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第二楽章の3

 事務局長の自宅は、少し郊外の住宅地の中にあった。といっても田舎というほど郊外でもない。瀟洒な家並みが道に面して続いている、いかにもこの町で古くに拡がった住宅地である。玄関から招き入れられると、短い廊下を抜けてリビングだった。正面は大きなガラスの扉窓となっており、家の裏側が少し広い庭になっていた。もう薄暗くなった庭はよく手入れされて、さまざまな花が咲き乱れているようだった。リビングのゆったりしたソファーにはチェロの主席さんが座っており、ワイングラスを手にもって、僕が入っていくと座ったままで、やあというようにグラスを挙げて挨拶をしてきた。勧められて僕も彼の隣に座った。そこに、白いドレスを着たハープさんが、お盆にワインを入れたグラスをのせて入ってきた。えっと驚く僕に微笑んでグラスを勧めた。

「ああ、娘のアリアだよ。もうマエストロは知っておられるのだと思っていた。今日一緒にオペラハウスに来られたと聞いたので」と、事務局長が笑顔で紹介した。

「娘さんだとは知りませんでした」と、少し口ごもりながら僕は答えた。アリアさんという名前だということも知らなかったのだ。ちょっと顔が赤くなる気がして、あわててワインを一口飲んだ。白ワインは、ほど良く冷えていた。

「教会堂の前でお会いしたのです。そして素敵なコーラスを聞かせていただきました。そのあとご一緒に、ご報告を聴くために事務所にうかがったのです。でも、お嬢さんは何もおっしゃらなかったので」。

「なんだ、アリア。マエストロを驚かすつもりだったのかい」と、チェロさん。

「そんなつもりじゃありませんわ、叔父さま。唯、お話しするきっかけがなかっただけ」。そう言いながら、チェロさんをちょっと睨むようにして、ハープさんはキッチンのほうに下がっていった。

「マエストロ、夕食の前に、ちょっと三人でお話をいいですか」事務局長が話し始めたのに、チェロさんが少し乱暴に割りこんで言った。

「君に謝っておきたいんだ」。

「謝るって」。

「いや、僕が謝る」と、何か言いかけた事務局長を抑えるようにチェロさんが続けた。

「マエストロ、あなたは僕たちのオケに違和感を感じられたことでしょう。あなたは二日目に、僕たちがまるで指揮者を必要としていないようだと言われましたよね。それは本当だったんです」。

 僕は、目を丸くして彼の話を聴いた。

「本当だったんですか。確かに、第一日目には、そう感じたのは事実です。それで落ち込んで帰ったのです。しかし、それは僕の思い過ごしであると信じようとしていました。どんなオケにも、伝統というものがありますから」。

「たしかに、それは伝統になりかけていたかもしれない。こういったらなんだが、酷いというか僕たちとは肌の合わない指揮者が続いていたんだ。僕たちを道具としか思っていないような人たちがね。いやむしろ奴隷と思っていたのかな。なかには全然だめなやつまでいた」。チェロさんが苦々しい笑顔を見せた。

「だから、僕たちは君に救われたと感じているんだ」。

「彼は、彼らは、僕を救おうとしてくれたのだ」と、事務局長。

「君を救うことは、オケを救うことだったのだよ。何度も話し合ったじゃないか」

 僕は、話についていけないで、少しおいてきぼりの感を味わっていた。指揮者に何も期待しないオケ。どうして。そして、それがどうして変わったのだろうか。僕が彼らを救ったって、なぜ。そういったことを思い巡らしながら、この二人の親友の交わす会話を聞いていた。

「マエストロ、あなたも気づいておられるように、私たちのオケは、正直にいって貧乏だ。ぎりぎりのところでやっている。こういっては失礼だが、あなたに出すような額できてくれる人は限られている。それだけじゃない。予定されていた君の前の指揮者を、僕は怒らせてしまった。いや、彼も勝手な人で、演奏前のリハーサルはゲネプロ一本しか時間がないといってきた。それで、その前に一度リハーサルをやってくれるように連絡して頼んだら、一週間前に移動の途中でこの地を通過するから、それじゃ一回だけリハーサルをすることになったってわけだ。ところが、僕の、僕たちのビートとあわなくて、僕たちも彼の態度から信頼する気持ちにならなくてね。今まで僕たちをかき回していった指揮者たちと同じ臭いを感じてしまってね。それで、彼はリハーサルで怒鳴りちらした挙句に、指揮者を降りると宣言して帰ってしまったというわけなのだ」。

「それで急遽、私のように無名で暇をかこっている指揮者に指名がきたということなのですね」。

「まあ、許してもらいたい。失礼なことをした。しかし、時々そうした指揮者が僕たちの前を通り過ぎていったのだが、今回も緊急事態だったから、僕たちにあわせて棒を振ってくれる指揮者でよかったのだ」。

「それで、一日目のリハーサルの時に、すごく孤独に感じたのでしょうね。私も、とっても怒りながら宿に帰ったのを覚えています。でも、宿でスコアをさらいながら皆さんの演奏を重ねてみたのです。そうすると、皆さんのビートもハーモニーも、僕のものとは少し違うけれど、しっかりしたものだって納得できましたよ」。

「それで、マエストロが次の日に、最初お会いしたときと同じような楽しい雰囲気と共に事務所においでくださった時、私は本当にホッといたしましたよ」と、事務局長。「それに、うちのオケがあれほど頑なになったのも、ヘッポコ事務局長を救うため、オケを救うためだったのです。彼が、彼らがこのオケを愛して、僕たちの伝統を守ろうとしてくれていた結果なのですから」。

「君はみんなに愛されていたコンマスで、そのうえ君がどれほど僕たちのオケを愛しているか、楽団員で知らないものはないさ。それに、誰がやっても君よりうまくはいかなかっただろうと思うよ」。

「いや、力のない僕が事務局長を引き受けるべきじゃなかったのだ」。

「君が受けなければ、もっとひどいことになっていたに違いないんだ」。

 また少しおいてきぼり感を味わったが、僕はこの二人の老境を迎えようとしている音楽家の人生のことを考えていた。二人は、この町で、このオーケストラで、音楽を二人の間において向かい合って生きてきたのだろう。音楽論や生き方やそのほか様々なことをめぐって、若い時からずっと口論しあって育ち、音楽を深め、お互いを高め合いながら今の時を迎えたのにちがいないのだ。それは、僕にとっても好ましい人生であるように思われた。そうしてお互いを隅々まで理解していることは、そこに座っているだけでよく分かった。僕は二人の議論を聴きながら、ワインでのどを潤した。ダイニングとの間のクリーム色の壁には、丸や四角の木の額縁に入れられた家族の写真が飾られていた。その中に、ヴァイオリンを抱えた事務局長とチェロを抱えた若い二人を写したものもあった。写真の合間には、小さなドライフラワーの飾り。まだ僕にはこういったものは何もない。僕の歴史はまだ始まったばかりなのだから。反対側の壁には、何の変哲もないアップライトのピアノが置かれていた。それ以外に、音楽家の家であることを示すようなものは何も置かれていなかった。二人はふと僕の存在に気づいたという風に、また僕に話しかけてきた。話をするのはチェロさんと、自然に決着がついたかのように彼が続けた。

「でも、マエストロ。結局僕たちは間違った道に踏み込もうとしていたことに気づかされた。あなたのおかげです。そのことでは、とても感謝している」。

「私は」、彼らの感謝の気持ちは、なぜか伝わってきたが、その理由がまだ充分には呑み込めない僕は少し言葉に詰まった。「私も感謝しているのです。皆さんと出会えて」。それだけを、とにかく伝えなくてはと思った。

「あなたは僕たちを生きかえらせた。昨日の演奏と、昨夜のパーティーと、そして今日の提案を受けたことと」。

 まだ僕にはその三題話と彼のいう感謝との関連は読めなかったが、わからないままで頷いた。

「あなたは、僕にもいっしょに音楽をつくらせてもらいたいといわれた」。チェロさんの眼の縁が少し赤くなっていた。

「そうなんだ。お飾りの棒を振るだけの指揮者でいいと考えてしまった私は、道を踏み外していた。あなたにも心からお詫びする。それに、オーケストラの皆にも。今日あなたとお話ししたかったのはこのことなのです。マルティンにも」と、事務局長のほうに手を少しのばしながら、「同じように謝りたい。君やオケを助けるつもりだったが、僕は傲慢だった。僕は知らず知らずのうちに、あの傲慢な指揮者たちと同じことをしていたのかもしれない」。

「ホルンさんの音が、ほんの少しひっくり返りかけた後に、あなたは僕にすべてを任せてくださいました」と、僕は感謝をこめていった。

「そうだ、あの時だ。君が僕たちのオーケストラを本当に愛していることに気づいた。たった三日の付き合いにもかかわらず、僕たちの頑なさにも関わらずにね。音楽を本当に愛していることにも、心の底から得心がいった。そして、いつの間にか自分が間違った道に踏み入ろうとしていることにも気づいたのだ。本当にありがとう」。

 しばらく僕たちの間には静寂が続いた。

「あなた方も頑固でしたが、僕も相当頑固だったのではないかと思いますよ。あの時までは、ずっと二重に音楽を聴き続けていたのですから。あの後で、初めて二つの音楽が重なったのです。でも、皆さんは僕の道具でも奴隷でもありませんでした。皆さんが歩み寄ってくださったように、僕も皆さんから多くを学び、とりいれたのですから。昨夜もいったとおり、あの演奏は僕にとっては二度と忘れられないものになりましたよ。僕こそ、仲間に加えてくださって本当に感謝しているのです」。

 老音楽家は二人とも、まじめな顔で頷いた。そして、微笑んだ。チェロさんの眼が少し潤んでいるのが分かった。

「お父さま、もうお話はいいでしょうか。お料理が冷めてしまいます」と、そっと入ってきたハープさんが告げた。


 その日の夕食のテーブルは、落ち着いた家庭の空気が支配する夕食だった。僕が久しく味わうことのなかったものだった。席に着いたのは事務局長とハープさん、チェロさんと奥さん、それに僕の5人だけだった。ハープさんにはお兄さんとお姉さんがいるということだったが、結婚して遠くの町に住んでいるということだった。お母さんはなくなったとのことだった。料理を準備したのは、ハープさんとチェロさんの奥さん。この地方の家庭料理で、トマトに野菜とベーコンのよく煮込まれたたっぷりしたスープと、野菜サラダ、鱸をオリーブオイルで蒸し焼きにしたもの、自家製のソーセージの燻製、それにおいしいジャガイモとパンといったごちそう。しかしそれ以上にごちそうだったのは、家族と友情の醸し出す空気だった。ワインをいただきながら、話題は次の曲のこと、それ以上に、この不思議な提案のことで盛り上がった。いったい誰がこういった提案をしてきたものやら、事務局長にも皆目見当がつかないようであった。オーケストラの理事をしているヨハネス・メスナー氏が、オーケストラの口座に大金が振り込まれていることを確認してくれたのでなかったら、まだ誰も信じることのできない出来事であったからだ。

 「誰がこの機会を与えてくれたとしても」と、少し酔っぱらった、チェロさんが結論づけた。「僕たちには絶好のチャンスだ。今までわれわれが演奏したことのない現代音楽に、新しく挑戦する機会が与えられたのだから。僕たちだけでは、この編成の大きな曲に挑むことはまずなかっただろう。こんな機会がなかったら、僕たちが心から愛するクラシックを一生続けていくことしか考えなかっただろう。それも悪くない一生だが、人生にはこういった変調があっても悪くない。それも、この愛すべき若いマエストロとともにね。僕たちが新しく生まれ変わるきっかけとしては、この人生の変調は悪くない」。

僕にとっては、最初の出会いで、チェロさんが思っているほど傷ついたわけではないと思う。僕は回復の早い者だから。確かに、落ち込んだことは覚えているが、あの夜にも彼らの音楽を思い出しながらスコアを読み返しているときから、彼らからも、それは主にチェロさんからということになるのかもしれないが、何か新しいものを学び始めていたことは間違いない。でも、チェロさんにすると、食事前に告白をすませたことで、よほど心が軽くなったのだろうと思われた。あの大騒ぎの昨夜よりももっと酔っぱらってしまったようだった。夕食は、臨時公演会の成功と、皆の健康と、音楽の神への乾杯で終わった。帰るのがまだ少し残念だったが、ハープさんが僕を送ってくれるというので、残念な思いは軽くなった。

ハープさんの車は、赤い小さな車だった。彼女の横に座ると、今までで一番、彼女に近づいたことに気づいた。慎重なおとなしい運転だった。ゆっくりと宿に戻る道が、もっと遠ければいいなぁと思った。

「アリアさんは、ハープ以外にも鍵盤楽器をされるといわれましたよね」。

「音大の時には、本当はピアノが第一選択で、ハープも習ったんです。第二選択として。でも、卒業してからピアノを続けることができなかったので」。

「そうですか」。それは何故ですかと訊きたかったが、僕は言葉をのみこんだ。そのかわり、「今もピアノをお弾きなのですか」と続けた。

「ピアノは大好きです。毎日のように・・」。

「僕も明日からピアノに触れることができますから、少しうれしいです。これが、宿題と関係なく、すきかってに弾けるのであればもっと嬉しいでしょうがね」。

 アリアはおかしそうに小さく笑った。

「でも、私は宿題をするのも嫌いじゃありませんのよ」と。

 それから、オペラハウスの指揮者室に置いてあるグランドピアノの話になった。そして、事務局長が僕の願いを簡単に受けて、あのピアノの使用をどちらかと言えば喜んで許されたことを、アリアは少し驚いたと話してくれた。「もちろんお断りできませんわね。次の公演を成功させるためですもの。でも、あのピアノはピアノ曲を舞台で演奏するためのもので、私なんかは、このところ触らせてもらったこともないのですよ。小さなころには触らせてもらったのに」と、彼女は言った。「母がよくあのピアノで演奏したものでした。母はピアニストだったのです」。

 彼女の車が最後の坂をゆるゆる上り、僕の宿の前に止まった。名残惜しい気持ちで夕食のお礼を言い、彼女の運転する車のテールランプを見送った。

 車のテールランプが見えなくなった時、僕は道を横ぎっていく黒い姿をみた。街灯の暗い光の中で、光りを全部吸い込んでいるような黒い人影が、また、闇の中に消えていくのが見えたと思う。



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