性懲りもなく『正義』について書いた
今日もまた『正義』のお話をさせて頂こうと思っておりますが「ホントにこの夜雨というやつはしつこい奴だなぁ。良い加減にしてくれよ」と思っておられるアナタ。アナタ様に一言申し上げておこうという事があります。「新年、あけましておめでとうございます。今年もどうか宜しくお願い致します」。それはこの挨拶でございます。私にとって三十六回目の正月になります。振り返れば、学生時代があり、ニート時期と闘病生活が合い重なった時代があり、そして社会人時代の今につながっています。この間にたった三十六回のお正月を経験したに過ぎないと思えば、若々しく感ずることができるでしょう。
そろそろ本題に入りましょうか。『正義』ということですが、私はつい先日にあるなろうユーザが書いた『正義』についてのエッセーを拝読させて頂きました(その作品は私のお気に入り作品に入れてあります)。なんと言いますか、その内容はというとですね、『正義』を辞書で調べると「正しいすじみち」や「人が行うべき正しい道」とあるとすることから始まり、その二つの意味から推測して、正義とは「倫理的に正しいこと」であるととりあえず定義する。そして、倫理とは何かというと「自分の良心を重視する」ことか、それとも「法の支配を重視する」かどちらかだとする。それから、二つを比べてみて気付くことはどちらも多数派による決定が「正しいもの」になっていて、それが『正義』であると結論付けている。さらに、最後の最後で「『正義』は多数派の都合のいいように主張するための道具でしかない」とし、それは彼が一番最初に書いている「『正義』の存在がどうも疑わしくてならない」ものということに戻って、繋がることで、この作品は一つの「正義」についての論理的な批判の作品に仕上がっている。
この彼の作品について、私が思うことというのは、やはり私の考えている『正義』と甚だ違っているなということである。私の『正義』というのは辞書に書かれてある「人がふみ行うべき正しい道」というのとはまるで違う。私の『正義』の定義はつまり分かりやすく言うと、まず『平等主義』が根本にしかれてある。これは先ほどの彼が言っていた『倫理』的であるということと、なんら違うこともないように思える。しかし、私はそれを批判的に視ているわけではない。私は『平等』の世の中を作り出すということを『正義』であると思っているし、そしてこの『正義』を肯定すべきものであると断定できると考えている。
そして、私の『正義』論は辞書からは少し遠のいた解釈の仕方をしている部分もある。それは『真面目』という概念である。正義は『真面目』であるともいえると思う。これは私独自の解釈だ。私の『正義』論は国語的に理にかなっていない。しかし、前にも書いたことがあるが、そのことは自分の中では大いに歓迎していることだし、また、造語のようなものだと受け取ってほしい。もう、文学の域からも離れたものであるといえる。私の『正義』論は現実の行動的思想として成り立っているものであり、それは桁外れにオリジナルなものだと考え得るだろう。しかし、私はこのことでめげたくはないのだ。私はこういう『正義』論を美しく思うし、やさしい感情の一つであると明言したいところがある。平等主義、真面目、善、美しさ、優しさ、こういったものは全て『正義』であると言い切りたい。
先ほどの彼の主張に戻ろう。彼はきっちりと論理的に正義を批判した。それは、つまり「正義は多数派の肯定論の道具に過ぎない」という点である。私がこの彼の主張を目にして思うのは「正義は多数派であれ、少数派であれ、正しければ皆『正しい』正義である」ということである。正しさ、これも私の意見としての『正義』の定義付けということになる。私の『正義』の意味合いは『正しいことすべて』が正義であり、その追及さえも『正義』の行動であるという論である。だから、私の考え得る『正義』に批判など存在するはずがないのである。『正しいこと』すなわちそれそのものが『正義』なのだから。
例えば、『正義の世の中』を実現するにはどうすれば良いのだろうか。それは『平等の世の中』にすると言っても良いのではあるまいか。そして、それは『差別』を無くすことと言いかえても問題はないだろう。差別との闘い、それは自分自身の差別心との戦いも含めてだ。それは大きくは戦争に対する反対の訴えであるだろうし、小さくは、いやこれが究極的なのだが、いじめ差別との闘い、その訴えでもある。しかし、いじめっ子を差別すること、これは真の正義であろうか。現在の時点ではそうする他はないだろう。仕方がない、である。いじめは本当に無くせる性質のものなのだろうか。それは極めて可能性が低い。私は思う。いじめられても構わないのではないか、と。私も個人的にいじめ差別被害者であるので、この発言は運命的であると感じる。
ところで、いじめを受けるということは私の意味でいう『正義』ではないのか。おそらくそれは正しいことになる。差別をされること、その被害者は『正義』のオーラが宿っているのではないか。例えば、若くして大きな病気を患うのも『正義』であるし、原爆の被害を受けた人も『正義』である。いじめられることは絶対的な『正義』を手に入れることができる。私の中学一年の時の担任教師が「あなたは自分のいじめられたことばかり主張している。他人がいじめられていることを主張してはどうか?」と言われて、「しゃらくせぇ。自分のことで精いっぱいだ」なんて言ったものだが、いじめられている時点でもう何の罪もないし、それが『正義』であると私は主張しているのだ。確かに、他人を助けることに『正義』の本質があることは事実だ。そういう意味ではこの先生の言ったことには非がない。しかし、この教師はいじめられたことがあるのか? いじめの被害を受けて、自分のことでもいいから戦ったことがあるか。実際、この教師は助けてくれなかった。誰が俺のいじめを分かってくれたんだ? 私は曲がりなりにも差別を受け、自分のことで戦った。でも、いじめられたから、今なんとか生きてこれているのである。いじめられっ子は皆勲章である。誇りであると思う。