だった。それに、オケの楽団員たちやアリアの友人達をとおして、この小さな街の隅々まで僕たちのうわさが広まっていて、僕はこの街の一員として迎え入れられるようになった。もうこの街の一時的なお客ではなくなったのだ。目のまわるほどの忙しさの中で、正式にことを進めなければというアリアの言葉に従って、教会で数人の友人たちとチェロさん夫妻、もちろんマルティン氏も出席して神の前に結婚を誓った。急なことでアリアの兄姉は間に合わなかったが、心のこもった祝福の手紙を受け取ったし、僕たちはやがてゆっくりと会えるからとアリアはいった。僕の側には特に知らせねばならない関係者はいないので、ことは簡単だったが少しさびしい気もした。しかし、これからは新しい家族が与えられるのだ。古風な市庁舎に行って、書類を作成して提出した。僕は、アリアの家に移って、マルティン氏をお義父さんと呼ぶことになった。胸を張ってアリアと一緒に過ごせるためにできることは何もかもやった。嵐の中にいるような日々だったが、その嵐はバラの吹雪のような嵐だった。そして、突然その嵐が止むことになってしまった。


 あの夜から1週間目の夕方、アリアの家、今は僕たちの住む家に義父が難しい顔をして帰ってきた。応接間のソファーに座りながら、義父は僕たち二人を呼んでそこに座らせた。

「御前という方の代理人から、また提案を受けたのだが」と話し始めた。

「またまた奇妙な提案をされたのだが、まずは君たち二人と相談したいと思ってね」

「どうして、お父様、私たち二人なの。ソウロに、でしょう」

 僕の隣に腰をおろしながらアリアが僕を見上げていった。彼女にソウロと呼ばれるのにもようやく慣れてきたところだ。それでも、こうして顔を見合わせる度に笑顔になってしまう。このところ勉強は少しさぼり気味だったので、新しい仕事にとりかかる頃合いではあると思いながら僕もソファーに座った。

「たしかに、仕事の相談ではあるのだが、今回彼らのもちだした条件が君たち二人に関係があるのだ」。

 僕たちは義父の話の続きを聞く姿勢をとった。

「またまた驚くような提案なのだ。もしかしたら、御前は本当に僕たちのオーケストラのスポンサーになろうとしているのかもしれない」。

「義父さん、それはあなたから見て、オーケストラのためには良いことに見えるんですか」。

「オーケストラにとっては、悪くない話だと思う。皆が賛成するかどうかはまだわからないけれどね」

「それで、私たち二人に意見を聞きたいことって何なの。条件というのに、またソウロが関わっているのね。特に私の意見だなんて。でも、向こうはそんなに難しいことを言ってきているのですか」

「結果として、しばらく君たちを離れさせることになるようなことを言ってきたのだよ」

 アリアが僕の腕をとって、体を寄せた。

「私たちの結婚に不服があると仰っているの」

「必ずしもそういうわけではないがね。ソウロを御前のところに遣せと言っているのだ。どれくらいの期間が必要なのかも、どこに行くのかも秘密だそうだ。そして、それが最後のテストだというのだよ。今までの彼の指揮と私たちの演奏は、まあ、御前が僕たちに与えた試験だったというわけだ。そしてそれに合格したということなのだろう。その上で、もし僕たちが受け入れるなら、最終試験をすると言ってきたのだ」

 アリアが、僕の腕をもっと強く握りしめて、さらに体を寄せた。

「なんだか気味が悪いわ。最終だなんて」

「大丈夫なんじゃないかな。僕も君とは離れたくないけれど、それがオケのためになるんだったら、僕は試練を受けてもいいよ。ただし、合格するかどうかは保証できないけれど」

「何だかあなたを攫われるような気がするわ。あの電話のことも、今までの成り行きだって、私はなんだか気味が悪くて仕方がなかったのだもの」

「でも、御前という人がくれたチャンスのおかげで、僕たちは結婚できたのかもしれないよ」。

「あら、そうなの」と、少しつんとしてアリアが答えた。しかし、僕の腕を握る彼女の力はさらに強められた。

「君たちが、向こうの条件を受け入れてくれるつもりがあるのなら、できるだけ早いうちに全楽団員集会を開いて皆で検討することにする。このこと以外は、奇妙ではあるけれどかなり好条件なのだ」。

「僕たち二人が一緒に行くというわけにはいかないのでしょうね」

「君一人をよこせというのが彼らの返事だった」

「分かりました。アリアはどう思う」

 彼女はしばらく考え込んでいた。

「あなたは絶対に帰ってくる。あなたは私を忘れることはない」と、彼女は自分に言い聞かせるように小さな声でつぶやいた。

「あたりまえじゃないか。僕が君を離れることはない。僕も不安がないわけじゃないけれど、どんな試験を受けなくてはならないのかが分からないのだからね。その試験に、君の大切なオーケストラの運命がかかっているということだし。でも、まさか命を取ろうということもないだろう。戦争に行くわけじゃないんだから」。

「分かったわ。お父様、全楽団員集会を開いて下さい。私は、反対はしないわ」

 その夜はいつも以上に僕たちは一つだった。


 結局集会は二日後の午後に行われた。向こうも前回のようには返事を急がせてはいないらしい。団員たちは、三々五々オペラハウスに集まってきた。僕たち二人が入っていくと、すでに集まっていた人たちは振り返って、親しげに笑いかけた。あの夜以来、このように全員に会うのは初めてのことだったからだろう。中には手を振って挨拶してくれる人たちもいた。僕たちも自然に愛想よく挨拶を返した。幸せな時には、皆にそれを分けることに何の努力もいらないのだから。僕たちは、前回マルティンから報告を聞いたときと同じ席についた。さっそくトマスが近づいてきて、僕たちの前の席にこちら向きに座った。「やあ」「やあ」と挨拶を交わしたが、彼の得意げなにやにや笑いに、いまさら、「何故あの瞬間がわかったんだい」と聞くのも憚られて、僕も苦笑を浮かべてしまった。あのすばらしい出来事は、彼の演出に違いないと確信していたし、それに感謝もしていたので、ただ「あの時はありがとう」とだけお礼を述べて、聞かれるままにその後のことにも答えた。ほぼ全楽団員が揃ったところで、マルティンが入ってきて舞台に立った。

「今日お集まりいただいたのは、また皆さんにご相談したいことができたからです。僕たちがミステリー氏とお呼びしている方から、また提案がありました。そのことを受け入れるかどうか、私たちの管弦楽団にとっては大きな方針の転換になりますので、皆さんとご相談する必要ができたのです」。

彼は言葉をきって、僕たち全員を見渡した。ここまでは、ほとんど皆が知っていることだったが、前回の提案以上に奇妙なものであるという噂が既に流れており、皆の期待感が高まった。彼は続けた。

「前回は、トゥーランガリラを2週間後に行うことを引き受けたら、3か月分のサポートをしてくださるという提案でした。今回はもう少し長い期間に渡ってサポートしてくださる可能性があるのです。ただし、その前にある条件をクリアーしなくてはなりません。

 それはソウロが、あの方の試練を受けるという条件です。そしてもしソウロが彼の目にかなったら、その時に初めて、次の長期のサポートが受けられることになるのです。ただし、ソウロの成否が判明するまでの期間、つまり彼が帰ってくるまで、僕たちの公演を中止することが条件です。そして、この間のサポートをしてくれると同時に、このオペラハウスの補修を行ってくれるというのです」。

 皆がどよめいた。彼らの誇りであるこの建物は、しかし、すでにかなり傷みも目につくようになっており、補修が必要であるにもかかわらず財政的な理由で放置されたままになっていたからである。

「それじゃあ、ソウロの受ける試練というのは、かなり長期間になるのでしょうか」と、トマスが質問した。

「どのくらいの期間なのかは、全くわからない。短いのか長いのかも、答えてはもらえなかった」

 皆が気の毒そうに僕たちを振りかえった。

「このオペラハウスに手を入れるとなると、しばらく公演活動ができなくなるのは仕方がない。それは、長い間僕たちが望んでいて、実行できなかったことでもある。しかし、その補修期間のあいだずっとソウロが留守になるとしたら、何カ月もかかることになってしまう。アリアたちはその条件に同意できるのかい」と、またトマスが質問した。

「長い期間になる可能性も否定できないが、ソウロがいつまで留守にする必要があるのかについては、全く返事がもらえなかった。向こうが言うのには、それは状況次第で、彼らにもあらかじめは分からないようだった」

「どんな試験かは全くわからないけれど、何ヵ月もということはないんじゃないかなぁ。コンテストなんかでも、長いものでもせいぜい数週間といったところだし」と僕が言った。

「ソウロもアリアも、皆の決定に従うと既に決心している」とマルティン。

「新婚の二人には気の毒だが、オペラハウスの補修とその間の支援というのは、僕たちのオケにとって願ってもないことだ。本当にそれは長い間、願ってきたことだから」。ゆっくりとチェロの主席さんが言った。「二人が本当に同意してくれるなら」。

「叔父さま、私たちは別れて過ごしたくないけれど、音楽家として生きていくなら、そういったことも将来覚悟しなくてはならないと思いますわ。ソウロがもっとマエストロとして有名になっていけば、二人でいつも一緒というわけにもいかなくなるでしょうし、私は彼が大きくなる機会を奪うわけにはいきませんもの」と、きっとこのことはアリアの真情なのだろう。きっぱりとした口調であった。この二日間僕といっしょに過ごしながら、こうした決心を育てていたのか。いや、結婚を申し込んだ時から、これは彼女の真情であることを僕は知っていた。

 いつのまにか若手の演奏家たちの集まっている席に移動していたトマスが立ちあがって言った。

「事務局長、コンマス、僕たちから提案があります。この際、僕たちも常任指揮者を迎えたらどうでしょうか。僕たちはソウロを推薦したいと思います」。

 皆がざわついた。そして次の瞬間から、その場は私語で満たされた。チェロの主席さんも私語に負けないためにその場に立ちあがって言った。

「たしかに、僕たちは長い間常任指揮者をもたないできた。それは、仕方がない結果でもあったのだが、かつては常任指揮者がいることの方が普通だったし、そろそろそうした体制に戻ってもいいんじゃないかと僕も思う。ソウロにマエストロを任すのに、僕も賛成だ。」

「今の推薦に、反対の方はおられますか」と、マルティンが聞いたが、誰も手をあげるものはなかった。

「それでは、この件に関しては理事会に諮ることといたします。皆さんのご意見は、特に反対や懸念といったものをお持ちの方は、この後でも結構ですので理事の誰かにご意見を伝えておいてください」。

「でも、この集会の空気も、理事会にちゃんと伝えておいてくださいよ」と、トマスが念を押した。

 アリアと僕は顔を見合わせた。アリアの眼は嬉しそうに大きく開かれて、つないだ手が強く握られた。「そうなれば、少なくともこれからも一緒にいられる時間が長くなりますわね」と。トマスは、団員たちは、私たちの払う犠牲に報いようとしてくれているんだと思った。

 結局、僕たちはこの提案を受け入れることにした。最終決定はその晩に臨時の緊急理事会を招集して決定されることになったが、どちらの提案も決定したも同然だった。


 突然に事態は進んで、僕は次の日に新しくこのオーケストラの常任指揮者になる契約書に署名した。事務所の方にも相談したが、全く問題がなかった。しかし驚いたのはもう一つのことだった。朝のうちにマルティンが事務局長として、御前の代理人に条件を承諾したという連絡を入れたのだが、それではすぐにというので、その日の午後5時頃に迎えの車を送るという連絡が入った。必要なものはすべてあちらで整えているので、着替えの荷物すら必要ないという連絡であった。その日は、アリアと僕はずっと一緒に過ごした。街を散歩して回り、軽い昼食を町のカフェで摂った。街ですれ違う人びとは、事情は知らされていないにもかかわらず僕たち二人に好意的に笑いかけてくれた。午後はアリアと家で過ごした。庭の椅子に座って、二人で見つめ合って過ごす間に時間が経ってしまった。5時が近づいたころ、チェロさんやコンマス、それにトマスまでが訪ねてきた。

 午後5時ちょうどにアリアの家の前に黒塗りの大きなセダンが停まった。アリアと腕を組んで玄関から出ていくと、真っ黒なフロックコートのようなものをまとった男が僕たちに礼をして車のドアを開けてくれた。それは、まるで大統領か国王の乗るような大きな車で、中の様子を窺うことができないスモークグラスの窓が威圧的に感じられた。アリアはそっと身を寄せて、組んでいた腕をより強く握りしめた。僕たちのうしろには、義父とチェロさん、それに見送りに来てくれていたトマスが続いた。

「すごい車だな、マエストロ」と、皆の感想を代表するようにトマスが言った。

「ソウロ、できるだけ早くお帰りになってね。試験の結果なんかどうでもいいから」と、このことの始めから不安を感じていたアリアが、小さなかすれた声で言った。僕は彼女を抱きよせてそっとキスをして、うしろをふり返り皆に小さく手を振って車に乗り込んだ。例の男が黙ってドアを閉めた。車の中からも外はほとんど見えなかった。窓に顔をよせると、心配そうにこちらを見つめるアリアを、ようやく認めることができた。運転席との間には隔壁があって、僕は黒い内装の豪華な車内で一人きりとなった。

「何かお飲みになるのでしたら」、突然話しかけられてギクッとしたが、スピーカー越しに先ほどの男が話しかけたようだった。

「いえ、特に何もいりません」と答えると、「御用がおありでしたら、運転席の方に向かってご用命ください」と返事があった。低いバリトンのはっきりとした印象を与える声だったが、案内してくれた彼の顔をはっきりとは見ていないことに気づいた。「しばらくかかりますので、どうかおくつろぎくださいますように」。

 男がそういい終わると、車はゆっくりと動き始めた。僕は窓に顔をよせて、不安そうにこちらを見つめるアリアに手を振って別れを告げた。彼女には見えないだろうと思ったけれども。車は驚くほどなめらかな乗り心地だった。しばらく窓に顔をよせたまま外を眺めていたが、すぐに夕闇が来て街の灯りだけしか見えなくなり、それもほとんど見えない闇の景色となってしまった。車が郊外に出たのだろうか。僕はゆっくりとソファーにもたれて、この1カ月ほどの急転してきた運命に思いを馳せた。この街のオーケストラの指揮を依頼されて、喜びに満たされて初めてこの街の駅に降り立ってから、なんだかとても長い時間が過ぎたような気がしていたものだが、しかし、それはたった一月ほどのことに過ぎなかったのだ。僕は2度、指揮を任されて、とても素晴らしい経験をした。この街のオケのメンバーと親しくなり、一心同体となり、常任指揮者として迎えられることになったのだ。そのメンバーの一人、アリアを愛するようになり、まさか自分がこんなことになるとは考えたこともなかった電撃結婚をした。そして、不思議なスポンサーの求めに応じて、今車の中にいる。どんな試験が待っているのか、僕には想像もできなかった。ただ、アリアといっしょに行けたら新婚旅行になるのになぁと、ちょっと残念だった。



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