第二楽章の4
翌日、昼前に事務局に着くと、すでにスコアが用意されていた。ステージマネージャーは、今までとうって変わって快活だった。演奏会の宵までは、何か奥歯にものが詰まったような、おどおどとした様子であったが、こちらの方が本来の彼なのであろうと自然に思われた。「スコアは指揮者室にご用意しておきました」と、明るい声で告げた。
「ステージマネージャーも大変でしょうね。突然大変な責任を負わされて。エキストラの手配は間に合いそうですか」。
「まだ準備段階ですが、今日から交渉を始めなければ」。そういって肩をすくめた。
挨拶をして指揮者室に入ると、窓ぎわの古い事務机の上にスコアの束がきちんと置かれていた。その傍には、鉛筆やら消しゴムといった筆記用具までが、王宮の前に整列した儀仗兵のように並んでいた。どうやら、新しい仕事に向かってステージマネージャーの意気込みはすでに全力運転にかかっている様子がうかがわれた。僕も待ちきれない思いがして、まっすぐに机につくとスコアを開いた。新しいスコアの香りがして、ややクリーム色の紙に音符が踊った。僕は目をつぶった。深呼吸をしてあらためて楽譜をみつめた。
今回は、20世紀の交響曲に取り組むということで、昨日までは頭の中で18世紀の交響曲が響いていたので、ちょっと眩暈がするほどの速さで、時間のトンネルを潜りぬけている気持だった。それにメシアンについては、ずいぶん昔に読譜した経験があるばかりなので、複雑なリズムとアンサンブルを、先ずはゆっくりと忠実に追っていくこととした。三度目の読譜にかかった時になって、ようやくぎこちなく音楽が聞こえ始めた。それまでは、パートの動きと独特のリズムに気を取られるようで、全体の音楽がまだ聞こえてこなかったのだ。三度目の読譜が終わって頭を上げると、開け放しておいた窓の外はもう夕焼けだった。それでも、まだスコアは真っ白のままだった。まだ僕の頭の中では、この交響曲の声が聞こえてくるところまではほど遠い気がして、今日はこのままこの部屋で過ごす決心をした。もう少しちゃんと聞こえるようになりたいという気持ちだけが心のなかを満たしているのを感じた。
少し体を伸ばすために、事務室に顔を出した。しかし、誰もいない部屋で明かりだけが灯っていた。そのまま外に出て、少し薄暗くなった公園を軽く二周ランニングして帰ってきて廊下を通り過ぎようとすると、事務室の中で人の気配がした。エキストラの依頼状況を訊ねようかと思って顔を出すと、ハープさんが一人で事務机の前に座って書き物をしていた。驚いて「あっ」と変な声を出してしまった。一瞬のちに、慌てて取り繕って、「昨日はどうもありがとうございました」と、「マエストロ、まだおいでだったのですか」とが交錯した。
「いや、まだ掴めなくて。トゥーランガリラ交響曲は初めての指揮ですから」と、ちょっと弱音を吐いて、すぐに“しまった”と思った。
「私たちの交響楽団でも初めてですものね」
「それだけに、やりがいはありますよね。もう少し掴めるまでお部屋をお借りするつもりです」
「あら、あのお部屋は次の演奏会までは、マエストロのものですわ。そう父が申しておりましたもの」
「本当にありがたいですね。今日は読譜で過ごしましたけれど、そろそろピアノを使わしていただこうと思っていたところでした」
「コーヒーをお持ちしましょうか」
「ありがたいですね。そう聞くと喉が渇いていることを思い出しましたよ」
ハープさんは、まあというように目を大きく見開いた。「それでは、すぐにお持ちしますから」「ありがとう」
メシアンは共感覚の持ち主で、音を聞くと色彩を感じる人であったことは有名であるが、僕は残念ながらそうではない。メシアンが仕事を始めたころには、この共感覚のことは脳の研究者にもよく知られていなかったので、彼の主張が激しければ激しいほど、人々は彼のこの感覚を理解しようとしなかったという。同じ共感覚の持ち主であっても、見える色彩やその見え方は様々であるということなので、この交響曲から僕なりの色彩を感じてみようとしながらスコアを眺めはじめていたのだが、頭の中で音を鳴らしながら目をつぶって音を色として感じようとするのは、なかなかに困難なことが分かってきた。それに、普段使いなれていない楽器の多さにも悩まされた。独奏部を担当するオンド・マルトノをはじめ、鍵盤楽器のチェレスタ、ヴィブラフォンはともかくとして、ジュ・ド・タンブル、チューブラーベルや8人の打楽器奏者が分担して演奏する打楽器の中には、音色の想像がつかない楽器も多いので、これも頭の中で曲を演奏するのに困難を感じる原因だった。ともかくこうした困難な課題に集中していたのだが、背後で微かな気配を感じて振りかえると、ハープさんがお盆を置いてそっと扉から出ていこうとしているところだった。
「あっ、アリア、ちょっと待って」。慌てて呼びかけたのでファースト・ネームを初めて呼びつけにしたことに、呼びかけてから気がついたが、ちょっと赤くなる気がしながらも、そのまま続けた。「いま、ちょっとお時間はありますか」。
「ええ、大丈夫ですけれど」。
「それじゃ、少し手伝ってくださいますか」。
「はい。何をお手伝いいたしましょうか」。
「ちょっとここに来て、ピアノを弾いていただきたいんです。この曲に含まれている音達の色を見ようとしていたのですが、一人じゃうまくいかないで困っていたので」。
「このピアノを弾かせていただけるんですか」。少し弾んだ声でそう言いながら、彼女はドアの前で両腕を抱きかかえて捩じるようにした。
「音の色をご覧になるんですって」
「そうなんです。それが上手くいかなくて、さっきから苦労していたんです」
「私にお手伝いできるでしょうか」、呟くように言いながら、彼女は、最初はおずおずと、それからゆっくりと滑るようにピアノに近づいて腰を掛けた。蓋を撫ぜるように慈しんでそっと鍵盤を開いた。
「このあいだもお話ししたかしら。このピアノは、私が幼い時に母の横に座って弾かせてもらった時から、本当に久しぶりに今日初めて触らせてもらうのです。懐かしいですわ」。
「弾いていただきたいのは、スコアからになるので、それにピアノが休んでいるときには他の楽器のパートをお願いしますので、そのうえ初見でしょうから、少々無理をお願いしているのはわかるのですが」
「あら、少々かしら。でも面白いですわ」。そう言いながら隣に立つ僕の顔を見上げて、彼女は微笑んだ。
「楽譜は僕が繰ります。弾いていただきたいパートは、楽譜を指差して指示させてください。ページが進む時には前のページのパートを続けてください」。ここまで指示してから、僕はなんて無理な注文をしているのだろうということをあらためて強く意識した。彼女がピアノを弾くことは聞いていたけれど、実際にはまだ一度も演奏を聴いたことはないのだから。
「あの、本当に無理なことを突然お願いして」
「本当にそうですわ、マエストロ。でも、できるかどうか判りませんけれど、やってみます」。そういってアリアはもう一度微笑んだ。気後れしているようすは感じられなかった。
アリアのピアノはすばらしかった。僕の予想以上だった。ただし、テンポは僕の指示により少し落として弾いてもらった。それでも、金管楽器のパートを初見で移調して演奏してくれたのには驚いた。途中で楽譜をめくる姿勢が苦しくなり、彼女の掛けるピアノの椅子に座って手を伸ばすようになった時にも、彼女はまるで気づかぬ様子で楽譜をみつめていた。途中から、自分でも気づかないうちに、打楽器パートやその時に主旋律を支えている楽器パートを口ずさみ始めたが、それにも動じないどころか楽しげにリズムをとり続けた。楽章の合間では少し休憩を入れたが、息を整えたらまたすぐに演奏にもどった。最初の休憩では僕も彼女に次の楽章を開始してもいいかどうか訊ねたが、彼女は黙って頷いただけだったので、それ以後は彼女の様子をじっと見つめて、良しと判断したら次に進むようにした。ただでさえ八十分近い大曲である。僕たちは二時間以上をかけてこの交響曲をさらったことになる。曲が終わった時には、彼女もさすがに頬を紅潮させて息づかいも荒くなっていたが、それでも幸せそうに微笑んでしばらく遠くをみつめていた。それから僕と顔を見合わせた。微笑みの残ったままで、そっと首をかしげた。僕は目を見開いたまま「うん、うん」と頷いた。
「ありがとう。イメージが少しつかめた」。
「音符の色が見つかりましたか」。
「いや、それはまだだ。まるで夢中で音楽を聴いていたから。でも、この曲を愛せそうだよ」
「良かったわ。それが始まりですものね」
僕は、立ち上がって、彼女が入れてくれていたコーヒーを注いで彼女に差し出した。彼女は目を瞑るようにして、そのコーヒーをゆっくりと飲み干した。
コーヒーセットを載せたお盆には、セロファンに包まれた小さなサンドイッチも載せられていた。僕がそれをとりあげて、彼女を見つめて首をそっと傾けた。彼女は頷きながら、「もしかしたらお役に立つかなと思って」と言った。どうやら家から持ってきてくれたようだった。それから、「コーヒーもすっかり冷めてしまいましたし、もう一度お入れしましょうね」と立ち上がった。
僕は彼女について事務所に戻った。事務所にはまだ電気がついていて、事務局長が仕事をしていた。もしかしたら娘を気づかって残っていたのかもしれないが、僕たちを見ても表情は変わらずに温和なままであった。
「遅くまでご精がでますね。イメージは掴めましたか」
「まだ、なかなかです。今日は娘さんにお手伝いいただきました。この曲を好きになれそうになってきました」
「アリアがお役にたって幸いです」
そんな会話を交わしているところに、ハープさんが新しくコーヒーをいれて入ってきた。
「お父さんもいらしたのですか。新しくコーヒーをお入れしました。お召し上がりになりますでしょう」
「いただこうかねぇ。ママのピアノを弾かせてもらったのだね」
「ごめんなさい、お父様のお許しなしで」。
「それは私がお願いしたのです。どうかお許しください」。
「それはちっとも構いません。マエストロのお役に立つのであれば。それに、家で毎日弾いているのを聞いてきましたのでね。そろそろあの鍵盤に触れてもいい頃だと思っていたのですよ」。
「本当ですか、お父様」。
「実は、まだお願いしていませんが、もしよろしければ、明日もお手伝いいただければ嬉しいのですが」
「あら、私は大丈夫ですわ。お父様、よろしくて」と、少しはしゃぐようにアリアが答えた。事務局長はと見ると、温顔のまま頷いてくれていた。
「それじゃ、明日の午後にまたお願いします。明日は作曲者の指示のとおりのペースで」。
「わかりました。明日の午後またここにうかがいますわ」。
アリアの入れてくれたコーヒーは、疲れ切った頭に新鮮さをとりもどしてくれるようだった。苦味も渋味もちょうどよかったし、今夜は少量の砂糖を加えたので、急に眼がはっきりとするほどだった。
「そろそろ帰ろうかと思っていたんだが、アリアはどうするね」。
「マエストロは、どうされるのかしら」
「僕は、このままあの部屋でもう少し過ごします。泊まらせていただくかもしれませんが、よろしいでしょうか」
「それはかまいませんよ。あの部屋は、次のコンサートまでマエストロのお部屋ですから。ただ掃除だけは入れますけれど、よろしいでしょうね」。
「もちろんですとも」という僕の返事と、「あら、いけませんわ」というアリアの声が重なった。僕がアリアのほうを見て、ちょっと問いかける動作をした。「私の言いたいことは、お食事をなさらなくてはいけませんということですの。それに、お眠りになるのはベットでないといけませんわ。コンサートまでまだ日があるのですもの、お身体を壊されたりしたら大変ですから」と、予想しなかった勢いで続けた。
「僕は、大丈夫ですよ。どこでも眠れる体質ですから。それに、立派なソファーもあるし、夕食はあなたの差し入れてくださったサンドイッチとコーヒーとがありますもの」。
「あれはほんの少しだし、第一お昼も召し上がっておられないでしょう。ちゃんとお食事されなくては」と、今度はやさしく諭すようであった。
「それじゃ、ご一緒に我が家で遅い夕食をいかがでしょう」
「それが良いですわ。特別のことは何もできませんけれど」
「それは、あまりに厚かましいですから」
「マエストロ、あなたはもう私たちのオケのファミリーなんですから、ご遠慮には及びませんよ。娘も云うとおり、何も特別なおもてなしはできませんけれど」
「そうなさってください。お食事のあとで、私がお送りしますわ」
「あなたも、どこかの誰かさんが、急な無理な注文をしたばっかりにとても疲れておられるでしょうに」
「だって、どうせ父も私もこれから夕食をいただきますのよ。マエストロがお一人増えたところで、ちっとも苦労ではありませんから。そうなさってくださいまし。そして、お送りしますから、ご自分のベットでお休みくだされば、私も安心ですから」
父娘で一緒にすすめられて、では、そうさせていただきますと返事するしかない空気になった。それではと、スコアだけは持って帰るということにして、僕は部屋に引き返してカバンを抱えて事務局長の車に乗せてもらった。




